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[beer the beer 第2章] 科学の眼、熟練の舌

翌朝、ロバートはいつもより早く目を覚ました。

窓の外から聞こえてくる街の音は、昨日までと同じはずなのに、彼の耳には全く違って響いていた。これまで無機質な騒音でしかなかった蒸気機関の轟音は、まるで巨大な生き物の、力強いがまだ言葉を話せない「声」のように感じられた。

昨日、師匠に与えられた「挑戦」が、彼の感覚を研ぎ澄ませていた。
ブルワリーへの道すがら、彼の目は街の至る所に「対話」のヒントを探していた。
時計塔の精密な歯車の動き、パン屋の窯から立ち上る蒸気、新しい鉄橋の骨格。そのすべてが、機械の力と、それを設計し、組み上げた人間の知恵と手の痕跡に見えた。

ブルワリーの門をくぐり、鉄の心臓の鼓動を聞いた時、もはや彼の心に恐怖はなかった。そこにあったのは、これから対峙する、手強いがどこか愛おしい「仲間」と向き合うような、静かな高揚感だった。

その日から、ロバートは一冊の分厚いノートを肌身離さず持ち歩くようになった。彼はそれを「醸造日誌(ブリューイング・ジャーナル)」と名付けた。ページの左側には、温度、時間、比重といった「科学の言葉」を、寸分の狂いもなく記録する。そして、右側のページには、その時々の麦汁の香り、色、粘度、そして彼自身の五感が捉えた言葉にならない「感覚の言葉」を、必死に書き留めていった。

彼の最初の試みは「水」から始まった。ブルワリーで使う水は、これまで常に一定だった。しかし、ロバートは古い醸造記録の片隅に、かつてベネット師匠が「雨水で仕込んだ年のエールは、驚くほど角が取れて円熟した」と書き残しているのを見つける。

科学的なデータは何もない。ただ、職人の「感覚」の記録だ。
ロバートは、自らも複数の水源の水を飲み比べ、その味の違いを日誌に記した。
「井戸水:硬く、鉄の味がする。テムズ川の水:少し泥臭いが、柔らかい。雨水:最も雑味がなく、絹のよう」。
そして彼は、仕込みに使う水に、濾過した雨水を少量だけブレンドするという、誰も試みたことのない一手間を加えた。結果、その日の麦汁は、驚くほど口当たりがまろやかになった。彼の醸造日誌には、誇らしげに「感覚の勝利」と書き込まれた。

次の挑戦は「ビール種」と呼ばれる「酵母」だった。
発酵を終え、槽の底に沈んだ酵母を次の仕込みに使う際、彼はただ杓ですくい取ることをやめた。

彼はまず、異なる層の酵母を少量ずつ採取し、その香りを嗅ぎ比べた。一番底は少し金属臭く、上澄みは水っぽい。だが、その中間に、まるで熟した果実のような、最も生命力にあふれた芳香を放つ層があることを発見する。彼は、手間を惜しまず、その「エリート層」の酵母だけを慎重に掬い集めた。

その酵母で仕込んだビールは、発酵の始まりからして違った。泡は力強く、発酵槽からは以前よりも華やかでフルーティーな香りが立ち上った。これは、酵母という「仲間」との対話が成功した証だった。

水、そして酵母。小さな成功は、ロバートに大きな自信を与えた。彼の醸造日誌は、科学の言葉と感覚の言葉でびっしりと埋め尽くされていく。彼はもはや、機械や数値を恐れていなかった。それらは、素材の「声」を聞くための、信頼できる「聴診器」となっていた。

その日、師匠のベネットが、ブルワリーの片隅に新しく設えられた小さな机から手招きをした。そこには、真鍮製の筒が鎮座している。最新式の「顕微鏡」だ。

「フランスのパストゥールという男が、面白いことを言っている。発酵とは、目に見えんほど小さな生き物の仕業だ、と。見てみろ、これが我々のビールの『魂』の正体だ」

ロバートが恐る恐る接眼レンズを覗くと、そこには無数の微細な球体が、確かに生きて、蠢いているのが見えた。

「これが…酵母、『ビール種』の正体か…」

それは、衝撃的な光景だった。この小さな微生物が、麦汁をビールへと変える神秘の担い手なのだ。科学は、魔法の正体を白日の下に晒しつつあった。

数字や科学を使いこなし、醸造に対する自信を深めたロバートは、その日の麦汁のサンプルを比重計に満たし、ベネットに示した。
「師匠、見てください。糖分濃度は狙い通り。これなら発酵後のアルコール度数も完璧に予測できます。これが、私の現時点での、完璧な一杯です。科学と感覚は、この中で、見事に調和しています」

「…うむ、見事な出来だ、ロバート。お前がここまで来たことを、師として誇りに思う。実に、非の打ち所がない」
その言葉に、ロバートの胸は誇りで満たされた。

ベネットはロバートが手にしている麦汁を受け取ると、何かを確かめるように静かに口に含んだ。
やり遂げた自信で満足していたロバートはベネットから発せられる次の言葉を期待しながら待っていた。しかし彼の表情が一瞬、ほんのすこしだけ曇ったのを、見逃さなかった。

「ロバート。お前のこの一杯は、最高の歌手たちが、それぞれ見事に歌い上げている『独唱』の集まりだ。たしかに良い。だが、まだ声と声とが響き合う、真の『ハーモニー(和音)』にはなっていない」

ロバートは、自分が差し出したカップの中の、完璧なはずの麦汁を、もう一度、必死に味わい直した。
水は、あの記録を信じてブレンドした。おかげで、口当たりは、かつてなくまろやかだ。 糖化の温度、時間、比重。日誌に記した科学の言葉も、寸分の狂いもない。麦芽の甘みは、これ以上ないほど、きれいに引き出されているはずだ。煮沸の際のホップの投入も、香りを計算し尽くした。雑味もない。…これ以上、何を?

ロバートはひとつの懸念に思い当たった。
自分でも科学や数字が万能であると思い込み、醸造家として重要な「手の声」が疎かなっているのではないかと、ほんの小さくだが感じていたからだ。
その「懸念」の正体を、師匠は、いとも簡単に見抜いてみせたのだ。
しかしこの麦汁には一体何が足りないのかわからなかった。

「どうすれば…、どうすれば、その『ハーモニー』を、奏でられるのですか?」

ベネットは、ロバートの「醸造日誌」に、優しい目を向けた。
「その日誌は、素晴らしい道具だ。だがな、ロバート。最高の職人とは、その地図を手に、今日の麦芽の『顔つき』、釜から立ち上る湯気の『匂い』、パドルから伝わる麦汁の『重み』を、自らの五感で読み取り、『なるほど、今日は少し道草をした方が、もっと良い景色が見られるかもしれん』と、地図にない道を、自らの判断で歩ける者のことを言う」

そして、彼は、ついに核心を突いた。
「最高の歌手たちが、最高の舞台を待っている。だが、その肝心の『舞台』が、まだ、ただの板きれ一枚なのだ。お前の麦汁の『舞台』は、まだ平坦すぎる」
「舞台…ですか?」
「麦汁そのもののことだ。お前は、科学が教える通り、糖化の間、一つの完璧な温度を保ち続けた。それは、最も効率の良い『道』だ。だが、そのまっすぐな道だけでは、麦汁は、最も単純な顔しか見せん」

ベネットの声に、職人だけが持つ、絶対的な確信がこもる。
「真の『深み』、ホップの香りと酵母の歌声を受け止める最高の『舞台』は、糖化の、あの短い時間の中で生まれる。温度を、ほんの少し、ほんの数分だけ、揺らがせてやること。その好奇心あふれる『寄り道』が、麦芽に、甘みだけではない、パンのような香ばしさ、蜜のようなコクといった、複雑な『陰影』を与える。その『陰影』こそが、全ての要素を固く結びつけ、最高の舞台となるのだ」

ひと呼吸おいて、そして言葉を続けた。

「それは、単なる『勘』ではない、ロバート。それは、お前の日誌の右ページに書きためた、おびただしい『感覚の記録』と、左ページにある『科学の数字』。その両方を、頭の中で瞬時に照らし合わせ、最高の答えを導き出す、経験に裏打ちされた『思考』そのものなのだ。
科学という最高の地図を手に、お前自身の五感で、その地図には描かれていない、宝の在り処を探し出すこと。それこそが、お前の言う『手の声』となるのだ」

そして彼は、挑戦的に、しかし、この上なく温かい笑みを浮かべた。
「そのためのヒントは、あの釜の中にある。さあ、行け、ロバート。お前の若い、曇りなき五感で、わしが一生かかっても見つけられなかった、最高の『ハーモニー』を、このブルワリーに響かせてみせろ」

師の言葉は、ロバートの魂に、新しい羅針盤を授けてくれた。
もはや、彼の心に迷いはない。目指すべきは、地図にない宝。奏でるべきは、誰も聞いたことのないハーモニーだ。

-

彼は、その日の次の仕込みで、再び糖化槽の前に立った。だが、彼の眼差しは、もはや温度計の数字だけを追ってはいなかった。彼は、釜の中の、麦汁という小さな宇宙に、全神経を集中させていた。麦芽が、水と出会い、その心を開き、甘みという名の最初の歌を歌い始める。その声を聞きながら、彼は、師が語った『寄り道』の瞬間を、ただ、じっと待った。

そして、彼は「それ」を感じた。 甘い香りが、その頂点に達し、次の瞬間、ほんのわずかに、パンのような香ばしさへと、その顔つきを変えようとする、その一瞬の「間」を。

「ここだ!」

彼は、師の教えと、自らの五感を信じ、意を決して火力を微調整した。温度を、数分間だけ、63℃へと導く。それは、麦汁に、師が語った「陰影」を、そして「深み」を与えるための、神聖な儀式だった。

その麦汁を、彼は震える手で味わった。 …あった。単なる甘みではない。まろやかさの上に、香ばしさが乗り、それらすべてを、豊かなコクが、まるでオーケストラの指揮者のように、優しく、しかし力強く、まとめ上げている。独唱が、見事なハーモニーへと変わる、その始まりの音が、確かにした。

ロバートは、ついにその方法を見つけ出したのだと、固く、固く信じた。 彼の目指す「自分に合った一杯」の輪郭は、もはや目前に、手で掴めるほどはっきりと、その姿を現していた。


[第3章 英国の血脈、ビールの顔] へつづく。


資料画像


1850年代の汽車が映る風景
A train from Camden passes over Mare Street, Hackney on the new North London Railway in this engraving from the early 1850s. (参照:※1)

ブルワリーと街の風景
The Truman Brewery in 1842, depicted by J. Moore.(参照:※2)

ロバート・フォルトンの醸造日記(ブリューイングジャーナル), The Science Museum, Londonにて筆者撮影(2008年)

1860年当時の顕微鏡
Microscope, made in France by Nachet et Fils, ca. 1860 Courtesy National Museum of American History(参照:※3)

19世紀のビールジョッキとビールの色の検証
What was the colour of brown beer in the 19th century?(参照:※4)


参照

※1:In brief – London during the mid-19th century
https://www.thehistoryoflondon.co.uk/in-brief-mid-19th-century/

※2:The Truman Brewery: a history of the world’s largest brewery
https://whitechapellondon.co.uk/brick-lane-truman-brewery-history/

※3:National Library of Medicine | Exhibition: Brewing Mysteries
https://www.nlm.nih.gov/exhibition/fromdnatobeer/exhibition-brewing-mysteries.html

※4:What was the colour of brown beer in the 19th century?
https://dafteejit.com/2017/06/what-was-the-colour-of-brown-beer-in-the-19th-century/



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