見出し画像

社会復帰未満ーあるサービス管理責任者の記録ー創作大賞2026応募作品

序章


夜の二時を過ぎても、眠気は来なかった。 テーブルの上には、開きかけのノートパソコンと、冷えた缶コーヒーが置かれている。 Slackの通知だけが、時折、小さく光った。
私はサービス管理責任者をしている。
仕事は、

「個別支援計画書」

を作ることだ。
利用者が、どんな課題を抱え、 どんな支援を受け、 どこへ向かうのか。
それを文章にして、 名前を書き、 責任を持つ。
ただの書類仕事ではない。
少なくとも、私はそう思ってきた。
就労移行支援という場所で、 私はずっと、

「社会へ戻るための支援」

を信じていた。
働くことは、楽ではない。
朝起きること。 電車に乗ること。 他人と話すこと。 失敗すること。
その全部が、 時には傷になる。
それでも、 人は社会と接続しなければ生きていけない。
だから私は、 利用者を甘やかすより、

「現実へ向かう力」

を作りたかった。
だが最近、 私はある違和感を抱いている。
利用者の一人が、 延長申請の対象になった。
二年間、 一度も面接をしていない。
模擬面接も、 ほとんど記録がない。
在宅利用は増え、 ゴールデンウィークにも通所しなかった。
しかし通所率は100%だった。
在宅も

「通所」

として記録されるからだ。
彼は勉強していた。
ITパスポート。 CNNA。 高学歴。
知識は増えていた。
だが、 社会へ出る準備だけが、 静かに止まり続けていた。
管理者は言った。

「本人は頑張っています」


それは事実だった。

「不安定なんです」


それも事実だった。

「だから延長したい」


私は、 その言葉に返答できなかった。
私はかつて、 障害支援区分の審査にも関わっていた。
だから分かっている。
本当に支援が必要な人間はいる。 時間が必要な人もいる。
だが同時に、 私は知っている。
“支援”は、 時に人を社会から遠ざける。
安心できる場所は、 いつしか、

「出なくていい場所」

になる。
それが、 本人のためなのか。
私は、 分からなくなっていた。
会議のあと、 Slackを開いた。
カーソルが点滅していた。
私は短い文章を書いた。

「本件について、 サービス管理責任者として説明責任を果たせないため、 同意できません」


送信。
既読だけが増えていく。
誰も返信しない。
私はノートパソコンを閉じた。
眠れなかった。
支援とは何なのか。
守ることなのか。 送り出すことなのか。 それとも、 その間で苦しみ続けることなのか。
外が少し白み始めていた。



第一楽章 「理想」


四月の朝だった。
駅のホームには、 新年度特有の硬い空気が流れていた。
新しいスーツ。 不慣れな革靴。 ぎこちない敬語。
春はいつも、

「始まる人間」と「始め直す人間」

を同時に駅へ連れてくる。
私は缶コーヒーを片手に、 発車前の電車を見ていた。
五十一歳。
この歳になって、 また新しい現場へ向かっている。
少し前まで、 私は放課後等デイサービスで働いていた。
名物児童発達支援管理責任者。
そんなふうに呼ばれていたらしい。
子どもに厳しい支援員だった。
優しい先生ではない。

「社会は待ってくれない」


それを早い段階で教えることが、 支援だと思っていた。
挨拶。 時間。 言葉遣い。 報告。 失敗。
現実は、 いつだって人間に容赦がない。
だから私は、 “現実に耐える力”を作りたかった。
泣かれたこともある。 嫌われたこともある。
だが、 数年後に働き始めた利用者たちが、 ふと事業所へ顔を出し、

「うるさかった意味、分かりました」

と笑う瞬間が、 私は好きだった。
だから、 就労移行支援の話が来た時、 少しだけ胸が高鳴った。
今度は、 子どもではなく大人だ。
社会へ向かう、 最後の支援。
しかも、 IT特化型。
時代は変わっていた。
プログラミング。 AI。 Web制作。 動画編集。
昔のように、 工場や清掃だけが就労ではない。
障害があっても、 社会との接続方法は増えている。
そう思った。
私は、 まだこの業界には可能性があると信じたかった。
事業所は新しく、 白を基調とした内装だった。
静かだった。
静かすぎるほどに。
キーボードの音だけが、 部屋に小さく散っていた。
利用者たちは、 それぞれイヤホンを付け、 画面を見つめている。
プログラミング学習サイト。 動画教材。 AIチャット。
まるで小さなIT企業のようだった。

「ここなら、 人生をやり直せるかもしれない」


最初の日、 私は本気でそう思った。
社長の大屋美弥子は若かった。
三十代前半。
福祉畑の人間ではない。
だが、 熱意があった。

「障害福祉を、 もっと未来側へ持っていきたいんです」


彼女はそう言った。
私はその言葉を、 嫌いではなかった。
現場だけを見て、 制度だけを見て、 疲弊していく福祉職員を、 私は何人も見てきた。
理想を語る人間がいることは、 悪いことではない。
むしろ必要だ。
エリア責任者の並木彰は、 現実的な男だった。
数字に強く、 制度にも詳しい。
空気を読むのが上手い。

「この業界、 理想だけじゃ回らないんで」


彼は笑いながら言った。
それもまた、 正しいのだと思った。
現場には、 牧野凛という若い支援員もいた。
柔らかい雰囲気の女性だった。
利用者との距離が近い。 雑談が上手く、 空気を壊さない。
利用者たちも、 彼女とはよく話していた。
私は少し羨ましかった。
私は、 そういう支援が苦手だった。
私はどうしても、 “先”を見てしまう。
この人は働けるのか。 通勤できるのか。 毎日来られるのか。 社会へ出られるのか。
そこばかり考えてしまう。

昼休み。
私は初めて、 福原恒一と話した。
細身の男だった。
年齢は三十代前半。
慶応卒。
卒業後は、 音楽活動をしていたらしい。
就職経験はない。
話し方は穏やかで、 知識量もあった。
AIの話。 海外のIT企業。 音楽理論。
会話は滑らかだった。
頭の良い人間特有の、

「理解の速さ」

があった。
だが、 どこか現実感が薄かった。
地面から数センチ浮いているような、 不思議な印象だった。
彼は少し笑いながら言った。

「働きたいとは思ってるんです」


窓の外では、 午後の光が線路を照らしていた。

「でも、 まだ準備が……」


私は、 その言葉を聞きながら頷いた。
その時の私は、 まだ信じていた。
準備は、 いつか終わるのだと。
人は、 支援によって、 社会へ戻っていけるのだと。
だから私は、 できるだけ穏やかに答えた。

「一緒に現実へ行きましょう」


福原は、 少しだけ安心したように笑った。
その笑顔を見た時、 私はまだ、 この場所が“出口”へ向かう施設なのだと、 信じていた。

第二楽章 「居場所」


違和感は、音もなく広がっていった。
最初は、本当に小さなものだった。
朝礼の出席人数。
空席。

「本日在宅です」


支援員がそう言う。
私は頷く。
最初の頃は、
時代の変化なのだと思っていた。
在宅支援。
オンライン訓練。
障害特性への配慮。
感染症以降、
福祉の現場は大きく変わった。
無理に通所させない。
安心できる環境を優先する。
それ自体は理解できた。
実際、
在宅だからこそ安定する利用者もいる。
私も、
頭ごなしに否定するつもりはなかった。
朝礼は、
毎日決まった時間に始まる。
職員が当番制で進行する。
利用者たちは、
半円形に並べられた机へ静かに座り、
それぞれノートパソコンを開いている。

「では、
今日やることをお願いします」


支援員がそう言うと、
利用者たちが順番に話し始める。

「Pythonの学習をします」
「ITパスポートの続きをやります」
「動画編集です」
「今日は体調を見ながら進めます」


誰も大きな声を出さない。
否定もされない。
空気は穏やかだった。
私はその風景を見ながら、
時々、
学校のホームルームに似ていると思った。
この事業所のカリキュラムは、
四時限制になっていた。
午前は二時限。
基本的には自主学習だった。
プログラミング。
資格学習。
AI。
動画編集。
利用者はそれぞれ、
自分の課題へ取り組む。
三時限目は講座。
Web制作。
ビジネスマナー。
就職活動講座。
内容は悪くなかった。
むしろ、
数年前の福祉事業所より、
遥かに現代的だった。
だが、
参加は強制ではない。

「今日は見送ります」


その一言で、
講座には出なくてもよかった。
四時限目は、
IT系のオンライン講座だった。
利用者たちはイヤホンを付け、
画面を見つめ続ける。
静かな部屋の中で、
キーボードの音だけが続いていく。
十時から十五時。
時間だけ見れば、
確かに“通所”していた。
朝礼の最後、
職員はいつも同じ説明を繰り返す。

「実際の会社は八時間勤務です」


支援員が、
ホワイトボードの前で言う。

「事業所利用は十五時までですが、
帰宅後も四時間、
自主学習を継続してください」


利用者たちは静かに頷く。

「学習習慣を作ることが大事です」
「就職後を想定していきましょう」


それは、
間違った指導ではなかった。
実際、
働くということは、
“その場にいる時間”だけでは終わらない。
疲れていても、
翌日の準備をする。
勉強する。
生活を整える。
社会とは、
そういう積み重ねで出来ている。
だから私も最初は、
当然のようにその説明をしていた。
だが、
ある時から私は、
奇妙な感覚を抱くようになった。
本当に、
彼らは帰宅後に学習しているのだろうか。
それを確認する方法は、
どこにもなかった。
学習報告は届く。

「動画教材を視聴しました」
「AI学習を進めました」
「資格勉強をしました」


記録は綺麗に並ぶ。
だが、
それが本当かどうかを、
私たちは確認できない。
確認しようもない。
結局、
支援は“本人申告”の上で成立している。
そして、
記録だけが積み重なっていく。
私は時々、
分からなくなる。
支援計画とは、
現実を支えているのか。
それとも——
“頑張っていることにする文章”を、
丁寧に作り続けているだけなのか。
数か月経っても、
風景は変わらなかった。
いや。
少しずつ、
“動かなくなっていた”
利用者たちは毎日、
画面を見ている。
AI。
動画教材。
資格学習。
静かだった。
あまりにも静かだった。
誰も怒鳴らない。
誰も叱られない。
誰も失敗しない。
だが同時に、
誰も“社会”へ近づいているように見えなかった。
私は時々、
訓練室の後ろから、
利用者たちを眺めた。
イヤホン。
ノートパソコン。
タイピング音。
そこには確かに、

「学習している人間」

がいた。
だが、

「働く人間」

の気配が薄かった。
ある日、
牧野凛が笑いながら言った。

「ここ、
みんな落ち着いてますよね」


私は曖昧に頷いた。
その時、
言葉にできない感覚が胸に残った。
落ち着いている。
それは本当に、
良いことなのだろうか。
福原恒一は、
相変わらず穏やかだった。
毎日、
熱心に学習していた。
ITパスポート。
ネットワーク資格。
英語。
知識量は増えていった。
AIについて話し始めると止まらなかった。
海外企業の話。
クラウド技術。
音楽と数学の関係。
話は知的で、
面白かった。
だが、
就職の話になると、
空気が変わる。

「面接、
そろそろやってみませんか」


私がそう言うと、
福原は少し笑った。

「まだ準備不足で……」


その言葉を、
私は何度も聞いた。
準備。
その便利な言葉は、
いつからか、
事業所全体を覆い始めていた。
まだ準備が整っていない。
まだ自信がない。
まだ不安定。
だから、
今は安心が必要。
その言葉に、
誰も反論できなかった。
反論すれば、

「追い詰める支援」

に見えるからだ。
ある日、
私は利用者の記録を確認していた。
通所率100%。
数字だけ見れば、
優秀だった。
だが実際には、
在宅利用が半分を超えている。
事業所へ来ない。
朝の空気を吸わない。
電車に乗らない。
他人と同じ空間で過ごさない。
それでも、
記録上は

「通所」

だった。
私は画面を見つめながら、
妙な感覚に襲われた。
数字だけが、
社会へ近づいている。
実体は、
動いていない。
ゴールデンウィーク中、
事業所は開所していた。
利用者たちにも、

「生活リズムを崩さないように」


と説明していた。
だが福原は来なかった。
理由は、

「疲労感」。


私はその記録を読みながら、
長く息を吐いた。
会社は、
五日間フル通所を
“就労フェーズ”として定義している。
毎日来る。
毎日話す。
毎日振り返る。
その積み重ねで、
初めて就労へ進む。
少なくとも、
私はそう教えられてきた。
だが現実には、
通所しなくても、
訓練は継続できる。
在宅でも、
記録は残る。
学習履歴も作れる。
“頑張っている形”は、
いくらでも成立した。
その日の夕方、
佐藤莉奈が私の席へ来た。
若い管理者だった。
責任感は強い。
利用者思いでもある。
だが最近、
彼女は疲れているように見えた。

「福原さんなんですけど」


彼女は少し声を落として言った。

「延長も視野に入れたいんです」


私は黙ったまま、
記録を閉じた。
二年間。
面接ゼロ。
模擬面接も、
ほとんど記録なし。
応募もない。
だが、
学習記録だけは増えていく。
まるで、
“社会へ出る準備”だけを
永遠に続けているようだった。
私は静かに聞いた。

「本人、
本当に働きたいと思っていますか」


佐藤は少し困った顔をした。

「それは……思ってます」
「怖いんだと思います」


怖い。
その言葉だけは、
妙に胸に残った。
働くことが怖い。
失敗が怖い。
社会が怖い。
それは、
決して特別な感情ではない。
もしかすると、
今の社会そのものが、
そうなり始めているのかもしれなかった。
だが私は、
同時に思ってしまう。
怖いままでも、
人は外へ出なければならない。
電車は、
怖くても来る。
朝は、
怖くても始まる。
社会は、
待ってくれない。
その現実を、
支援が消してしまっていいのか。
私は、
少しずつ分からなくなっていた。

第三楽章 「延長」


五月の雨は、
人を黙らせる。
窓の外では、
濡れたアスファルトが鈍く光っていた。
灰色の空は低く、
街全体が水の底に沈んでいるようだった。
事業所の空気も重かった。
キーボードの音だけが、
断続的に部屋へ落ちていく。
誰も大きな声を出さない。
だが全員が、
同じ議題を避けながら仕事をしていることだけは分かった。
福原恒一。
利用期限終了まで、
残り二か月を切っていた。
私は朝から、
彼の支援記録を読み返していた。
通所率100%。
数字だけ見れば、
問題はない。
むしろ優秀ですらある。
だが実際には、
在宅利用が半分近い。
面接実施。
ゼロ。
模擬面接。
記録なし。
応募。
なし。
企業実習。
なし。
資格試験。
不合格。
学習時間だけが増え、
現実接続だけが止まり続けていた。
画面右上には、
事業所全体の稼働率グラフが表示されている。
92.4%。
先月より上がっていた。
在宅利用が増えてから、
数字は安定していた。
欠席率も下がった。
利用継続率も改善した。

「安定支援が実現できています」


先月の全体会議で、
並木はそう説明していた。
誰も反論しなかった。
実際、
間違ってはいないからだ。
在宅なら来所負荷は減る。
人間関係の摩擦も減る。
体調不良による欠席も減る。
数字だけ見れば、
支援は成功していた。
だが私は時々、
分からなくなる。
その数字は、
本当に“社会復帰”へ向かっているのだろうか。
利用者たちが帰ったあと、
事業所はもう一度、
別の顔になる。
静かだった訓練室に、
職員の声だけが残る。
毎日、
一時間近い会議があった。
稼働率。
欠席率。
在宅率。
当日の利用人数。
翌日の予約状況。
ホワイトボードには、
数字が並んでいく。

「本日の稼働、
九十二・四です」


並木が淡々と言う。

「欠席理由、
体調不良二名、
睡眠障害一名、
連絡なし一名です」


支援員たちは、
利用者名の横へメモを書き込んでいく。

「Aさん、
最近金曜日落ちやすいですね」


「Bさん、
朝LINEすると来所率上がります」


「Cさん、
在宅提案した方が継続できるかも」



会議は、
いつも真面目だった。
誰もふざけていない。
利用者を見捨てようとしている人間もいない。
むしろ逆だった。
“欠席者を出さないため”に、
全員が必死だった。
朝、
起きられない利用者へLINEを送る。
「今日はどうですか」
「短時間でも大丈夫ですよ」
「在宅へ切り替えますか」
優しい言葉だった。
だが私は時々、
分からなくなる。
それは、
社会へ近づけているのか。
それとも——
“欠席という数字”を減らしているだけなのか。
会議は、
利用者の話だけでは終わらない。

「来月、
新規三件は欲しいですね」
「病院営業、
もう少し回れますか」
「相談支援との連携、
強めたいです」
「SNS広告、
最近反応落ちてます」


新規利用者獲得。
見学率。
契約率。
定着率。
数字は、
毎日増えていく。
私は時々、
自分が福祉職なのか、
営業職なのか分からなくなった。
夜になると、
会社全体のオンライン研修が始まる。
モニターには、
全国の事業所職員たちの顔が並ぶ。
接遇。
法改正。
営業戦略。
定着支援。
離職率分析。
画面の中では、
誰もが疲れた顔で頷いている。
私はサービス管理責任者だった。
だから、
一般職員とは別に、
“サビ管専用研修”へ参加していた。
全国七十拠点近い、
サービス管理責任者たち。
画面の向こうには、
同じように疲弊した人間たちが並んでいる。
事例検討。
支援記録。
監査対策。
個別支援計画。
リスク管理。
誰もが、
“正しい支援”を探していた。
だが時々、
私は奇妙な感覚に襲われる。
私たちは、
利用者を支援しているのだろうか。
それとも——
“制度を維持するための支援”を、
延々と学習し続けているだけなのだろうか。
私は画面を閉じ、
目を押さえた。
その時、
Slackの通知が鳴った。
〈延長申請について 明日15時より会議〉
短い文章だった。
だが、
その文字列だけで胃が重くなる。
午後三時。
会議室には、
冷えすぎた空気が流れていた。
大屋美弥子。
並木彰。
佐藤莉奈。
そして私。
テーブル中央には、
福原の支援記録と、
延長申請書類が並べられている。
エアコンの風だけが、
やけに白かった。
誰もすぐには話し始めなかった。
最初に口を開いたのは、
佐藤だった。

「本人は就労意欲があります」


彼女の声は少し硬かった。

「ただ、
資格試験の不合格以降、
かなり落ち込みが強くて……」


並木が頷く。

「焦らせる時期ではないですね」
「今、
無理に応募を増やして崩れる方がリスクです」


彼は淡々と言った。

「継続利用できていること自体、
以前より安定しているとも言えますし」



安定。
その言葉が、
会議室の中で静かに沈んでいく。
大屋も静かに言った。

「今は、
安心して通える環境を優先したいです」


私は黙って記録を見ていた。
そこには、
綺麗な文章が並んでいる。
学習継続。
自己理解。
体調安定。
将来への意欲。
どれも、
間違いではなかった。
だが、
一番重要なことだけが、
どこにも書かれていない。
“働いた経験がない”
私は静かに言った。

「二年間、
一度も面接していません」


空気が止まった。
佐藤が少し眉を動かす。

「でも、
本人は頑張っています」
「学習も継続していますし……」


私は頷いた。

「それは分かります」
「ですが、
社会へ出る行動が止まっています」


沈黙。
雨音だけが聞こえる。
並木が口を開いた。

「今は失敗体験を増やさない方がいい」


私は思わず顔を上げた。
失敗体験。
その言葉に、
妙な違和感があった。
社会とは、
失敗を避け続ける場所だっただろうか。
私はゆっくりと言った。

「失敗しないまま、
働ける人間はいません」


佐藤の声が少し強くなる。

「でも、
今無理に進めたら崩れます」


私は答える。

「崩れることと、
止まり続けることは違います」


その瞬間、
会議室の空気が冷えた。
私は分かっていた。
今、
私は“厳しい人間”として見られている。
追い詰める支援員。
理解のないサビ管。
そう思われていることくらい、
分かっていた。
だが、
どうしても飲み込めなかった。
会社は、
五日間フル通所を
就労フェーズとしている。
毎日通う。
毎日人と話す。
毎日振り返る。
その積み重ねで、
初めて社会へ近づく。
そう言ってきたはずだった。
だが福原は、
ゴールデンウィークにも通所していない。
応募もない。
面接もない。
それでも、
延長だけが進んでいく。
私は気づいてしまった。
ここでは、
“就職活動”そのものより、
“就職活動している状態”
の方が重要になり始めている。
並木が資料をめくる。

「継続率が下がると、
来期の運営にも影響が出ます」


「行政も、
急激な離脱率は見ますから」


数字。
継続率。
稼働率。
在宅利用率。
定着率。
いつの間にか、
人間より先に数字が会議を始めている。
佐藤が求人票を机に並べた。
物流。
軽作業。
データ入力。
清掃。
十社近くあった。

「まず応募実績を作りたいんです」


彼女は疲れた声で言った。

「動いている状態にしないと、
延長理由が弱いので……」


その瞬間、
私は言葉を失った。
就職のための応募ではない。
延長申請を成立させるための応募。
私には、
そう見えてしまった。
誰も嘘をついているわけではない。
誰も悪人ではない。
それが、
一番苦しかった。
大屋が静かに言った。

「理想だけでは、
事業所は守れません」


私は反論できなかった。
経営。
行政。
監査。
人件費。
稼働率。
全部、
現実だった。
並木が空気をまとめるように言う。

「延長方向で進めましょう」


その時、
私は初めてはっきりと言った。

「私は同意できません」


誰も動かなかった。
私は続けた。

「サービス管理責任者として、
説明責任を果たせません」


佐藤が小さく息を呑む。
私は、
もう止まれなかった。

「延長が通るたびに、
利用者は学習します」
「ここにいれば、
まだ働かなくていい、と」


静寂。
エアコンの音だけが、
やけに大きく聞こえる。
会議は、
それ以上進まなかった。
夜。
誰もいなくなった事業所で、
私は一人、
支援計画書を見つめていた。
署名欄。
そこだけが、
黒い穴のように見えた。
私はSlackを開く。
カーソルが点滅している。
指先が震えていた。
私は短い文章を書いた。

「本件について、
サービス管理責任者として説明責任を果たせないため、
私は同意していません」


送信。
既読だけが増えていく。
誰も返信しない。
私はその画面を見つめながら、
ふと思った。
支援とは何なのか。
守ることなのか。
送り出すことなのか。
それとも——
“社会へ出ないまま、
安心できる場所を延長し続けること”

なのか。
外では、
雨が降り続いていた。

第四楽章 「出口」


朝、目が覚めた時、
私は自分が何時間眠ったのか分からなかった。
カーテンの隙間から、
白い光だけが差し込んでいる。
頭が重かった。
身体の奥に、
濡れた砂でも詰め込まれたような疲労が沈んでいた。
スマートフォンには、
通知が並んでいる。
Slack。
不在着信。
社内連絡。
LINE。
私はしばらく、
画面を見ることができなかった。
通知音が鳴るたび、
胸の奥が少しずつ冷えていく。
起き上がる気力がなかった。
枕元には、
昨日脱いだスーツが置かれている。
曲がったネクタイ。
名札。
社員証。
私はそれを見た瞬間、
理由の分からない吐き気を覚えた。
ネクタイを締める。
駅へ向かう。
電車へ乗る。
Slackを開く。
利用者と話す。
会議へ出る。
その一つ一つを想像するだけで、
身体が動かなくなる。
天井を見つめながら、
私はぼんやりと思う。
五十一歳になっても、
人間は壊れる時には壊れる。
昨日まで普通に働いていた人間が、
ある朝突然、
布団から出られなくなる。
それだけのことなのだ。
窓の外では、
通勤時間の車が流れていた。
学生の笑い声。
遠くを走る電車の音。
社会は、
何事もなかったように朝を始めている。
私は布団の中で、
その音だけを聞いていた。
その日、
私は欠勤した。
連絡を入れるだけで、
ひどく疲れた。

「本日、
体調不良のため休みます」


短い文章を書く。
送信する。
それだけで、
身体の力が抜けた。
昼過ぎ、
大屋から連絡が来た。

「少し話せませんか」


短いメッセージだった。
責める言葉は、
どこにもなかった。
それが逆に苦しかった。
私はしばらく画面を見つめたあと、

「大丈夫です」


とだけ返信した。
だが、
本当は大丈夫ではなかった。
私はふと思う。
もし今、
私が利用者として面談へ来たなら、
支援員たちは何と言うだろう。

「無理しなくて大丈夫ですよ」
「まずは生活リズムから整えましょう」
「焦らなくていいですから」


きっと、
そう言う。
そして私は、
その優しさに少し安心しながら、
少しずつ社会から離れていくのかもしれない。
その想像が、
妙に怖かった。
夕方、
オンライン通話が繋がる。
画面の向こうの大屋は、
少し疲れた顔をしていた。
背景には、
まだ明かりの残る事業所の会議室が映っている。
誰もいない椅子。
白い壁。
積み上がった書類。
その風景だけで、
私はまた胃が重くなった。
しばらく、
互いに沈黙した。
最初に口を開いたのは、
彼女だった。

「眠れてませんか」


私は少し笑った。

「分かりますか」
「分かりますよ」


彼女は静かに言った。

「私も、
最近あまり眠れてないので」


私は返答できなかった。
その瞬間だけ、
社長と部下ではなく、
ただ疲弊した人間同士になった気がした。
だが、
話はすぐ現実へ戻る。

「延長の件ですが」


大屋は慎重に言葉を選んでいた。

「会社としては、
継続方向で考えています」


私は目を閉じた。
予想していた答えだった。

「……そうですか」
「ただ、
あなたの意見も理解しています」


彼女は続ける。

「本当に、
間違っているとは思っていません」


その言葉が、
逆に苦しかった。
もし彼女が、
冷酷な経営者なら楽だった。
利益だけを見て、
数字だけで人を扱う人間なら、
私はもっと簡単に怒れた。
だが違う。
彼女もまた、
苦しみながら判断している。
稼働率。
利用継続率。
行政監査。
職員配置。
売上。
数字が崩れれば、
事業所そのものが消える。
事業所が消えれば、
今いる利用者たちの居場所も消える。
それもまた、
現実だった。
大屋が静かに言う。

「理想だけでは、
事業所は守れません」


私は反論できなかった。
それは、
嫌になるほど正しかったからだ。
私はふと、
昨日の会議を思い出していた。
利用者たちが帰ったあと、
毎日続く会議。
稼働率。
欠席率。
在宅率。
継続率。
朝LINEを送れば、
来所率は上がる。
在宅へ切り替えれば、
欠席率は下がる。
新規利用者を増やせば、
運営は安定する。
数字は、
少しずつ改善していく。
だがその一方で、
私は少しずつ分からなくなっていた。
支援とは、
人を社会へ送り出すことなのか。
それとも——
“社会へ出なくても維持できる状態”
を、
丁寧に管理し続けることなのか。
大屋が小さく息を吐いた。

「私も時々、
分からなくなるんです」
「守っているのか、
止めているのか」


私は言葉を失った。
その迷いは、
私だけのものではなかった。
支援。
経営。
制度。
現場。
全部が少しずつズレながら、
それでも回り続けている。
だから誰も、
完全には悪人になれない。
完全には、
正義にもなれない。
通話が終わったあと、
私は長い間、
動けなかった。
夕方の部屋は静かだった。
窓の外では、
帰宅する車の列が流れている。
スーパーの看板。
信号待ち。
コンビニへ入っていく会社員。
社会は、
今日も普通に動いていた。
その事実だけが、
妙に遠かった。
翌朝、
私は駅へ向かった。
ホームには、
いつもの人波があった。
スーツ姿の会社員。
眠そうな学生。
スマートフォンを見つめる若者。
誰も、
誰かを助けてはいない。
だが、
誰もが自分の場所へ向かっている。
社会とは、
そういう場所だった。
怖くても、
行かなければならない。
疲れていても、
朝は来る。
動けなくても、
電車はホームへ入ってくる。
その現実の上でしか、
人は働けない。
私はホームに立ちながら、
福原の言葉を思い出していた。

「働くの、怖いんです」


あの時の私は、
答えられなかった。
きっと、
今も正解は分からない。
人は、
守られるべきなのか。
それとも、
傷つきながらでも、
外へ出るべきなのか。
私はまだ、
答えを持っていない。
ただ一つだけ、
分かっていることがある。
支援とは、
その人を守り続けることではない。
“守りの外”へ送り出す覚悟を、
支援者自身が持つことだ。
遠くで、
電車の接近音が聞こえた。
風が吹く。
ホームの白線が、
朝の光に浮かび上がる。
私は目を閉じ、
ゆっくり息を吐いた。
電車が到着する。
扉が開く。
人々が動き始める。
私はその流れの中へ、
静かに足を踏み出した。

第五楽章 「接続」


六月の風は、
五月の雨より少しだけ軽かった。
朝の事業所には、
久しぶりに人の声が戻っていた。
キーボード。
雑談。
コピー機の音。
それでも、
空気の奥にはまだ、
あの日の会議の残響が沈んでいる。
私はいつもの席に座り、
Slackを開いた。
未返信のスレッド。
未読の報告。
面談記録。
画面はいつも通りだった。
だが、
私の中だけが少し変わっていた。
正しさだけでは、
人は支えられない。
だが、
優しさだけでも、
人は社会へ出られない。
その両方を抱えたまま、
支援者は立ち続けるしかない。
昼前、
福原が珍しく通所した。
薄いグレーのシャツ。
少し寝不足の顔。
だが今日は、
イヤホンを付けていなかった。
彼は席へ座る前に、
小さく言った。

「……今日、面接練習やります」


私は一瞬、
言葉を失った。
たったそれだけの言葉だった。
だが、
二年間動かなかった時間が、
ほんの数ミリだけ動いた気がした。
面接練習は、
上手くいかなかった。
志望動機で止まる。
沈黙。
視線が泳ぐ。
手元の履歴書を見つめたまま、
福原は小さく呟いた。

「働いたこと、ないんです」


部屋が静かになる。
私は待った。
急かさなかった。
福原はしばらく黙ったあと、
ようやく続きを言った。

「だから、“普通”が分からないんです」


その声は、
これまで聞いたどんなAIの話より、
現実だった。
数日後、
福原は初めて企業面接へ行くことになった。
小さなデータ入力の会社だった。
面接前日の夕方、
福原は訓練室の隅で、
ネクタイを手にしたまま固まっていた。
濃紺の、
安いネクタイだった。
だが彼は、
それを首へ回したまま動けなくなっていた。

「……すみません」


福原は少し気まずそうに笑った。

「ネクタイ、締めたことなくて」


私は一瞬、
言葉を失った。
三十代前半。
高学歴。
知識もある。
だが、
ネクタイの締め方を知らない。
その事実が、
妙に胸へ残った。
エリア責任者の並木は、
めったに現場へ来ない。
若い女性支援員たちも、
スーツ文化そのものに詳しいわけではなかった。
気づけば、
事業所で唯一の男性職員は私だった。
私は椅子を引き、
福原の向かいへ座った。

「まず、長い方を上にします」


福原は真剣な顔で頷く。
私はゆっくり、
ネクタイを結んで見せた。
ワンノット。
昔なら、
誰かに教わる前に覚えることだったのかもしれない。
父親。
先輩。
アルバイト。
就活。
どこかで自然に、
身についていくもの。
だが福原には、
その機会がなかった。
私はふと思う。
就労移行支援とは、
本来こういうことを教える場所だったのではないか。
資格ではなく。
学習履歴ではなく。
AI活用でもなく。
社会へ入るための、
小さな作法。
私は福原の襟元を整えながら言った。

「あと、スーツのボタンは全部閉めません」
「立つ時は上だけ」
「座る時は外す」


福原は慌ててメモを取っている。
私は続けた。

「ノックは三回です」
「二回はトイレなので、間違えないように」


福原が少し吹き出す。

「そんなルールあるんですね……」
「あります」


私は真顔で答えた。

「あと、“どうぞおかけください”って言われるまで座らない」
「椅子を勝手に引かない」
「鞄は椅子の横」


福原は途中から、
少し混乱した顔になっていた。
私は説明しながら、
胸の奥が重くなっていくのを感じていた。
こんなにも細かい“普通”を、
社会は何の説明もなく要求してくる。
知らなければ、

「常識がない」

で終わる。
だが、
誰も最初から知っていたわけではない。
ただ、
どこかで覚えてきただけなのだ。
福原は結び終えたネクタイを見下ろしながら、
小さく言った。

「……なんか、急に怖くなってきました」


私は少し笑った。

「怖くて普通です」


福原は黙ったまま、
少しだけ頷いた。
翌朝。
改札前で待っていた福原は、
どこか借り物の大人のように見えた。
ぎこちないスーツ。
少し曲がったネクタイ。
だが、
彼はちゃんと駅へ来ていた。
それだけで、
十分だった。

「逃げたくなったら、どうすればいいですか」


福原が小さく聞く。
私は少し考えてから答えた。

「逃げてもいいですよ」


福原が驚いた顔をする。
私は続けた。

「でも、一回は扉の前まで行きましょう」


風が吹く。
駅前の信号が変わる。
福原は黙ったまま頷いた。
面接結果は、
不採用だった。
受け答えは硬く、
実務経験もなかった。
当然と言えば、
当然の結果だった。
だが帰り道、
福原は小さく笑った。

「……外の空気、
思ったより冷たくなかったです」


私は返事ができなかった。
その言葉だけで、
十分だった。
夕方、
事業所へ戻る。
訓練室には、
いつものキーボード音が流れている。
在宅接続の画面。
資格教材。
AIチャット。
風景は、
ほとんど変わっていない。
きっと明日も、
同じように続いていく。
延長する利用者もいる。
動けない人もいる。
また誰かが止まるかもしれない。
制度は、
今日も綺麗に矛盾している。
それでも。
人は時々、
ほんの少しだけ社会へ触れる。
怖がりながら。
傷つきながら。
何度も立ち止まりながら。
その瞬間のために、
支援は存在するのかもしれない。
夜。
私は一人で駅のホームに立っていた。
白線の向こうで、
線路が遠くまで伸びている。
電車の風が、
頬をかすめた。
ふと、
最初の日のことを思い出す。

「一緒に現実へ行きましょう」


あの日、
私は簡単にそう言った。
本当は、
現実へ行くことは、
そんなに簡単ではない。
怖い。
疲れる。
失敗する。
それでも、
人は時々、
もう一度だけ扉の前へ立つ。
遠くで、
電車のライトが近づいてくる。
私は白線を見つめながら、
静かに息を吐いた。
守るだけでは、
人は社会へ辿り着けない。
だが、
突き放すだけでも、
人は歩けない。
そのあいだで迷い続けること。
きっと、
支援とはそのことなのだ。
電車が到着する。
扉が開く。
私はゆっくりと、
その光の中へ足を踏み出した。

梗概
就労移行支援事業所でサービス管理責任者として働く「私」は、二年間一度も面接を受けていない利用者・福原の延長申請を巡り、強い違和感を抱く。在宅利用やオンライン訓練によって“通所率100%”は維持される一方、利用者は社会へ出る行動を失っていく。支援、経営、制度、優しさ――その全てが絡み合う中、「守ること」と「送り出すこと」の間で揺れる支援者の葛藤を描いた、現代の就労支援制度に切り込む職業小説。


#創作大賞2026
#お仕事小説部門

いいなと思ったら応援しよう!