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十代の頃から抱いてきた「名前のない感覚」を言葉にしてみた

奇妙な感覚

川辺には膨大な数の石がある。手頃な石(野球のボールくらいの大きさの石)を掴み、ひっくり返して石の裏側を見る。表面が湿っていて、砂がひっついている。おそらく宇宙が誕生してから現在までの長い時間の中で、この石の裏側の偶然の造形や状態を見ているのは自分ひとりだけだろう。

川のほうに目をやる。川には水が流れており、川の表面は刻々と形を変えている。いまこの瞬間の川面の波は、おそらく宇宙が誕生してから現在までの長い時間の中で、一度しか現れない形ではないか。それを見ているのは自分だけだ。などと考えると、なんとも不思議な感覚になる。

また、宇宙の遥か彼方の空間に、あるひとつの石のような物体(掴めるくらいの大きさの物体)が漂っているとする。物体はたしかに存在するのだが、その存在を確認した者は、おそらく宇宙が誕生してから現在までの長い時間の中で誰もいない。だがその物体は確かに存在している。

…と、こんなことを考えると妙な感覚になる。この考えと、それに伴う感覚は十代後半の頃からあり、今でも状況によっては同じようなことを考え、同じような感覚になる。

このような考えから生じる感覚には具体的な名はない。もしかしたら哲学や心理学では当然知られている概念で名前もあるのかもしれないが、私はそれを知らないし、そんな概念があってもなくても、実際の生活や人生には何の影響もないから、どうでもいいことなのだろう。

可能世界遍在転生論(6)心理学者・渡辺恒夫氏の論考:コメント欄より

この文章は、心理学者・渡辺恒夫氏の論考「可能世界遍在転生論(6)」のコメント欄に投稿した私の文章である。

この奇妙な感覚(私にとっては「尊い感覚」)の正体はいったい何なのか、AIに尋ねてみた。

AIとの対話

ChatGPT のログ(PDF版画像版
Claude のログ(PDF版画像版
Gemini のログ(PDF版画像版
Copilot のログ(PDF版画像版
GoogleAI のログ(PDF版画像版

各AIの回答をまとめて要約すると、おおむね次のような内容だった。
その感覚にぴったり対応する単一の既存概念は見当たらないが、いくつかの既存概念の要素が組み合わさったものと考えるのが妥当だと思われる。

関連するしないは別としてキーワードとしては、「自我体験」「実存的直観」「唯我論」「実在論」「存在論」「現象学」「即自存在」「一期一会」「諸行無常」「一回性」「偶然性」「畏敬」…等々。

心理学者・渡辺恒夫氏の直観

この奇妙な感覚について改めて考えるきっかけとなったのが、最近読んだ渡辺恒夫氏の論考であった。渡辺氏は、ご自身の幼少期からの「直観」を次のように綴っている。

 他人は存在しません。
 私が他人だと思い込んでいる、私と外形の似たモノは、ゾンビなのです。

 こんなことをいつから考えるようになったかは覚えていません。
 物心ついた頃にはすでに、この「直観」があったような気がします。
 あえて、「考え」と言わずに、「直観」と言っておきます。
 考えるまでもない、明々白々な「事実」なのですから。
 
 もっとも、子どもの頃は、「ゾンビ」という言葉はなかったので、「お人形」とか「ロボット」とか、心で思っていたかもしれません。つまり自動人形です。
 手塚治虫の「鉄腕アトム」もまだ始まっていない、「心をもつロボット」が登場する以前の、遠い昔の、昭和20年代半ばのことでした。

可能世界遍在転生論(1)心理学者・渡辺恒夫氏の論考より

渡辺氏による連載「可能世界遍在転生論」には、この直観(他人は存在しません)を数十年かけて深めていく様子が綴られている。

以下は、その長い思考の道のりのうち、私がとくに強い印象を受けた部分である。少し長い引用になるが、展開の全体像が重要だと感じたため、続けて引用する。

 私の心には、「他人は自動人形」という直観とならんで、もう一つの謎が、やはり物心ついた頃から巣食っていたのです。
 それは、なぜ私は他の誰かではなかったのか、という疑問でした。地球上何十億という数多(あまた)の人間たちの間で、なぜこの、「渡辺恒夫」という名のありふれた男の子が、私なのだろうか?
 この疑問に、harder problem of consciousnessという名前が付いていることを英語文献から見つけ出し、「意識の超難問」と訳したのは、はるか何十年ものちのことでした。

――中略――

 他人の非存在を直観しながら、他人の存在を肯定している、とは、いったい、どういうことでしょうか。
 この矛盾を解決するには、哲学との出会いが必要でした。

――中略――

 この疑いを晴らすためには、長期間にわたり、心理学研究に従事しなければなりませんでした。

可能世界遍在転生論(1)心理学者・渡辺恒夫氏の論考より

※ 「hard "er" problem of consciousness」(意識の超難問)は、2002年にNed Block氏が提唱した概念。

 そして、ある日、出会ったのです。大森荘蔵という(当時まだ)若手の哲学者の文章に‥‥

――中略――

 けれども、ひるがえって考えて、自動人形でありゾンビであるはずの他人のなかの一人が、自分以外のすべての人間がゾンビであると主張するとは、どのような事態でしょうか。
 もしすべての人間が強靭な知性を備えるようになったら、それら人間たちの全員が、自分たち以外の人間はゾンビだと主張しあうようになるのでしょうか。
 当時の私は、この問題にはっきりと答える術(すべ)をもちませんでした。

――中略――

 実は、これも子どもの頃に遡られるある「解決法」が、心の底に秘められてはいたのです。
 それは、上記の引用された文章は、実はこの私が書いたものだ、とみなすことでした。
 つまり、大森荘蔵に「転生」した、というか時間的歴史的順序から言えば、「かつて大森荘蔵だった」私が、書いたとみなすのです。

――中略――

 この論法を、30年の後、私は、「遍在転生観」と名づけました。

可能世界遍在転生論(2)心理学者・渡辺恒夫氏の論考より

※ 「上記の引用された文章は、実はこの私が書いたものだ」の「上記の引用された文章」とは「大森荘蔵という(当時まだ)若手の哲学者の文章」のことであり、「実はこの私が書いたものだ」とは「実はこの私、渡辺恒夫自身が書いたものだ」という意味である。

※ 30年後とは、1996年の頃。

 当時まだ、20歳にもなっていませんでしたが、(中略)私は打ちのめされたようになりました。
 どうやら生まれて初めて、自分が他人の存在を肯定しているらしいことに気づかざるを得ませんでした。
 しかも、他人の存在を認識することも理解することもなく、他人が存在していることに心から納得することもなく。
 以後20年間、他人の存在の肯定と他人の非存在の直観とを同居させるという、宙ぶらりんな状態が続きました。

――中略――

 そして、ある日、とんでもないマンガに出会ったのです。
 子どものころに思いついたまま、長いあいだ心の奥に封印していた特別な輪廻転生観が、そっくり描かれているSF少女マンガに。

可能世界遍在転生論(3)心理学者・渡辺恒夫氏の論考より

※ 「当時まだ、20歳にもなっていませんでしたが」の「当時」とは、おそらく「1960年代前半~半ば」の頃だと思われる。

※ 「私は打ちのめされたようになりました」となってしまった理由は、哲学者サルトルのある思想に触れたことによる。詳細は引用元の原文を参照されたい。

 1988年ごろのある日。(中略)眠気覚ましに、『プチフラワー』をひらいて、佐々木淳子作「SHORT TWIST」という作品を読みはじめました。
 そして、驚くべき体験をしました。
 そのマンガには、子どもの頃から心の奥に秘めていた、特別な形の輪廻転生が描かれていたのです。

――中略――

 私の驚きを想像できるでしょうか。
 子どものころに思いついて内奥に秘めたまま、古今東西の哲学書宗教書思想書をあさっても見つけることのできなかった、すべての他人は転生する私自身に他ならないという死生観が、少女マンガの中に描かれていただなんて‥‥
 といっても、まったく同じかといえば違います。

――中略――

 だから、子どもの頃に、考えたのです(中略)私はすべての人間に生まれ変わっては死ぬ。そう考えれば、渡辺恒夫は特異な存在にならなくてすむのではないか、と。 

――中略――

 それにしても気になったのは、(中略)他者の非存在の直観が欠けていることでした。(中略)あの、私にとっては最も根源的な直観が。
 この直観から出発することで輪廻転生観を構築し、世に問わなければならないという、思いに駆られました。

可能世界遍在転生論(4)心理学者・渡辺恒夫氏の論考より

 さて、この本を書くに当たって最も苦心した点は、「過去現在未来すべての人間はこの私の転生する姿にほかならない」という遍在転生の中心テーゼを、いかに納得のいくように合理的に説明するかでした。

――中略――

 じっさい、その頃から、心理学の授業で、自己といったテーマで自由に書くようなレポートを課してみると、自然発生的に、心を打たれるような体験を報告してくれる学生がいることに、気づいていたのです。

――中略――

 けれども、(中略)、他人の非存在の直観をうかがわせるような体験報告は、なかなか見つかりませんでした。
 でも、やはり、存在していたのです。
 子どものころから他人の非存在の直観を備えながらも、強いて抑圧して、ひっそりと生きているという事例が、学生のなかにも見つかったのです。
 世紀があらたまる頃のことでした。

可能世界遍在転生論(5)心理学者・渡辺恒夫氏の論考より

 私はこのような体験回想に「独我論的体験」と名づけたものです。

――中略――

 けれども、新たに出会った報告「事例0-4」は、それとは肌合いがちがっていました。

――中略――

 優れた作家や哲学者でなくとも、他人の非存在の直観を維持したまま、周囲の人にも自分自身にさえそれを隠して生活している人が、世の片隅にひっそりと息づいているらしいのです。

――中略――

 それにしても俄然、気になり出したのは、「誰が」この、「事例0-4」のような他人の非存在の直観を今も生きるような文章を書いたのか?でした。
 もし、調査協力者である某大学の心理学履修学生の一人という「実在の他人」が書いたのであれば、その「彼」から見てこの私は「中身は空」つまり、ゾンビみたいなものになってしまいます。
 でも、「事例0-4」に共感する私が、それゆえに、他人の非存在の直観に忠実であろうとするならば、「事例0-4」の報告者がゾンビということになり、この報告は、端的に「まちがい」ということになってしまいます。
 そんな日々の続いたある夜、次のような夢を見たのです。

――私は中世インドの商人になって、貿易船に乗っていました。はるかインド洋の水平線を眺めていたことが印象に残っています。貿易商という本業のかたわら、私には別の目的がありました。世界中から、独我論的体験事例を記述したテクストを収集することです。
 そんなある日、船の上で気がついたのです。これらの体験事例テクストは、私自身が書いたものだということに。

可能世界遍在転生論(6)心理学者・渡辺恒夫氏の論考より

渡辺氏の直観(他人の非存在)と、私が最初に記した奇妙な感覚(存在や一回性をめぐる感覚)は同じものではない。しかし、名前のつかない内的な「何か」を長年抱き続け、それを言葉にしようとしている人がいるという事実に、私は心を動かされた。

ここで、私自身の経験にも触れておきたい。渡辺氏と同じく、私にも長年名前がつかないまま抱えてきた内的な「何か」があった。私は生まれつきアファンタジア(心的イメージ体験の生涯的不在)とSDAM(自伝的記憶再体験の生涯的不在)の当事者だが(なお、私の場合は夢の中でもそれがない)、これらの現象に最初に気づいた約30年前(1990年代後半)は、まだ学術的な概念として整理されておらず、名前もなかった。その後、2015年の論文発表を機にようやく学術的に認知され、一般へ広がっていく。その際に与えられた名前が、アファンタジアとSDAMであった。私にとってこの出来事は、まさに自身の内的経験の「世界デビュー」(顕在化)であった。

※ 余談だが、先に触れた「harder problem of consciousness」(意識の超難問)の提唱者であるNed Block氏は、2025年にアファンタジアに関する論文「Aphantasia as imagery blindsight」を共著で発表している。渡辺氏の論考に登場したキーワードから、まさか自分自身の話にもつながっていたことに、この記事を書きながら初めて気がついた。ちなみに共著者の一人であるHakwan Lau氏は、2021年から2025年頃にかけて日本の理化学研究所(理研)で意識やアファンタジアの研究に携わっていた。

私の内的経験は「世界デビュー」を果たしてから約11年が経過したが、渡辺氏の直観(他人の非存在)が「世界デビュー」を果たしているのかは、私には分からない。ただ、氏はその直観や概念に「可能世界遍在転生論」という名前を付けて、いままさにその連載を続けている。

連載の続きは以下の「fantastiquelabo|note」からどうぞ。

関連リンク

⬛️ fantastiquelabo|note

⬛️ 渡辺恒夫(心理学)- Wikipedia

⬛️ 可能世界遍在転生論(1):他人は存在しないという直観が物心ついたころからあったらしい件|fantastiquelabo

⬛️ 可能世界遍在転生論(2):大森荘蔵とJ.-P.サルトルに触発され懸賞論文を書いた件(前)|fantastiquelabo

⬛️ 可能世界遍在転生論(3):大森荘蔵とJ.-P.サルトルに触発され懸賞論文を書いた件(後)|fantastiquelabo

⬛️ 可能世界遍在転生論(4):佐々木淳子と稲垣足穂に驚愕し子どもの頃の輪廻転生観を復活させた件|fantastiquelabo

⬛️ 可能世界遍在転生論(5):新書版で世に問うたが無視され実証的調査研究に方向転換した件|fantastiquelabo

⬛️ 可能世界遍在転生論(6):世に棲む独我論者の発見から「中世インドの貿易商人の夢」をへて可能世界論に出会う件|fantastiquelabo