【小説】ア・リトル・ビット・クレイジー・デイズ #01|ジャパンセンター
50ポンド/週
洗濯機あり
3ベッドルームフラット
ゾーン2
日本人2人
5月10日~入居可
Kai 020 - ××× - ××××
ノートの切れ端に、青いボールペンで書かれたそのメモは、ジャパンセンター(通称ジャパセン)の掲示板左上、私にはかなり見づらいところに貼ってあった。
ジャパセンは、ロンドンのピカデリーサーカスにある日本食材店兼ブックストアで、留学生の情報交換の場としても知られていた。
特に二階の掲示板には、フラットシェアの募集広告が所狭しと貼られていて、物件を探す留学生たちでいつも賑わっていた。
色とりどりの手書きメモがびっしりと貼り付けられた掲示板を、できるだけ安い物件を探し、ひたすら数字を追っていた私の目は釘付けになった。
週に70ポンドや80ポンドが相場のなか、ありえない数字。
目を凝らしてユーモラスな手書き文字を追った。
ゾーン2。
でも、駅が書かれていない。
ロンドンはゾーン1から6へと、都心から同心円状に郊外へ広がっていく仕組みになっている。
当然、中心部に近いほど家賃は目玉が飛び出るほど高くなる。
ちなみに、二週間前に私が降り立ったヒースロー空港は一番外側のゾーン6。
そう考えると、ゾーン2は都心へもすぐに出られる破格の近さだ。
ちょっと不安ではあるけれど、ゾーン2ならどこでもいい。
洗濯機もあるなんてすばらしすぎる。
すぐに電話番号をメモして、外にある公衆電話に飛び込んだ。
良い物件は、すぐに決まってしまう。
フォンカードを差し込み、はやる気持ちを抑えながら、慎重にプッシュボタンを押した。
雨に濡れた電話ボックスの中から、赤い二階建てのバスが停留所にとまるのが見えた。バスは消化不良の怪物のように、体を震わせながら人々を吐き出している。
「もしもし」
不機嫌な声に、我にかえった。
「あの、カイさん、ですか? ジャパンセンターで、貼り紙を見たんですけど」
「ああ、部屋見にきますか?」
ぶっきらぼうに、そう言われた。
私は「見に行きたい」と即答した。時間なら腐るほどあまっている。
カイは住所と駅名を伝え、意外にも一時間後に駅まで迎えにきてくれると言った。
「わかりました。私はマリコといいます」
「うん。じゃあ、あとで」
電話はブツリと切られた。
時計を見ると、三時半だった。
トラベルカードの黄色いパスケースを取り出し、地下鉄の路線図を広げた。
カイに伝えられた駅は、テムズ川を越えたあたりにあった。確かにゾーン2だけれど、ずいぶん中心地からはずれている。
少し不安になりながらも、薄暗い地下鉄の階段を降りていった。
*
駅に着くとそこは、予想に反して賑やかな町だった。
もっとさびれた町を想像していたのに、プリマークやブーツなんかの大手チェーン店が乱立している。
行き交う人々の肌は漆黒で、駅前には果物や野菜が並べられた大規模なマーケットまである。所狭しと食料品が並べられ、いろんな匂いが混じり合っていた。
たくさんの人々が行き交い、よく通る声が響いている。
誰かの話し声、呼び声、どれも深く響き渡っている。
私は圧倒されてしまった。
なんて活気のある街だろう。
マーケットには見たこともない野菜や果物が並んでいた。見慣れたはずの野菜でさえ、ナスやきゅうりが驚くほど巨大で、りんごはとても小さかった。
マーケットを進んでいくと、強烈な生臭さが漂ってきた。
中国人が経営する食料品店の前に、たくさんの野菜や魚が並んでいた。
だらりと並べられた魚たちは、食料品というより死体のように見えた。腐臭を放ち、ハエが飛び回っている。
陳列台の隣で中国人のおじさんが、魚を捌いている。なたのように大きな包丁を頭の上まで振り上げ、そこから叩きつけて魚の頭を落としている。その音が響くなか、魚の鱗や骨がギラギラと飛び散っていた。
よく見ると、おじさんには親指がなく、それが意味するところを考えて、背筋がゾッとした。
慌ててそのとなりに目をやると、そこにはロンドンのスーパーでは見かけることのない、日本の野菜が並んでいた。白菜、大根、ニラまである。
さらに歩いていくと、魚とは違った生臭い匂いが近づいてきた。
「HALAL MEAT」と書かれた店があらわれ、目の前に解体された生き物がぶら下がっていたので、ギョッとした。(後で知ったが、ムスリムの人たちは、お祈りをしながら屠殺された特別な肉しか食べてはいけないらしい)
強烈な絵面と匂い。
それでも、このエネルギーに圧倒され、私は目が離せなかった。
その先も、フォンカードを安く売るアラブ系の男性、派手な色の衣類を売る店、とにかくいろんなものが売られていた。
足取りも軽く歩きながら、自分がかなり浮かれていることに気づいた。
青い空にあたたかな日差し。
踊るように歩く黒真珠のような人々。
熟れた果実と腐りかけた魚の匂い。
私はこの街が、気に入った。
*
まだ時間があったので、少し駅の周りをうろつくことにした。
地下鉄の出口の正面にはカレー屋があり、鼻腔をくすぐる香りが漂っていた。明らかにインドやバングラデシュ系とわかる店員がカレーをよそっている。
駅を出て左に行くと、Y字にわかれた道の間に白い教会があらわれた。十字架を掲げた美しいゴシック調の白い建物の地下は、なんとクラブになっていた。
敬虔な教会の地下に不釣り合いなその光景に、頭の理解が追いつかず、軽いショックを受けた。
日本だと不謹慎だとかいう話になりそうだけど、こっちではどういう感覚なんだろう。
時計を見ると、四時十五分。
あまり駅から外れてもいけないので、戻ることにした。
*
四時半になっても、カイは現れなかった。
すっぽかされたのか、何かあったのか、連絡の取りようもないのでわからない。
不安な気持ちを紛れさせるように、レンガの壁にもたれると、ほどよい圧がかかり、そこから疲労が和らいでいくように感じた。
女の子が三人、小鳥のように笑いながら地下鉄の階段を駆け上がってきた。
鮮やかなビビッドカラーの小さな布をまとい、黒く光る肌を惜しげもなくあらわにして、はじけるように笑っている。
まだ十代らしきその少女たちのひとりが、突然、人の声とは思えないくらい美しい高音を響かせた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
それに続くように他のふたりも歌い出し、突然そこはMVのワンシーンのようになった。
現実とは思えない光景と、その神聖な響きに、街の雑音がふっと消え、心がすうっと持っていかれそうになった瞬間、
「マリさん?」
突然名前を呼ばれ、現実に引き戻された。
日本人の男性が目の前に立っていた。
「カイです。ごめん、遅くなりました」
我に返って時計を見ると、もう五時過ぎになっていた。
息を切らせてあらわれた彼は、私の想像よりも若く見えた。首元には汗がつたっている。
私は慌てて、壁から背中を離した。
「なんか、バスが来なくて。歩いてきたから。ほんとうにすみません」
「いえ、街を見ていたので。すごい汗。大丈夫ですか?」
「あっつー」
カイは胸元を扇いで破顔した。
高い身長に似合わず、笑うとかわいらしい顔をしている。
「バスが止まってるみたいで、歩きになるけどいいですか。三十分くらいかかるけど。」
「大丈夫です」
「じゃあ行こうか」
カイは踵を返して歩きはじめた。
小走りで遅れないようについていく。
「名前、なんでしたっけ」
カイが振り向いて、気まずそうに尋ねた。
「マリコです」
「マリちゃんね、OK」
確認するようにうなずいて、カイは歩幅を合わせて私の隣にきた。
「マリちゃん、大阪の人でしょ」
「え、わかる?」
「うん、すぐわかる」
電話のあまりの対応の悪さから、感じの悪い日本人を想像していたけれど、カイは満面の笑顔で、とても人懐っこかった。
私たちは駅からひたすらまっすぐに歩いた。人通りは少なくなってきたけれど、駅前の大通りを外れてもパブにケバブ屋、チャイニーズの店、ピザ屋なんかが充実している。
「カイ君はいくつ?」
「カイでいいよ。二十三歳。マリちゃんは?」
背の高いカイは、歩く速度をさりげなく私に合わせてくれているようで、置いていかれる焦りもなく私はスムーズに歩けた。
「二十四歳」
「えー、年下かと思った。今どこに住んでるの?」
私は二週間前にロンドンに着いたこと。キルバーンで下宿していること。その契約期限があと二週間しかないことを説明した。お金があまり無く、安いところを探していることも。
「じゃあうちはぴったりじゃん。俺が帰国するから、代わりに入ってくれる人を探してるんだよね」
*
三十分も歩いたころ、ようやくカイの家にたどり着いた。
ロンドンでよく見かける、テラスハウスの一軒家だった。通り一面に同じ家が続いている。
薄暗くなった空に街灯がぽっと灯り、歴史ある家々と石畳に、橙色のあたたかな光がやさしく降りそそぐ。
この国は、『火灯し頃』という言葉がとてもよく似合う。
「ここの二階のフラット。一階に大家が住んでるからちょっとうるさいんだよね」
カイがドアを開けて、私が中に入った途端、一階の奥のドアからものすごく太った黒人のおばさんが出てきた。
大きな声で怒鳴りはじめたおばさんが、しきりに手を動かして何か言うたびに、胸やお尻がゆさゆさと揺れて、まるで踊っているみたいに見えた。
私はまだほとんど英語が聞き取れず、固唾を飲んでふたりのやりとりを見守っていた。
カイが何やら説明して、やがておばさんは膨れっ面ながらもおとなしくなった。
そして、やっと私に気づいたかのようにこちらを一瞥し、にっこりと微笑んで「ハイ」と言い、大きなお尻を左右に揺らしながら自分のフラットに戻っていった。
「何いうてたん?」
「昨日、夜遅くにドンドンうるさかったって言われた」
「今のが大家さん?」
「そう。あれは奥さん。よく怒られるんだよね。行こう」
カイが階段を昇って、私もそのあとに着いていった。
二階には左右に白いドアがひとつずつあり、カイは右のドアを開けて私を促した。
「どうぞ」
*
私はおそるおそるドアをくぐった。
そっと踏み出したヒールの先に、深い赤色の絨毯が見えた。
その廊下を左に行くとキッチン、右に行くと白いドアが四つあり、そのうちのひとつ、奥のドアが開けっぱなしになっていて、そこがリビングだった。
「お茶入れてくるから、好きに見てて」
カイが行ってしまうと、ひとりポツンと広い部屋に放り出されたようで心細くなった。
白い壁にブルーの絨毯。
壁には、埋められた暖炉の跡があった。
窓がひとつ。
木製の丸いテーブルと椅子が四脚、深緑の四人掛けのソファ。
テレビが一台。そこに不釣り合いなプレステと、「みんなのGOLF」と書かれたソフトが転がっていた。
「お待たせー」
カイが紅茶とお菓子をどっさり運んできた。
紅茶を手に取ると、ティーカップの熱が指先からじんわりと伝わり、ミルクの甘い香りが鼻をくすぐって、緊張が少しほぐれた。
「これ、おいしいよ」
クリームを挟んだビスケットをカイが差し出した。
「ありがとう」
かじってみると、濃厚なカスタード風のクリームが口いっぱいに広がる。日本とは違う、荒っぽくて濃厚な甘み。そこに塩味が効いている。
「何これ? めっちゃおいしい。日本のと全然違う」
「でしょ? 良かったらこっちも食べてみて」
紺色の渋いパッケージの袋をカイが開けてくれた。
中には厚切りのポテトチップスが入っている。噛みしめるとガリリと小気味よい音がして、強烈なビネガーの酸味が鼻腔を突き抜ける。
「うわ、これもやばい。何味?」
「ビネガー。お菓子、やばいよね。俺こっちでめっちゃ太った」
カイと顔を見合わせ、ふたりで笑いながら、おいしいおいしいと言ってばくばく食べた。
「あたし、こっちに来てからろくなもん食べてないわー。カイは自炊とかしてる?」
ポテトチップスを頬張りながら、普段の食生活の侘しさを思い出した。
「料理は嫌いじゃないけど。ここにはもっと料理上手がいて、毎日作ってくれるんだよね」
「え、いいなあ。うらやましい」
実は、こっちに来てから二週間で三キロも痩せてしまったのだ。
下宿先の共同キッチンにはいつも誰かがいて、英語で話しかけられるのが怖くて近づけなかった。おかげで食パンにクリームチーズとバナナを挟んで食べる毎日だった。
「今日、ごはん食べていきなよ」
「え? ほんまに?」
カイの言葉に、私は思わず身を乗り出してしまった。
「いいよ、フラットのメンバーにも会いたいでしょ?」
カイはくすくす笑いながらそう言った。
「ありがと〜、めっちゃうれしい。」
私は大げさに感謝してみせた。
現在フラットには日本人の女の子がひとり、男性がもうひとり、カイを合わせて三人住んでいるらしい。
カイは、あと一ヶ月で帰国すると言った。
お父さんが病気になり、会社を継ぐことになったらしい。
「それと、結婚も決まってまして……」
カイは少し照れながら可愛い彼女の写真を見せてくれた。
「わ〜! おめでとう」
私は手を叩いて祝福した。
「マリちゃんは、これからロンドンめいっぱい楽しみなよ」
カイは目を細めて笑った。
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※この物語はフィクションであり、登場する人物および作中の出来事はすべて架空であり、実在の人物・出来事とは一切関係ありません。
【MAGAZINE】
【もくじ】
#00│プロローグ
#01|ジャパンセンター
#02│フラットシェア
#03|リージェンツ・パーク
#04│カイ
#05│語学学校
#06│ミキヤ
#07│レオン
#08│ザ・クラウン
#09│ピル
#10│猫
#11│キッチン
#12│隣人
#13│サイケデリック
#14│Daddy, I love you
#15│オシルコ
#16│チャイナタウン
#17│カールスバーグ
#18│ミルク
#19│雷鳴
#20│エッグ&トマト
#21│I am enough.
#22│セブンスター
#23│ジャクソン
#24│ワンケイ
#25│最終話│黒猫
