可能世界遍在転生論(6):世に棲む独我論者の発見から「中世インドの貿易商人の夢」をへて可能世界論に出会う件
*画像は中世インド貿易商人のAIイメージ(Image generated by NanoBanana2)
可能世界遍在転生論(5)より続く
6「世に棲む独我論者」の発見から「中世インドの貿易商人の夢」をへて可能世界論に出会う
6-1 「世に棲む患者」と「世に棲む独我論者」
中井久夫という精神科医がいます。
2022年に他界されましたが、知り合いの心理臨床家や精神科医には、中井久夫の教えを受けたという方が何人かいて、私も、著作には親しんでいました。
その著書のひとつに『世に棲む患者』[1]があります。
統合失調症圏の患者の方々が、退院して後にどのように生きているかを、追跡調査の結果を織り交ぜながら語ったエッセイで、いろいろ心を打つ洞察がちりばめられています。
たとえば‥‥
‥‥あえていえば、統合失調症を経過した人にとって、ある型の少数者の生き方のほうが、多数者の生き方よりも、もっとむつかしいわけではなさそうである。
(中略)
さらに言えば、統合失調症を病む人々は、「うかうかと」「柄になく」多数者の生き方にみずからを合わせようとして発病に至った者であることが少なくない。これは、おそらく、大多数の臨床医の知るところであろう。
この文章は、最初、1991年刊行の著作集で読んだのですが、それがちょうど、調査のなかで次の事例に出会った頃でした。
【事例0-4】
(2年生/男)(略)昔思ったことのあることですが,多分心理学的な事だと思うので書かせて下さい。いつだったかは忘れましたが,本当に人が存在するのかという事です。自分は認識できるので存在はしているのですが,他人は外見しか見る事ができないのだから,自分と同じようなのか中身は空なのかわからなくなったのです。結局出した仮定は,自分以外の物事は全て自分のために存在しているのではないかというものでした。周りの人には自分勝手で自己中心的な考えだと言われましたが,人がいて自分がいるという考え方は,常識ですが誰も絶対に知ることはできないで納得してしまっている事です。今の自分も結局「納得」してしまっている訳ですが……というより,どんな答えをもってしても「理解」する事はできないので,「納得」するしかしかたなかったのです。ひさしぶりに思い出したので書いてみましたが,あまりうまく書けなかったようです。
こどもの頃に、「他人は外見しか見る事ができないのだから,自分と同じようなのか中身は空なのかわからなくなった」と疑ったという回想は、調査のなかで学生のあいだにまれですが出現することがあります。
【事例0-2】(19歳/女)
小学校低学年時:授業を受けているときなど自分一人で物が考えられる時ふと思ったりした。周りの人達は人間なのか 今こうして考えることをしているのは自分一人だけだろうかと。
私はこのような体験回想に「独我論的体験」と名づけたものです。
ちなみに、前回あつかったような「なぜ、いま、ここにいるのか」「なぜ他の誰かではないのか」という種類の体験は、「自我体験」と名づけられ、日本やオランダの発達心理学者によって、調査が進められています[3]。
独我論的体験の出現率は、全国4大学の心理学科目受講者に限りますが、およそ5パーセントと見積もられました。ほとんどは一過性のもので、思春期がちかづくにつれて、忘れられてしまうのです。
けれども、新たに出会った報告「事例0-4」は、それとは肌合いがちがっていました。
「人がいて自分がいるという考え方は,……どんな答えをもってしても「理解」する事はできないので,「納得」するしかしかたなかったのです」と書いているように、いまでも、他人が存在するということを、「理解」できないままに「納得」して、世の中を生きているようなのです。
これはけっして珍奇な一例というにとどまりませんでした。調査とは関係のない、授業レポートのような場で、このような体験を報告する例に、その後、一度ならず出会うことになったのです。
ハインラインや大森荘蔵のような、優れた作家や哲学者でなくとも、他人の非存在の直観を維持したまま、周囲の人にも自分自身にさえそれを隠して生活している人が、世の片隅にひっそりと息づいているらしいのです。
私はこれに、中井久夫の著書からヒントを得て、「世に棲む独我論者」となづけました。そして、学位論文提出後の4年後、その普及版というかたちで出した『フッサール心理学宣言』[4]という本の、第一章の章題としたものです。
ちなみに、この本ではまた、独我論的体験(=他人の非存在の直観)と、自閉症や統合失調症における変容した他者体験との違いを、多数例の比較に基づき明らかにしています。それによって、以後、私は、他人の非存在の直観を、心理学的精神病理学的に説明するのではなく、哲学的形而上学的に考察する道を歩むことになったのでした。
6-2 私は中世インドの貿易商人として航海していた‥‥
それにしても俄然、気になり出したのは、「誰が」この、「事例0-4」のような他人の非存在の直観を今も生きるような文章を書いたのか?でした。
もし、調査協力者である某大学の心理学履修学生の一人という「実在の他人」が書いたのであれば、その「彼」から見てこの私は「中身は空」つまり、ゾンビみたいなものになってしまいます。
でも、「事例0-4」に共感する私が、それゆえに、他人の非存在の直観に忠実であろうとするならば、「事例0-4」の報告者がゾンビということになり、この報告は、端的に「まちがい」ということになってしまいます。
そんな日々の続いたある夜、次のような夢を見たのです。
――私は中世インドの商人になって、貿易船に乗っていました。はるかインド洋の水平線を眺めていたことが印象に残っています。貿易商という本業のかたわら、私には別の目的がありました。世界中から、独我論的体験事例を記述したテクストを収集することです。
そんなある日、船の上で気がついたのです。これらの体験事例テクストは、私自身が書いたものだということに。
私は特に、中世インドの貿易について興味をもったり、調べたりしたことはありません。そういったことに少しでもかかわるような、歴史書も小説もマンガも読んだことはありません(そもそもそんな小説もマンガも日本にはないはずです)。
心当たりがあるとすれば、アンデルソン=インベルというアルゼンチンの作家の「魔法の書」という短編です。
6-3 さまよえるユダヤ人が書いた本
ある古代史学者が、古書店の片隅で珍しい本をみつけます。かれの知識にもない未解読の文字で書かれた古文書でした。
買って帰って眺めているうちに、なぜか読めてくることに気がつきます。
けれども、一服して戻ると、もう、読めない文字に戻っています。
どうやらその本は、最初から読み続けているあいだだけ、読める文字に変化するようなのです。
古代史学者は、その晩は一睡もせず読み続けました。それは、キリスト処刑の日から、死ねない運命となって地上をさすらう、さまよえるユダヤ人の自伝的な物語でした。
そして、終わりまで読んで、彼は思い出したのです。この本をかつて書いたのは、自分自身であったことを‥‥[5]
本題にもどると、この夢が深い印象を残したことは事実です。
私は、今回、この記事に引用するにあたって、その当時書いた夢日記をひっくりかえしてみたものです。
けれども、元の記録は見つかりませんでした。
それでも、見たことだけは確実なのです。そして、この夢をきっかけとして、放りっぱなしになっていた遍在転生の理論を、もう一度取り上げてみようと思い立ったことも。
6-4 研究会で本を企画するが難題を課される
そのうちに、友人たちと運営している「人文死生学研究会」という研究会で、会の創生以来の成果を出版しようという話が持ちあがりました。
原稿をまとめ、編者のひとりの仲介で、死生学関連の出版では実績のある、人文系出版社に持ち込みました。
ところが担当になったベテランの編集者が、なかなか首を縦に振ってくれません。
理由を尋ねると、「輪廻転生が入っているから」というのです。
じっさい、この研究会では、執筆者のひとりが以下に回顧しているように、輪廻転生が話題になることが多かったのです。
今日、死生学という言葉は流行語になっているが、そのほとんどはターミナルケアのノウハウか、死生観に関する歴史研究であって、〈私〉自身の〈一人称の死〉を考えるものではない。(まして、「輪廻転生を考える」ことなど、通常はありえないと思われる。)そうした意味で、人文死生学研究会の存在は希有なものであり、もしも将来、『二一世紀の思想史』といった書物が書かれるとすれば、特筆すべきエピソードの一つではないかとさえ思う。
けれどもまさにそれが、ネックになっていたのです。
この編集者の方は、分析哲学オタクと称されるほどにその領域に通暁しているということで、分析哲学界隈で一般的な、科学と論理を重んじて伝統的宗教的な蒙昧を厳しく退ける、という姿勢からして、輪廻転生には字面だけで拒否反応を起こしてもむりはないところだったのでしょう。
じっさい、出版が決まり、編集の段階になってからも、厳しいご批判をいただいたものです。
独我論的「体験」のような主観的経験から出発するという「内在的視点」を取るのであれば、それに徹底すべきである。それなのに、転生前のこの私と、転生後の「誰か」が同一人格であると、同定する際には、外からの外在的超越的視点を密輸入しているのではないか‥‥
とにかく、『人文死生学宣言:私の死の謎』[6]と題して、何とか出版されたものの、この批判に、当時の私は答える術をもちませんでした。
ようやく答えをみいだすまでに、またしても長い年月が流れました。
答えは、「他人とは可能世界における私である」、というものでした。
だから、転生とは、可能世界と現実世界のあいだの転生でなければなりません。まさに、一種の異世界転生なのです。
これだけではよく分かりませんが、説明するには、現代分析哲学の最前線のテーマの一つである、可能世界論に触れないわけにはいきません。
それが、次回のテーマとなります。
参照文献
[1] 中井久夫(2011)『世に棲む患者』ちくま学芸文庫.
[2] 渡辺恒夫(2009)『自我体験と独我論的体験』北大路書房.
[3] 高石恭子 (2016)「訳者解説――自我体験研究の展望」.D.コーンスタム『子どもの自我体験:ヨーロッパ人における自伝的記憶』(pp. 246-263),渡辺恒夫・高石恭子(訳).金子書房.
[4] 渡辺恒夫 (2013)『フッサール心理学宣言』講談社.
[5] アンデルソン=インベル、E.(1990)「魔法の書」(鼓直/訳)『ラテンアメリカ怪談集』(pp.159-192).河出文庫.
[6] 渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編 (2017)『人文死生学宣言:私の死の謎』春秋社.
