【小説】ア・リトル・ビット・クレイジー・デイズ #06│ミキヤ
思い悩んで、ある日カイの連絡先が書かれた紙切れを握りしめ、リビングでミキヤに相談した。
「ミキ、これって、連絡してもいいのかな……」
ミキヤは読んでいた本を閉じて、私の手元に目をやった。
紙を見せると、ほんの少しだけ眉が動いた。
沈黙が落ちた。
時計の音だけが、やけに近い。
「……それ」
ミキヤは息を吐くみたいに言った。
「捨てたほうがいいんじゃない?」
その声は冷たくはなかった。むしろ、静かすぎて怖かった。
「マリちゃんのためにも。あいつのためにも」
言葉が続くたびに、空気が薄くなる。
「中途半端な繋がりは、お互いの足枷にしかならないよ」
さらにミキヤは言葉を続けた。
「あいつの幸せをのぞむなら、ね。」
胸の奥が、きゅっと縮む。
正しいことを言われているのに、息がうまく吸えない。
私にとって、カイは光なのに。
その正論に、なにも返せなくて、うなずくことしかできなかった。
部屋に戻って、何度も紙切れを眺めて、文字を指でなぞり、また手帳にそっと戻した。
捨てるなんて、できなかった。
*
私は毎朝、九時に起きる。
十二時からのクラスに出るため。
ゆっくり朝ごはんを食べて、支度をする。
それからバスに乗り、地下鉄に乗る。
一日三時間の語学学校。
クラスメイトとパブに行き、学校が終わるとナギサと観光名所へ行く。
テスコで買い物して、簡単なごはんを作って食べ、少し英語を勉強する。
そんなふうに日々を過ごし、少しずつカイをうすめていった。
*
ある日、リビングでミキヤに宿題をみてもらっていると、「ちょっといい?」と低いトーンでアキがやってきた。
いつもはじけそうに明るいアキが、涙をうるませ、鼻をすすっている。
私は顔をあげ、ミキヤが振り返った。
「日本に、帰ることになった」
アキが涙声でささやいた。
「どれくらい?」
当然のようにミキヤが聞いた。
「一時帰国じゃないよ。ほんとうに帰国する」
私もミキヤも息を飲む。
「いつ?」と聞くと、来週、とアキは答えた。
アキはまだ、学校を終えてはいないはずだった。
「おじいちゃんが、倒れちゃって。もう歳だし、帰ることにした」
誰ともないため息が聞こえた。
出会いと別れが繰り返される。
ミキヤはこの国が長いから、慣れた様子だった。
「そっか。卒業できなくて残念だな。アキは若いし、またくればいいよ」
アキが涙をにじませる。
「でね、私の部屋、友達が住みたいって言ってるんだけど、いい?」
突然アキはいつもの調子に戻ってそう言った。
「友達って、だれ?」
ミキヤが険しい顔になった。
「レオンなんだけど」
「レオン!?」
ミキヤと私は同時に叫んだ。
「レオンって、ドラッグディーラーの?」
「そうそう。超いいひとだから」
飄々と言うアキをよそ目に、私たちは顔を見合わせた。
テレビからは笑い声が聞こえている。
私は無意識のうちに、テキストに丸をぐるぐると描きなぐっていた。
以前から、アキがよく話していた。
香港人のドラッグディーラーの友達がいると。その人から、ドラッグを調達していると。
「まあ、俺は、別にいいけど」
ミキヤがこちらを見た。
「マリちゃん、大丈夫?」
何と答えるべきかわからず、曖昧な言葉が口から出た。
「んー、どうだろ。大丈夫、かな」
正直、大丈夫ではない。
「俺も、来週から一時帰国するけど。ほんとうに、大丈夫?」
「あ!」
丸を描いていた手が止まった。
ミキヤは三ヶ月間、一時帰国でいなくなるのだった。
ドラッグディーラーとふたりきり?
いや、それよりも、
「……私、英語、大丈夫かな」
うろたえて、ふたりを交互に見た。
「大丈夫、大丈夫。レオンは日本人の英語慣れてるし、やつの英語は超わかりやすいよ」
アキが、いけるいけるーと適当なことを言っている。
不安しかないんですけど。
*
アキが帰国し、フラットは私とミキヤのふたりになった。
ミキヤも明日、帰国する。
「ドアの鍵は必ずかけておくこと。」
少し間をおいて、ミキヤは続けた。
「あと、これは提案なんだけど」
ミキヤは、リビングをしばらく使用禁止にしてはどうかと言った。
「どんなやつかわかるまで、共有スペースを減らすに越したことはない。ここは俺が、仕事用に借りてる部屋だとでも伝えるといいよ」
レオンは明後日、ここに来ることになっている。
ミキヤの言葉に、さらに不安が強まった。
もしかして、私はとてつもない過ちを犯してしまったんじゃないだろうか。
今後の生活について思案していると、ミキヤがこちらをじっと見ていることに気づいた。
ミキヤの視線が、どこか重苦しいものを含んでいる。
テレビの音だけが空虚に響いていた。
「なに?」
私の問いかけが合図だったかのように、ミキヤが口を開いた。
「マリちゃん、俺、君にあやまらなければならないことがある」
私は不思議に思ってミキヤを見た。
ミキヤはいつも公平で、みんなのお兄さんのような存在だった。
そんなミキヤが、私にあやまる?
「カイが、俺に相談してきたんだ」
その名前が出た瞬間、それ以上聞きたくない気持ちでいっぱいになった。
「帰国するのをやめようかなって」
心臓がどくんと大きく波打ち、カイの香水の香りが脳裏に蘇った。
「俺は、カイに言ったんだ。バカなこというなって。婚約者が待ってるんだろって。」
息が、苦しくなってきた。
手が、震える。
私は、そんなことぜんぜん知らなかった。
「……でも、ミキが、あやまる必要ないやん。」
吸ってるのか、吐いてるのか、呼吸の仕方を忘れたみたいに、うまく息ができなかった。
「何も、まちがったこと、言ってないし」
知らず知らずに自分の胸に左手を当てていた。胸もとの服をぎゅっとつかんだ。
ミキヤの薄茶色の瞳が、ふっと揺れた。
今まで見たことのない、壊れそうな脆い光がそこにはあった。
「君に、カイを取られたくなかったんだ」
私は息をのんで、ミキヤを見た。
「ずっと、カイが好きだった」
ミキヤは私から目をそらさずにそう言った。
室内を照らすオレンジ色の光が、ミキヤの表情に深い影を刻んでいた。
「え?」
だけど、ミキヤは、女の子を連れてきて、部屋に泊めていたこともあったはず。
私は混乱して、ミキヤをみつめた。
カイがいなくなると、ごはんを作らなくなったミキヤ。
連絡先のメモを、捨てるように言ったミキヤ。
すべてが、パズルのように繋がっていく。
ミキヤはもう私を見てはいなかった。
「カイに気持ちを伝えるつもりはなかった」
ひと呼吸ののち、ミキヤはゾッとするような声で言った。
「でも、突然あらわれた君に、カイを取られるのは許せなかったんだ」
ミキヤがカイのことをずっと好きで、カイは帰国をやめようとして、ミキヤがそれを阻止して――。
頭が混乱する。
心臓が耳元で鳴っているみたいだ。
コチコチと鳴る時計の音が、私の中の『ミキヤ』という人間の輪郭を、音を立てて崩していく。
これまで優しかった彼は、もうどこにもいない気がした。
「ミキは、私のことが、嫌いなん?」
ミキヤはきっぱりと首をふった。
「嫌いじゃないよ」
そう言うと、もういつものミキヤに戻っているように見えた。
「すっかり元気をなくした君を見て、罪悪感を感じてた」
どういう顔でミキヤをみればいいのかわからず、自分の冷たくなった指先を見つめた。爪に塗った赤いエナメルが、ところどころかけている。
「ほんとうにごめん。マリちゃんとは、これからも仲良くやっていきたいと思ってる」
時計の音が、やたらと大きく聞こえる。
「もし、君が許してくれるなら」
息をするのがやっとで、声がかすれる。
「許すもなにも、カイは、絶対帰国してたよ。ミキがなにも言わんでも」
ミキヤはもう一度、ごめんと言った。
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※この物語はフィクションであり、登場する人物および作中の出来事はすべて架空であり、実在の人物・出来事とは一切関係ありません。
【MAGAZINE】
【もくじ】
#00│プロローグ
#01|ジャパンセンター
#02│フラットシェア
#03|リージェンツ・パーク
#04│カイ
#05│語学学校
#06│ミキヤ
#07│レオン
#08│ザ・クラウン
#09│ピル
#10│猫
#11│キッチン
#12│隣人
#13│サイケデリック
#14│Daddy, I love you
#15│オシルコ
#16│チャイナタウン
#17│カールスバーグ
#18│ミルク
#19│雷鳴
#20│エッグ&トマト
#21│I am enough.
#22│セブンスター
#23│ジャクソン
#24│ワンケイ
#25│最終話│黒猫
