なぜ左翼は「最終的には勝つ」と自信が持てるのか 参政党と「モラル」の危機
(ヘッダー画像は、参院選神奈川選挙区の初鹿野裕樹候補=参政党・当選=と、横に並んで中指を突き出すしばき隊員。初鹿野氏のXより)
今回の参院選は、まぎれもなく右翼の勝利に見えますね。
左傾化した自民党の票が参政党や日本保守党に流れただけでなく、投票率が上がって無党派も右に入れた。(もっとも、調査によっては、無党派の投票先は国民、立憲、参政の順)
いまさら言うまでもなく、右傾化は世界的潮流だが、
「こんなの一時的で、最終的には左翼リベラルが勝利する」
と確信する人もいる。
たとえば、批評家の杉田俊介さん↓
僕は長期的にみればリベラルな自由と多様性が着実に勝利していくと信じていて(データ的に明らか)、今の世界的反動もやがて収束すると思うが、リベラルなものの漸進では足りない破局的危機(気候変動、資本主義、畜産工場化など)にはラディカリズムの介入が必要で、だからリベラル+左派の立場です
(杉田俊介 2025/7/21 15:45)
僕は長期的にみればリベラルな自由と多様性が着実に勝利していくと信じていて(データ的に明らか)、今の世界的反動もやがて収束すると思うが、リベラルなものの漸進では足りない破局的危機(気候変動、資本主義、畜産工場化など)にはラディカリズムの介入が必要で、だからリベラル+左派の立場です
— 杉田俊介 (@sssugita) July 21, 2025
同じように思っている人は、けっこういると思う。
学識豊かな杉田さんに張り合う気はまったくないのですが、「それは本当なのかな」とバカが考えてみた。
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もう一つ、考えるきっかけになったのは、参政党の神谷代表が、自分たちを「右翼」と認めず、あくまで「反グローバリズム」政党だと言ってることですね。
右翼と、反グローバリズムの違いは、何なのか?
その「反グローバリズム」参政党に対しては、「極右」という悪口だけでなく、「反科学」とか「カルト」とかの非難もついて回る。
ここに、
左翼ー右翼
グローバリズムー反グローバリズム
科学ー反科学
といった、複数の対立軸が見て取れます。
そのあたり、少し整理したほうがいいのでは、と思ったわけですね。
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で、私のウッスーい教養で思い出したのが、スティーブン・トゥールミンの『近代とは何か』(法政大学出版局 2001)でした。

原書の「Cosmopolis : The Hidden Agenda of Modernity」(1990)も持ってたんだけど、もうどっか行った。
翻訳書の方を、きのうパラパラ読み返していました。
トゥールミンは科学哲学者、思想史家。哲学者のウィトゲンシュタインの弟子に当たる人です(『ウィトゲンシュタインのウィーン』という名著もある。2009年に87歳で亡くなっています)。
私は、参政党は「右翼」と言われたくなくて、「反グローバリズム」という言葉でごまかしている、という感想を持っていました。
でも、この本に書いてあることによると、左翼ー右翼よりも、「グローバリズムー反グローバリズム」のほうが、根源的なのかもしれない。
左翼ー右翼は、普通フランス革命とその反動に起源を求められますが、この本が扱っているのは、それより前、1600年前後の「近代の始まり」です。
だいたい1600年くらいを境に、人類は「近代」に入っていく。
1600年というのは、関ヶ原の年だから、日本人にもわかりやすい。
この年あたりを境に、それまで封建領主への忠誠で生きていた人たちが、いっぽうで国民国家(天下統一)を目指すようになり、いっぽうで「コスモポリタン(世界市民)」を目指すようになる。
前者が右翼の、後者が左翼の源流と言っていいと思う。
もっとも、トゥールミンの『近代とは何か』で、そうはっきり書いているわけではない。
トゥールミンが書いているのは、「コスモポリタン」の語源ともなった「コスモポリス」についてです。
コスモポリスは、コスモス(宇宙・自然)とポリス(都市・国家)の複合語です。
それまで人類のコスモス、宇宙観は、所属する共同体(ポリス)の倫理に従属していた。
宇宙・自然が何かは、共同体の神話や宗教が教えていた。
でも、この時期からの科学革命と啓蒙主義は、共同体の倫理と切り離された「合理的」な宇宙観を描き出した。
つまり、この宇宙や自然は、自分の共同体の神話や宗教が教えるようなものではなく、他の共同体にも、また地球以外の天体にも適用される、ある普遍的な法則に従っている。
そして、人間も、その「自然」の一部だ、とだんだんわかってくる。
この頃から、一般の人々も「読書」をするようになる。
そうすると、人間というものは、どの国(共同体)でも基本的に同じようなものだ、という認識に達する。
従来、「コスモス(自然観)」は「ポリス(共同体倫理)」に従属していた。
しかし、いったんそうした科学的自然観を獲得すると、今度はその「コスモス(科学的自然観)」に「ポリス(共同体倫理)」を従属させるべきだ、という考えが生じる。
それが「コスモポリタン」=世界市民ですね。
近代というのは、暗黙のうちに、この「コスモポリス」に向かっているのかもしれない。
グローバリズムの思想的起源の一つと言えるのではないでしょうか。
地球市民(ちきゅうしみん)とは、人種、国籍、思想、歴史、文化、宗教などの「違いをのりこえ、誰もがその背景によらず、人として尊重される社会の実現」を目指し、活動しようとする人々が自らを指し、コスモポリタニズムに賛同する人々を表すコスモポリタンの日本語訳の世界市民と同じ意味として好んで使われる造語である。
地球市民は市民としての帰属を国家ではなくより広い概念に求めている。
(Wikipedia「地球市民」)
繰り返すと、このコスモポリタニズムは、「左翼ー右翼」より起源が古い。
それは、現代人として生きる限り、その世界観の奥底に潜んでいるものです。
それゆえ強力です。
「国籍が違う人ともさあ、酒飲んで話せば分かり合えて、平和になれるさあ」
というイマジンな人から、最初に引用したような左派知識人まで、世界認識の前提のようになっている。
彼らがそれを信じるのは、それは科学的世界観にもとづく、合理的な人間観だからです。
だから、最終的には、誰もそれにあらがえないはずだ、と思われる。
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でも、こういう科学的・合理的な世界観の弱点は、
合理主義から「共同体倫理(モラル)」は導き出せない
ということではないでしょうか。
カントから始まって、功利主義とか、現代のリベラリズムまで、「合理主義から共同体倫理を導く」努力は続けられているわけですが、完全には成功していない。
だから、近代はずっと、どこか倫理的な不安を抱えている。ニヒリズムですね。せいぜい「経済がよければモラルも保てる」みたいな思い込みがあるだけ。
そもそも、われわれの日常の倫理を支えているのは、不合理なものです。
自分はなぜこの世に生まれたのか、という不条理から始まって、なぜこの親から生まれたのか、なぜこの国に生まれたのか、とか、別に合理的理由はない。
その不合理な「絆」に従って、維持されているのが近代以前からの共同体倫理であって、それは近代になっても基本的には変わっていません。
少なくとも、この不合理な「絆」がいいのは、責任主体がはっきりしていること。
今の言葉で言えば「答責性」がある。
左翼は国家を嫌うけど、少なくとも国家には、責任者がいて、何かあれば答えてくれる相手がいる。
でも、国連組織とか、国際NPOの類いは、えてしてそういう責任者の顔が見えない。
LGBTでも、SDGsでも、地球温暖化対策、ワクチンでも何でもいいけど、海の向こうから伝わってくるそれらには、立派な理想があり、それなりの科学的根拠があるんだろう。
でも、何か問題が起こった時、責任は取れるのか。
たとえば地球温暖化対策のために、ある産業が滅びたとして、その補償はなされるのか。
反捕鯨団体は、捕鯨で食べている人たちの失業手当を出せるのか。
仮にそれらが合理的に見えても、そんな責任が曖昧なものより、「顔」が見えている自分の国家なり、自治体なり、家族なりを信じるーーそういう倫理観がまだ生きているし、それは正しい。
だから、「反ワク」も、一見「反科学」かもしれないけど、その無責任さを突いている点では正しい。
外国人問題にも、同様の倫理的不安がある。
そういう不安が集まって、「右」への支持が増えているとすれば、その起源も、近代そのものと同じくらい古いことになります。
実際、参政党の神谷代表も、選挙中の演説を聞いていると、よく植民地時代のことを話題にしてましたね。日本の農地をプランテーションにするな、とか。
織田信長とかをよく話題に出していた。つまり1600年前後、近代の始まりの時期を問題にしていた。
その是非はともかく、思想的射程はけっこう広くて、「戦後、日本人はGHQに洗脳された」といった物語より、含蓄がある。
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左翼リベラルのほうも、実はこの潜在的な「倫理的不安」に気づいている。
だから、「憲法9条」とか「非核原則」なんかをすごく神格化する。それが日本の「倫理」の中核だ、と主張したいわけですね。
でも、それは、たとえば「教育勅語」を神格化するのと、合理度においても不合理度においても、変わらないと思います。
「人権」なんてのも、突き詰めればフィクションだ。それが社会的構成物であるのは、左翼理論そのものから導出されるはずだ。
それよりも、日本列島に何千年も前から人が住んでいたという歴史的事実を倫理に転化しようとする、「縄文ナショナリズム」や「天皇制」のほうが、まだましだとも言える。
だから、参政党を「反科学」だ「カルト」だと言う人は、自分がただ「近代人」としての世界観に乗っかって言っているだけ、ただのモダニストだと自覚すべきだ。
そして、参政党はもしかしたら、近代批判を通じ、さらに広い射程で人類史を総括しようとしているかもしれない、と少しでも考えるべきだと思う。
モダニズムは、倫理を生み出せなかった、という総括ーー。
いま、反グローバリズム自体が、皮肉なことに、グローバルな広がりと連携をもちつつある。
最終的には左翼リベラルが勝利する、という世界観は、この「近代」がそのまま続いていくことを前提としている。
甘いんじゃないか。
今の反グローバリズムの盛り上がりは、「近代」を終わらせるかもしれない。少し前に思想界では「ポストモダン」という幕間劇があったけど、あんなんじゃなく。本当の次のステップに、「近代」の次に進む序章かもしれない。
近代が始まって、そろそろ500年だから、そういう大変動があっておかしくない。
そのくらいの想像力と警戒心を持って臨んでほしい。
なんかバカのくせにホラ話が大きくなって、収拾がつかなくなった。今日はここまで。
<参考>
