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[beer the beer 第6章] 魂の対話、秘密の扉

あの日、ブルワリーの貯蔵庫で自らの完全な敗北を喫して以来、ロバートの世界からは色が失われていた。

彼は、まるで幽霊のようにブルワリーでの仕事をこなした。麦芽に触れても、その声は聞こえない。酵母を覗いても、その生命の輝きは見えない。
彼の「醸造日誌」は、机の引き出しの奥で、固く閉ざされたままだった。

そんなロバートの姿に、師匠ベネットは何も言わなかった。ただ、数日が過ぎた週末の朝、彼はロバートに静かに告げた。

「ロバート。墓石を睨んでいても、死人は生き返らん」。

ベネットは、窓の外で降り続くロンドンの霧雨に目をやった。

「今日は仕事はいい。少し、このブルワリーから離れろ。理由もなく、ただ街を歩いてみろ。答えが見つからずともよい。だが、同じ場所で同じ絶望を抱え続けていても、何も生まれん」。

師の言葉に逆らうことはできず、ロバートは重い足取りで街へ出た。
彼の心も、ロンドンの空模様のように、冷たい霧雨が降り続いているかのようであった。

彼は当てもなく、ただ人々の流れに身を任せて歩いた。活気のある市場、喧騒に満ちた波止場。しかし、スパイスの香りも、焼きたてのパンの匂いも、彼の心を動かすことはない。まるで、世界と自分の間に、一枚の厚いガラスができてしまったかのようだった。

彼は、自分がなぜ歩いているのかも分からぬまま、ロンドンの一角で開かれていた、賑やかな週末マーケットへと迷い込んだ。野菜や、古着や、ガラクタのような道具が所狭しと並べられ、威勢のいい売り声が飛び交っている。自分には関係のない世界だ、と通り過ぎようとした、その時だった。

ふと、彼の鼻腔を、ある香りが捉えた。

それは、彼が夢にまで見た香りだった。

ラガーのような澄んだ爽快感と、エールが持つべき豊潤で華やかな香りが、完璧な調和の中に存在していた。香りに導かれるように、彼は一つの簡素なブースにたどり着く。
「ハーグリーブス醸造所」と書かれた、小さな木の看板が掲げられているだけだ。

彼は、まるで何かに憑かれたかのように、そのビールを一杯頼んだ。

琥珀色の液体が、グラスに注がれる。一口、飲む。

その瞬間、ロバートの全身を、忘れていた感覚が駆け巡った。喜び、驚き、そして —— 嫉妬。

これだ。

自分が、あの失敗作で目指し、そして無残に砕け散った、理想の味が、ここにある。 彼の醸造家としての五感が、目の前の一杯を瞬時に分析し始める。

この驚くべき透明感…。これは間違いなく、徹底した温度管理と、純粋な酵母による低温発酵の賜物だ。ここまでは、自分の目指した道と同じだ。 だが、この香りはなんだ?煮沸釜の中では決して生き残れないはずの、摘みたてのホップのような、生命感あふれる華やかな香り…。

クリアな味わいを実現しようとすれば、この香りは真っ先に消え失せるはずだった。自分の『沈黙の琥珀色』のように。 両立は不可能だと、諦めかけていた。だが、目の前のこの一杯は、その不可能が可能だと、静かに、しかし雄弁に語っている。 何かが違う。私が見落としていた、工程のどこかに、決定的な「秘密の扉」があるはずだ。

「……どうすれば。どうすれば、この透明感と、この魂の香りを、一つのビールの中で両立させることができるのですか…?」。

ロバートは、ブースの中に立つ、自分とそう年の変わらないであろう青年に、かすれた声で問いかけた。

「どうすれば、こんなビールが造れるのですか…?」

青年 —— アルフレッド・ハーグリーブスは、ロバートの真剣な、いや、切実な眼差しに、何かを感じ取ったようだった。彼は静かに頷くと、ロバートを近くの小さなコーヒーハウスへと誘った。

湯気の立つ紅茶を挟んで、ロバートは自らの失敗について、堰を切ったように語った。完璧な温度管理、最新の科学的知識、そして自身の五感を信じて挑んだこと。それなのに、出来上がったのは、魂の抜けた、味気ないビールだったこと。

アルフレッドは、その話を黙って、しかし、痛いほど共感のこもった眼差しで聞いていた。そして、ロバートが語り終えると、静かに口を開いた。

「…その気持ちは、よくわかるよ。私も、その見えない壁に頭を打ちつけて、何年も血を流したからね」。

彼の言葉に、ロバートははっと顔を上げた。

「私は、ロンドンの大手ブルワリーで働き、最新の機械と科学を学んだ」とアルフレッドは続けた。

「そこで私が学んだのは、君がやろうとしたことと同じ、『クリアさ』の徹底的な追求だった。だが、職人だった私の父が造るエールには、濁ってはいたが、理屈抜きで人の心を掴む『香り』があった。故郷に戻った私は、その二つを追い求めようとしたんだ」。

彼の言葉は、ロバートが歩んできた道そのものだった。

「だが、結果は同じだったよ」アルフレッドは、自嘲気味に笑った。
「『クリアさ』を求めれば香りが死に、『香り』を求めれば味わいが濁る。そのジレンマに、私も、来る日も来る日も苦しんだ」。

彼は、そこでふと、ロバートに問いかけた。

「君は、『カスク・ホッピング』を知っているか? 樽詰めの際に、保存のために生のホップをひとつかみ加える、あの古い手法だ」

ロバートは頷いた。

「ええ、知っています。インド向けの輸出用エールを腐らせないための、昔ながらのやり方ですよね? 香りというより、防腐効果が目的だと聞いていますが…」。

その答えを聞いて、アルフレッドの目が、悪戯っぽく輝いた。
「…半分正解で、半分が、我々全員が見落としていた『宝の地図』だ」。

彼は身を乗り出した。
「皆、そう思っている。あれはただの保存技術、古い職人のまじないのようなものだと。だから、新しい科学を学んだ我々は、その価値を見過ごしていたんだ。あれこそが、熱に頼らずに『魂の香り』だけをビールに封じ込める、唯一の方法なのだということを」。

アルフレッドの言葉に、ロバートは息をのんだ。

「考えてもみろ。我々が直面しているのは、『クリアさと香りの両立』という、極めて近代的な問題だ。そして、その答えは、パストゥールの最新論文の中ではなく、誰もが知っていたはずの、あの古くさい樽の中のホップに隠されていたんだよ。私はそれに気づくのに、何年もかかった」。

その言葉は、ロバートにとってまさに天啓だった。

「素材の『声』を聞き、最適な『間』を与えること」。
父が語った紙の『機嫌』。兄が語った木の『声』。師匠が語った『ままならなさ』との対話。そしてアルフレッドが教えてくれた、古い樽の中に隠されていた『宝の地図』。すべては、同じ場所を指し示していた。

失敗の原因は、技術や知識の不足ではなかった。ましてや、情熱の欠如などでは断じてない。 それは、彼自身の「傲慢さ」だったのだ。

新しい科学、新しい技術こそが正義だと信じ込み、古くから受け継がれてきた職人たちの知恵を、時代遅れの「まじない」だと、心のどこかで軽んじていた、その傲慢さ。クリアなラガーを追い求めるあまり、エールが持つべき伝統的な魂の在り処を見失っていた、その視野の狭さ。

真の革新とは、古いものをただ否定し、新しいもので塗りつぶすことではない。 その声に耳を澄まし、新しい時代の問いに対する答えを、その中から見つけ出すことなのだ。

「ありがとう…!アルフレッドさん。あなたは、私の道を照らしてくれた…」。

ロバートは、心の底から感謝を伝えた。


ブルワリーへの帰り道、ロバートの足取りは、来た時とは打って変わって、一歩一歩、大地を踏みしめるように力強く、確かだった。翼が生えたような軽さではない。自分の進むべき道を見出した者の、静かで、揺るぎない確信がそこにはあった。

彼は、師匠ベネットの執務室のドアを叩いた。
「師匠…!私、…私の過ちが、ようやく分かりました」 堰を切ったような、しかしそれは熱に浮かされたものではない、地に足のついた言葉だった。
「私は、新しい科学や数字こそが全てだと信じ込み、あなたや、父さんや、この国の職人たちが、長い時間をかけて培ってきた知恵を、心のどこかで古いものだと見下していました。私の失敗の原因は、その傲慢さにあったのです」。

ロバートは深く頭を下げた。そして、顔を上げ、自らの発見を語った。
「アルフレッドさんが教えてくれました。答えは、未来ではなく、過去にあったのです。誰もが知っている、あの古い『カスク・ホッピング』に…。私は、それをただの保存技術だと決めつけ、その本当の意味を考えようともしませんでした。熱を加えず、香りの魂だけをビールに移す、唯一の方法だったというのに…」。
「アルフレッド?あぁ、ハーグリーブスの若い醸造家か」。
「はい。アルフレッドさんに会ったんです。彼も私と全く同じ壁にぶつかっていました!」。

ベネットは、その言葉を、そしてすっかり若き職人の顔つきになった弟子の姿を、ただ黙って、静かに見つめていた。その表情は、満足げであり、どこか眩しそうでもあった。
「そうか、ロバート」 彼は、ゆっくりと頷いた。
「真の革新とは、古いものを捨てることではない。その価値を正しく理解し、新しい時代の光を当てることで、再び輝かせることだ。お前は、見事にそれを見つけ出した。あの失敗は、この真実にたどり着くために、お前にとって必要不可欠な、最高の試練だったのだな」。

ベネットの目には、温かい光が宿っていた。それは、愛弟子が技術だけでなく、職人としての「智慧」と「謙虚さ」を身につけ、真に一人前として、自分自身の哲学で再び立ち上がったことへの、深い喜びだった。


[第6章 魂の一杯、大いなる咆哮 ] へつづく。


参考資料


ロンドンの有名なコベントガーデンマーケットの様子
Covent Garden market in the early 19th century. Image property of Westminster City Archives.(参照:※1)

Billingsgate Market, c.1900(参照:※2)

Inside the flower hall, 1883 (参照:※3)

現在のコベントガーデンマーケット
Covent Garden today.(参照:※3)


参照

※1:London Place Names
https://wcclibraries.wordpress.com/2012/09/14/london-place-names/

※2:Some reinvented, others long lost: London's markets 100 years ago – in pictures
https://www.theguardian.com/cities/gallery/2017/oct/03/london-markets-100-years-ago-archives-in-pictures

※3:Markets of Victorian London
https://www.odysseytraveller.com/articles/markets-of-victorian-london/



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