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ファクトチェック#04 石内都インタビュー等発言 【ジェンダー、写真史等事実誤認】


⚫︎先行事例の認識

・石内の〈ヒロシマ・コレクション〉の認識

2007年に初めて被爆資料を撮影している時点(発表前の段階)で石内は、土田の〈ヒロシマ・コレクション〉の存在を唯一の先行事例として認識している。

【リンク01】(Culture Power)石内都×岡部あおみ 2007年6月25日

【注】何で私が広島撮んなきゃいけないの?(2007)>後記
【参考】土田ヒロミさんが広島コレクションといって遺品集を作ってます。でも私の写真とは全く違います。(2007)
石内が用いる「〜とは全然違います」という言説は、先行作品からの影響を示す一つの傍証となり得る。実際、石内の横須賀作品には東松照明および森山大道の明確な影響が認められるが、それにもかかわらず「二人とは異なる」「横須賀は自分にしか撮れない」と主張するという、同種の論法が用いられている。

【リンク02】(日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ)石内都 オーラル・ヒストリー 第2回(インタヴュアー:小勝禮子、中嶋泉) 2011年1月13日


【注】東松照明さんと森山大道さんの横須賀を見て、「これじゃないぞ」と思ったの。〜私のとは違う。
石内が土田の〈ヒロシマ・コレクション〉との差異を強調するほど、構図やコンセプトの類似性(一部は酷似)への言及は不可避となる。撮影依頼を受け広島へ向かう前に、どのように被爆資料を撮影するか逡巡していた石内に某カメラメーカー社員が土田の〈ヒロシマ・コレクション〉を参照する旨の助言をしたとの証言もある。被爆資料のカラー撮影は、土田ヒロミが1982年に、東松照明が1985年にすでに発表しており、いずれも石内に先行している。土田の俯瞰の構図や東松による被爆衣類のトリミングには、後年の石内作品との類似が認められる。

土田が1982年に提示・実践した「被爆資料の現在性」というコンセプトを流用したかのような説明と「資料を現在として(カラーで)撮ったのは自身(石内)が最初である」とする発言については疑義が残り、この問題については後述する。また、石内の提唱する「ヒロシマではなくひろしま」という概念についても、1960年代に石黒健治がすでに「ヒロシマから広島へ」という枠組みの提示と実践をカラー・モノクロ両方で行っている。
以上の先行事例を踏まえると、以下に挙げる史実や事実と整合しない石内の数々の発言は、先行表現との類似性に対する指摘を否定あるいは回避することを目的としている可能性が高いと推察される。

土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉について(2025年、展覧会カタログ)

・「ヒロシマ=土門拳=男」というイメージの刷り込み

【リンク03】(Tokyo Art Beat)写真家、石内都が語る写真・傷・女であること(後編)2022年2月26日

【誤】広島は、土門拳が撮ったようなイメージ
誤りである。被爆地表現はしばしば土門を起点として語られるが、その後の写真家による写真史上重要な表現は、むしろ土門とは異なる表現として展開している。これらを系譜として一括して捉えようとする発言には、印象操作という別の意図が介在していると考えられる(別記)。

【誤】「男の広島」だったと思う。資料だったの。
誤りである。虚偽発言に該当する。
石内の2007年の撮影以前に、すでに「資料ではない」広島の表現は写真史において数多く存在している(土門拳、川田喜久治、石黒健治、土田ヒロミら、長崎では東松照明)。基本的な写真史の知識があればすぐに判ることであり、掲載媒体のリテラシーの低さが窺える。
土田の〈ヒロシマ〉シリーズは1979年から既に国外で評価を得ており、現在までに国内外にて多数の展覧会作品収蔵実績がある。

【注】自分が着ていてもおかしくない普通の洋服として撮ってる。
これは、土田ヒロミが〈ヒロシマ・コレクション〉で1982年に実践したコンセプトそのものである。石内による新しい視点ではない。

石内が最初の撮影時に土田の〈ヒロシマ・コレクション〉を認識し、「それとは異なるものを撮る」と強く意識していたことは明らかである。俯瞰的に対象を記号的に切り取る構図やコンセプトには明確な類似性が見られ、剽窃が疑われるほどの共通点が複数確認される。2007年には土田作品に言及していた石内であるが、2008年の〈ひろしま〉発表以降は土田の名前や作品に一切触れず、一転して先行事例を「土門拳のヒロシマ」「男のヒロシマ」とまとめるようになった。この変化は、土田の現在も継続する被爆資料撮影を無視し、最も「現代」から遠い1950年代の土門拳を「ヒロシマ」の象徴として提示する印象操作と解される。これは、石内とは比較にならない広範囲と期間においてーつまり50年以上ヒロシマの人・風景・物を継続的かつ包括的に撮影し続け、今もなお「現在形」で作品を発表し続ける土田の仕事を矮小化し、排除しようとする意図にもとれる。
土門拳以降の写真家によるヒロシマ表現は、当然ながら画一的なものではないことには十分留意すべきである。

(参考:被爆地(ヒロシマ・ナガサキ)写真表現史:写真集・出版物


・先行事例への写真家の姿勢(参考)

Pour Hiromi Tsuchida, qui fait à l'origine de ce travail.  -Michel Aguilera
(これらヒロシマの仕事の原点である土田ヒロミさんへ  -ミッシェル・アギレラ)

Michel Aguilera, Les vêtements de Hiroshima, 2009

(参考)石内とほぼ同時期の2009年に、フランス在住写真家 ミッシェル・アギレラは広島平和記念資料館所蔵の被爆資料や被爆者の撮影取材をした作品集を出版している。写真家から土田に送られた作品集には、先行事例である土田の仕事への言及がある。被爆資料や被爆者という多くの事例がある被写体ではないが故にこういった言及は撮影者の姿勢としてむしろ自然なことであり、だからこそ石内の頑なに土田の存在を排除する姿勢はあまりにも不自然極まりないと言えるのである。


フランス人アーティストマリ=アンジュ・ギュミノ(b.1960)は土田の『ヒロシマ・コレクション』からインスパイアされたヒロシマをテーマにした作品制作を展開しており、作品が展示される際には必ず土田の『ヒロシマ・コレクション』とヒロシマの仕事について言及し敬意を表している。


・土田の〈ヒロシマ・コレクション〉との類似性

1982年に土田によって提示・実践されたコンセプトをあたかも石内自身が発見したかのように語っている発言は多数確認されている。

【リンク04】東京都者美術館作家解説 [総合開館30周年記念 作家の現在 これまでとこれから 2025.10.15(水)—2026.1.25(日)]

【注】女性たちはもんぺの下に、お洒落でちゃんとしたものを大事に着ていた/戦禍を受ける前の暮らしへと思いを馳せながら
「もんぺの下にワンピースを着ていた」という事実は、土田ヒロミが1982年に発表した〈ヒロシマ・コレクション〉の代表作品である《ワンピース(寄贈者:小川リツ)》においてすでに言及されている。目の前の資料を「コンテンポラリー(現在)」として即物的に撮影し、人々の日常と現代の日常を結びつけるコンセプト(さらに土田の場合は、文字で過去の事実を並列し「写真=現在、文字=過去」という二重構造が重要)については土田が1982年に確立した方法論であり、それらを「石内が初めて見出した」かのようなミスリードを促すこの解説文は、写真史の文脈において適切ではない(補足として、「ちゃんとしたもの」という特定の衣類を差別するような表現も、解説として不適切である)。

ワンピース

寄贈:1974年1月30日/寄贈者:小川リツ(小川節子さんの母親)/570×820mm 小川節子さん(当時21歳)は第五師団司令部(爆心地から790m)で朝の体操中に被爆。縮景園に逃げたが、火の勢いを避け京橋川に浸っているところを兵隊に助けられ、師団司令部に収容された。9日、似島に転送されたが、11日に死亡。この絹のワンピースは、上着とモンペの下に着けていたもの。

土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉《ワンピース》1982 ©Hiromi Tsuchida

石内による(自身以前には)「男のヒロシマ」「モノクロの資料写真しかなかった」という粗雑な認識と史実に沿わない分類は、2008年以降、石内とその作品を評価する専門家によって、繰り返し用いられてきたものである。基本的な写真史の素養があれば、土門拳から土田ヒロミまでの表現を一括りにして語ることなど到底考えられないことだが、驚くべきことに、新聞記者や編集者、美術ライター、美術研究者や美術館学芸員ら「美術の専門家」はほとんど写真史や写真技法の専門知識を有しておらず、これらの誤った発言を鵜呑みにしたのである。発言の根拠の裏付けや検証さえなされぬまま、著名なキュレーターや大学教授までが「男性写真家」を敵対するような事実誤認の発言をそのまま事実と信じ込み、類似の論考が多数発表・発信されてきたことこそが本件の問題点の核心である。

【リンク05】 Culture Power イントロダクション 岡部あおみ 2007

【誤】ドキュメンタリーへの不信や写真の虚構性
作家がそれをコンセプトに掲げることは自由だが、「ヒロシマ」というテーマにおいてドキュメンタリーを否定する表現のみを手放しで絶賛することが適切かという問題は、写真を多くは表層的なビジュアルに重きを置いて評価してきた美術史の価値観ではなく、報道写真含めた写真史の観点から根本的に再考する必要があるだろう。

【誤】自らの欲動や鼓動と共に直感的にフレームで切り取ることを当然の習わしとしてきた「男性」写真家たち
誤りである。岡部が一体どれほどの写真史の学習と過去の写真家・写真表現を検証した上でこの発言をしているかは不明だが、写真史の知識をほとんど持たず、石内の発言をそのまま受けた「男性写真家のイメージ」として語っているとしたら、事実誤認であり、虚偽発言である。
土田ヒロミの〈ヒロシマ三部作〉のコンセプトは、岡部の言う「欲望・鼓動・直感的」といった概念とは真逆である。むしろ石内都の〈ひろしま〉こそが直感的で情動的な写真に該当するであろう。

同類の事実確認や検証を怠った記事やインタビューなどが、幾つもの発表され、その引用の連鎖によって誤った論説が既成事実となっていく。

・他ファクトチェック事例(中学国語教科書・現代思想記事・研究論文他)

また、2022年に発表された下記論文は、2008年から10数年間に美術界で美術関係者の間で実しやかに語られてきた数々の事実誤認の写真史を総括するかのような、杜撰なリサーチに基づく、写真表現史の改竄に等しい酷い内容である。執筆したのは萩原弘子・大阪府立大学名誉教授、日本におけるフェミニズム研究の先駆けであり研究者として実績のある人物だが、日本の写真史に関しての知識はほとんど有さずまたリサーチや相対的な学習もほとんどなされていない。土田に関する表記だけでも数十箇所を超える事実誤認、誤りが確認されている。

【大学を通し著者から論文取り下げ意向有り(ファクトチェックと事実確認は継続中:2025年10月20日)】
・ヒロシマからひろしまへ―石内都の写真シリーズ『ひろしま/hiroshima』に促される視線
萩原弘子 大阪府立大学人文学会 人文学論集 抜刷 第40集(2022年3月)


⚫︎写真技法の解釈の誤り

・テーマの重さとカメラの重さ/大判カメラへの偏見流布

【リンク06】(ArtiT)石内都インタビュー(2)聞き手・やなぎみわ 2010年8月14日

【注】テーマの重さとカメラの重さは関係ないと。
悪質で不用意な発言である。
「写真家」であるはずの石内都とやなぎみわがこのような発言を敢えて行うのは「(古い)男たちはカメラの重さをテーマの重さと比例させてきた(しかし、我々女たちは違う)」との印象操作が狙いであろう。しかしながら実際は、広島を撮影する男性写真家の多くは35mmを使用している。
土田ヒロミは〈ヒロシマ・コレクション〉を大判カメラで撮影しているが、「テーマの重さ」でカメラを選択してきた事実は一切ない(理由は下記)。

【誤】大判カメラを使う理由が「広島に失礼があってはいけないから」
誤りである。石内の個人的な思い込みと自己正当化である。日本写真史において、そのような理由で大判カメラを使用している写真家の存在は確認できない。
推察するに、これは「石内自身に大判カメラを使用する技術や労力がない」ことを正当化するための釈明であり、使用に伴う負担を「ネガティブなイメージ」として転嫁する印象操作である。特に、先行する写真家の明確な意図やビジョンを根拠なく矮小化し、自身の後発のコンセプトを際立たせる手法は石内が頻繁に用いてきたものである。この点に関しては、写真家としてのモラルや矜持だけでなく、事実検証を怠って発信した者たちの資質も問われるべきである。

そもそも写真家がカメラを選択する理由は、石内の言う「テーマの大きさにカメラを比例させる」といったことではなく、コンセプトに沿った画質の確保という技術的必然性によるものである。例えば、土田ヒロミは広島の被爆者撮影に35mmカメラを用いたが、これはファミリーフォトのように自然な表情を捉え、被写体に威圧感を与えないためである。一方、風景や被爆資料の撮影に大判カメラを用いるのは、拡大に耐えうる画質で被写体の細部まで鮮明に記録するための技術的必然性によるものである。

【リンク07】広島市現代美術館 石内都〈ひろしま〉作品解説

広島市現代美術館の解説文においても、石内都〈ひろしま〉シリーズを評価する際に、先行する写真家の手法を否定しつつ石内の方法論を過度に強調するという、常習的な評価パターンが踏襲されている。また、この記述には、執筆者の写真技法および写真史に関する理解不足がうかがえる。
 解説文で特筆されている「35mmフィルムカメラを手持ちで用いる」手法は、写真制作において最も一般的であり、独自性や高度な技術を示すものではない。むしろ、大判カメラや三脚を用いた撮影の方が労力と技術能力を要するため、それらを「用いないこと」を評価価値として強調する根拠は乏しい。同じ被爆資料の先行撮影作家である土田ヒロミの手法との差異を示すこと以外の目的は見出しにくい。
 また、「大判カメラも三脚も」とまるでそれらを用いることを否定的に捉える文体が用いられていることに着目したい。しかしながら実態は、石内は35mmフィルムで撮影した写真を大幅に拡大してプリントしているが、その拡大率は35mmフィルムの解像度の限界を超えており、エッジの不明瞭さや細部の欠落といった画質上の問題を生じさせている。表層的な布の肌理、繊維の質感や形状表現を重要なテーマとしているはずの石内にとって、この不明瞭さは致命的な欠陥であると言える。これらは「大判カメラや三脚を使用しない」撮影方法に起因する重大な技術的欠点項目として挙げられる。つまり、出力サイズを含めた石内の制作目的と採用技法の間には構造的な不整合が明確に存在しており、その原因は「大判カメラも三脚も用いないこと」にあるのである。

・大判カメラやストロボの重要性

2025年夏、中之島香雪美術館で開催された「土田ヒロミ写真展  ヒロシマ・コレクションー1945年、夏」(6月28日−9月7日)では1982年から2024年までに撮影された被爆資料の写真がモノクロとカラーを混在させる形で展示された。1メートルを超える大きさでほぼ実物大に拡大された衣類などについて(それがモノクロであっても)「あまりにリアルで、壁に実物の服が貼られているかと思った」という声が来場者から多く寄せられた。繊維の一本一本や付着する埃まで精密に写し取り、モノクロとカラーそれぞれの質感、カラーの場合は実物以上の色を再現することが可能となったのは、適切なストロボと大判カメラを使用しているからである。

「土田ヒロミ写真展  ヒロシマ・コレクションー1945年、夏」(6月28日−9月7日)会場写真


⚫︎ヒロシマに関する歴史認識と学習

・ヒロシマへの無知と無関心

【リンク01】(Culture Power)石内都×岡部あおみ 2007年6月25日

【誤】広島ってほとんど撮りつくされてて、あらゆる写真家が広島長崎を撮ってますね。
明らかな誤りである。広島・長崎は、記録写真としては数多く撮影されてきた一方で、写真表現の主題として写真家たちに積極的に選択されてきたテーマとは言い難い。1945年の原爆投下以降、時間の経過とともに被爆の痕跡が不可視化するなか、「目に見えるもの」を対象とする写真にとって、ヒロシマ・ナガサキは視覚化の困難な対象であった。また、土門拳、川田喜久治、東松照明らが被爆地を撮影する契機となったのも、最初は雑誌等の依頼によるものであり、土田ヒロミのように自発的に被爆地へ向かった事例は稀である。その結果、広島を作品表現として継続的に扱った写真家の数は、同時代的な記録・表現が可能であった沖縄などのテーマと比較しても、主題の歴史的重要性に比して極めて少ない。したがって、この石内の発言には根拠がなく、虚偽と判断される。

【注】何で私が広島撮んなきゃいけないの?(2007)>リンク1
【注】「広島的なもの」「人生の中で一切ない」
この言葉一つで、石内の広島への姿勢がうかがえる。
理解さえできていないものを「撮る必要がない」と考え、「一切ない」と判断。広島に関してはとにかく「先入観で決めつける」傾向と、1990年代に写真家たちが行ってきた広島の撮影史や作品にほとんど関心を示していなかったことがうかがわれる。「あらゆる写真家が広島・長崎を撮っている」といった不用意な発言も、無知と不勉強さの表れである。

・ヒロシマの虚偽イメージの形成と流布

【リンク03】(Tokyo Art Beat)写真家、石内都が語る写真・傷・女であること(後編)2022年2月26日

【誤】広島へのアプローチも独特です
誤りである。石内のアプローチは「独特」ではない。
遺品・資料が今もなお寄贈されることへの着眼と、それを撮影し続けるアプローチについても土田ヒロミが先行している。

【注】広島のモノクロ写真しか見たことがなかった。
石内個人の偏見に過ぎず、一般的事実ではない。
ヒロシマのカラー写真の撮影・発表事例は、2000年以前にもすでに多数存在している。

【誤】被爆者には地味なモンペを履いているイメージ
誤り、事実誤認である。
これも石内個人の偏見と意図的な印象操作であり、事実ではない。1983年に「アサヒカメラ増刊」に掲載された土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉全 72カットのうち、モンペはわずか1点、対してワンピースは5点も掲載がある。また、1995年に刊行された『ヒロシマ・コレクション』(NHK出版)に収録された約150点の作品のうちでもモンペは1点にすぎず、その他の大半はワンピース、シャツ、ジャケットなど現代においても日常的な衣類や生活用品の写真で構成されており、それこそが土田の当初からのコンセプトである。

【注】広島は、たとえば土門拳が撮ったようなイメージ
ヒロシマの写真表現史は、1960年以降、土門拳の表現とは異なる方向で大きく展開している。特に、1960代の川田喜久治の『地図』(1965) 、1970年代の石黒健治『広島 HIROSHIMA NOW』(1970) や土田ヒロミ「ヒロシマ三部作」(「原爆の子」(被爆者)、〈ヒロシマ・モニュメント〉広島の風景、1982年の〈ヒロシマ・コレクション〉)など、また、被爆地の写真表現においては、1961年からの東松照明の長崎における『〈11時02分〉NAGASAKI』(1966)のモノクロからその後のカラーへと至る画期的で継続的な表現について言及しないわけにはいかない。石内がこれら先行事例を意図的に無視している点と、その背景については、前述の通りである。

【誤】「男の広島」だったと思う。資料だったの。
誤り、虚偽発言である。
石内が2000年以前の被爆地における表現を一括して「資料」と位置付けること自体も問題であるが、さらに看過できないのは、その発言を違和感なく伝える媒体の無知である。写真家としての実績や評価において石内を上回る先行する表現者たちの仕事を「資料」と断じる根拠は存在しない。加えて、石内の虚偽や虚勢にジェンダー(むしろ性差)の問題を持ち込み論点を歪めることで、聞き手がその「詐話的ナラティブ」に自らの共感や野心を重ねるなど、発言の史実的検証を怠ったまま情緒的に賛同していった可能性が高いと考えられる。
土田の〈ヒロシマ〉シリーズは1979年から現在まで、国内外の美術館で展示・作品収蔵がなされている。「資料」であればそのような展開は起き得ない。

【誤】いままでの写真は報道という役割もあったから、どうしても説明的で、社会的なものとしての広島をとらえてきた
誤り、事実誤認あるいは虚偽発言である。
上述した通り、1960年代以降、広島において「報道」とは区別された「表現」としての写真家たちの試みは明確に存在し、国内外での一定評価も確立している。石内以前の表現の変遷やその意義、そして自身への影響を否定するために、「自身以前に表現は存在しなかった」とする主張は史実に反するものであり、歴史改竄に等しい虚偽発言に該当する。

【注】広島をもっと自由にしてあげたい、自由に考えようよ
写真家として長らく「モノクロ」や「ヒロシマという呪縛」に囚われていたのは、他ならぬ石内自身である。石内以前の著名な写真家たちが、石内のいう「呪縛」が広島表現の足枷となっていたという事実は全く確認できない。むしろそれに依存しない新たな試みが実践されていたというのが事実である。「自身以前の男性写真家のヒロシマ表現は不自由であり、それを解放したのは女性・石内である」という印象操作が意図されていると考えられるが、これは「ヒロシマ」の歴史や実情を十分に理解していないことに起因する発言である。
そもそも、「ヒロシマを自由に考える」とは、実に軽率で不用意な発言である。被爆者の中には、いまだ恐怖から平和記念資料館に足を運べない者や、知人・友人の無邪気な言葉に潜む差別に苦しむ者も多くいる。たった一人の被爆者との親しい交流や、わずか20年ほど被爆資料の撮影を行った経験のみで、まるでヒロシマを全て理解したかのように振る舞い「自由にしてあげたい」などと発言することの傲慢さについて、美術関係者や新聞記者らが「アート」を免罪符に石内の学習不足を容認し、自らの写真の専門知識の欠如を正当化してきた責任は重大である。

・「ヒロシマ=男、政治的、反戦平和」というイメージ歪曲と刷り込み

【リンク08】(SPUR)朝吹真理子、石内都に会いに行くーフリーダとひろしま。衣服が紡ぐ果てしない時間 

【誤】今までのヒロシマは教科書的、歴史的、反戦平和的な、まさに”ヒロシマ”のイメージ。
誤りであり、虚偽発言である。
ここでも同様の印象操作を目的とした発言がなされている。土田の〈ヒロシマ・コレクション〉のコンセプトは石内の言う「教科書的、歴史的、反戦平和的」とは全く異なる次元で組み立てられたものである。

【注】感動して涙が出てきて
石内は被爆資料や持ち主に関するデータをほとんど認識せず、資料の「画像」表層のみを見て「感動する」「涙が出る」とのことだが、その姿勢に共感や同情を得ることが目的のようにも見える。これらの反応は、石内の〈ひろしま〉を鑑賞した多くの観客やそれを賛美する者に共通する傾向であり(個々の背景や事実を省略し、象徴的に形成されたイメージに対して感動する)、その表現と反応の脆弱性については後述する。

『現代思想』 2016年8月 〈広島〉の思想 p.136 広島を「私物化」する 石内都(ファクトチェック#02参照)

【誤】みんなカタカナの「ヒロシマ」で語り継いできましたが、あれは男が言うことですからね。
誤りであり、虚言である。
「ヒロシマ」という表記を男性特有の発言や表現に限定する根拠は全く存在しない。
 「ヒロシマ」というカタカナ表記は、性別や職業、作品名など個人的な属性に依存する価値観的次元の問題ではなく、人類史における共有すべき象徴的概念として、単なる地名表記と区別される意義を有するものである。この発言は男性写真家への侮蔑的発言とも取れるとともに「ヒロシマ」についての理解と認識不足を示すものである。石内は「ヒロシマ」というカタカナ表記を否定しつつ、個人の自己表現としての評価においてはヒロシマの象徴性を最大限に利用しており、そのダブルスタンダードは明らかに論理的整合性を欠いている。

【注】女である私が女物を撮っている
石内の当初のコンセプトはまさに「女が女物を撮る」であり、その点については紛れもなく「初めてのことであった」と言える。しかし、この「女性性」を強く打ち出したコンセプトは時代とともに徐々に背後へ移行し、近年では、すでに土田が1982年に提示した方法論に類似する内容を語ることが増えている。つまり性差のない、ユニバーサルな趣旨ということである。
現在石内は男性に関連する被爆資料も撮影している。

⚫︎歴史の学習やデータ軽視について

・美術館学芸員の写真史知識の欠如

【リンク09】毎日新聞 2025/8/13 東京夕刊
「ひろしま」を撮る 写真家・石内都さん  被爆者遺品にひかれ 記者:高橋咲子


石内都と長年にわたり個人的かつ密接な関係を築いている代表例として、広島市現代美術館の特定の学芸員が挙げられる。この関係性の影響により、同館が「ヒロシマの表現史」から土田ヒロミを意図的に排除してきた事実については別途記述する。同館においては、石内のヒロシマに関する認識の甘さを指摘するどころか、学芸員自身の写真知識の不足と相まって、石内の姿勢を擁護する方針が一貫して維持されている。

「人の体験を収奪したりということを、石内さんは絶対にしようとしない」(松岡剛学芸員)
例えば「他人の遺品の写真を私物(作品)化し高額で売る」=「ヒロシマを売る」という行為は「収奪」には該当しないのだろうか。(本問題>別ページリンク)
また、1982年に土田が確立した〈ヒロシマ・コレクション〉の「資料の現在性」というコンセプトを石内が「剽窃・収奪」しているという指摘もあり、その事実を隠蔽するかの如く唯一の先行事例である土田作品を美術館のコレクションから排除し、石内作品のみを評価しさらに石内の姿勢を擁護するこのような発言を平然と行う学芸員の倫理観は問われて然るべきである。

「自分がひかれるものをひかれるままに撮るというまっすぐな表現で、原爆と表現を巡って横たわる難しい問題を一気に飛び越えた。」(松岡剛学芸員)

石内都の〈ひろしま〉の表現は「原爆と表現を巡る困難な問題」にそもそも対峙しようとしていない。「飛び越えた」のではなく、「向き合っていない」と表現すべきである(カタカナの「ヒロシマ」を否定している時点で、その姿勢は明白である)。ヒロシマの問題や歴史、被爆資料が持つデータや背景にはほとんど触れられず、「広島の被爆資料」は石内の自己表現とその評価のための重要なモチーフとして機能するのみである。作品からは、資料個別の持ち主の存在や実際に起きた事実は消失し、「広島の美しい遺品」という漠然とした象徴性のみが残る。

このような表現は、現代美術のひとつの在り方として位置づけられることは間違いないが、それのみを賞賛し「難しい問題を一気に飛び越えた」などと安易に評価することは、公立美術館として極めて危険な姿勢である。事実として、広島市現代美術館は、特定個人(石内)にのみ利益が及ぶ立場を継続的に与え、学芸員個人の裁量により、歴史的に重要なヒロシマの表現を意図的に排除してきたことが確認されている。同館における「ヒロシマ」を巡る評価は、原爆非体験者である学芸員によって行われ、被爆者の声や当事者たちの意見など反映されることもなく、「アート」を免罪符として独断的な解釈や評価基準が精査されない状況が続いている。
石内の〈ひろしま〉が「ヒロシマのための表現」ではなく、「ヒロシマを利用した自己表現」であることを学芸員たちは認める必要があるだろう。よって、「ヒロシマ賞」という趣旨の賞に石内都をノミネートし続ける前述の学芸員の判断基準などは極めて個人的なものであると判断され、公平性を欠いていると言える。「ヒロシマ」に本質的に向き合うドキュメンタリー的表現を排除・無視した上で、石内の表現のみを「ヒロシマの表現」とする広島市現代美術館の価値基準や判断の不透明性については、その根拠を明確に問う必要がある(この問題については別途言及:リンク)。


2000年頃以降、美術館教育の領域では、歴史やコンテクストを軽視し、「楽しく鑑賞すること」「難しく考える必要はなく、美しさを享受すれば十分である」といった思想が台頭してきた。これは、1980年代にアメリカで提唱された「対話型鑑賞」が、日本に周回遅れで導入され、一部で誤った解釈のもと普及したこととも関連していると考えられる(>>参考リンク)。文字通りの「自由」が都合よく解釈され、歴史や基礎的知識の学習が軽視され、それを正当化する勢力が形成されたのである。
さらに、学校における平和教育においても、子どもたちに対して「過酷な現実や真実から目を逸らさせる」「残虐さや悲惨さを見せない・覆い隠す」といった傾向が顕著である。平和記念資料館の展示に関する議論(2017年)や、ヒロシマに関する平和学習教材からの『はだしのゲン』削除(2023年)に関する議論など、重要な点であるが、これらの問題については今回は割愛する。
21世紀の幕開けとともに、ドキュメンタリーや学問・知識軽視がアカデミックの世界にも押し寄せる中で、「ヒロシマの歴史」において、実際に起きた残酷で悲惨な事実と対峙することを巧妙に回避しながらも、それでも「ヒロシマ」をテーマに掲げているという姿勢を示すことができる石内都の〈ひろしま〉の表現は、時代の空気と親和性が高く、美術館学芸員にとっても有益な表現であったと考えられる。

石内が〈ひろしま〉で強調する「戦時中もおしゃれをしていた」という側面を愛おしむこと自体は否定することではない。しかし、その側面のみに傾倒した作品群は、時代状況によっては「戦時中の生活も悪くない」といった誤った解釈や思想に誘導する可能性がある。こうした表現はヒロシマの歴史理解として非常に脆弱であり、将来の為政者による都合の良いプロパガンダに利用される危険性を含むことを忘れてはならない。原爆投下がもたらした現実を「緩和した」柔らかな表現のみが賞賛される状況は、事実の矮小化と美化を助長する。さらに、海外、特に第二次世界大戦戦勝国においては、原爆投下の事実に対する贖罪意識を回避しつつ、ヒロシマへの意識を保持しているかの体面を整える手段としても機能する。事実をありのままに表現せず、現実の一部を都合よく切り取り「美化や象徴性」というベールで覆う〈ひろしま〉のような表現は、原爆投下国にとって都合の良い自己欺瞞および免罪符として機能することは忘れてはならない。


・自己正当化としての「自由」

【リンク03】(Tokyo Art Beat)写真家、石内都が語る写真・傷・女であること(後編)2022年2月26日

【注】広島をもっと自由にしてあげたい。自由に考えようよ

一体、石内は「誰を何から自由にしてあげたい」と考えているのだろうか。文脈上は「説明的で社会的なもの」からの自由を指すものと思われるが、そのような発言が可能となる傲慢さは、ヒロシマの歴史や写真史、先行する写真家たちの仕事について十分に学んでいないことに起因していると考えられる。石内は2007年以降、被爆資料の撮影においておよそ20年程度の経験しか持たず、特定の親しい被爆者との交流はあるものの、異なる境遇や背景をもつ複数の被爆者への取材や、被爆に関わる風景の撮影など、ヒロシマに関する多角的・重層的な視点を持っていたとは考えにくい。また、ヒロシマの歴史や写真表現の歴史を学ぼうとする意向もほとんどなかったと思われる。

他の写真家、特に同一の被爆資料を撮影している写真家たちに対する敬意や関心の欠如は、いくつかの発言から明白である。したがって、正確に学び理解していない対象についてその「自由・不自由」を判断することは困難である。「説明的で社会的なもの」が「不自由である」とする主張は、ポピュリズムの常套手段であり一定の大衆支持を得るだろうが、問題は、美術専門家が写真の専門知識を欠いたまま、石内の「架空の不自由さ」「虚構の男性写真家像」といった仮想敵ーーナラティブとヘイトを吹聴し、共感と憎悪を煽る虚勢に共鳴・賛同してしまった点にある。

さらに、石内は歴史的学習や被爆資料に関するデータへの関心がないと述べるが、実際には「データに縛られず、自らの感覚で自由に表現したい」、すなわち「データの扱いや整理は面倒である」というのが本音であると推察される(大型カメラ使用に関する発言も同様である)。この意味での「自由」は、被爆資料に関わるデータや持ち主の存在を無視するための釈明(エクスキューズ)であると解釈できる。実際には、石内以外の写真家の誰一人として「不自由さ」に囚われたヒロシマの表現など行っておらず、逆に、「説明」や「社会的である」ことは、作品にとって重要で不可欠な要素なのである。石内個人にとって不要なもの、理解できないものを「=不自由なもの」として総意のように語る論法はすでに何度も述べた通りであり、事実ではない。

被爆地に深く関わる写真家たちは、それぞれ異なる方法とアプローチで長崎や広島に関する事例や文献、聞き取り等のリサーチを綿密に行っており、その多角的な知識や視野の裏付けにより、作品表現は時代の経過とともに記録性と重要性を増し、重層的で持続的なリアリティを獲得している。彼らが多方面からの探究を重ねるのは、ヒロシマもナガサキも容易に理解できる問題ではないことを理解しているからであり、多くの被爆者と直接接し、自らの良心と向き合いながら、表現と自己のエゴの狭間で葛藤する過程を経ている(引用:アサヒカメラ)。また、当事者ではない個人の感覚のみでヒロシマの表層を撫でて「理解した気になる」状態に陥ることを注意深く避けるためでもある。
リサーチや歴史学習は、作品制作における必然性から行われており、その研鑽を経た上で到達する視座がある。一方で、これらの過程を経ず、個人の感覚を優先しながら歴史や思考を軽視する石内が、自らの限られた視野の範囲でヒロシマを理解したかのように「もっと自由に」と主張することは、単なる明確な信念や裏付けを欠いた虚勢に過ぎない。


・「がんじがらめの遺品」というイメージ流布

【リンク15】中国新聞 (2013年10月9日朝刊掲載)(林淳一郎)

【誤】初めて訪れた被爆地は戦後の反戦平和の歩みに「がんじがらめ」
誤りであり、印象操作である。
石内が広島を初めて訪れたのは、ヒロシマの写真史から見ても極めて遅く、2007年である。長く被爆地を見てきた写真家の発言であればまだしも、初訪問ゆえに比較対象はなく、石内が用いる「がんじがらめ」という定義には根拠がない。被爆60年という節目を通過するなかで、反戦平和を訴える切迫した叫びや怒りは後景化し、逆に、平和公園の式典の日の光景は賑やかで華やかな祝祭、お祭り騒ぎへと化し、全く異なる様相を呈していたこと、むしろそのことへの不安を土田は『ヒロシマ2005』(NHK出版、2005)に記録している。石内の撮影の2年前である。
またそれ以前においても、変動する社会状況の中で、反戦・平和活動が一様に継続していたわけではない。土田がヒロシマの撮影を開始した1970年代には、こうした活動が一時的に下火となる時期も存在した。ヒロシマの歴史に関する知識や経験を欠く場合、固定化されたイメージに流されやすいが、実態はより多様である。
2000年代には、「反戦平和」という真剣かつ正当な実践に対して冷笑的態度を取るシニシズムが蔓延しており、そうした時代状況が石内の言動を後押しし、加速させたと考えられる。しかし20年を経て、当事者として「反戦平和」を訴える人々の数は激減した。一方、土田の作品は「反戦平和」を直接的に主張することはないものの、鑑賞者にその問題を現実的に思考させる構造を備えている。これは1982年以降、土田が確信をもって一貫してきたコンセプトであり、忘却や偽善、虚偽、そして蔓延するシニシズムに対し、静かに、しかし強く長期的に対抗する方法論なのである。

土田ヒロミ『ヒロシマ2005』(NHK出版、2005)


・〈ヒロシマ・コレクション〉への無知・無理解

【リンク】中国新聞(2013年11月2日朝刊掲載)(山本和明)

【誤】誤りであり、イメージ操作である。
石内よりも25年以上早く、土田は1982年の時点で「ヒロシマの反戦平和」というスローガンや原爆の悲惨なイメージから完全に切り離して被爆資料を撮影するというコンセプトを〈ヒロシマ・コレクション〉で実践している。コンセプトは「ありのままの被爆資料」である。演出による悲惨さや恐怖といったイメージ操作や自由で勝手な解釈はリアリティを失わせる。作家性や演出を徹底的に排除した「ありのまま」の撮影に徹している。写真で現在のリアリティを、文字で過去のリアリティを表現し両者を共存させる構造である。
写真表現として唯一の先行事例である土田のこれらのコンセプトを無視するどころか、「反戦平和」という土田の意図とは真逆の虚偽イメージを先入観として刷り込み、後発の自身の作品と差別化しようとしている。このような内容を執筆したのがいずれも中国新聞の記者であることは大変遺憾である。

石内は、とりわけ、先行する土田の〈ヒロシマ・コレクション〉との明確な「違い」として、土田の「テキスト(データ)重視」の姿勢をかつて「資料集」と揶揄した(冒頭引用部)。自身が重視しないデータを重要視する土田の制作コンセプトを「不自由」と分類したい意図があったと考えられるが、土田の〈ヒロシマ・コレクション〉においては、文字情報は写真と等価に扱われ、現在しか撮れない写真に過去を遡れる文字を対等に組み合わせた点が、土田の慧眼である。また、徹底した記録=アーカイブがユニバーサルなアートになり得ることを実証として示したこと、時間の経過とともにその要素がさらに強固となることも土田の〈ヒロシマ〉シリーズの特徴である。これに対し、データを不要と切り捨て、写真の表層的構図のみに注目していたと思われる石内の姿勢は、2007年時点における〈ヒロシマ・コレクション〉の本質的価値を大きな盲点とともに見誤っていたと言える。

被爆資料にまつわる重要なデータを完全に放棄し、「被爆資料を私物化」したことがどのような事態を導くかについて、以下にいくつか例を示す。


・様々な被爆資料を「遺品」と一括りにし情緒性を煽る

【リンク04】東京都写真美術館作品解説[総合開館30周年記念 作家の現在 これまでとこれから 2025.10.15(水)—2026.1.25(日)]
展覧会ポスター

【誤】被爆者の遺品
まず、資料館の所蔵資料をすべて「被爆者の遺品」と一括りにする表現が見られるが、実際には「被爆者」以外の人物に関連する資料も多数含まれている。また、「遺品」という分類も正確とは言えず、生存者本人が寄贈した資料、寄贈者不明の資料、記録が一切残っていない資料など、背景の異なる被爆関連資料が所蔵されている。たとえば、上記展覧会ポスターに使用されている下駄は「遺品」ではなく、生存者本人が寄贈した自身の所有物である。「遺品」という情緒的表現でひとまとめにすることは、事実を正確に反映しておらず、一人一人の存在や人格を消失させ、ヒロシマという重大な出来事を単なる情緒性や象徴のみに矮小化してしまう恐れがある。


サンドラ・S・フィリップス 『From ひろしま』(求龍堂、2014)

【注】苦痛の悲劇よりも、この悲劇的な出来事によって解き放たれた多くの魂
サンドラ・フィリップスはアメリカ人である。その視点からすれば、原爆投下による倫理問題や残虐性、悲惨さといった要素は表現の陰に隠れていた方が都合が良いと考えられる。しかし「解き放たれた」とはあくまでも「撮る側」と「観る側」の都合の良い解釈に過ぎず、被爆資料の持ち主や寄贈者、多くの被爆者たちは決してそれには賛同しないだろう。ヒロシマの出来事を、当事者の魂を一纏めにして「解き放」ったとし「優しさに満ちた」あるいは「寛大」「美しさ」といった美化された言葉と具体のない象徴性に集約し事実を矮小化することは、実際に起きたことそして未だ終わりの無い苦しみや残虐さ、悲惨さを覆い隠す野蛮な行為である。こうした美化された〈ひろしま〉は、インテリア絵画としての機能も十分に果たすが(>>「ヒロシマを売る」問題は別途言及する)、資料館に寄贈された被爆資料の多くは、持ち主や親族による「事実を後世に伝え、同じ悲劇を繰り返させない」という強い思いと願いに基づいている。石内の手法により、こうした資料の意義がすべて「美的イメージ」に転換され、多様な各々の持つ事実伝達の要素が切り離されてしまった集合体が、果たしてヒロシマの事実や寄贈者の思いを後世に伝えることができるのかは、大きな疑問として残る。

・持ち主の存在と事実の消失、美化されたファンタジー(幻想)

『SPUR』(集英社)という女性ファッション雑誌上での、作家・朝吹真理子と石内都の対談に掲載された写真である。【リンク10】

【リンク10】SPUR 2016年9月号 

【誤】ロングワンピースは、ウエストから下にたっぷりとギャザーが寄せられた贅沢なデザイン
さて、この衣類がワンピースという形状であることは間違いではないが、この説明文を読む限り、ほぼ全ての人が「女性の外出時、お洒落のためのファッショナブルで贅沢なワンピース」を想像するはずである。

土田ヒロミの〈ヒロシマ・コレクション〉では、同じワンピースがこのように作品化されている。

看護師の制服

寄贈:1999年9月11日/寄贈者:大井松恵(本人)/980×1020mm 基町の広島第二陸軍病院(爆心地から1,050m)で看護師をしていた大井松恵さん(当時26歳)は、勤務中に被爆。倒壊した建物の下敷きになる。周りの建物から火の手が上がる中必死で脱出。一週間食事ができないほど重度の打撲を受けるが、背中に重傷を負った病院長らと共に救護作業に従事。この服は、被爆当日から救護作業中も身につけていた制服。

土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉2018 ©Hiromi Tsuchida


すなわち、このワンピースは「お洒落のための衣服」などではなく、被爆当時に重度の負傷を負いながら数日間の救護作業に従事していた看護師、大井松恵さんが着用していた「制服」である。さらに言えば、この制服も「遺品」ではなく、当時26歳であった大井さん自身が、長年にわたり大切に保管し続け、自身が80歳になった時に資料館に寄贈したものである。表面的な「お洒落で美しい、綺麗」といった賛美や美化は、こうしたリアリティを覆い隠してしまう。被爆し負傷しながら必死で看護に従事した大井さんの姿は、ファッション雑誌との親和性を持たないだろう。しかし、作家や編集者含めて、誰一人この被爆資料の「本当の持ち主」に思いを馳せようとしなかったことは驚くべきことである。女性作家と女性写真家が写真の表層のみを愛でながら、ヒロシマという絶対的なワード(この場合はカタカナである)から導かれる感傷性やカタルシスをも付加しているが、虚構のファンタジーに自己陶酔する姿は、複雑である。ここでも「解放されている」のは作家・写真家・鑑賞者のみであり、資料の持ち主である大井さん個人の存在に目を向ける者はいない。表層的な象徴性だけが美化され伝達される現状、観るものにある種の心地良さやカタルシスをもたらすことは確かだが、果たしてヒロシマというテーマにおいて、それだけで十分であるのかは冷静に認識すべき事実である。
石内による「広島を自由に考える」との主張とそれへの賛同が導いた結果の一つとして、このようなヒロシマの事実の矮小化とイメージの改竄が生じているとすれば、「自由」の意味と正当性について再考する必要があるだろう。

「死の淵で着ていた遺品」や「お洒落なワンピース」といったステレオタイプに美化されたイメージと架空の物語によって共感を誘う行為は、作家によって粗雑に一括りにされた象徴性の押し付けであるとも言える。たとえ多くの共感を容易に獲得できたとしても、確かに存在した人物や事実の存在は完全に置き去りにされている。
実際には、ほとんどの資料において、一人ひとりの持ち主や寄贈者に対応する確かな物語がはっきりと存在している。また、物語が「存在しないこと」の事実もヒロシマにとって重要な要素なのである(その意義の在り方は、土田の「原爆の子」取材の「拒否」に類似する>参考)。遺品であろうとなかろうと、全てを「遺品」と一括りにし、悲惨さを忌避するために個別の物語や持ち主の存在を消去し、象徴的な「美しさ」でまとめる手法は、異なる時代や表現の多様性を無視し「男のヒロシマ」と一括してまとめ上げる石内のイメージ流布の手法と同質である。

・ドキュメンタリーの力

土田ヒロミは、1970年代後半より100名を超える被爆者一人ひとりと向き合ってきたが、それと同様に〈ヒロシマ・コレクション〉においても、1982年以降40年にわたり、数百点に及ぶ被爆資料の一点一点と正面から向き合い続けている。まず、各作品のタイトル下に記された一行からは、極めて多くの情報が読み取れる。そこには「いつ、誰が寄贈したのか」という事実が示され、子どもの遺品を寄贈する親の思い、幾世代にもわたり受け継がれてきた品、自らが数十年にわたり大切に守ってきた品など、いずれも固有の物語をもつ資料が存在していることが明らかとなる。さらに、その下に添えられた数行の簡潔な記述においては、土田は鑑賞者が写真と同時に一読で物語を把握できる分量を厳密に見極めている。過度な情緒性に傾くことを避けつつも、持ち主の心情や家族の思いを可能な限り伝えるため、どの部分を削り、どの要素を何文字で表現するかを繰り返し検討し、推敲を重ねているのである。写真の下に並置されたこのテキストが、作品において極めて重要な役割を担っていることを、土田は1982年の時点で確認していたからである。

人形  

寄贈:2014年9月3日/寄贈者:濱田良子(濱田満子さんの妹)/25×65×5mm
寄贈者の姉・濱田満子さん(中学校1年生・当時13歳)は、動員学徒として鶴見橋西詰の建物疎開作業現場(爆心地から1,500m)で被爆。翌7日、父・良一さんと母・ミヨノさんは満子さんを探しに入市、大やけどの満子さんを二葉山で見つけ、8日に帰宅。満子さんは自分の容体を察し、「私が死んだら、おかあちゃんをみる人がおらんようになるねえ」と話した。満子さんは、髪が抜け、19日午前死亡。小町で被爆した兄・才さん(当時17歳)も同日午後死亡。その後ミヨノさんは2003年に98歳で亡くなるまで、朝晩の読経を欠かさず、この遺品を大切に守り続けた。

土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉2024 ©Hiromi Tsuchida



懐中時計

寄贈:1975年6月28日/寄贈者:二川一夫(二川謙吾さんの長男)/φ40 ×10mm 二川謙吾さん(当時59歳)は建物疎開の作業現場へ自転車で向かう途中、観音橋上(爆心地から1,600m)で被爆。大火傷を負い、熱に耐え切れなくなって天満川に飛び込んだ。やがて川からはい上がり自転車を引いて帰宅するが、8月22日に死亡。この時計は長男の一夫さんが父謙吾さんに贈ったもので、謙吾さんは肌身離さず持っていた。

土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉1982 ©Hiromi Tsuchida


ちなみに、下記2点は土田ヒロミが1982年にカラーで撮影した被爆資料の一部である。「モノクロの呪縛」といった枠組みなど元々存在してもおらず、明らかな事実誤認であることがわかる。

土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉1982 ©Hiromi Tsuchida
土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉1982 ©Hiromi Tsuchida



被爆80年の2025年時点で、被爆者の平均年齢は86歳に達している。被爆者自身が自らの言葉によって、あの日に起きた出来事を語り伝えることのできる時間は、すでに限られたものとなっている。2008年の時点で、石内が「説明的で社会的なもの=不自由なもの」と捉え、放棄・排除した資料に付随する膨大なデータは、そこから約20年を経た現在、当時とは全く異なる次元において、格段の重みと重要性を獲得している。そのデータの意義を1982年の時点ですでに確信し、明確な方法論のもとで作品構造の中に組み込んだ土田ヒロミの〈ヒロシマ・コレクション〉は、時間の経過とともに、そのリアリティの重要性を一層強めている。実際、2025年に香雪美術館で行われた展示(※)においても、鑑賞者の多くが作品に付随する「物語」を確実に読み取り、それに具体的な反応を示していることが確認された。

今日、世界情勢の不安定化や核を取り巻く現実、AI技術の急速な発展、さらにはフェイクニュースや歴史改竄の横行といった状況のなかで、ヒロシマをめぐる表現は、もはや単なる「美しいファンタジー」や象徴的表現のみでは対峙し得ない段階に突入している。2008年前後においては、「被爆者が不在となる時代」の現実はなお切迫したものとして認識されておらず、美術界においても、残酷な事実から目を背け「美化された」ヒロシマの表象表現を称揚する姿勢が支配的であった。しかし現在においては、そうした2008年時点の「美」をめぐる価値観そのものを再検討し、更新する必要性が明確になっている。


⚫︎「女であること」の強調/印象操作

・表現の問題を性差問題へ、論点のすり替え


石内の最も特徴的な手法は、十分な知識を欠いた状態で先行作品のコンセプトを矮小化または歪曲的に解釈させ、存在しない「架空の対象」を仮想敵として設定し、聞き手や読み手の共感を獲得する論法である。この過程において効果的に用いられるのが、「女性性/男性性」という二項対立であり、先に示した例のように、その「男性性」に「モノクロ」「ドキュメンタリー」「政治的」といった象徴的なワードが付加されることが多い。そして、すでに発表された類似の先行事例を「古い資料」と位置づけることで、「この表現は男性には撮れず、女性だからこそ撮れた」という認識を刷り込む手法が繰り返されてきたのである。アートメディアを中心として、こうした事実と異なる主張が流布され続けてきたが、問題となるのは、アート界において影響力を持つ学芸員・研究者・作家ら(多くは女性)がこれに賛同し、フェミニズムの名のもとで男性からの正当な批判や反論を封じ込める構造が形成されてきた点である。

【リンク11】(Tokyo Art Beat)「やっぱり写真は永遠に近いと思う」。写真家、石内都が語る写真・傷・女であること(前編)2021年11月24日

【注】「女で良かったな」って思ったの。
【誤】男は絶対にそういう風に思わないじゃない。
【誤】女性しか撮れない広島
いずれの主張も妥当性を欠いている。石内が〈ひろしま〉において行った実践の多くは、すでに先行する写真家たちによって試みられてきたものであり、特異なものではなく、それらは女性だから成し得たことではない。先行する写真家は結果としていずれも男性であったが、それは「男性性」による実践ではなく、写真家としてヒロシマに向き合っていた/いるのである。純粋に表現上の問題として議論されるべき論点を、性差の問題へと置き換えることは、議論の焦点を逸らす行為にほかならない。

とりわけ、一部類似性がしばしば指摘される土田ヒロミの〈ヒロシマ・コレクション〉に関しては、この表現のいかなる要素に「がんじがらめの」「男性性」を見いだし得るのかを、「女性にしか撮り得ない」とする主張を支持する論者に対して、改めて問い直す必要があるだろう。〈ヒロシマ・コレクション〉においては、写真家の「作家性」を意図的に排除し、そのこと自体が、制作上の重要なコンセプトとして貫かれている。「男性」であることはおろか、「作家」である主体すら前景化されない作品に対して、なおも「男性性」というラベルを必死で付与しようとする態度は、自身の作品との類似性を否定することを主たる目的としていると解釈せざるを得ない。


【リンク12】(ALFP Report)石内 都氏 x 若松 英輔氏 「声なき声に寄り添って―アートが紡ぐ、戦争と人間の記憶」(2015年9月)

【誤】広島も含めて「歴史」とは、結局男たちが作り上げてきたもの
誤りである。
広島が多様な「写真家の視点」によって捉えられてきたことは事実であるが、それらを一括して「男性の視点」によるものと断定する根拠は存在しない。このような事実に基づかない単純化は、石内がこれまでしばしば用いてきた印象操作の一形態である。そもそも石内は、広島の歴史を総体として論じ得るほどの体系的な学習や取材を行ってきたとは言い難く、「歴史」という概念を包括的に把握したうえで発言しているとは言えない。
また、歴史を「男たちが作り上げてきた」と定義することは自由だが、それは「女たちが(その歴史を)改竄する」権利を持つということでは決してない。

・「女しか撮れない」との刷り込み

【リンク13】(fashionpost) 身体性によって生み出される展示空間とは?写真家・石内都インタビュー(2023年5月12日)

【注】これを着ていたのが私でもおかしくはない
これは、1982年に土田が〈ヒロシマ・コレクション〉で実践したコンセプトそのものである。石内による新しい着眼ではない。

【誤】男たちによる広島写真はたくさん見てきた
石内は、先行する広島の写真表現について、それらを精査し、体系的に学ぶといったことを十分に示してきたとは言い難い。また、ヒロシマの歴史に関しても、同様である。さらに、石内に先行して数十年にわたり広島を撮影し続けてきた女性写真家・大石芳野らの存在について、石内が一切言及していない点は、看過すべきではない。

【誤】〈ひろしま〉はどう考えても女にしか撮れない
〈ひろしま〉において石内が提示する複数のコンセプトは、1982年の時点ですでに土田ヒロミの〈ヒロシマ・コレクション〉において実践されていたものである。それにもかかわらず、「女性にしか撮り得ない」という主張を繰り返すことによって、先行事例からの影響や表現上の類似性を否定し、それらを自身のオリジナリティとして強く位置づけようとする姿勢が見受けられる。重ねて指摘するならば、本来は表現論として検討されるべき問題が、ジェンダーの問題へと置き換えられているのである。

「女性であることの強調」「実在しない『男性のヒロシマ』という虚構のイメージの流布」「個人的な因縁や遺恨を、『女たち』『男たち』という大きな主語で総意のように語る論法」、さらにジェンダー(むしろ性差)の問題を巧みに「ヒロシマ」と結びつけることで、男性からの正当な反論までも封じようとする姿勢は、いわば「フェミニズムの悪用」と評価し得る。当時、美術界においてフェミニズム運動が勢いを増していたことにより、多くの女性研究者や作家、美術館学芸員が石内の主張に便乗し、これらの「事実誤認に基づく写真史」を肯定する流れに加担したことは、学術的観点から看過し難い事態であった。特に美術館学芸員にとって、自身の推す作家の評価は自らの評価に直結する。そして美術館での評価はマーケットでの評価額を後押しし、両者及び関連ギャラリーは明確な利益相反関係にある。自身が評価してきた作家にとって、不利益・不都合な事実や先行作家の存在を、権威や既得権を持つ者たちが自らの立場を利用し、隠蔽・抹消しようとしてきた事実もある。同時に、写真界全体の無関心や写真の専門美術館・専門家らの沈黙(忖度・保身)についても、一定の責任が問われるべきである。

⚫︎まとめ

石内の特徴は、常に「架空の仮想敵」と自身を比較することで自己評価および正当化を行っている点にある。作品の礎が自分自身のコンセプトであるならば、比較という発想自体本来は生じないはずである。さらに問題なのは繰り返し語られる「虚構」の多くが、「ヒロシマの呪縛」「そこからの解放」といった石内の視点で修正された写真史であり、それは広島についてよく知らない石内自身が長年囚われてきた呪縛やコンプレックスの投影でもあると考えられる。問題は、そういった「仮想敵」を克服し解放する自身(女性・石内)という虚構の物語が、「詐話的ナラティブ」としてフェミニズムを標榜する人々の共感や支持を受け、写真史の改竄にも等しい架空の物語が、写真の専門知識が問われにくい美術界において、あたかも事実であるかのように支持され流布され続けてきた点である。専門家やメディアさえも、ヒロシマの歴史への知見のみならず写真に関する基本学習や裏付け調査のないまま、多数派の勢いに流されていく形は、悪質な政治的ポピュリズムの手法と類似している。これらは、現代アート界が、成果の見えにくい堅実なリサーチや史実検証を軽視し、分かりやすい情緒性やイデオロギーに傾倒していった結果でもある。

1945年以降、ヒロシマ・ナガサキの表現の新しい試みは多くの(男女問わず)写真家によって繰り返し行われ、2000年以前の段階で幾つもの新しい表現のあり方が存在し、国内外で一定の評価がなされている。それは写真史としての事実である。石内の〈ひろしま〉についてしばしば評される「カラーで」「美しく」「現代として〈被爆遺物〉を撮影」というのは、既に土田ヒロミと東松照明が石内から遡ること25年も前に行っている。また、「ヒロシマからひろしまへ」というコンセプトも既に石黒健治によって石内の30年以上前に提唱されたものである。これらが10年ほどのタイムラグであれば比較の範疇であっただろう。しかしながら、30年もの時間差で生まれた作品を当時の社会状況踏まえて等しく検証することは難しい。つまり、被爆地の表現において石黒や東松や土田は「早すぎた」、もしくは石内は「遅すぎた」のである。前者をリアルタイムで知らない、学習もしていない学芸員や新聞記者が、後者の石内を「新しい」と見紛うことは無理もないことであるが、しかし、先行した被爆地の表現実践を「表現ではなく報道」と主張し、歪曲させた政治的イデオロギーのレッテルを貼った「男性のヒロシマ」という架空の枠組みを作り上げ、ヒロシマの表現の問題に性差の問題をこじつけるといった行為は問題視されねばならない。男性/女性の二項対立を煽り男性写真家を一括りにし、先人らのコンセプトを貶めるような虚偽の内容を吹聴し続けることで自らの作品評価と価値を上げようとした行為には前例がなく、これこそが、石内がヒロシマの表現史において初めて行った革新的なことであるとも言える(同様に「ヒロシマを売る」という発想で被爆資料写真を商品化したことも前例なく初めてのことであろう、この件は別途記載)。そういった虚偽や事実誤認発言の数々を検証もせず、虚構が主流と化した勢いに乗った当時の美術界やメディアの報道内容においても、石内の方法論に倣うように、(史実に基づかない)先人の否定を導入として石内の評価を行っていく方法論が確立された。そういった事実誤認の論文や記事が、当時の状況を知らない次世代の研究者や評論家の論考にそのまま引用され、一次資料にあたるといった検証もなく、そういった誤った論考の連鎖は今もなお続いている。改めて、報道や研究に関わる者たちの責任とともに、史実に沿った検証と事実確認が必要であろう。

さらに言えば、土田ヒロミが1970年〜80年代に確立した「ヒロシマ三部作」のコンセプトは被爆80年の2025年の直近の撮影に至るまで一貫して継続されている。この土田の「現在性」こそが、石内を評価する者たちにとって最も排除したい都合の悪い事実である。現代において更に有効性を増す土田の表現が「コンテンポラリー」であることこそが、石内の主張してきた「がんじがらめの遺品」「過去の報道・資料の表現」という主張に全く根拠がないことを実践として示している。(>2022年カーネギー・インターナショナル、2025年 香雪美術館 展示他)

また、これほどまでに写真史の観点から見ても根拠のない発言が許されてきた背景として、日本の美術界において「ヒロシマ」「写真表現」という観点から、重要なミッションを担う公的機関として中立で公正な評価基準を持たねばならないはずの広島市現代美術館と東京都写真美術館における、特定の学芸員と石内との密接な関係性が挙げられるが、この問題については別途検証する。
「(カタカナの)ヒロシマ」を拒否しながらも作品評価においては「ヒロシマ」の力を利用する問題、「”ヒロシマ”を高額で売って個人やギャラリーの利益とする」問題や、他者を貶め虚偽発言によって作品評価を確立していく姿勢、それに賛同していく学芸員らとの利益相反関係など、ここにきてアートしての「ヒロシマ」を取り巻く諸問題及びそれを裏付ける事実がいくつか提示されており、改めて再検証していく次第である。


⚫︎引用リンク他

【リンク01】 Culture power(本文/【リンク05】イントロダクション)


【リンク02】 オーラル・ヒストリー


【リンク03 】Tokyo Art Beat


【リンク04】東京都写真美術館
総合開館30周年記念 作家の現在 これまでとこれから 2025.10.15(水)—2026.1.25(日)


【リンク05】リンク01に表記

【リンク06 】 Art iT


【リンク07 】広島市現代美術館


【リンク08】SPUR (集英社)2016年9月号 


【リンク09】毎日新聞


【リンク10】SPUR 2016年8月28日 9月号 


【リンク11】Tokyo Art Beat 


【リンク12】ALFP Report


【リンク13】fashionpost


【リンク14】中国新聞

【リンク15】中国新聞(2013年10月9日朝刊掲載)


(参考動画)【写真と模倣】土田ヒロミ『ヒロシマ・コレクション』と石内都『ひろしま』彦坂なおよし×糸崎公朗
学生時代から石内とその作品をよく知り、現在も石内と友好的な親交のある彦坂から見る石内の性格ーー特に、作品制作において「非常に感覚的で雑である」「先人の表現を悪びれずトレースする」といった証言はヒロシマに対する石内の制作姿勢を考察するための一助となる。


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