社会復帰未満 Ⅸ― 「面接会にエコバッグ!」-就労移行支援の現場から-
これは10年以上前の話だ。
当時私は、就労移行支援事業所でサービス管理責任者をしていた。
ある男性利用者がいた。
面接練習も何度も行った。
履歴書も一緒に添削した。
受け答えも悪くない。
いよいよハローワーク主催の合同面接会に挑戦することになった。
前日、私は彼にこう伝えた。
「明日はスーツ、ワイシャツ、ネクタイ、革靴、バッグを持ってきて下さい」
彼は真剣な表情で頷いた。
そして当日。
私は思わず目を疑った。
スーツを着ている。
ワイシャツも着ている。
ネクタイも締めている。
革靴も履いている。
だが、手にはスーパーのエコバッグがあった。
私は一瞬言葉を失った。
彼は私の顔を見て不思議そうな表情をしている。
彼にとっては何も間違っていないのだ。
私は「バッグを持ってきて下さい」と言った。
彼はバッグを持ってきた。
ただそれだけの話だった。
問題は彼ではなかった。
私だった。
私は無意識のうちに「ビジネスバッグ」という前提で話していた。
だが、その言葉を一度も口にしていなかった。
社会人経験が長い人なら、「面接に持っていくバッグ」と聞けば自然にビジネスバッグを想像する。
しかし、その経験がなければどうだろう。
バッグと言われたら、バッグである。
エコバッグもまた、立派なバッグなのだ。
私は自分のカバンを彼に貸した。
そして一緒に会場へ向かった。
結果は不合格だった。
もっとも、その合同面接会の合格率は11%程度だったから、特別な結果ではない。
だが私は、その日のことを今でも忘れていない。
福祉の仕事を始めた頃、私は「社会常識」を教えているつもりだった。
しかし実際には、「自分が当たり前だと思っていること」を相手も知っていると勝手に思い込んでいただけだった。
人間は経験のないことはできない。
これは障害の有無に関係ない。
初めて就職する人は、就職活動を知らない。
初めて親になる人は、子育てを知らない。
初めて管理職になる人は、部下の育て方を知らない。
知らないからできない。
ただそれだけだ。
あの日のエコバッグは、私にそれを教えてくれた。
支援とは、「できないことを叱ること」ではない。
経験したことのない世界を、一緒に経験することなのかもしれない。
だから私は今でも、新しい利用者と会うたびに思い出す。
「バッグを持ってきて下さい」
あの日、私が言葉にしなかった一言を。
創作大賞 応援お願いします(長編)
現役サビ管シリーズ(短編)
