[beer the beer 第8章] 「beer the beer Movement」の波動
数日後、ロバートは師匠ベネットに同行し、「Great London Beer Exhibition(ロンドンビール博覧会)」の会場に足を踏み入れた。
ロンドンの北部に新しく建設された巨大な展示ホールは、まさしく産業革命の象徴だった。ガラスと鉄骨で構成された天井からは、柔らかな自然光が降り注ぎ、会場全体を明るく照らしている。
数百種類ものビールが所狭しと並べられ、最新技術で作られた大手ブルワリーのクリーンなラガーから、各地の小規模クラフトが造る個性的なエールまで、多種多様な味が提供されている。
会場には、蒸気機関の軽やかな稼働音と、人々の熱気、グラスが触れ合う音、そして陽気な音楽が混じり合い、壮大な祝祭の雰囲気を醸し出していた。
ベネット醸造所のブースは、派手さはないが、ロバートが丹精込めて造り上げた「フォルトンズ・ゴールデンエール」が、キャサリンのデザインした美しいラベルを貼ったガラス瓶で並べられていた。
その一本一本に、ロバートが追い求めてきた哲学が、確固たる形で息づいている。
しかし、現実は、開場と共にロバートに厳しく牙を剥いた。
人々の波は、まるで巨大な磁石に引き寄せられるように、会場で最も巨大な大手ブルワリー「インペリアル社」のブースへと吸い込まれていく。
彼らのブースからは、陽気な音楽と、派手な宣伝文句が鳴り響き、その喧騒が、会場の隅にあるベネット醸造所の静かなブースを覆い隠してしまった。
ロバートは、道行く人に懸命に声をかけ、自らのビールの哲学を語ろうとする。だが、彼の声は雑音にかき消され、足を止める者はほとんどいない。たまに来る客も、一口飲むと、「美味いが、少し高いな」と呟き、すぐに安価な大手のビールへと流れていってしまう。
最初は、ただの混乱だった。
「なぜだ? この豊かな香りが分からないのか? この澄んだ琥珀色の奥にある、物語が見えないのか?」
だが、時が経つにつれ、その混乱は、冷たい焦りへと変わっていった。
ブルワリーの静寂の中で、あの一杯を口にした時の、あの全身を駆け巡った万能感。世界と調和したかのような、あの完璧な感覚。それは、このブルワリーという、守られた世界の中だけの幻想だったというのか。
彼の脳裏に、あの日の絶望が、悪夢のようによみがえる。
『沈黙の琥珀色』を生み出してしまった、あの日の感覚。完璧な理論で造り上げたはずの、魂のない液体。
今、この喧騒の中で無視され続ける「フォルトンズ・ゴールデンエール」も、市場という巨大な審判の前では、同じ「無価値」なものに過ぎないのではないか。
ブルワリーでのあの感動は、結局、誰にも届かない、ただの独りよがりだったのか…? ロバートの心に、再び、あの時と同じ冷たい絶望が、じわりと忍び寄っていた。
その時だった。一人の老紳士が、雑踏から離れ、ベネット醸造所のブースの前にすっと立った。彼は、派手な大手のブースには目もくれず、ロバートが造ったビールの、その手描きのラベルを食い入るように見つめていた。
「若者、一杯もらおうか。君のビールの『物語』を、少し聞かせてはくれんかね」。
その静かだが、芯のある声に、ロバートははっと顔を上げた。彼は、この日初めて、自分の言葉を真剣に聞いてくれる相手と出会った。ロバートは心を込めて一杯を注ぎ、自らの探求のすべてを語った。
老紳士は、黙って耳を傾け、そして、注がれた一杯を、まるで宝石を鑑定するように味わった。彼はその深い味わいに言葉を失い、やがて、ロバートをまっすぐに見つめて言った。
「…驚いた。わしは長年、タイムズ紙でビールについて書いてきたが、これほどまでに魂を揺さぶるエールに出会ったのは、初めてだ」。
「これは、本物だ」。
その言葉は、小さく、しかし驚くほどよく通った。
その一言が、空気を変えた。老紳士の周りにいた数人のビール愛好家たちが、「あの高名な評論家がそこまで言うのなら」と、半信半疑でロバートのビールを試し始める。そして、その表情が、次々と驚きと感嘆に変わっていった。
「なんだ、この香りは…」
「クリアなのに、味が深い…」
「信じられん…」
静かだが、確かな熱を持つ「本物」の評判が、さざ波のように広がり始めた。
その熱気に引き寄せられるように、アルフレッド・ハーグリーブスが姿を現した。彼は、その小さな人だかりの中心にあるビールを一口飲むと、全てを理解したように、力強く頷いた。そして、集まった人々に聞こえるよう、高らかに宣言した。
「皆、聞きなさい!これこそが、我々が探し求めていた、新しい時代の本物のビールだ!科学の正確さと、職人の情熱が、この一杯の中で見事に結ばれている!」
アルフレッドの言葉は、号砲となった。
その言葉に最初に呼応したのは、会場の片隅で同じように苦戦していた、他の小規模ブルワリーの職人たちだった。
「そうだ、その通りだ!」彼らの叫びが、それに続く。
その熱が、本物の味を求めていた人々へと伝播し、大きなうねりとなっていった。
そのうねりの中心で、ロバートは、ブルワリーで自らが叫んだあの言葉を、今こそ、この場所にいる全ての人々と分かち合うべきだと感じた。
彼はグラスを高く掲げ、会場の喧騒を切り裂くように、その声を轟かせた。
「我々が追い求める、最高のビールとは!……『beer the beer!』だ!」
その瞬間、熱狂は頂点に達した。誰からともなく「ビアザビア!」という合言葉の合唱が始まったのだ。
熱狂の輪から少し離れた場所で、師匠ベネットは静かにその光景を見守っていた。その目には涙が浮かび、自分の手を離れ、時代そのものを動かし始めた弟子への、万感の思いが込められていた。隣では、キャサリンが「やったわね、ロバート!」と、自分のことのように涙を流して喜んでいた。
小さなブースから始まったその叫びは、見本市会場全体を震わせ、「真のビール」を求めるムーブメントの、力強い産声となったのだ。
[第9章 想いの拡がりと新たな時代 ] へつづく。
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本建物は1851年にロンドンで行われた万国博覧会の会場となった、しかし1936年に火事で全焼し、現在は存在しない(参照:※1)



参照
※1:Wiki「The Crystal Palace」
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Crystal_Palace
