[beer the beer 第9章] 想いの拡がりと新たな時代
見本市での熱狂から数日後、ロバートが放った「beer the beer!(ビアザビア!)」という叫びは、もはや単なるスローガンではなかった。
人々の心に深く響く「真のビール」への渇望を代弁し、同時に「自分だけの最高の一杯を見つけたい、造りたい」という職人たちの情熱をも呼び覚ます言葉となったのだ。
そして、その熱狂に「名前」を与えたのは、見本市で出会った、あの高名なタイムズ紙の評論家だった。彼は、特集記事の中で、ロバートのビールを絶賛すると共に、こう記した。
「…それは単なる試飲会ではなかった。産業の時代における、魂の真正性を求める宣言であった。人々は、自らの舌で、手仕事の価値を再発見したのだ。これを、人はやがてこう呼ぶのかもしれない。ひとつの、『beer the beer Movement』(ビアザビアムーブメント)の始まり、と」
その言葉は、ロンドンの街に、魔法のように広がっていった。
見本市の熱狂が冷めやらぬうちから、街のパブでは、黒板に「本日の『beer the beer』」と書き出し、店主が自慢の一杯を掲げて客に勧める光景があちこちで見られるようになった。
それは、見本市でその叫びを聞いた人々が、その感動を口コミで広め、あるいは自らもその言葉を使い始めることで、ビールを愛する人々の間に新たな連帯感が生まれていったのだ。
彼らは、単に喉を潤すだけでなく、背景にある職人の魂や、造り手の情熱を共有する喜びを見出していた。
中でも、ムーブメントの文化的な中心地となったのは、キャサリンのパブ「The King’s Head」だった。
彼女は誰よりも早くこの熱狂の本質を感じ取り、店の壁一面に、様々な小規模ブルワリーのロゴを書き出した大きな黒板を設置し、毎夜違うブルワリーを招いて「『beer the beer』特集」を開催したのだ。
ある夜、ロバートがその店を訪れると、そこは、かつてないほどの熱気に満ちていた。暖炉の火が、磨き上げられた木のカウンターや、彼女がこだわって設えた職人手作りのステンドグラスを温かく照らしている。
店内では、醸造家だけでなく、ロバートの兄トーマスのような建築家、詩人、ジャーナリストたちが、身分を超えて集い、ビール片手に熱い議論を交わしていた。
「工業製品は、我々の生活から『手触り』を奪った!」「いや、問題は、美しさを忘れたことだ!」
彼らの言葉が、ビールの泡と共に生まれては消えていく。
ロバートは、その輪から少し離れた場所で、自分のビールが触媒となって新しい文化が生まれる瞬間を、畏敬の念を持って眺めていた。自分が造り出したものが、もはや自分の手を離れ、社会の中で生き始めたことを実感していた。
新聞に掲載された記事と、パブでの評判が広まるにつれ、ベネット醸造所には、他のブルワリーの職人たちが「巡礼」のように訪れるようになった。彼らは教えを乞うように、ロバートに「魂の宿るビール」の秘訣を尋ねた。ロバートは、戸惑いながらも、自身の「醸造日誌」を見せ、アルフレッドから学んだ叡智と、自らの失敗の経験を、惜しみなく分かち合った。
しかし、光が強くなれば、影もまた濃くなる。
ある日、キャサリンの店に、常連客の一人が顔をしかめて駆け込んできた。「キャサリン、聞いてくれ!向こうの新しいパブで、『本物のビアザビア、これぞ英国のエールビール!』なんて書いてあるから頼んでみたら、ひどい代物だった!」
ロバートの叫びは、その精神を理解しない者たちによって、安っぽく模倣され始めていた。
さらに、大手ブルワリー「インペリアル社」からの圧力も始まった。彼らは安価な模倣品を市場に投入し、ベネット醸造所のような小さな造り手の販路を、経済力でじわじわと締め付け始めたのだ。
「このままでは、我々は一つ一つ、潰されてしまう…」
危機感を募らせたロバートとアルフレッドは、行動を起こした。キャサリンのパブの、普段は物置として使われている裏部屋に、志を同じくする十数人の小規模醸造家たちを集めたのだ。
灯されたランプの光が、集まった男たちの、疑心暗鬼と不安に満ちた顔を照らし出す。東地区の頑固な職人として知られる老醸造家が、腕を組んで唸った。
「なぜ、俺が親父から受け継いだ秘伝の技を、ライバルのお前たちに明かさねばならんのだ」
別の若い醸造家は、顔を青くして俯いている。
「だが、インペリアル社に逆らえば、我々の家族はどうなる…」
重い沈黙を破ったのは、アルフレッドだった。
「我々が互いをライバルだと争っている間に、インペリアル社は我々の市場を全て食い尽くすだろう。我々の敵は、この部屋の中にはいない!」
そして、ロバートが静かに立ち上がった。
「皆さん、我々はライバルである前に、同じ船に乗る『仲間』です。大手の嵐の前では、我々の小舟はあまりに無力だ。しかし、皆で知恵を出し合い、スクラムを組めば、どんな嵐にも負けない、大きな船団になれるはずです。私は、私の知る全てを、ここで皆さんと共有したい!」
彼の真摯な言葉に、頑固な老醸造家の眉が、わずかに動いた。…長い沈黙の後、彼が重い口を開いた。
「…わしの酵母の管理方法でよければ…」
その一言をきっかけに、部屋の空気が変わった。若い醸造家も顔を上げ、別の職人も自らの工夫を語り始める。これが、後に「真のビール醸造家たちの会合(The Conclave of True Brewers)」と呼ばれる、伝説的な集まりの第一歩だった。彼らは、互いの技術を共有し、大手に対抗するための連帯を、この夜、確かに築いたのだ。
その会合の帰り道、ロバートは兄トーマスに、遠方のパブへ品質を保ったままビールを届けることの難しさを漏らした。トーマスは、弟の新たな苦悩を聞くと、力強く頷いた。
「それは醸造の問題じゃない。建築と、工学の問題だ。俺に任せろ」
数週間後、トーマスは、自身が設計した新しい樽をロバートの前に披露した。建築で培った断熱技術と、鉄骨と木材を組み合わせる手法を応用した、画期的な樽だった。
「お前のビールが、最高の状態で人々の元へ届く。それが、俺なりの『beer the beer』だ」
少し照れながらそう語る兄の姿に、ロバートは胸が熱くなるのを感じた。
自分のたった一つの叫びが、大きな波となり、多くの人々を巻き込んでいる。そして、その波が新たな困難を生み、しかし、その困難が、仲間との、そして兄との絆を、より強く結びつけていく。
ロバートは、技術と手仕事、デザイン、そして人々の連携によって、ビールの可能性が無限に広がっていくことを実感していた。
彼の戦いは、もはや孤独な探求ではない。仲間たちと共に、新しいビール文化そのものを創造し、守り抜くための、新たな闘いへと変わっていた。
彼の視線の先には、ビールが人々を繋ぎ、文化を育む、より大きな存在として輝く未来が見えていた。
[最終章:未来への一杯 ] へつづく。
資料画像

beer the beer movementに関する記事が残っている
, The Beer History Museum in LONDONにて筆者撮影(2012年)

店のおすすめのビールなどを提供している(筆者収集)

建物にはその名が掲げられている
(現地にて筆者撮影:2012年)

内にある、「The Conclave of True Brewers」が発足した部屋
(現地にて筆者撮影:2018年)

, The Illustrated Encyclopaedia of Modern Brewing - Practice and Theory in the Industrial Breweries of London- よりスキャンの上デジタル化(筆者)
