可能世界遍在転生論(3):大森荘蔵とJ.-P.サルトルに触発され懸賞論文を書いた件(後)
可能世界遍在転生論(2):大森荘蔵とサルトルに触発されて懸賞論文を書いた件(前)から続けます。
3 大森荘蔵とJ.-P.サルトルに出会い懸賞論文を書いた件(後篇)
3-1 まなざしの前での羞恥こそが他人の存在の肯定
ただちに、『存在と無』第Ⅲ巻「対他存在」[1]を占める、サルトルのまなざしの哲学の紹介に入ります。
といっても、サルトルの文章をそのまま引用することはしません。渡辺恒人名義で書いた懸賞論文[2]から引用することにします。
なぜなら、今、サルトルを何十年ぶりかに手にとっても、60年前(!)ほどにはすんなりと頭の中に入ってこないと思うからです。
当時まだ、20歳にもなっていませんでしたが、分厚い『存在と無』全三巻を半月ほどで読了し、訳文の流麗さもあってほぼ完全に理解したものでした。
一生でいちばん、頭脳が明晰になる年齢です。いまの私ではこんな明快な紹介文は書けない、かなわないな、と思ってしまうのです。
サルトルに言わせれば、他者の存在を証明する必要は全くない。他者は、主観=他者として「まなざし」として直接現前する。私のうえに注がれている一つのまなざしをとらえることは、他者の両眼を認識することではない。それどころか、まなざしを向けられることは、私の存在構造の本質的な変容をひきおこす。私は対象=私を一挙に意識する。しかも、それを、私の直接的対象として意識するのではない。対象=私は、他者にとっての対象である限りにおいて私の意識に現前的である。私はこの「私」を認識するのではない。それどころか私はこの「私」である。(‥‥)私の羞恥が一つの告白である。羞恥は、私がまさに他者がまなざしを向けて判断しているこの対象である、ということの承認である。それは一つの存在関係である。他者たちが私に一つの存在、対象=私を付与し、この存在を私が承認する。
要するにサルトルの言っていることは、他者は主観である以上、決して対象として認識されず、その存在を直観されることもない。それにもかかわらず、私の羞恥が他人の存在を肯定する、ということです。
また、他者にまなざしを向けられることは私の存在が世界外へと流出することであり、それゆえ私が「世界-内-存在」であるとすれば他者は「世界-外-存在」、世界を超越した外部的存在であることになるとも、他の箇所でのべられています[1]。
3-2 他人の存在の肯定と他人の非存在の直観のあいだで宙吊りに
このサルトルのまなざしの説は、当時の私には抗しがたいものに思えました。
なぜなら、私の対人恐怖症的な状態が、他人の視線の先にピン留めされるような不安と羞恥とが、これ以上ない説得力をもって見事に「存在論的に」説明されていたからです。
私は打ちのめされたようになりました。
どうやら生まれて初めて、自分が他人の存在を肯定しているらしいことに気づかざるを得ませんでした。
しかも、他人の存在を認識することも理解することもなく、他人が存在していることに心から納得することもなく。
以後20年間、他人の存在の肯定と他人の非存在の直観とを同居させるという、宙ぶらりんな状態が続きました。
その間に、他人の非存在の証明をめざすという哲学的野心も、どこかへ行ってしまいました。
おまけに、はたちやそこらで、何の学問的蓄積もないのに哲学の専門論文を書くという無謀さが祟ってか、疲労困憊のあげく出がらしのような状態になってしまったのです。
哲学書は見るのもイヤになりました。
他人の非存在の証明を断念したあげく、哲学そのものも断念することになってしまったのです。
といっても研究者になることを断念したわけではありません。以前から哲学とならんで興味を抱いていた心理学へと方向を切りかえたのです。
3-3 SF少女マンガに出会うまでの長い雌伏の年月
もともと、心理学と精神医学には、哲学に劣らぬほどの関心を寄せていたものでした。
前回にも、ものごころついた頃から他人の非存在の直観があったなんて自分の方こそオカシイのではないかという、疑念があったことを書いておきました。
けれども、それだけではない、もう一つの深い理由があったのです。
それは、中学二年のある日、性別をまちがえて生まれてしまった、と、気がついたことに始まります。
こんなことは、話を複雑にするだけなので、触れないつもりでした。
けれど、ひとことでも触れないことには、なぜ突然に少女マンガが出てくるのか、不審に思われてしまいます。
元来、私どもの世代は、大学生がマンガを読むということで、週刊誌でも話題になった世代でした。
推測ですがそれは、子どものころに、手塚治虫の「鉄腕アトム」や横山光輝の「鉄人28号」に夢中になったという、幸福な思い出の復活だったのでしょう。
この点は私も例外ではありませんでした。後年、マンガの心理学といったテーマで雑誌からお呼びかかるようになった頃に書いておいたように[3]、私のマンガ愛読歴は、3歳の時にリアルタイムで手塚治虫の「メトロポリス」に出会ったことから始まっています。
翼ある美神アモールの彫像をかたどって造られた両性具有の美少年ミッチーが、自分が人間ではなかったと知って絶望し、人類絶滅を企て破滅するという、超現代的な科学観と美意識を込めた、奇蹟のような名作です。
そんな私に、大学生当時の少年マンガの、薄汚い画面いっぱいに汗や血が飛び散るスポ根ものやバトルものは、はなはだしく違和感をそそるものでした。
とくに不愉快だったのは、永井豪に始まるハレンチ路線の出現でした。
性欲とは無縁の少年たちの無垢で透明な世界こそが、かつての少年マンガの魅力だったはずなのに。
そんな時に登場してきたのが、萩尾望都ら、花の24年組の少女マンガでした。
そこには少年マンガには失われた、透明で無垢な少年たちの世界が、性別を超越して妖しく美しく描かれていたのです。
私は、隠れるようにして少女マンガに読み耽りながら、自分の生まれた性を激しく呪ったものでした。
話がズレてしまいましたが、とにかくこうして少女マンガの愛好家として20年をすごし、そして、ある日、とんでもないマンガに出会ったのです。
子どものころに思いついたまま、長いあいだ心の奥に封印していた特別な輪廻転生観が、そっくり描かれているSF少女マンガに。
それは、佐々木淳子「SHORT TWIST」といいました。
参照文献
[1] 渡辺恒人(1967)「他人の存在をめぐる論争」『理想(1967 年 11 月号)』414, 48-63.
https://researchmap.jp/read0027589/published_papers/15768550
[2] サルトル,J-P. (2007).『存在と無(全3巻)』.松浪信三郎(訳).人文書院(原著1943)
[3] 渡辺恒夫(1987)「性別越境の冒険」『ユリイカ(1987年2月号)』(青土社), 56-63.
