❸【水はすべてを聞いている!?】壮大な秘密― 水が映し出す現実創造の仕組み 第二部 #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門 応募作品
第二部:水が映し出す現実創造の仕組み
13.水が映し出すもの
13-1 .水のワーク
裕子は、「毒親の正体」に気づく少し前に、YouTubeで見かけた「水のワーク」を試し始めた。
それは、毎朝一杯の水に「今日もとてつもなく素敵なことを起こしてね」と語りかけたあと、その水を飲むというシンプルなものだった。
以前から裕子は、水という存在に対して、千変万化しながら世界を巡る、ある種の"生命の源"という感覚を抱いていた。その水そのものが大いなる愛のようにも感じられた。
ある日のこと、裕子はコップの水に向かって、次のように語りかけた。
「お水さん、いつも世界を愛で満たしてくれてありがとう。
もし世界がこの水の波動のようなものでつながっているのだとしたら、今ここでワタシが込めた愛と感謝が世界中へ広がり、地球全体が愛と喜びに満ちたものとなりますように。この一杯の水が世界をよりよく変える水となって広がっていきますように」
そう語りかけたあと、裕子はその水を飲み干した。そして、その祈りの内容はすぐに意識の中から薄れていった。
その後、裕子は最初にお話しした並行世界体験を経験することになる。
そしてその約一か月後、『毒親の正体』の執筆を始めた。最初の原稿は、およそ十日ほどで書き上げた。
書き始めた当初、裕子自身には「毒親の正体」という明確な理解があったわけではなかった。
水の働きについての記述もまた、書き進めるうちに自然とあらわれてきた言葉だった。完成した原稿を振り返ると、「いつの間にか書けていた」という感覚に近かった。
しかし今になって思えば、すべての始まりは、あの一杯の水への祈りだったのかもしれない。そう考えたとき、裕子の中には小さなきらめきのようなものがあった。あまりにも、話がうまく繋がりすぎていることが想像の範疇を超えていたから。
13-2.作家みたいな服
これから書くことは、水そのものの話ではありません。しかし、なぜ裕子は突然執筆をはじめたのか。その問いの答えにつながるようなエピソードがある。
それは裕子が並行世界体験をした数日後のことだった。裕子は以前から一度行ってみたいと思っていた「うさとの服」の展示会におとずれた。
何点か試着して、子どもにLINEで写真を送った。子どもからはどれも良い反応が返ってきた。
裕子が試着した中に、ゆったりとした着心地で、着ているとどこか心が落ち着くようなワンピースがあった。その写真を子どもに見せると、子どもからは「作家みたい」と返事がきた。
裕子は作家といわれたとき、画家の姿を思い浮かべた。「そうだね。この服はそんな雰囲気かもしれない」そう思って笑った。だが、そのあとふと気づいた。作家とは、本を書く人のことでもある。
裕子は以前から、いつか本を書いてみたいと思っていた。だけど、何かまとまったアイデアがあったわけではなかった。だから本を書くことなど自分にはとても無理だと思っていた。
裕子は子どもから「作家みたい」といわれた服を買って帰った。家でもう一度まとってみると、その着心地と見た目の両方が好きだなぁと改めて思った。鏡の中に映っている自分をみて、「作家みたい?」と子どもから言われた言葉を思いだして笑った。
作家。それは裕子が長い間憧れてきた職業でもあった。到底不可能だと感じてもいた。だけど、自分の思考を変えることができれば、実現可能な未来も存在しているかもしれない。並行世界体験が後押ししてくれた。
裕子は両手を広げて、空をあおぐようにしながら声を出して祈った。そんな未来がくることを。
そして忘れていた。この本を書きはじめるまでは。
そしてあらかた書き終えたあとで爺やにたずねた。「お水の話ってじいやが教えてくれたの?」と。すると爺やの答えは意外だった。爺やではなく、高次元の存在が教えてくれたものだったから。
そのとき裕子は、「祈りが届いたんだ」そう思った。
13-3.水は答えを知っている
裕子が水のワークで、水に祈りを語ったのには理由があった。それは、知っていたから。
裕子が数年前に本棚を断捨離したとき、どうしても手放せない本があった。バイブルのように大切にしたいほどではなかった。しかし、どうしても記憶にとどめておきたい内容がその本の中にあった。
江本 勝著『水は答えを知っている その結晶に込められたメッセージ』。2001年初版、2002年第十刷。
この本は、当時ベストセラーであったからご存知の方も多いことでしょう。さまざまな水の結晶写真とともに著者の考察が記されています。
水に言葉を書いた紙を見せる、音楽を聴かせる、言葉を語りかける。その後に結晶写真を撮ったらおどろくべき結果となったのです。
最も美しい結晶を作ったのは「愛と感謝」の文字を見せた水。ポジティブな言葉を水に見せれば美しい結晶があらわれ、ネガティブな言葉を見せれば破壊されたような結晶になる。
美しい音楽と騒がしい音楽でも同じような結果となった。
この内容はまず写真集として世界的な広がりを見せたそうだ。それに対して多くの感想や意見が寄せられたことを著者は次のように記している。
「多くの人たちは、人の意識や言葉のもつエネルギーが水の結晶という目に見える形をもってあらわれたことに、おどろきを禁じえなかったようです。言葉や思いが水や他の物質の性質を変えてしまうなどということは、これまで宗教か哲学の範疇に入る話のように思われていました。」
さらにこう続きます。
「水の結晶のあるものは荘厳な姿をもち、この世のあらゆる美を象徴しているように思われました。それに対して、まったく結晶をつくることなく形がくずれてしまい、人の心の奥底に眠っている暗闇を教えてくれるような水もありました。」
裕子は本の中に書かれていたこれらの内容までは覚えていなかった。ただ、「水は言葉や意識を転写するものだ」そのように認識していた。
だから、「水によい祈りを語れば、よい波動やエネルギーを保持する水になるかもしれない」そんな期待があった。
そして、人体にも空気中にも水は存在している。裕子が飲んだ水はやがて地球へとかえっていく。人体にある水と空気中にある水になんらかのつながりがあるとすれば、私たち人類はみな水でつながっていると考えることもできる。人類だけでなく、すべての動植物や生命ともつながっている。思考を広げれば広げるほど大きなつながりを感じた。
水のワークで祈りを水に語りかけることは、まるで大海に愛の一雫をたらしているようにさえ裕子は感じたのだ。
水面に石を落としたときにそのエネルギーは波紋として広がっていく。波紋のようなエネルギーの広がり方を空気中の水も同じようにしているとしたら……。
そして、世界を満たしている水が形を変えながら全てつながっているとしたら、裕子から発した愛の波動もまた、波紋のようにどこまでも広がっていくかもしれない。少なくとも、裕子が存在する世界ーー並行世界の一つではそうであってほしい。裕子はそんなことを考えた。
もし、本当に水は答えを知っているとしたら、それは愛と調和を世界に広げる鍵になるのではないか。裕子はそう思い始めた。
13-4.呪いと祝福
結婚当初、裕子の家庭はあまり裕福とはいえなかった。裕子は限られた生活費をやりくりしながら、なんとか家計をきりもりしていた。そんな裕子の口ぐせはこれだった。「うちは貧乏だ、貧乏だ」。
あるとき裕子はハッとした。「うちは貧乏だ」そう言い続けている自分の言葉が、そのまま現実をつくっているように感じたから。それ以来裕子はその口ぐせを手放した。だからといって、すぐに家計が潤うわけではなかった。だが、お金が十分にないことに対する苦しみのようなものは少しやわらいだ。
そして時は流れた。ある日裕子は自分に対してネガティブな言葉を向けていることに気づいた。そして、自分自身にいつも向けられているネガティブな言葉たちが、まるで呪いのように自分を苦しめていると思いはじめた。裕子はネガティブな言葉で自分を呪うのはやめようと決めた。
そう考えるようになると、母親から向けられる否定的な言葉も、まるで呪いのように感じられた。そしていつしか母親に対して「もうやめて」と叫びたいような感覚すら覚えた。
裕子は幼い頃から母親に否定的な言葉を浴びせられてきた。その否定的な言葉たちは、裕子の前に壁のように立ちはだかっていた。何をするにも、期待よりも先に不安があらわれた。怒られたらどうしよう、嫌われたらどうしよう。そう思いながらも、些細なことで怒りが込み上げてくる。人間関係もうまくいくはずがなかった。
いつもおびえながらも怒りを抱えていた裕子は、ほんの限られた人たち以外との関係をもつことを嫌った。どうせ分かってもらえない、理解し合えるはずがない、そう思っていた。
これらの体験を呪いと言わずして何と表現すればよいのだろう。少なくとも裕子にとっては呪いでしかなかった。
そして『毒親の正体』に気づき、執筆を終えたころ、あるひらめきがあった。言葉は呪いにもなるし、そうでないものにもなるはずだ。呪いの反対語はなんだろうと考えたとき、裕子は思考の中から言葉を探しだすことができなかった。
Webで調べてみた。呪いの反対語は祝福であった。
祝福という言葉にはあまりなじみがなかった。どこか宗教的な響きがあり、自分とは縁遠い言葉のように感じていた。祝福とは、神や目に見えない何かから向けられる"お祝いの言葉"のようにさえ感じていた。
しかし、呪いの反対語が祝福であるなら話は別だ。祝福の言葉とはポジティブな言葉やポジティブな期待の込められた言葉だ。そうそのとき初めて気がつくことができた。
人から発せられるネガティブな言葉は呪いとなる。ポジティブな言葉は祝福となる。それらの言葉を人に向けても自分にむけても、同じように働く。裕子にはそう思えた。
日本には古くから言霊という概念がある。コトダマーー言葉には魂のようなエネルギーが宿っており、現実に影響を与えている。
呪いと祝福の言葉にもコトダマの概念を当てはめることができる。
さらに思考を広げてみよう。
人体の中にある水、空気中にある水にさえも、コトダマのエネルギーが転写されている可能性がある。
「水は答えを知っている」の中にある写真たちが教えてくれていること。それを呪いと祝福の言葉に当てはめてみたらどうなるだろう。
今日、みなさまが自分自身にかけた言葉は、呪いでしたか? それとも祝福でしたか?
水はすべての言葉を聞いているのかもしれない。
13-5.鏡のワーク
裕子は水のワークを知ったころ、「鏡のワーク」なるものもYouTubeで知った。
それは、鏡に向かって、自分が人から言われたい言葉を自分自身に語りかけるというものだった。
YouTubeで語られる体験談には目を見張るものがあった。裕子自身は、鏡のワークによって劇的な変化を体験したわけではない。だが、鏡に向かって自分へ語りかけていた言葉が、いつしか目の前の人にも自然と向けられるようになっていた。
「かわいいね」
「がんばってるね」
これらは祝福の言葉でもあった。祝福の言葉を向けられた目の前の人たちは、裕子に対して好意的であった。
鏡のワークには確かにチカラがあるように感じた。
そして裕子が『毒親の正体』を書きながら、水の性質である鏡のような働きに注目したとき、気づいたことがある。
引き寄せやスピリチュアルでよく語られていた鏡の法則を、水の性質に当てはめてみると、裕子にはその意味が納得できるように思えた。
裕子には四つの気づきがあった。鏡のワークには効果があるように感じたこと。水には鏡のような性質があること。人体の約七割は水でできていること。そして人体の中の水もまた、鏡のような働きをしているのかもしれないということ。
鏡の法則があるとは聞いてきた。だが、なぜ鏡なのかを誰も説明してくれなかった。少なくとも裕子は知らなかった。
だが人体に含まれている約七割もの水が鏡のように"何かをただ映し出しているだけだ"と考えたらどうなるだろう。
見事に鏡の法則に当てはまり、なるほどそういうことだったのかと腑に落ちた。
これは証明された話ではなく、あくまでも裕子の仮説だ。少なくとも裕子にとっては、多くの出来事を理解する手がかりになった。
そして鏡のワークの体験談から聞こえてきた絶大な効果と鏡の法則を照らし合わせてみた。
鏡は目の前にあり、自分の姿をはっきり映し出してくれる。だからこそ、現実に映し出されるパワーが大きいのかもしれない。
一方で、人体の中にある水を目で認識することはできない。だけど確かに水はそこに存在している。
鏡ほど強力ではなくても、そこに存在している水が鏡のように働いていることは十分推察できるように思う。
目の前にいる人の中にある水が、もし本当に鏡のように働いているとしたら、みなさまは呪いの言葉を向けることができるだろうか。
裕子にはできない。そう思った。
13-6.対人関係の創造
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と心理学者アドラーは提唱している。一般的に人間の悩みの約8割〜9割は人間関係に起因するそうだ。
これを、これまでお話してきた内容に当てはめるとどうなるだろう。
ネガティブな言葉や想いは呪いとなり、ポジティブな言葉や想いは祝福となる。
目の前にいる人の体内に存在する水は、鏡のようにただそこにあるものを映し出しているだけだとしたら……。
これが真実であるかどうかよりも重要なことは、もしこの仮説が本当だったらどうするか?どうしたいか?を問いたい。
もし今対人関係で悩んでいるとしたら、何をすべきなのか。どのように思考し、どのような言葉を使うのか。
自分に対しても、人に対しても。そのように考えることが、
よりよい対人関係を創造するための要であるように思う。
まずは自分で自分に向けている言葉を見つめてほしい。自分が自分に向けている言葉は呪いになっていないか。祝福の言葉を自分に向けているか。
もしも今、自分に呪いの言葉ばかりを聞かせていたとしたら、その呪いの言葉は、目の前の人から鏡のように向けられているかもしれない。
大切なことは、意識を目の前の人に向けることではなく、自分の内側に向けることのように思う。
私たちは目の前にいる人を変えることはできない。変えることができるのは、自分の思考と言葉だけだ。目の前の人を変えようとするのは、もはや労力の無駄使いとも思える。
私たちがすべきなのは、自分自身の内側のクリーニングだけだ。裕子には、そのように思えてならなかった。
対人関係がうまくいかないのは、もしかすると、もの心つく前の記憶が関係しているかもしれない。もしかすると、成長過程で受けた心の傷が関係しているかもしれない。
人間関係がうまくいかない理由は、普段は気づけない心の奥にある、ネガティブに居座り続けている記憶にあるのかもしれない。
目の前にあらわれる人から向けられる否定的な言葉は、自分の中にある何によってもたらされているのだろう。そんな問いからはじめてみるとよいかもしれない。
裕子の場合は、水晶を使ったある方法「水による浄化」が大きな転機となった。それによって、もの心つく前から抱えていたような重たい感情が洗い流されたように感じた。もちろん、これが誰にでも同じような結果をもたらすとは限らない。
だが、裕子にとっては母娘関係が劇的に変化するきっかけとなった出来事だった。
参考までにやり方を書いておこう。
①寝る前にお気に入りの水晶を流れる水で洗い清める
②水晶を握りしめて語りかける
③「気づくことはできないけれど、そこに確かにある心の傷をどうか洗い流してください」とお願いする
④穏やかな気持ちで寝る
裕子の場合は、「水の浄化」にたどりつくまで、さまざまな思考改革アプローチをしてきた。だからかどうかはわからないが、この水の浄化は一回ですんだ。
一回行うだけでは効果を感じられない場合は、一か月くらい続けてみることを提案したい。
自分や目の前にいる人に、呪いではなく祝福の言葉をかけ続けることは言うまでもないだろう。
13-7.語りかけるように祈る
水はすべてを聞いている。そう仮定してみよう。
では、一体どこに水があるのか。これは見ようとしなければ、そこに水があることは認識できない。なぜなら、いつもそこにあるから。しかも直接見ることもできない。だが、そこに水があることは誰もが知っている。
まず最もよく知られていること、それは人体の約七割が水である。脳に至っては約八割だ。脳は水の中に浮かんでいる。水がなければ神経伝達も不可能だ。水がなければ考えることさえ不可能なのだ。
脳は考えるためにあるような器官だ。人体を動かすために最も大切な場所。それが実は水に浮かんでいると知っている人は少ないのではないか。
一般的な現実創造の説明では、脳のRAS(網様体賦活系)が重要な役割を果たしているとされる。RASは膨大な情報の中から、自分にとって重要だと判断した情報を選び取るフィルターのような働きをしている。
しかし、RASが正常に機能するための大前提は、そこに水が十分あることだ。わずか一・五パーセントの水分不足で集中力や反応速度が著しく低下するそうだ。水は神経伝達や記憶形成に不可欠なのだ。
脳内ではナトリウムやカリウムなどのイオンが移動することで電気信号が生まれ、神経伝達物質は水分を含む環境の中で運ばれている。
脳のお話はこれくらいにしておこう。
では、人体以外に水がある場所はどこだろう。それは空気の中だ。水は水蒸気として存在している。湯気となって見える場合もあるが、大抵は見ることはできない。空気中の水分は湿度として計測される。
イメージしてみてほしい。人間の体内も、周囲も水だらけだ。
これらの水がすべてを聞いているとしたら。言葉のエネルギーが瞬時に転写されているとしたらどうだろう。
人体や思考、現実創造に影響を与えている可能性があることを百パーセント否定はできないだろう。日本ではあまりそんな動きはないが、海外の科学者たちの間では論争になっているらしい。
現実が動き出す前に裕子が必ず行っていたことがある。
一つ目は並行世界体験をする前。
二つ目は執筆を始める前。
裕子が行っていたことは「語るように祈ること」だった。
その祈りは、長年持ち続けてきた願いであった。自分の無力さをなげきながら、到底不可能だと思っていたこと。
何年も心の奥にしまってきた、何かの役に立ちたいという想い。作家になってみたいという願い。
これらの想いを語るように祈ったとき、現実は信じられないほど動いた。
コップ一杯の水に祈りを込めたあと、裕子が体験した並行世界では、川が移動し、小さな橋の幅が広くなっていた。
ーー水はすべてを聞いているのかもしれない。
そう思ったとき、地球の中にある巨大な水ネットワークが目に浮かんだ。
今日、みなさまが一杯の水を飲むとき、その水にどんな『物語』を語りかけますか?
13-8.巨大な鏡
裕子の目に浮かんだ水の巨大ネットワークについてお話する前に、ひとつの仮説を立ててみる。
それは、空気中に水があると認識したときはじめて見えてくるものだ。意識しなければ、そこに水があると普通は思わない。これが盲点だったのかもしれない。
水には「そこにあるものを映し出す」という鏡のような働きがある。それは誰もが目にしている光景だろう。
空気中にある水さえも、鏡のように思考や言葉を映し出している可能性があると裕子は考えてみた。
引き寄せの法則や現実創造について学んでいると、よく耳にする言葉がある。
「思考が現実を創る」
「内側が外側に映し出される」
「現実は鏡である」
裕子も長い間、そのような話に触れてきた。だが、一つだけ分からないことがあった。思考が投影されるというなら、何に投影されているのだろう。現実が鏡だというなら、その鏡とは何なのだろう。どこかで誰かが説明しているかもしれない。だが少なくとも裕子は知らなかった。
そして今、裕子の目の前に浮かんでいるのは巨大な鏡であった。それは、空気中にある水によって作られていた。
今まで「思考は現実に投影される」と語られてきた。まるでそこに見えないスクリーンがあるかのように。
また「現実は鏡である」とも語られてきた。まるでそこに見えない鏡があるかのように。
それらは、「そこにはないけれど確かにある」みたいな語られ方だった。少なくとも裕子が知るかぎりは。
しかし、実際にはそこに存在していたのだ。空気中の水という巨大な鏡が。
これはあくまでも裕子の仮説として読んでほしい。
そこに巨大な鏡があるのなら、思考が現実に投影されているという話は少し理解しやすくなるかもしれない。人の中に鏡があるとすれば鏡の法則を納得できるように。
なぜよい思考を持てば、人は満たされるのか。
なぜ自分が行ったことが返ってくるのか。
なぜ現実が自分を映しているように見えるのか。
なぜ長年抱えてきた苦しみが何度も繰り返されるのか。
それらの疑問に対する見方も変わるのではないか。
みなさまも想像してみてほしい。ご自分が巨大な鏡の中にいることを。その巨大な鏡の中で、人々もまた鏡として存在している。
巨大な鏡も人々も何かを映し出そうとは考えていない。しかし、無意識に映し出している。空気中や体内にある水が鏡となって人々の思考や言葉を。
こんな想像をしたとき、あなたならどうするだろう。
13-9.壮大な秘密
これまでお話してきた仮説を整理してみよう。
①水にはそこにあるものを映し出す働きがある
②人体の水が鏡となっている可能性がある
③空気中の水が鏡となっている可能性がある
そこにある水の量と現実創造について考察してみよう。
まず鏡のワークを思い出してほしい。鏡は百パーセントそこに水がある水鏡と同等の働きをしていると考えてみる。
次に人体だ。人体には約七割の水が存在している。
さらに空気中の水についても考えてみよう。空気中の水は人体に含まれている水よりも圧倒的に少ない。常温・常圧の「水」が気化して「水蒸気」になると、その体積は約千七百倍に膨張する。
鏡に向かって語りかけるときは、水鏡がそこにあるのと同じような状態ともいえる。
目の前の人に語りかけるときは、その人の体内にある大量の水に向かって語りかけているとも考えられる。
そして世界に向かって祈るとき、その言葉は空気中に存在する膨大な水蒸気の中へ放たれていく。
水の量や存在の仕方によって、反応の現れ方に違いがあるとしても不思議ではない。
水が百パーセントあるのと同等の鏡に向かって、人から言われたいことを語った場合、最も強力な現実創造が行われると考えられる。
人体と空気を比較してみよう。
空気中に比べ人体の中に含まれる水は圧倒的に多い。水鏡に比べれば少ない。人々の内なる思考が目の前の人に映し出されるスピードは、鏡のワークよりは遅いが外側の世界を現象化させるよりもずっと早いようにも思える。
実際、目の前の人の反応は驚くほど早いのではなかろうか。
だからこそ内側にある思考や言葉をよいものにする努力が必要なのだと思う。
そして、外側の世界に何かを創造していく場合、時間がかかっているように見えることが多い。それはそこにある水の量を比較すれば納得できるのではないだろうか。
空気中の水は、目に見える形となった水に比べて約千七百倍も薄まっているのだから。
今まで現実化に時間がかかる理由は多くの場所でさまざまに語られていたと思う。そこにある水の量を比較し、それを理由にしている考え方はまったく新しい。少しユニークだとすら感じる。しかし、言い得て妙ではなかろうか。
ここまでは、水がそこにあるものを映し出す働きについての仮説を考察してきた。
そして、これからお話することは、水をまた別の角度から見た場合についてだ。
『水は答えを知っている』によれば、水は言葉や音楽すなわち音(おと)の持つ波動を転写あるいは保持する性質があるようだ。
そのことをすべての水に当てはめて考えてみよう。
水は、水として川や湖や海に存在している。その水は水蒸気となったあと雨や雪となってまた地上を潤し川や湖や海となる。あるときは人体の中に存在し、またあるときは動植物の中に存在していたりもする。
これらの水はまさに生命の源である。地球上の生命を育むための大いなる愛の化身のようにさえみえる。
これらの水のすべてに言葉や音楽すなわち音(おと)の持つ波動を転写あるいは保持する性質があるということになる。
そして裕子の場合は、心の奥底からまるでそれは魂のスパークのような願いを語るように祈ったとき、考えられないような現実創造を目撃した。
裕子は語るように祈った言葉という音を、すべての水が聞いていたような感覚すら覚えた。
仮にもし本当にすべての水ーー体内の水も脳内の水も空気中の水もーー裕子の発した音を聞いていたとしたら……。
その音のエネルギーは、そこにある水に転写されたはずだ。
そして仮に、地上に存在するすべての水が何らかの形でつながっているとしたら……。
地球上には巨大な水ネットワークが存在していることになる。それはまるで脳内の神経回路がつながっているように地球上をはりめぐらしているようだ。そして、その水のつながりはまるで銀河のようにきらめいている。裕子の目に浮かんだ巨大な水ネットワークをみなさまも想像してみてほしい。
魂から発せられたスパークは、音となり水に転写され、巨大な水ネットワークに伝達された。
もし大いなる存在からの愛のエネルギーが水に込められていたとしたら……。
そのエネルギーと同調した音は、地球上に存在する巨大な水ネットワークに影響を与えたはずだ。
意識を持った水が自ら通り道を変えたのだろうか。この考えは飛躍しすぎかもしれない。だが、少なくとも裕子はパラレルワールドを身をもって体験した。
そして、この本は実際に書かれた。
高次元からもたらされた"壮大な秘密"として。
13-10 .二〇三五年
現実創造の仕組みについて考えているうちに、裕子の思考はアセンションへと向かっていった。
アセンションーー地球は三次元から五次元へと移行していくーーという不確定事項。
裕子はアセンションについて考えることが多かった。
アセンションは本当に起こるのだろうか……。
もし仮にそうなら、どのような変化があるのだろう……。
裕子は天を仰ぐようにして思考の中を探した。
三次元から五次元に移行するとは……。
そして、ある一つのひらめきを得た。
もしかすると、肉体をもちながら、五次元のように速やかな現実創造が行われる世界になるのかもしれない。
これはあくまでも裕子の仮説だ。だが、裕子自身が見ている現実化のスピードは以前より早くなっているように感じていた。
長年苦しんできた母娘問題も、本気で向き合うと決めたあと、スルスルとほどけていった。あれほど苦しんできたのに。決意したあとは、ものの数週間で現実は百八十度変わった。
毒親のように感じて距離を置いていた母親からトゲトゲしい否定的な言葉と険しい表情は消えた。そのかわり、まるでグランドマザーのように穏やかで優しい母親になった。同居なんて絶対に無理だと思っていたのに、実家から帰るときはもっと一緒にいたいと感じた。母親が亡くなっても涙は出ないだろうと思っていた。しかし、あと何年一緒にいられるだろうかと考えたら涙が止まらなかった。
裕子は赤いポールのことを思い出した。あれはいつのことだっただろう……。
裕子は当時の記憶をたどりながら探した。
赤いポールを見たのは二〇一五年の十二月だった。
次に裕子はかつてバイブルのように大切にしていた本の巻末を確認した。
『愛と希望の讃歌』が出版されてから二十年後、裕子は赤いポールを目撃している。
そして、その出来事からさらに二十年後が二〇三五年だった。
ということは……。
もしかすると、二〇三五年には、地球の波動は完全に五次元に移行しているかもしれない……。
裕子はあまりにも壮大な秘密を知ってしまったような感覚すら覚えた。
これまでお話してきた仮説とともに、現実創造のスピードが早まるかもしれないと知ったなら、どうすればいいのだろう。
幸せに向かう人はどんどん幸せになり、不幸に向かう人はどんどん落ちていくかもしれない……。
祝福の言葉を使うのか、呪いの言葉を使うのかでは、現実は天国にも地獄にもなるだろう。
現実創造の速度が上がるのだとしたら、私たちが日々使う言葉の意味は今まで以上に大きくなる。
地球上にいながら、それぞれに相応しい並行世界に住むようになるのかもしれない。
みなさまは、どんな世界に住みたいだろうか。
14.人生映画
人生はまるで映画のようだ。
舞台は地球。
そしてその主人公は地球上に存在するすべての人々、一人ひとり。誰もが自分の人生映画の中では主人公として存在している。
メインキャストは大切な家族やパートナー。サブキャストは友人や同僚、ご近所さんなど。
そして残りの全人類が人生映画のエキストラだと思ってみる。
裕子はいつしか、こんなふうに考えるようになった。
その人生映画には必ず困難な出来事がまるでイベントのように用意されている。
誰もがそのイベントを乗り越えながら学び成長し、愛を深めていく。そして物語はハッピーエンドに向かう。
裕子の人生映画もまさに、イベントを乗り越えたばかりだった。
この地球上で繰り広げられている人生映画には、エキストラは欠かせない。誰もが誰かのエキストラになっている。
エキストラの役割はとても重要だ。エキストラがいるからこそ、それぞれの社会が成り立ち、国が成り立ち世界が形成されている。
大自然や空にまたたく星々は人生映画に彩りを添えてくれ、動植物もまた、なくてはならないものとして存在している。
そんなふうに考えると裕子は、おのずと地球上の存在すべてに愛と感謝を手向けることができた。
裕子はふと、ワンネスという言葉を思い出した。
すべては本来ひとつである。自分も他人も自然も宇宙も、本当は分かれていない。ワンネスとは、そのような感覚をあらわした言葉だ。
量子や素粒子によるつながりとして語られることもある。
でも裕子は、量子や素粒子のようにとても小さなものでのつながりよりも、もっと別のものを見ていた。
ーーワタシたちはみな水でつながっている。
そう思ったとき裕子は、自分は広大な水の流れの中を旅する一雫にすぎないように感じた。
ーー地上に存在するすべての生命体は水でつながっている。体内にある水、動植物の中にある水、空気中にある水、目に見えているすべての水によって。
その水のつながりの中で、人々はそれぞれが主人公として生きている。お互いが誰かのエキストラとして。誰もが誰かの大切な登場人物として存在している世界。それが地球。すべての存在が奇跡のようにも感じられた。
すべての生命の源としてつながっている水。そこにあるのは愛でしかない。裕子はそう思った。大いなる存在から注がれている愛は、壮大な秘密の中に隠されていた。
自分を人生映画の主人公として俯瞰してみてほしい。
そして、自分はあらゆる水を通じて、すべての生命体とつながっていると想像してみる。
自分だけで生きているのではない。空気も、水も、動植物も、人々も。そのすべてがあるからこそ人生映画は成り立っている。そんなふうに眺めていると、不思議と愛と感謝の気持ちが湧いてくる。
ワンネスという言葉を難しく考える必要はないのかもしれない。私たちは最初からつながっていた。水という愛によって。
ただ、そのことが見えていなかった。気づくことができなかっただけなのかもしれない。
これまでお話してきたことを心にそっとおいて、人生を映画のようなものとして少し高い場所から眺めてみる。それは、ワンネスという扉を開く、小さなきっかけになるだろう。
マガジンにまとめています。
いいなと思ったら応援しよう!
地域猫さんたちのご飯に使わせていただきます🙏