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【ファクトチェック】#02 青土社『現代思想』 2016年8月号/広島を「私物化」する 石内都インタビュー

『現代思想』2016年8月 〈広島〉の思想 p.136
広島を「私物化」する 石内都インタビュー

【誤】広島はあらゆる人が撮り、あらゆる表現がされている場
(指摘するまでもなく)誤りである。

【誤1】原爆ドームというものは普通は下からあおって撮る
誤りである。
個人の見解を「普通は」と一般化することに大きな問題がある。1945年に撮影された原爆ドームの記録写真の代表的なものは、俯瞰的視点が特徴である。さらに、1960年代以降各時期を代表する写真家作品に「真横」または「俯瞰」構図は多数見られ「下からあおる」視点とは対照的なものは多く存在する(【参考図版】)。加えて、これらの作品の主題や意図は単なる「反戦・平和」メッセージに限定されるものではない。にもかかわらず、個人的な印象のみに依存した十分な事実検証を行っていない内容があたかも写真史的事実のように語られている。特に1979年の土田ヒロミ〈ヒロシマ・モニュメント〉においては、象徴的イメージのドームを敢えて「都市の中に埋没させる」構図となっている石内がとりわけ土田のヒロシマの表現を意図的に無視し、その先見性と先駆的方法論の評価を貶めるかのような姿勢を石内がとる理由については、後述する。

※石内都以前の写真家を「広島=男のモノクロ=反戦」という単一的な枠組みに押し込め、女性である石内がそれを打破したかのように位置づける主張は、史実に基づかない印象操作である。実際には、女性写真家・大石芳野が石内より20年以上前に広島を撮影しており、彼女の作品には「下からあおった」原爆ドームの構図も存在する。



【誤2】「広島」というある種の既成概念に毒されていた
誤りである。
石内による主張は、個人的見解を一般的事実として断定している。その発言からは、石内以前の写真家がすべて「既成概念に囚われていた」とする印象を読者に与える。しかし、写真史的事実に基づけば、そのような一元的な解釈は成立しない。被爆直後の1945年に撮影された記録写真、プレスコード解禁後すぐの1950年代の土門拳によるドキュメンタリー写真、1960年代の川田喜久治の作家性を強く打ち出した《地図》(そして被爆地長崎において写真史としても新境地を切り拓いた東松照明のモノクロームからカラーへの移行の革新性については別途記載)、石黒健治による「現在性(コンテンポラリー)」を軸とした表現には、それぞれ異なる時代的文脈と表現意図が存在する。そして1970年代、もはや社会的に「今更ヒロシマなど」という空気が漂っていた。そして、「見えなくなったヒロシマ」を可視化すべく土田ヒロミにおいて「現在性」「作家性排除」と同時に「写真と文字の共存」という新たな視点が提示され、ここにヒロシマの写真表現の大きな転換点が確認される(別紙参照)。これらの作品群は同時代に国外でも評価されており、とりわけ土田の表現における「現在性」は2025年現在に至るまで常に「現代」として継続更新されている点が重要である。2000年代以降、アナログからデジタルへの移行やモノクロからカラーへの技術的変化によって新しい表現が生まれたように見えるが、「作家による被爆地の表現」という観点から見れば、主要な表現上の変革はむしろ2000年以前に生じていた。1945年から2000年までの65年間にわたる社会情勢の大きな変化、写真表現の多様性と変遷を踏まえれば、それを「既成概念」といった言葉で一括りにすることは、歴史的実態を大きく矮小化する写真史の改竄に等しい行為である。

追記として、上述した1960年代〜90年代にかけて、写真家それぞれが被爆地広島・長崎における新たな表現への挑戦がモノクロ・カラー問わず行われる中で、依然としてモノクロ表現のみに拘っていたのは他ならぬ石内都自身である。『Yokosuka Story(絶唱、横須賀ストーリー)』 (1979、横須賀の撮影は1990まで)『連夜の街Endless Night』(1981)から 『1・9・4・7』(1990)〜〈scars〉(1991-2003年)まではモノクロ。1999年に撮影開始した〈Mother’s(マザーズ)〉において、口紅の色を表現するために初めてカラーを採用。2000年以降は、写真界全体では勿論被爆地の撮影においてもカラー撮影はスタンダードであり、時代背景や写真表現の歴史を無視し、単なる色の問題だけで石内の〈ひろしま〉の革新性を謳うことは大きな誤りである。

【誤】それまで知っていたイメージ
あくまでも石内個人の抱いていた「イメージ」であり、事実ではない。

【誤3】モンペに防空頭巾といった決まりきった既成の広島のイメージ
上記に同じ。石内個人の抱いていた「イメージ」もしくは印象操作であり、事実ではない。

石内の発言には、事実関係の裏付けが不十分なまま、自身の見解を既成事実として提示している傾向が見受けられる。特に、石内以前に作品として広島の被爆遺物の写真表現を行った唯一の先行事例である土田ヒロミの《ヒロシマ・コレクション》(1982年〜)に関する態度は顕著である。《ヒロシマ・コレクション》に収録された約150点の作品のうち、防空頭巾は3点、モンペは1点にすぎず、その他の大半はワンピース、シャツ、ジャケットなど日常的な衣類や生活用品の写真で構成されている。この点からも、同作の主題が「過去」ではなく「現代(現在性)」の視点に基づいていることが明確である。土田の作品は、被爆遺物を「現在性」として捉えるというコンセプトを提示し、国内外で一定の評価を受けてきた。しかしながら石内がこの土田の先行的実践を「過去の古い表現・男性の既成概念のモノクロ」として位置づけ、自身の表現をその延長ではなく革新的なものとしてに語る傾向が見られるが、石内の作品の一部が、先行した土田による記号的・俯瞰的構図と類似しているとの指摘も存在する。
参考文献:被爆地写真の歴史、その変遷と特に石黒、土田の表現が大きな転換点となったことについては、鈴城雅文著『原爆=写真論:「網膜の戦争」をめぐって』(窓社、2005)に詳しい。また、1945〜1995年までの被爆地の写真の特徴と変遷は「核ー半減期」展(東京都写真美術館、1995)カタログ収録 金子隆一氏の論考にて主要写真家についての解説にて網羅されている。

【誤】びっくりしまして、私が撮るべきものはまだまだ残っていた
事実に基づかない印象操作である。ここで石内が「私が撮るべきもの」と言っているものは、1982年に土田ヒロミによって多くは既に「撮られているもの」である。その事実を「なかったこと」とし、2007年に自らが「初めて撮った」ことを印象付けるための発言と取れる。発言の意図は前述の通り。


【注】遺品の画像データを見ながらまた涙ぐんでしまいます。
資料のデータには興味はないが、画像を見ただけで「涙ぐむ」ことへの疑念。具体的な所有者や物語を知らずして、一体何に対して「涙ぐむ」のか。

【誤1】「反戦」とか「平和」ということはもはや当たり前なので言いません。
石内の発言には、石内以前の写真家が「反戦・平和」の強い主張のみを目的として撮影・発表していたかのような印象を与える。しかし、写真史的事実に照らせば、そのような単一的な傾向はほとんど確認されない。
しかし、「反戦平和」という自明な理念でさえ、石内の作品においては、説明を伴わなければ鑑賞者に十分に伝達されないという重大な問題がある。

【注】私自身はデータにあまり興味はない

【誤2】データは過去であって、過去は撮れないからです。私は、今日目の前にあるスカートやワンピースを撮っている。
ここで石内が提示している表現手法は、すでに1982年に土田ヒロミが〈ヒロシマ・コレクション〉においてコンセプトを構築し実践していたものである。同作において土田は、被爆遺物を「現在」の視点から撮影し、それに付随するテキストで「過去」を示すという実践を行なった。つまり、被爆遺物を「現在性」として提示する方法論は、1980年代初頭にすでに土田によって確立されており、2025年の現在においてもコンテンポラリーな表現手法として有効性を保っている。したがって、土田から遅れること25年、2007年に石内が同様の方法論を独自の発想として初めて提示したと読める記述は、写真史実に即しておらず、誤りである。むしろ石内が土田のコンセプトを剽窃し(それ故に土田の作品を意図的に「古い過去の表現」という枠に押し込めようと印象操作し)ているのではとの指摘は当初から存在する。

【誤】その意味において、非常にコンテンポラリーな
これも、1982年に既に土田ヒロミが〈ヒロシマ・コレクション〉によって提示・実践したコンセプトである。

【誤】多分、このように広島を考えた人はいないと思います。
誤りである。繰り返すが、これらはすべて、1982年に土田ヒロミが〈ヒロシマ・コレクション〉によってすでに提示・実践されたコンセプトである。

【根拠:補足】前述の通り、1982年に撮影された土田ヒロミ《ヒロシマ・コレクション》では、被爆遺物を「過去」ではなく「現在(コンテンポラリー)」として捉える方法論が既に確立されていた。このコンセプトは、1985年に多木浩二によって既に評価されている【下記補足】。石内が2007年の《ひろしま》において、被爆遺物を記号化して撮影する「俯瞰の構図」や、「現代性」に基づく土田の表現手法を剽窃したとの指摘が存在する。この経緯を踏まえると、石内が「自身が初めて被爆遺物を現代として撮影した写真家である」と読者に印象づけるような発言をすることは、写真史の先行事例との関係性と事実確認を再検証する必要があることを示す。また、土田の表現史や先行する作品の評価に関する調査、聞き取り、文献確認などの十分な事実確認を経ずに、石内の主張を鵜呑みにし、この発言を前提として論考を展開した事例が、多数存在する事実がある。これにより、学術的(特に美術界)分野における「ヒロシマ」の写真表現の評価や解釈の正確性が損なわれてきたことは事実であり、早急な修正を求めたい。

【補足】根拠(引用元)
多木浩二 「あの日の悲劇と現代社会を二重写しする土田の『ヒロシマ』 /『ヒロシマ』(佼成出版社、1985)
…第三に原爆資料館に保存された「もの」がある。かつて多くの写真家が「ヒロシマ」あるいは「ナガサキ」の悲劇をとらえようとして、こうした「もの」のなかにあの日をさがした。したがって「もの」は劇的に眺められた。「もの」を砕き、溶かし、変容させたあの熱と爆風にたちかえれるような気がしたのである。だが土田はそうはしていない。「もの」、つまり遺品や痕跡は、現在の時間のなかで見られている。いまやそれらは資料館の展示物であり、何千万の視線をあび、まるで考古学の標本のように、いまは見喪われた時間と空間を語ってきかせる沈黙である。土田はそれらの「もの」にあの日を語らせるのでなく、あの日の痕跡が現在ある状態を発見させる。それが記録であるとすれば、この状態での記録である。土田は「ヒロシマ」を考えることは現在の時間のなかでの営みであることを明らかにしているともいえるし、「私にはこういう方法でしか近づけないのだ」といっているようにも見える。


【誤】みんなカタカナの「ヒロシマ」で語り継いできましたが、あれは男が言うことですからね。
誤りである。
「ヒロシマ」という表記を男性特有の発言や表現に限定する根拠は存在しない。
このカタカナ表記は、性別や職業、作品名などの個人的属性に依存する価値観的次元の問題ではなく、人類史における共有すべき象徴的概念として、単なる地名表記と区別される意義を有するものである。したがって、「ヒロシマ」というカタカナ表記を否定しつつ、個人の自己表現の評価においてはその象徴性を最大限に利用する態度には、論理的整合性を欠く側面がある。

 ※石内が自身の作品タイトルにひらがな「ひろしま」を強い拘りから用いる一方で、撮影対象である被爆遺物の寄贈者名は本来の日本語名ではなくアルファベットで、姓のみが表記され、名は省略されている。さらに、海外オークションにおける作品の展示・販売時には、略称の英語名さえも表記されず、作品タイトルのひらがな表記も見られない(別紙【参考】参照)。この表記方法の差異は、自身の作品タイトルのみが重視され、被写体である被爆資料寄贈者の個人性が軽視されていることを示唆している。作品タイトルが象徴する作者個人の存在に注目が集まる一方で、被写体や寄贈者という個人の存在は希薄化されることになる。「ヒロシマ」から「ひろしま」へと事実を矮小化・個人化することの目的は、写真の売買や資料館が推奨しない写真のトリミング等を含む私的利用行為に正当性を付与する点にもあったと解釈できる。
長きにわたり行われてきた「私物化した ”ヒロシマ” を売り、個人の利益とする」行為に対してのモラルを指摘する声が出ていることは事実である。

【注】女である私が、女物を撮っている
現在では当初のこのコンセプトは踏襲されていないようである。男物の作品もあることが確認されている。

【注】絶対にひらがなにすることは、口を酸っぱくして伝えている
モラルの問題はさておき石内の〈ひろしま〉作品は国内外で大々的に売買されているが、例えばオークションなどではもはや「ひろしま」の文字や寄贈者の名前は消え失せている状態である。




Culture Power 2007年6月25日


2007年の撮影時、広島平和記念資料館所蔵資料を撮影し作品発表した唯一の先行事例である土田の〈ヒロシマ・コレクション〉を石内が認識していたという事実は上記インタビューで確認されている。(Culture Power 石内都×岡部あおみ 2007年6月25日)



「現代思想」2016年8月 石内都インタビューにおける問題
本誌は、学術界において一定の影響力と信頼性を有する学術文献として評価されている。そのため、後続の研究論文において多数引用され、結果として同誌掲載の論説が史実として広く受容されてきた。その影響は大きく、事実誤認を含む論考においても、当該インタビューがしばしば引用・参照されている。したがって、当時の執筆者および編集部における校閲体制と事実確認フローについて、再検証と明確な説明が求められる。
本来、研究者は記述内容を無批判に受け入れることなく、必ず一次資料を確認することが学術的常識とされてきた。しかし、特に多くの美術館学芸員においては写真史に関する知識が十分でなく、一次資料の精査や当事者への聞き取りといった基本的なリサーチが徹底されなかった点も問題であり、美術界における写真(写真史)の扱われ方、現状挙げられる問題点については改めて課題として提示する必要性がある。
写真史に関する専門的知識を有していなくとも、代表的な写真家の作品をいくつか参照すれば、1945年から2000年にかけての日本写真の隆盛期における多様な表現の変遷を一律に要約することなど不可能であることは明らかである。それにもかかわらず、このような記述が出版物として公的に流通した事実に対しては、出版社に一定の説明責任が問われるべきである。

総括 
本稿で提示されている多くの主張は、石内自身による自己作品の正当化を目的とした恣意的な解釈や個人的な既成概念に基づくものであると考えられる。写真史との比較検証や事実確認、時代考証を経ることなく掲載した当媒体「現代思想」には、当時の編集体制や校閲システムを含めた説明責任が問われる。この記事は石内の意図に沿って機能し、事実と異なる内容が学術的に信頼性の高い出版物として流通した結果、後続の論考や論文で信頼できる文献として多数の引用がなされた。この影響により、歴史的事実の誤認が連鎖的に拡散している事例が複数確認されており、各事例についての検証と修正が求められる。
石内は、先行する「ヒロシマ」表現への敬意を一切示すことなく、自身の評価を相対的に高める目的で、先人の成果を過小評価し、解釈を歪めた事実と異なる情報を公的な場で積極的に発信したと考えられる。『男性のヒロシマ』『広島の呪縛』などといった事実として存在しない“大きな主語”を仮想的な対立対象として構築し、それに対抗する〈女性/個人〉という構図を提示する言説は、ポピュリズム的手法の一形態であると同時に、当時台頭していたフェミニズムの潮流とも合致していた。このような言説構造は、結果として男性側からの正当な反論を抑制する作用をもたらしたと考えられる。
本来、このような行為は研究者、学芸員、新聞記者、編集者などによる事実確認や基礎的な調査を通じて指摘されるべきであった。しかし、日本においては写真界と美術界の間に棲み分け・分断が存在することに加え、当時のフェミニズムの台頭や、歴史的文脈よりも情緒や感性を重視するアート教育の影響により、十分な検証が行われなかった。その結果、石内の主張に賛同し、これを支持し自らもその勢いに便乗しようとする多数の専門家によって誤情報の拡散が助長される構造が形成された。他者の作品を、事実を歪曲させてまで否定的に扱うことでしか自己の作品を評価できないという状況は、作品評価の在り方として本質的な問題を含む。とりわけ、作家本人ではなく、比較検証を職務とする学芸員や研究者がこの姿勢を踏襲したことは、即効性を優先した結果であるとしても、専門性の在り方として重大な課題を残したと言える。

本インタビュー引用事例)
・萩原弘子論文「ヒロシマからひろしまへ : 石内都の写真シリーズ『ひろしま/hiroshima』に促される視線」(2022)
・五十嵐惠邦「美しき遺品たち」




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