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[beer the beer 第 1 章] 蒸気の胎動、職人の誇り

1848年、初夏のロンドン。

空は、まだ夜の藍色を留めていたが、それは決して純粋な藍ではなかった。街中に林立する無数の煙突から吐き出される石炭の煙が、空に薄汚れた紗(しゃ)をかけ、星々の光さえも鈍らせている。
この街の空気は、川の湿気と、常に微かに漂う鉄と石炭の匂いでできていた。

テムズの向こう岸、煉瓦造りの工場群が、夜明け前の薄明かりの中に巨大な獣たちが伏せるようなシルエットを描く。その一つ一つが、昼夜を問わず鼓動を続けるこの街の鉄の心臓だ。やがて、その心臓の律動に呼応するように、遠くの操車場から鉄の獣が喘ぐような蒸気機関車の音が響き、夜の静寂に最後の終止符を打った。

甲高い蒸気船の汽笛。石畳の通りをミルクマンの馬車が駆ける音。
ロバート・フォルトンは、新旧の音が織りなすこの街の目覚めの交響曲の中で、静かに目を開いた。18歳。ウィリアム・ベネットのビール醸造所で働き始めて五年。彼の朝は、この街の脈動と共に始まる。

支度を整え、フォルトン家の長屋を出る。
パン屋から漂う酵母の甘い香りが、ふと彼の足を止めさせた。その香りは、彼の心の奥底に眠る、最も大切な記憶の扉を叩く。それは、幼い頃に見た、今は亡き祖父が裏庭で造っていたエールの記憶。正規のブルワリーとは似ても似つかない、不格好な木の樽で仕込まれる、特別なビール。

祖父は、太陽を浴びて乾かした麦芽を手で砕きながら、幼いロバートにこう語った。

「いいか、ロバート。本当に美味いビールはな、舌だけで飲むんじゃない。魂で飲むんだ。この中には太陽と、土と、わしの手の『声』が溶け込んでいるんだよ」

ロバートはその味を知らない。だが、完成したエールを大人たちが口にした時の、あの幸福に満ちた表情、そして樽から立ち上った、花と果実と大地が混ざり合ったような、生命感あふれる香りは、彼の魂に焼き付いている。いつか自分も、人々をあんな笑顔にする、「手の声がするビール」を造りたい。それが、彼の全ての原点だった。

ベネット醸造所の大きな木の門をくぐると、ロバートは深く息を吸い込んだ。焙煎された麦芽の甘い香り、湿った石壁の匂い、そして遠くの機械室から漂う石炭と油の匂い。それらが混じり合った、彼が愛する仕事場の空気だ。

「おう調子どうだ!」
「おはよう、ロバート!」

年配の職人たちが樽を転がしながら、若い見習いたちが釜を磨きながら、彼に声をかけてくる。この場所は、単なる工場ではない。人々の生活が息づく、一つの共同体なのだ。

彼の朝一番の仕事、それは神聖な儀式にも似ていた。仕込みに使う麦芽の麻袋を開け、その中に手を深く差し込む。ひんやりとした麦粒を両手ですくい上げ、その感触を確かめる。

この対話が、一日の仕込みの質を決めるのだ。

やがて、ブルワリーの奥深くで眠っていた「鉄の心臓」が目を覚ます。蒸気機関に火が入り、低い唸りが響き始めると、床が、空気が、微かに震えだした。

「ゴウン……ゴウン……」

その圧倒的な轟音と共に、一日の本格的な仕込みが始まる。
ロバートはまず、蒸気式粉砕機へと向かった。機械が吐き出す麦芽の粉を手ですくう。効率的で、均一だ。だが彼の指先は、そこに手で挽いた時のような、不揃いだが温かい「生命の粒」が失われていることを感じ取っていた。彼は眉をひそめ、響き渡る轟音の中でレバーをミリ単位で微調整する。彼の指先が「これだ」と納得する、理想の粒度が生まれるまで。

次に、巨大な銅製の糖化槽(マッシュタン)に、砕いた麦芽と湯が注ぎ込まれる。湯気と共に、まるで焼きたてのパンか、甘いオートミールのような、幸福な香りが立ち上った。ロバートは大きな木製のパドルで、ゆっくりと、しかし力強く麦汁をかき混ぜる。この穏やかで、有機的な時間こそが、ビールの魂の源泉となる甘みを引き出すのだ。

問題は、その穏やかな時間の後に待っていた。

糖化を終えた麦汁を、新設された蒸気ポンプが発酵槽へと移送する。静寂は破られ、再び鉄の轟音がブルワリーを支配した。これまで職人たちが、麦汁の状態を確かめながら、まるで大切な赤子を運ぶように行っていた作業が、無機質なパイプの中を、激しい勢いで流れていく。

「これは… 違う…」

ロバートは、その光景を呆然と見つめた。「こんな、急流に飲み込まれるような速さじゃない。これでは、麦汁が驚いて、固く身を閉ざしてしまう…」。
彼の心の奥底にある、祖父の「手の声」の記憶とは、あまりにもかけ離れた、鉄の叫び声だった。

昼食休憩の折、ロバートは師匠ベネットの元へ向かった。彼の胸中は、轟音を立てる蒸気ポンプへの疑念で渦巻いていた。

「師匠、お話があります」

ベネットは、ロバートのただならぬ気配を察すると、黙って頷き、静かな貯蔵庫へと彼をいざなった。ひんやりとした空気の中、樽の木の香りが満ちている。

「師匠、あの新しいポンプのことです。速すぎます。まるで、麦汁が悲鳴を上げているように感じます。この速さが、麦汁の繊細な風味を、取り返しのつかないほど損なってしまうことはないのでしょうか」

ロバートの真剣な問いに、ベネットはすぐには答えなかった。
彼はまず、糖化槽の蛇口を捻り、温かい麦汁を小さなカップに一杯注いだ。次に、ポンプで送られた先の、発酵槽の蛇口からも、同じように一杯。そして、その二つのカップを、ロバートの前に差し出した。

「まず、飲んでみろ」

ロバートは言われるがままに、まず糖化槽から直接汲んだ一杯を口に含んだ。…美味い。麦芽の持つ、複雑で、ふくよかな甘みが、口いっぱいに広がる。生命感にあふれた、完璧な味わいだ。

次に、ポンプを通った後の一杯を口にする。…その瞬間、彼の眉間に、深い皺が刻まれた。甘みはある。しかし、明らかに何かが違う。味わいの層が薄い。角が立ち、どこか金属的な硬さが舌に残る。あのふくよかさが、無残に削ぎ落とされている。

「…お分かり、ですね」
ロバートは、愕然としてベネットを見た。

「ああ」と師匠は頷いた。
「お前の舌は、正しい。このポンプは、麦汁から何かを、確かに奪っている」

ベネットは、そこで初めて、自身の過去と、経営者としての苦悩を語り始めた。

「だがな、ロバート。我々が木のバケツで麦汁を糖化槽から発酵槽へ運んでいた時代、この最初の一杯が、どれほどの確率で『悪魔』に喰われていたか、お前は知らんだろう」
「夏場には、十に一つは酸っぱい泥水に変わった。あの絶望は地獄だ」
「このポンプは、我々をその地獄から救ってくれる、唯一の『盾』なのだ。どんなに完璧な麦汁を造っても、発酵槽に届く前に腐ってしまっては、全てが無になる」

「運んでいる間に、むしろ蝕まれてしまうということですか…」
ロバートは、二つのカップを交互に見つめながら呟いた。

そして、ベネットはロバートの肩に手を置いた。
「だがな、ロバート。この二つのカップは、ただの麦汁ではない。これは、この蒸気の時代の、我々職人全員に突きつけられた、二つの道なのだ」

彼の声は、静かだが、有無を言わせぬほどの重みがあった。
「一つは、過去の美しい魂にすがり、やがて時代の悪魔に喰われる道。もう一つは、魂を売り渡し、あの巨大な工場のように、空っぽの安全な殻に閉じこもる道。…ロバート、お前はどちらの道を歩みたい?」

ロバートは答えることができなかった。どちらも、彼が望む道ではなかったからだ。

ベネットは、そんな弟子の心を見透かすように、力強く頷いた。
「そうだ。どちらも選んではならん。だからこそ、お前が行くのだ、ロバート。この二つの道のどちらでもない、まだ誰も歩いたことのない、『第三の道』を切り拓くために」

ベネットの眼差しが、未来を見据えるように、鋭くなった。
「鉄の機械に、魂を『守らせる』のだ。ただ仕事をさせるのではない。その圧倒的な力で、かつて我々を苦しめた『悪魔』から、麦汁の繊細な魂を、完璧に守護させる。そして、その上で、職人であるお前の手と五感が、その守られた魂を、一点の曇りもなく輝かせるのだ。それができれば、我々が造る一杯は、もはや単なるビールではない。それは、この新しい時代に、職人がどう生きるべきかを示す、未来への『答え』そのものになる」

ベネットは、そこで初めて、温かい笑みを浮かべた。 「お前が聞いた『悲鳴』を、未来への『答え』に変える。…それこそが、お前の奏でるべき、美しい『歌』だ。これほど、胸の躍る冒険が、他にあるか?」


その日の夕食。フォルトン家の食卓は、一つの話題で持ちきりだった。ロバートが、ブルワリーでの出来事と、師匠から与えられた「挑戦」について、興奮気味に語ったからだ。

「…師匠は言うんだ。この機械の悲鳴を、歌に変えてみせろ、と」

その言葉に、製本職人の父チャールズは、深く頷いた。

「ベネット親方の言う通りだ。機械は敵ではない。どう使いこなすかだ。俺たちの工場に活版印刷機が入った時も、誰もが『職人の仕事は終わった』と嘆いたが、違った。機械が文字を速く刷る分、俺たちは、一冊の本に魂を込めるための『手仕事』に、より時間をかけられるようになった」

大工の兄トーマスも、ナイフで木のささくれを取りながら言った。「道具の『声』を聞き、それを歌わせるのが、俺たちの仕事なんだろ。俺も、新しい蒸気式のこぎりの『癖』を掴むのに半年かかった。だが、今じゃそいつは、俺の腕の一部だ」

母マーガレットは、家族の熱のこもった会話を、微笑みながら見守っていた。そして、ロバートの皿に、温かいシチューをそっと掬ってやった。「あなたたちの話は難しいわ。でも、心を込めて造ったものは、必ず、人の心を温めるのよ」

家族の言葉は、ロバートの心に灯った新しい光を、確かなものに変えてくれた。

恐怖は、挑戦への燃えるような意欲へと変わり、彼の背筋は、自ずと伸びた。

そうだ、この鉄の仲間と対話し、誰も聞いたことのない歌を、この手で奏でてみせる。

彼の若き醸造家としての、本当の探求は、まさに始まったばかりだった。


[第2章 科学の眼、熟練の舌] へつづく。


資料画像


産業革命の象徴にもなった、世界最初の鉄道である、ダラム州のストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の開業、1825年(参照:※1)
Widnes, England, during the late 19th century. Hardie/Wikimedia(参照:※2)
A London omnibus in 1865(参照:※3)
1835年当時の「ベネット醸造所」(参照: History of London Beer, New London Univ, 2002)
ボールトンーワット蒸気エンジン:エジンバラの国立博物館に展示されているこの蒸気エンジンは1786年製造。ロンドンのビール工場で当初は揚水用のポンプの動力に、1796年に出力を15馬力に増強してからは麦芽の粉砕も行った。1884年迄約100年間使われた。(写真はNational Museum of ScotlandのWebsiteより)(参照:※4)
1918年のロンドンのパブ
Royal Oak Date of photo: c1918. William Whitlock, publican, 3rd left(参照:※5)
現在のロンドンのパブ
The Cask & Glass’s petite proportions mean the action often spills outside (weather permitting) © Marco Kesseler(参照:※6)


参照

※1:Wiki「産業革命」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%9D%A9%E5%91%BD

※2:Photograph of Widnes in the late 19th century showing the effects of industrial pollution
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Widnes_Smoke.jpg

※3:Wiki「19th-century London」
https://en.wikipedia.org/wiki/19th-century_London

※4:稲富博士のスコッチノート
https://www.ballantines.ne.jp/scotchnote/81/index.html

※5:The Lost Pubs Project
https://www.closedpubs.co.uk/london/se18_woolwich_royaloak.html

※6:The best pubs (and a wine bar) in London’s West End(© THE FINANCIAL TIMES LTD)
https://www.ft.com/content/a8bf4371-4f09-4ec6-b7ec-556d343f367a



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