可能世界遍在転生論(1):他人は存在しないという直観が物心ついたころからあったらしい件
すでにnote記事でもお知らせしたように、今年(2026)1月に、『この私が死ぬということ:人文死生学の展開』(渡辺恒夫・小島和男・新山喜嗣/編、春秋社)という本を出しました(上記画像は同書p.193「図1上空飛行的視線の下の世界(左)とマッハの自画像に出現した他者(右)」より)。
いちおう学術書ということになっていて、通読するにはかなりの困難が伴います(というウワサらしい)。
さいわい、「じんぶん堂(好書好日)」という、朝日新聞と人文系出版社が共同で開設しているブックレビューサイトに、『この私が死ぬということ』の分かりやすい紹介を前後篇で載せることができたので、まずその案内から始めることにします。
前編⇒「じんぶん堂(2026.03.12)」
後編⇒「じんぶん堂(2026.03.19)」
この後編の最後に、担当した章「異世界転生の真実:他者という可能世界をわたる五次元主義の物語」の、短い紹介があるので引用してみます。
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最後に、筆者自身の第7章「異世界転生の真実」にも触れておく。日本のアニメでは異世界転生モノの流行が話題になっているが、筆者は、現代の学知の総力をあげて取り組むべき死生観展開への可能性がここに秘められていると考える。まず、転生すべき異世界とは何か。目の前の他者、北里梅子や津田栄一に転生するならば、それが異世界転生であり、他者の身体は異世界の外皮に他ならないことになるのではないか。
そもそも、存在論的に対等な他者の実在を認める時、その他者が私であるような世界を私は思い描いているではないか。ところが現実には私は渡辺恒夫であり北里梅子でも津田栄一でもない。だから異世界での私である他者は可能世界の住人にとどまる。にもかかわらず他者の実在を認めるのなら可能世界は何らかの意味で現実化した・する・のでなければならず、つまり異世界転生しなければならない。
【図2 第7章(渡辺,p. 224)より。他者という可能世界をわたる「転生」の図解】
そのように考えるための手がかりを筆者は、可能世界論におけるルイスの様相実在論や八木沢敬の5次元主義形而上学に求めたのだった(図2)。また貫世界同定の基準を、自己意識の測度である自我体験・独我論的体験という体験の同型性に求めた。こうして第7章の副題である「他者という可能世界をわたる5次元主義の物語」が姿を現すが、それはまだ出発点に過ぎない。
けれどー この章のメインタイトルは愛嬌としても、サブタイトルにしても直観的にわかりにくい。
特に、30年前に『輪廻転生を考える』(講談社現代新書、1996)で提唱した、「遍在転生観」のバージョンアップであることが、気づかれにくい。
そこで、新たに、「可能世界遍在転生論」と称することにしました。
可能世界を転生することで私は遍在する、といった意味です。
この新たな名称のもとに、分かりにくいというウワサのある「第7章:異世界転生の真実:他者という可能世界をわたる五次元主義の物語」を、できる限りわかりやすくリライトすることにしました。
論文調にならないよう、個人的体験をふりかえりながら、です。
1 他人は存在しないという直観が物心ついたころからあったらしい
1-1 他人は存在しない
他人は存在しません。
私が他人だと思い込んでいる、私と外形の似たモノは、ゾンビなのです。
こんなことをいつから考えるようになったかは覚えていません。
物心ついた頃にはすでに、この「直観」があったような気がします。
あえて、「考え」と言わずに、「直観」と言っておきます。
考えるまでもない、明々白々な「事実」なのですから。
もっとも、子どもの頃は、「ゾンビ」という言葉はなかったので、「お人形」とか「ロボット」とか、心で思っていたかもしれません。つまり自動人形です。
手塚治虫の「鉄腕アトム」もまだ始まっていない、「心をもつロボット」が登場する以前の、遠い昔の、昭和20年代半ばのことでした。
1-2 ゾンビたちの視線の先にピン留めされる不条理さ
ところが、「他人は存在しない、お人形(ゾンビ)にすぎない」という直観を、いつでも維持できたかというと、まったくそうではなかったのです。
たいていの場合、この直観を忘れて、私は他人たちのあいだの一人の他人であるかのように、感じ、考え、ふるまっていたのです。
おまけに、中学に入るころから、人目を異常に気にするようになってしまいました。
ひとまえに出ると委縮してしまい、視線の先にピンで止められた昆虫か何かのように、動作もぎこちなく、ロクに口も利けないようになってしまったのです。
存在しないはずの、ゾンビのはずの他人たちの視線の先に、昆虫のようにピン留めされる不条理さ‥‥
1-3 私はなぜ他の誰かではなかったのかという、もう一つの疑問
この対人恐怖症的状態がどうなったかの話はひとまず置いておきます。私の心には、「他人は自動人形」という直観とならんで、もう一つの謎が、やはり物心ついた頃から巣食っていたのです。
それは、なぜ私は他の誰かではなかったのか、という疑問でした。地球上何十億という数多(あまた)の人間たちの間で、なぜこの、「渡辺恒夫」という名のありふれた男の子が、私なのだろうか?
この疑問に、harder problem of consciousnessという名前が付いていることを英語文献[1]から見つけ出し、「意識の超難問」と訳したのは、はるか何十年ものちのことでした[2]。
それはともあれ、「他人という他人はゾンビ」という直観と、「なぜ私は他の誰かではなかったのか」という疑問を組み合わせると、「渡辺恒夫」という、一見ありふれた男の子が、異常に特別な存在になってしまうと、当時の私は思ったのでした。
数十億のゾンビたちの(当時は「ロボットたち」というコトバを使っていたと思いますが)あいだの、たった一人の「人間」なのですから。
でも、裏をかえせば、「人間」とはゾンビのことであって、ゾンビでない私こそ、人間ではないのではないでしょうか。
なにしろ、人間のうちの圧倒的多数がゾンビなのに、私はたったひとりの例外なのですから。
数十億、対、1の勝負なのですから。
それに、そう考えた方が、私の、ひとまえで感じる異常な不安と羞恥の正体がわかるような気がしました。「見ろ、ここに人間でないモノがひとり、紛れ込んでいる!」という声が雷鳴のように轟く瞬間を恐れて、いつもビクビクしているのだとするならば‥‥
1-4 ハインラインSFの主人公が語る他人の非存在の直観
この、他人の非存在の直観と、自己の独異性・唯一性の感覚を、ことばで描写するのは困難なことです。
それだけに、後年、大学生になったばかりの頃、名作「夏への扉」で知られるSF作家ハインラインの短編に、かなり類似した直観を語る主人公が出てきたのには、たいへん驚いたものでした。
「かれら」(1959)という作品ですが,主人公は精神病院の患者という設定で,この直観の真偽をめぐって精神科医と論争をしたりします。
【事例 ハインライン短編】
……「それだ!」かれは長い指を,ヘイワード医師にむかってつきつけた。「それが,陰謀のもっとも肝心なところなんだ。あらゆる生きものは,すべて,ぼくが,この陰謀の中心人物だということを自覚しないようにするために,ぼくに似せて造られていたんだ。だがぼくは,その鍵になる事実にー数学的に不可避な事実に気がついた。ぼくがユニークだという事実にだ。ぼくはここに,内側に坐っている。世界はぼくから,外にむかって拡がっている。ぼくこそは世界の中心でー」「落ち着いて,ほら,落ち着いて!きみは,わたしにだって世界がそう見えるということが分からないのかね。われわれはそれぞれ,それぞれの世界の中心で……」「ちがう!それこそ,いつもあなたたちがぼくに信じさせようとしていることなんだ。ぼくが,ほかのなん百万の連中と同じ,その中の一人にすぎないと。」[3]
ご覧のとおり、かなり類似していますが、けっして同一ではありません。「ぼくがユニークだという事実にだ。ぼくはここに,内側に坐っている。世界はぼくから,外にむかって拡がっている。ぼくこそは世界の中心でー」という、主人公の、自己の独異性・唯一性の表白には、一種、誇らしい響きがあります(冒頭の図1右側は、この、自分が世界の中心という直接経験される世界を、忠実に描いたものです)。
そこには、圧倒的な「他人たち」の視線にピン留めされるという、不安や羞恥はありません。
そうーー
私はこころの片隅で知っていたのです。非存在のはずの他人たちの存在を、自分がどこかで肯定していることを。
1-5 哲学の道と心理学の道
他人の非存在を直観しながら、他人の存在を肯定している、とは、いったい、どういうことでしょうか。
この矛盾を解決するには、哲学との出会いが必要でした。
出会いは二段階にわたってなされました。
第一の段階は、J.-P. サルトルの、まなざしの哲学との出会いでした。
第二は、可能世界論との出会いです。これら二つの出会いの間には、半世紀もの時間が流れてしまっていました。
その間、何もしていなかったわけではありません。
ハインラインの作品では、主人公は精神病院の患者として出てきます。私もまた、オカシイのは自分の方ではないかと、しょっちゅう疑っていたものだったのです。
この疑いを晴らすためには、長期間にわたり、心理学研究に従事しなければなりませんでした。
次の篇からはこれら、「哲学の道」と「心理学の道」について、順次、体験に即して語ってゆくことにします。
参照文献
[1] Roberts, T.S. (1998). ”Beyond the hard problem of consciousness”. Research Abstract: Toward a science of consciousness, Tucson 3rd, p69.
[2] 渡辺恒夫 (2000). 「子どもが<意識の超難問>に出会うとき」. 東邦大学教養紀要, 32, 12-36.
[3] Heinlein, R.A. (1959). ”They”. In R.A. Heinlein, The Unpleasant Profession of Jonathan Hoag. London: Gnome Press. ハインライン (1982). 福島正美(訳)「かれら」(『輪廻の蛇』所収). 早川書房.
