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73.クトゥブ

画像は以下のサイトから転載。


完全人間

今回もイスラム教をお伝えします。ですが例によって正統派ではなく神秘主義のほうです。

クトゥブは、「極」「軸」「指導者」という意味です。

スーフィズムにとってクトゥブは重要な概念で、ここでいう「指導者」は霊的なものを指します。

前回お伝えしたシーク(シャイフ)も、霊的指導者です。生きた先生として目の前にいるシークもいますが、やはり霊的指導者です。

そして偉大なシークは、その時代の人物だけで終わらせるわけにはいきません。死んでもやはり霊的指導者でありつづけます。

アル・ウリヤーニは、中世のイスラム思想家イブン・アラビー(一一六五年~)のシークでした。アル・ウリヤーニは実在の人物です。

イブン・アラビーは師匠とケンカしている最中、アル=ヒドルと会いました。

アル=ヒドルはイブン・アラビーに、シークに反論するなと教え諭しました。

スーフィズムでは、偉大なシークは聖人に昇格し、ワリー(神の友)になります。ワリーは神の特別な恩寵を得、奇跡を起こす能力のある人とみなされます。

そしてクトゥブは、ワリーの頂点に立つ存在です。

スーフィズムでは、各時代において、その時代の霊的中心となる唯一のクトゥブが存在する、と信じられています。

その人物は、霊的知識を伝達する役割を果たす、そのほかの人間たちにとっての神聖な意識に向かう道を照らす存在です。

アル=ヒドルもまた、クトゥブのような存在です。クトゥブについてはまだピンと来てきないと思われますが、アル=ヒドルは日本では有名ではないので、「おまえだれ?」という感じだからです。

アル=ヒドルは、ユダヤ教における預言者エリヤのような存在です。エリヤもモーセとともにイエスの前に突然あらわれました。

マタイの福音書十七章にはこうあります。

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
するとかれらの目の前でイエスの姿が変った。その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなった。
すると、見よ、モーセとエリヤがかれらの前にあらわれて、イエスと語り合っていた。

https://www.biblegateway.com/passage/?search=Matthew 17&version=KJV

エリヤなら比較的ピンと来ます。あまりに昔すぎる人なのですが、エリヤの存在を無視するわけにはいきません。

クトゥブは霊的メンターで、その意味でエリヤを捉えるとしっくりきます。聖書を読んでイエスの教えを学ぶ、これも立派な霊的メンターとの接触です。

ただ、アル=ヒドルが人間の姿であらわれるのと同様、クトゥブは選ばれし神秘家にはその存在を明かします。わたしたち下々には絶対に姿を見せませんが、とにかく「いる」のです。

クトゥブは霊的メンターなのですが、神聖な意識の人間的なあらわれ、という概念がたいへん重要です。

イブン・アラビーは「完全人間(アル=インサーン・アル=カーミル)」という説を唱えました。

人間は、神が持つすべての属性の集合体によって構成されています。なのでそれを自覚した人は「完全人間」になれます。キン肉マンにおける完璧超人です。

そしてこの「完全人間」と呼ぶべき人が預言者で、ムハンマドはその最後の人物です。

なので禁欲的な探求は無意味だという話なのですが、哲学になるのでこれ以上の追求は避けます。

とにかくクトゥブは、徳、知恵、神聖な洞察などにおいて究極の人間的基準を体現している存在なのです。

宇宙の軸

クトゥブは聖人というだけではなく、スーフィズムの宇宙論における「バランス」と「導き」のメタフィジカルな原理でもあります。

クトゥブは、「まわる」「巡る」という意味の語根「q-t-b」から派生しています。

スーフィーの回旋舞踊

スーフィーたちもまわりますが、「極(ポール)」「まわる」といえば、惑星です。

いうまでもなく、オカルトにとって惑星は超重要です。ポールは柱(オベリスク)で、柱はすなわちちんこです。

ちんこにはもれなくが巻きつきます。

蛇は至るところに登場し、なにかに巻きついています。クロノスがつくった卵にも巻きついています。WHOでおなじみのアスクレピオスの杖にも巻きついています。ミトラ教の獅子頭神、レオントセファルスにも巻きついています。フェミニストの守護神リリスにも巻きついています。

文字どおり枚挙に暇がありません。洋の東西も問いません。

カバラの書、『セフェル・イェツラー』や『セフェル・ハ=バヒール(輝きの書)』には、テリという神秘的な言葉が登場します。

テリは柱に巻きつく蛇のことで、吊すという意味のタラーから来ています。聖書のリヴァイアサンであり、竜座(ドラコ)とも関連しています。

すべての星々は竜座(蛇)にぶら下がり、ぐるぐる回転しているということです。

なのでなにかに蛇が巻きついている図像を見たら、「宇宙なんだな」という了解があればいいかと思います。

ただしその宇宙は、二五〇〇年以上つづいてきた「科学でありたい宗教」としての占星術を信望するカルトどもの宇宙です。

イブン・アラビー

純正同胞会は、先に出てきたイブン・アラビーに影響を与えました。

イブン・アラビーは、その思想によってスーフィズム、イスラム神秘主義の確立に寄与した人物です。

イブン・アラビーは、スペイン(アル=アンダルス)南部のアンダルシアの生まれです。当時のスペインにはムーア人(西洋人がイスラム教徒を指す言葉)が住んでいました。

このムーア人たちは、前回も軽く触れましたが、ユダヤ教のカバラの発展に大きく寄与した人たちです。オカルト史にとってスペインは非常に重要です。

イブン・アラビーは、スーフィズムのあいだではアル=シャイフ、アル=アクバル(最も偉大なシーク)と広く見なされています。

ですが正統派の学者からは、常に背教者として非難されていました。

ブルハーン・アル=ディーン・アル=ビカーイ(一四〇六年~)は、『Tanbih al-Ghabi ila Takfir Ibn 'Arabi wa Tahdhir al-'Ibad min Ahl al-'Inad(イブン・アラビーの不信仰の宣言に関する無知な者への警告と頑固な人々に対するアッラーのしもべへの警告)』というラノベのようなタイトルの本を出しました。

この本の中では、冒涜的とされるイブン・アラビーの発言がいくつか列挙されています。

アル=ビカーイはまた、イブン・アラビーが不信心者だという証拠を裏づけるために、イブン・アラビーを批判するさまざまな学派によるファトワーを引用しています。

ファトワーというのは、イスラム法学に基づいて発令される勧告、布告、見解、裁断のことです。

これまた有名なメッカの歴史家タキー・アル=ディン・アル=ファシー(一三七三年~)は、膨大な伝記辞典al-'lqd al-thamin(「貴重な首飾り」)の中で、イブン・アラビーに対して出された法律上の意見を収集しています。

どれも尊敬される学者たちの意見なのですが、その中にはイブン・タイミーヤ(一二六三年~)と弟子たち、そしてダマスカスの裁判長タキー・アル=ディン・アル=スブキー(一二八四年~)も含まれています。

アル=スブキーは、イブン・タイミーヤの敵対者でした。それだけイブン・アラビーが不信心者だった、と主張しているわけです。

イブン・アラビーとその取り巻きの著作は、その後焚書レベルで危険と判断されたようです。

繰り返しになりますが、宗教は基本的に保守的でなければなりません。教えがころころと変わってしまったら、みんなをまとめ上げているイスラム教そのものが危うくなります。

ですが同時に、宗教は時代の要請に応えなければなりません。なので新たな思想は排除しつつ、何世紀もぬかに漬けてから善し悪しを判断するわけです。

一三三七年、エジプトの学識者たちは、それらの著作の研究を禁止しなければならないと決定しました。もちろん読むのもNGです。

十五世紀、イブン・アラビーの著作はカイロでもアレクサンドリアでも入手不可能で、そもそもだれも公共の場に出そうとしなかったようです。当然といえば当然です。

発見されれば没収され、燃やされました。持ち主は拷問され、イブン・アラビーの信望者と判明すると処刑されました。

イブン・アラビーの代表作とされる『叡智の台座(Fusus al-Hikam)』のコピーが本屋で見つかった際も燃やされました。これは神秘主義的な信仰と教えの概略が記されたものでした。

『聖なる秘儀の観想』という本では、十五の幻視から構成される神との対話が記されています。

ほかにも神秘主義的な消滅(fana)の意味に関する論文『観想における消滅の書』、「距離のない旅」に関する手順と技術的手法が書かれた『力の主への旅』、グノーシスで経験した異なった種類の日々と時の自然に関する著作『神の日々の書』、イエスとマフディー(メシア)における聖人とその極点の意味を論じた『西洋の素晴らしきグリフォン』など、タイトルだけでめまいがしそうな著作ばかりです。

存在一性論

イブン・アラビーの哲学は、やはり紹介しなければなりません。哲学が苦手な方はこの章を飛ばしてください。

イブン・アラビーの「存在一性論」は、世界はすべて一者の自己顕現であるという思想です。

ちなみに「存在一性論」という術語は本人は使っておらず、のちにだれかがいいだしたもののようです。

アッラーは「無限定存在」で、すべてです。「有である」とした瞬間に無の要素を失うので「有」ではないのですが、「無である」ともいえません。アッラーは「無」ではないからです。

そしてアッラーは「すべて」でもありません。「すべて」になったらやはり「無」ではなくなってしまうからです。

「無を含んだすべて」でもありません。「無を含んだすべて」はなにもかもが含まれているように思えますが、人間はなにかを限定するためにコトバを用いるので、コトバにした瞬間にアッラーはいわば「限定存在」になってしまいます。

なので「無限定存在」という術語も本来は使うべきではないのですが、みんなの頭が発狂してしまうのでとりあえず仮に「無限定存在」と定義しました。

「被限定存在」は、アッラーに依拠することではじめて存在できる被造物です。

この二つだけで、セカイの説明としてなんとなくまとまった感じがするのですが、イブン・アラビーはさらに「真実在の真実性」という第三要素を想定しました。

万物は見かけ上はちがうように見えるが、じつはどれもアッラーの知恵の中にある一形態に過ぎない、という考え方です。

なので本質的には、どの物体も同じです。これが「存在一性論」です。

「花」のイデアというものがあります。なぜわたしたちは、アサガオやヒマワリをどちらも「花」と認識するのか、という話です。

それは「花」の本質が存在しているから、ということなのですが、その本質はなにかという話になると、かなりややこしくなります。

つまりその花を「花」と意識で捉え言語化した時点で、「花」の本質は意識と言語によって固定化され、死物と化してしまうのです。

人間程度の存在が意識と言語で「花」と捉えた「花」の本質なるものは、とうてい「花」の本質ではありません。

なので松尾芭蕉は、「その花」、そこにいま咲いている世界でただ一つの実存的アサガオに向かい、俳句という高次言語を用いて「花」の本質を表現しました。

朝顔は酒盛知らぬ盛り哉

高次言語なので意味がわかりません。ですが詩人や俳人はそうせざるを得ないのです。

本居宣長も、「もののあはれ」を説いています。その対象、「花」を愛で、純粋な感動によって捉えることで、いわゆる本質を知ることができる、というアプローチです。

「花」の本質と「木」の本質は、本質というものからアプローチすると、別のもの、ということになります。

たしかに別なのですが、イブン・アラビーはその本質というものを「真実在の真実性」としてさらに遠くに置き、「結局すべてはアッラー」「アッラーこそが本質」としたわけです。

そろそろ頭が狂いはじめているころだと思われますので、このへんでやめておきます。

イブン・アラビーのもう一つの思想は、先にお伝えした「完全人間」です。

この「完全人間」は、メルカバ神秘主義におけるアダム・カドモン(原初のアダム)に通じます。

そしてアダム・カドモンは生命の樹、セフィーロートと同一視されます。

セフィロト(生命の樹)が描かれたアダム・カドモン

このアダム・カドモンは、擬人化されてはいますが、あくまで「人間の可能性」です。可能性がなければ人間は人間として生まれ得ません。

アダム・カドモンは、メタトロンと同一視されます。この世を生み出した「創造主」で、真の神アッラーはその奥に控えています。

イブン・アラビーは当然、ユダヤの神秘主義も知っていたのでしょう。似ていることについてはなんの驚きもありません。

グリーンマン

グリーンマンは、中世ヨーロッパの建築彫刻によく見られるモチーフです。

https://www.newyorker.com/books/page-turner/the-remarkable-persistence-of-the-green-manより転載
https://spiritofthegreenman.co.uk/shop/green-men-sculptures/canterbury-green-man/より転載

葉で覆われた顔、または口から苦しげに枝葉を伸ばしている顔などが見られます。ディオニュソスにも似ています。

グリーンマンは、ケルト神話のケルヌンノスと関連しています。

ケルヌンノス

ケルヌンノスは狩猟の神で、二本の角を生やし、手には山羊の頭をした蛇を持っています。

そしてエリファス・レヴィのバフォメットのようにあぐらをかいています。

https://www.ancientpages.com/2018/12/18/cernunnos-horned-one-powerful-continental-god-preserved-in-celtic-beliefs-as-master-of-animals/より転載

ケルヌンノスは「野生のものの主」で、「狩人ヘルネ」という贈り名があります。ヘルネはヘルメスに語感が似ています。

ケルトの民間伝承には、「知識の緑の男」という話があります。

この人はグリーンマンに似た顔で、「ノーマンズ・ランド」と呼ばれる冥界を支配します。

タイトルのとおりこの男は賢者なのですが、知恵を悪用し、魔法をかけられた土地を自分の呪縛下に置き、暴君として支配していました。

いうまでもなく、知識の緑の男といえばアル=ヒドルです。

ハディース(ムハンマドの言行録)によると、ムハンマドの霊は、毎年のラマダンの月にエルサレムでアル=ヒドルやエリヤの霊と過ごしていました。

スーフィズムでは、アル=ヒドルを「見えない人たち(rijalu’l-gyab)」の支配者、と信じています。

「見えない人たち」は、宇宙やそこにある運命に関して重要な決定を下す聖人や天使たちの審議会のことです。

つまりクトゥブです。アル=ヒドルはもちろんクトゥブの一部で、すべてを正しく支え、すべてを回転させる宇宙の精神的な極、軸でもあります。

アル=ヒドルは、前回お伝えしたとおり、預言者エリヤ、聖ゲオルギオス、エノクと関連しています。

個人的な 「神のしもべ」、神の使者、預言者の守護者なので、やはりエノクに似ています。

繰り返しになりますが、エノクはヘルメスと同一視されます。エノクの著作には地上と天界の両方におけるあらゆるものの仕組みが詳細に記されており、宇宙の秘密が記されているとされる「ヘルメスのエメラルド・タブレット」と比較されてきました。

アル=ヒドルは、蛇に変身する杖を持っていたとされています。これはヘルメスのカドゥケウス、または錬金術のシンボルである十字架に絡みつく蛇を思い起こさせます。

https://www.iichi.com/listing/item/152831より転載

十字架に絡みつく蛇は、十九世紀のヨークライトフリーメーソンの「テンプル騎士団」のメンバーが着けていた 「星の宝石」などにも描かれています。

アル=ヒドルは、旅の途中の学者たちの前にあらわれることもありました。

そして学者たちを鼓舞し、質問に答え、危険から救い出し、特別な場合にはキルカを授けました。

キルカとはクローク、マントのことです。

イブン・アラビーは、メッカからバグダッドに行った際にキルカを受け継ぎました。

また、著書『叡智の台座』は、メッカのカバの近くで体験した「幻視」の過程で構想されたものです。

イブン・アラビーは、一二二九年にダマスカスであらわれたムハンマドから直接この作品を受け取った、と主張していました。

「ムハンマドと会った」というと頭がおかしい人で終わりますが、イブン・アラビーはおかしいどころか頭脳明晰です。

頭脳明晰な人がムハンマドと会ったなら、ムハンマドは存在するのです。

なのでアル=ヒドルとも会えるかもしれません。存在しているからです。

非常に微妙なところなのですが、このような「歴史」がオカルト史です。

イスラム教とキリスト教だけで、四十億人以上の人が神を信じています。それ自体が恐るべき「歴史」なのですが、オカルトや神秘主義者はさらに神について思想を深め、書に記し、言葉で伝えます。

そしてその思想が認められると、逆にいつでも梯子を外すことができるようになります。世の中に対が生まれ、大混乱に陥ります。

究極的には「神は存在しない」という表明です。現在、科学という名のオカルトは、一部で実際にそのように表明しています。

https://engelmann.com/de/allgemein/handysucht-ratgeber-zum-umgang-mit-handys/より転載。日本人の専売特許だったのに……。

オカルトは、いつか梯子を外すために思想を深めつづけている、という側面もあるのかもしれません。

ピンと来たかもしれませんが、人類史上最大の梯子は最後の審判です。


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謎の賢人 この記事はリサーチにかなりの時間を費やしています。有料にはしたくないので無料で公開していますが、チップをいただけましたら精神的にも励みになります。