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#03 被爆地(ヒロシマ・ナガサキ)写真表現史:写真集他出版物


1945年〜 

※1945年〜1952年 プレスコード

1945年撮影 
松重美人(中国新聞社写真部)、深田敏夫(崇徳中学校在学中)、菊池俊吉(東方社、文部省学術研究会調査団医学班)、林重男(東方社、文部省学術研究会調査団物理班)、岸田貢宜(広島師団司令部報道班)、山端庸介(陸軍報道部)、宮武甫・松本榮一(朝日新聞社写真課)他
※各写真家による撮影詳細については別項にて

1949年 

1949年 『Living Hiroshima』(広島県観光協会)

撮影:木村伊兵衛、菊池俊吉、林重男
撮影期間:1947年8月25日〜10月17日
広島県観光協会企画・瀬戸内海文庫

『Living Hiroshima』(広島県観光協会、1949年)

4,000枚超撮影カットのコンタクトプリントのデータベース公開(広島県立図書館)


1949年 『Hiroshima』(広島図書)

吉田初三郎「原爆八連図」収録
撮影:松重美人、木村伊兵衛他
撮影時期:1945年〜

『Hiroshima』(広島図書、1949年) 

『photographers’ gallery press』第12号(photographers’ gallery、2014年)特集「爆心地の写真 1945-1952」に 『Hiroshima』についての考察及び全ページの掲載あり


1952年(プレスコード解禁)

1952年8月6日「アサヒグラフ」8月6日号

アサヒグラフ 通巻1460号 原爆被害の初公開1952年8月6日

撮影:宮武甫・松本榮一(朝日新聞社)
撮影時期:1945年 確認

「アサヒグラフ」(朝日新聞社、1952年)


1952年8月6日 『廣島―戦争と都市』(岩波写真文庫)

編集:岩波書店編集部
写真:菊池俊吉、相原秀次、林重男、松重美人、ABCC、中国新聞、共同通信、サン・アクメ、岩波映画製作所、(名取洋之助、長野重一)
撮影:1945年〜

『廣島ー戦争と都市ー』岩波写真文庫72(岩波書店、1952年)

1952年、この本の取材のために名取洋之助と長野重一は100本以上のフィルムを使って多くの撮影を行ったが、刊行された書籍にはほとんど掲載されなかった。

未採用カットからの写真集出版(2013年)


1952年『原爆の長崎 : 記録写真』(第一出版社)撮影:山端庸介

、編:北島宗人 :

『原爆の長崎 : 記録写真』(第一出版社、1952年)


ここまではむしろ「報道写真」の系譜であり、写真家の名の下に行われる「写真表現」に該当するものではないが、後の「被爆地(広島・長崎)における写真表現」を体系的に理解するための起点として認識しておくべき写真家名と刊行物である。

1958年 土門拳『ヒロシマ』(研光社)

撮影時期:1957年〜

土門拳『ヒロシマ』(研光社、1958年)

広島に原爆が投下された一九四五年(昭和二十年)八月六日は、それ自身として明白な過去である。ぼくたち自身も「ヒロシマ」は、もはや過去のこととして忘却のかなたにおいてきた。なぜなら、現代に生きるぼくたちは、マス・コミュニケーションの中に含みこまれてしか、ものを知らされることも、ものを考えることもできなくされているからである。十三年前の古い出来事である「ヒロシマ」は、今日只今の何かに結びつかないかぎり、今さらマス・コミュニケーションの中に姿を現わすことはない。仮に月に一度か二度「原爆症でまた死ぬ」という見出しが新聞の社会欄に小さく出ていようと、その「広島発」の数行のニュースから何が読みとれるというのか。ながわずらいの病人がついに死んだとて、大した不思議はない。ただそれが原爆症だったというだけではないか。それは「またか」と思わせるだけで、その数行のニュースが意味する「現実の重さ」を読みとる何の手がかりも、ぼくたちには与えられていなかった。
その上、ビキニ環礁、エニウエトック島、クリスマス島、ネヴァダ、シベリアと相次ぐ大規模な原水爆実験、原子力発電、大陸間弾道兵器、人工衛星などのニュースは、十三年前の「ヒロシマ」などは、いよいよもって素朴きわまる「原爆の古典」に追いやってしまったのである。歴史の大きな数動を反映するマス・コミュニケーションに巻きこまれて、ぼくたち自身が「ヒロシマ」を忘却のかなたにおいてきたとしても、何の不思議もないかもしれない。

(1958年3月1日)土門拳全集10 ヒロシマ 昭和60年 1985 小学館


しかしぼくは、広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは「ヒロシマ」を忘れていたというより、実ははじめから何も知ってはいなかったのだ。十三年後の今日もなお「ヒロシマ」は生きていた。焼夷弾で焼きはらわれた日本の都市という都市が復興したというのに、そして広島の市街も旧に立ちまさって復興したというのに、人間の肉体に刻印された魔性の爪跡は消えずに残っていた。それは年ごろになった娘たちの玉の肌に、消せども消えないケロイドとして残っていた。それは被爆者の管髄深く食いこんで、造血機能を蝕み、日夜、数万の人々を白血病の不安にさいなんでいた。それは十三年前の被爆当時よりはむしろ陰険執拗な魔性を人間の上にほしいままにしていた。
「ヒロシマ」は生きていた。それをぼくたちは知らなすぎた。いや正雄には、知らされなさすぎたのである。

(1958年3月1日)土門拳全集10 ヒロシマ 昭和60年 1985 小学館


広島・長崎の被爆者は、ぼくたち一般国民の、いわば不運な「身がわり」だったのである。ぼくたち一般国民こそ、今、この不幸な犠牲者に対して温かい理解といたわりを報いることによって「連帯感」を実証すべき責任があるはずである。しかもこの本に収めた写真の撮影に当っては、広島の被爆者たちは「すべての国民が再び自分たちのようなみじめな姿になることがないように」と、自ら進んでカメラの前に立って、逆に一般国民に連帯する「悲願」を示してくれたのだった。何度、ぼくは目がしらが熱くなりながらシャッターを切ったことか。 

(1958年3月1日)土門拳全集10 ヒロシマ 昭和60年 1985 小学館




土門が主導したリアリズム写真、そして日本写真史の流れの中でドキュメンタリーという表現手法が確立し、社会派ドキュメンタリーからさらに写真家個人の表現としてのドキュメンタリーとして派生していくのだが、写真家として被爆地広島を記録・作品表現した起点となるのが土門拳、長崎においては東松照明である。

1960年〜

1961年『Hiroshima-Nagasaki Document 1961』(原水爆禁止日本協議会)

撮影:(広島)土門拳、(長崎)東松照明
撮影時期:(土門)1957年〜、(東松)1960/1961年〜

『Hiroshima-Nagasaki Document 1961』(原水爆禁止日本協議会、1961年)



1961年 福島菊次郎『ピカドン ある原爆被災者の記録』(東京中日新聞)

撮影:1951年〜

福島菊次郎『ピカドン ある原爆被災者の記録』(東京中日新聞、1961年)

この写真集は多くの紛糾を持ち込むことになるかも知れない。だが、仕方がない… と私は思うのだ。これによってヒロシマの土にうもれつつある不幸の実態を少しでも明るみに出すことができ、このことを通じて人類のために何らかの貢献をなしうるだろうと信ずるからだ。

1961年6月


1965年 川田喜久治『地図』(美術出版社)

撮影:1957年〜

川田喜久治『地図』(美術出版社、1965年)



1965年3月〜 「日本読書新聞」連載(三津田透「ヒロシマ八月六日」、石黒健治「ヒロシマから広島へ」)

「日本読書新聞」1965年3月15日(連載第1回、左)、3月22日(連載第2回、右)

ヒロシマから広島へ

外側の広島から内側の広島へ、ただの広島から被爆伝説のヒロシマへ。
さらに今日の日常の広島へ我々は出かけなければなるまい。

「日本読書新聞」1965年3月22日


1965年 「アサヒカメラ」5月号(石黒健治「20年目の広島」)


アサヒカメラ1965年5月号(朝日新聞社)


1966年 東松照明『〈11時02分〉NAGASAKI』(写真同人社)

撮影:1961年〜

東松照明『〈11時02分〉NAGASAKI』(写真同人社、1966年)


ぽくがはじめてこの地を踏んだ1960年には、浦上天主堂の庭の草むらに、爆国で吹きちぎられた聖像の首が、いくつもころがっていた。が、それもいまは、ない。(…中略…)被爆してからすでに21年が過ぎたのである。毎年、8月がめぐってくると、ぼくたちはく10年目>とかくあれから20年>といった具合に年を刻む。それは、人間がはじめて予感した、絶滅の恐怖の日を忘れまいとする、きわめて人間的な行為である。しかし、1945年8月の恐怖は、単なる過去の出来事ではなく、現在もなおつづいている痛苦である。死をまぬがれた多くの被爆者が、ぼくたちが生きている、いまを、ぼくたちと同じ時間を生きているのである。

明日の生命と健康の不安におびえながら今日1日を過す人たち、言語に絶する苦痛にたえ未来に向って立ち上った人たち、いまも病床にあって原爆症と闘っている人たちがいる。放射能の作用による機牲者は後を絶たない。認定
患者だけで毎年30人以上の死亡者を数えている。つまり、長崎には、<11時02分で停止した時と、1945年8月9日11時02分を基点とする現在進行形の時間がある。この2つの時を、ぼくたちは、決して忘れてはならぬ。
1966年7月  

11時02分 NAGASAKI あとがき


1968年復刊 東松照明『〈11時02分〉 NAGASAKI』(写研)



1970年〜

1970年 土門拳『生きているヒロシマ』(築地書館)

撮影:1957年〜

土門拳『生きているヒロシマ』(築地書館、1970年)



1970年 細江英公「死の灰」発表(写真集刊行は2007年)撮影:1958年〜 1967年


土門・東松以降、東松とともに「VIVO」メンバーであった細江英公と川田喜久治の他では、当時被爆地を撮影した著名な写真家はほとんどいない。その背景には、プレスコードが解除された1952年の時点で原爆投下からすでに7年が経過しており、時事的な対象として撮影すべき事象が現前していなかったということがある。また、土門拳・東松照明・川田喜久治らにとっても、最初の被爆地訪問は取材依頼が契機であり、1951年から自発的に広島へ通い始めた福島菊次郎のような事例は例外的であった。


1970年 石黒健治『広島 -Hiroshima Now』(深夜叢書社)

撮影:1965年~1966年

石黒健治『広島 -Hiroshima Now』(深夜叢書社、1970年)


土門拳以降、東松照明ら「VIVO」のメンバーによってドキュメンタリー写真は新たな表現の地平を切り拓いた。しかしその後、被爆地写真表現史におけるー現在形の表現の起点となるー大きな転換点の一つが、石黒健治の写真表現とその思想に見出されることは明らかである。

 石黒健治さんの「広島」はフレームの中で作られた写真ではない。それだけに、あまりにもありきたりすぎてややもすると見過ごしてしまいそうである。
 しかし、このありきたりというのは、写真においてのありきたりではなく、日常の肉眼においてありきたりなのだ。私は写真とはもともとありきたりのものでなければならないと考えている。
 石黒さんの写真には一種独特の日常の空気が漂っている。私は石黒さんの「広島」を見ていると、私自身の「広島」体験になってしまいそうな錯覚を持つほど不思議な現実感に襲われるのだ。これはつまり、写真ではなくひとつの現実なのである。
 私が石黒さんの「広島」に感動し、驚いているのは、石黒さんがれっきとしたプロの写真家であるということである。との「広島」を撮った人が子供や素人なら驚かないのだが、写真家でありながら、よくも素人の目でとらえたということである。素人なら、「広島」ぐらいの写真はいともすく撮れるはずだ。というのも、素人には肉眼もレンズの眼も同質なのである。

解説 横尾忠則

 石黒さんの「広島」には不思議なノスタルジーと、現実の息苦しさが、相克する。石黒さんの「広島」を見ていると、(中略)時間と空間の間を自由自在に飛麹させてくれるが、最終的には、息苦しい現実に帰着してしまう。
(中略)
石黒さんの「広島」のあまりにも何も起こりそうにない日常を見ていると、第に目に見えない死の説が送づいてきているような気がして、何んとか早く、何んとかしなければならないと、ただうろうろとあせるだけで、いかにして身の危段から逃がれればいいのだろうかと考えるだけで、どうしようもないのだ。

 それと、何度見てもそうだが、またどうしてこんなありふれた変な場所を写真に撮ったのだろうかと、疑問を抱かせるだけに、もしかすれば、この写真に肉眼で見えない謎の部分が写っているのではあるまいかと、すみずみまでくまなく、この写真の謎を解く鍵を捜すのだ。

 私は石黒さんの「広島」の写真の焼き具合を一枚一枚指定したメモを見た。それには、白日夢のように、わずかに黒をしめるとか。ケミカルにとか、コリコリにとか、人物はシルエットに、他は少し明るくとか、ぬめっととか、くっきりとか、ガラスの向うをもう少し薄くとか、夕方のようにとか、書かれているが、とれらは全て写真の空気感を表現する重要な指示だと思う。

解説 横尾忠則


 石黒さんの「広島」は作意を捨てるところから出発して、恐らく誰もがそう簡単に到達できないような創造に至らしめている。全ての写真は「広島」から出発して事び「広島」に帰らなければならない、と写真を始めたばかりの私に「広島」は教えてくれる。
(中略)
 私が撮った写真は肉眼の感動を写真に納めようとするから、かえってそこには何ひとつ写らないのだ。では写真に感動をもりこむためにはどうすればいいのだろう。それは写真は決して肉眼と同質の感動を伝えることができないという絶望をふまえた上で、シャッターを押すより救いはないのではなかろうか。

解説 横尾忠則

ここにある「広島」は原爆のあの物の影だけをして物が消えてしまった物の記憶が写され、この物の記憶はわれわれ日本人の記憶にいつまでも焼きつけられた精神の傷痕でもある。

解説 横尾忠則


なんだろう、これは?
広島へ初めて行ったとき、駅頭で、いきなり焦げくさいにおいに襲われた。匂いが激しく鼻をうったわけではない、焦げたエアーに隙間なく包まれる感覚だった。
この正体は何だろう。放射線に似ているかも知れないが、違う。
1年ののち、「日本読書新聞」で20年目の広島を撮ることになった時、ずっと気になっていたあのエアーに再び包まれたことを覚えている。

「不思議広島」石黒健治

広島を写真に撮るということはそもそも不可能なのではないか。いい換えれば広島に関して写真は無力ではないか。
日本読書新聞の連載が終わってから、ぽくは改めて広島へ通いはじめたのだった。
放射線の濃度は減退しても、ますます濃度を上げてくる<何か>。目に見えない不思議エアーは、あるときは不安だったり、孤独だったり、明るいうつだったり、不条理だったりする。

「不思議広島」石黒健治

熱に溶けて歪んだビンや時計や、被爆者の着ていた黒焦げのシャツなど、原爆の悲惨さを訴えるような写真を撮るつもりは皆無だった。
原爆投下から20年経過すると、街は日常の生活空間に復帰して、あの忌まわしい記憶を宿した〈もの〉を見かけることはできない。原爆ドームも観光的なモニュメントにすぎず、〈恐怖〉は平和公園の原爆資料館の中にひっそり匿われてしまっている。
しかし、街には原爆の影のようなエアーが残っていることは明らかだった。それは、何気ない日常のなかに潜んでいる空白と混ざりあい、変容し、助長しているように感じられる。
よくはわからないまま、ぼくは目に見えない不思議エアーにカメラを向けて、写真を撮っていたのだとおもう。

「不思議広島」石黒健治(『HIROSHIMA1965』あとがき、Akio Nagasawa Publishing、2018)

このコメントは、東松照明の〈長崎〉に対するアンチテーゼとして位置づけることができる(ただし、石黒自身は写真家としての東松に敬意を表している)。石黒は1965年、「日本読書新聞」の20回の連載(撮影:1965年3月〜8月)において「ヒロシマから広島へ」という新たな思考と視点を提示し、カタカナの「ヒロシマ」が内包する政治的・イデオロギー的枠組みから距離を置き、もはやヒロシマが「見えない」ことを前提とし、劇的な悲惨さを強調する写真の限界を確信した上で、写真家個人の嗅覚や身体感覚に根ざした視座を基軸として独自の広島表現を実践した。この視点は、2000年代以降に主流となる広島の写真表現に30年以上も先行する、重要な起点として位置づけることができる。しかしこのような前衛的な表現の可能性と実践を1960年代の時点で提示した石黒の先見性は、1990年代までは学芸員や評論家によって一定の評価を得ているものの、現在の写真界や被爆地表現の議論の中において十分理解されているとは到底言い難い。
このような写真史に対する基本的理解の欠落は、2000年以降に被爆地の写真表現を認識した(写真史の学習も写真技法の素地もない)学芸員・研究者・新聞記者らにおいて、「2000年以前には悲惨なモノクロのヒロシマ表現しか存在しなかった」という短絡化された図式的理解が、十分な検証を経ることなく流布され続けている要因となっている。こうした認識は、戦後写真史における多様な展開とそれらの蓄積を適切に参照することも写真家本人に直接聞き取りすることもないまま、自らの推す写真家の評価のみを定めるために史実を歪曲解釈し都合よく形成されたものであり、その妥当性には重大な疑義しかない。

なお、石黒健治は1965年「アサヒカメラ」5月号(前出)において「20年目の広島」と題し、原爆ドーム、広島平和記念資料館、被爆者を対象とするカラー写真を発表している。この事例は、従来の被爆地表現史における通説的理解が限定的な資料把握に基づいて構築されている可能性を示唆するものであり、既存の言説枠組みの再検討を不可避なものとしている。
言うまでもなく石黒の広島における実践は、日本写真史および広島の写真表現史における認識の更新に向けた重要な検証点の一つとして位置づけられる。

1972年 『ヒロシマ 広島 hirou-sima』 全日本学生写真連盟広島デー実行委員会

『ヒロシマ 広島 hirou-sima』 全日本学生写真連盟広島デー実行委員会、1972年


1975年 カメラ毎日12月号(東松照明・石黒健治)

「カメラ毎日」1975年12月(毎日新聞社、1975年)

なお、東松照明は1975年の時点で既に長崎をカラーで撮影し、作品として発表している。一般に東松の〈長崎〉として国際的に広く認知されているのは、モノクロームによる時計や瓶、被爆者のポートレートといった初期のイメージ群であるが、実際には50年に及ぶ長崎の撮影のうち、モノクローム表現は1960年代の比較的限られた初期段階に集中している。1970年代以降、とりわけ2012年の没年に至るまでの長期的な制作の大部分は、カラーによる長崎の日常風景や、被爆資料、被爆者の姿をニュートラルな視点から捉えたものによって構成されている。

また、『カメラ毎日』1975年12月号(被爆30年特集)には、東松照明による巻頭グラビア「八月の光・昭和五十年夏・長崎にて」とともに、石黒健治による「白昼夢を撃て―広島1975」が掲載されており、いずれもカラー表現によって構成されている。この同時代的な掲載状況は、1970年代半ばにおいて既に被爆地表現におけるモノクロームとカラーが複線的に展開していたことを示す具体的な事例として位置づけられる。
東松による長崎での長期的な実践の大半は、カラーによる日常風景の撮影であった。この事実は、2000年以降に流布した「2000年以前には男性による悲惨なモノクロの被爆地写真しか存在しなかった」という言説が、事実誤認に基づくものであることを明確に示す根拠の一つとなる。


1978年 福島菊次郎『原爆と人間の記録』(社会評論社)

福島菊次郎『原爆と人間の記録』(社会評論社、1978年)


1979年 土田ヒロミ『ヒロシマ1945-1979』(朝日ソノラマ)

撮影:1975年〜 

土田ヒロミ『ヒロシマ1945-1979』(朝日ソノラマ、1979)

1951年10月に出版された被爆体験記『原爆の子』(長田新編/岩波書店/1951年10月刊)には186名の少年少女(小5~大学)が作文をよせています。
戦後33年、ほとんど視覚化しえないまでに隅におしやられてきているヒロシマ。この肥大しつづける日常の中で、あの 186名の子供たちは、いまどのような軌跡と意識の中にあるのか。
1978年、この日常の中で彼たち彼女たちをとらえることで、そのヒロシマの深い悲劇性が新たに露呈してくるのではないか。
そのような意図を持つ私達に対する186名すべての人々の対応のあり方、同意、拒否、死、不明、それ等すべてを等価に記録することで複雑に屈折するヒロシマの心が見えてくるように思えるのです。
186名中、107名の住所が判明、うち故人6名、拒否16名(内1名は取材後死亡)、撮影拒否(インタビューのみ)8名、残り77名の方が取材に応じてくださいました。拒否という強い主張も含めて、多くの方々が痛哭のおもいに抗してご協力いただきましたことを心からお礼申し上げます。
最後に原爆でなくなられた多くの方々の冥福を心からお祈りいたします。
なおこの記録は、写真と文字で進められたものでルポライター吹上流一郎氏との協同作業です。

引用は『原爆の子」(長田新編/岩波書店/1951年10月刊)の1975年
8月第6刷に依りました。
一土田ヒロミ

まえがき


1980年〜

1982年 土田ヒロミ「ヒロシマ・コレクション」発表
この時点で土田はすでにモノクロとカラー、両方で被爆資料の撮影・発表を行なっている。

ヒロシマ・コレクション(1982)


1984年 土田ヒロミ「アサヒカメラ増刊 Hiroshima」(朝日新聞社)


土田ヒロミ「アサヒカメラ増刊 Hiroshima」(朝日新聞社、1984年)


 今の広島は、日本にあるいくつもの都市の一つであり、他の都市とおなじように見える。
 38年前にここにおこったことは、形にはほとんど見えない。
 このことを、土田ヒロミの写真は、そのまま写す。そこには、絶叫がない。絶叫は、見えなくなった形のむこうにある。

この写真集に 鶴見俊輔(評論家)

 昔の出来事からきりはなされた広島の現在をうつす仕事をかさねる、この写真家の仕事が、見る人につたえる感情は絶望に近い。そこには、自分にかつておこったこと、今も自分の心にあることは、今の人にはつたわらないのだから、それについては何も言いたくないという、原爆にうたれた人びとの心がある。それは絶望に近いけれども、少しちがう。
 歴史の中ではたらく力にはいろいろある。今、形として見られるもの。今は形として見えなくなったが、おぼえておきたいと思うもの。忘れられた過去。
 忘れられた過去は、かつてあった。忘れられた過去の力を、忘れられた現在をはっきりうつすことをとおして、とりもどすことができる。というよりも、忘れられた過去が、形見としてもどってくる。この写真集は、今も形を見る力をもっている人びとにとって、そういういとぐちとなる。
 この写真集を見ていると、広島が、私たちにのこされた形見であり、文明の墓、人間全体の墓であるように感じられる。

この写真集に 鶴見俊輔(評論家)



1985年 土田ヒロミ『ヒロシマ』(佼成出版社)

土田ヒロミ『ヒロシマ』(佼成出版社、1985年)


昭和50(1975)年、春。戦後30年を経た広島に立ったとき、繁栄の都市が広がるばかりで、撮るべき対象はもはやどこにも見えてこなかった。
やがて、何度か通ううちに、その「見えないヒロシマ」それ自体を対象化しなければならないという思いに至った。「見えないヒロシマ」一風化を風化のまま放置してきた多くの日本人の意識を対象化すること。ドイツでは、戦後40年経った今も、ナチズムの血が己の肉体に流れていないかを検証するかのように、他国の墓まで暴き続けていることと対照的な日本人の戦後意識、それはとりもなおさず、自分自身のそれを検証することである。これが、私のヒロシマに関わった基本的な動機のように思える。それがどこまで作品化できたのか自信はない。
「拒否」という被爆者の後ろ姿の写真に出会うとき、彼の日常と自分のそれとを照らし合わせぬ人がいないことを願う。
団地の横にたたずむ被爆楠の木の写真に似た自分の風景を思い出してくれる人がいることを願う。
被爆した学生服の写真に吾子に思いを馳せない人がいないことを願う。
そして、自分の日常が「ヒロシマ」とつながっていることを意識化する装置として、私の写真が機能してくれればうれしい。

あとがき 1985年7月



1990年〜


1995年 東松照明『長崎〈11:02〉1945年8月9日』(新潮社)

撮影:1961年〜

東松照明『長崎〈11:02〉1945年8月9日』(新潮社、1995年)

私の長崎シリーズは、これまでに4冊、写真集として刊行されている。初回は『Hiroshima-Nagasaki Document 1961』原水爆禁止日本協議会・刊である。しかし、この写真集は、土門拳の「広島」と丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」と併せて構成された編集著作物である。したがって、私自身が編んだ最初の写真集は、1966年に出版された『く11時02分>NAGASAKI』写真同人社・刊ということになる。11時02分、いうまでもなく長崎の上空で原子爆弾が炸裂した時刻である。が、この写真集は、原爆の被害記録だけを編んだものではない。あえて性格づけるなら、原爆による悲惨を礎とし、その上に構築した都市像とでもいうか、写真で綴る都市論である。

あとがき


この写真集に登場する被爆者の方は、私が接することのできた僅かな人数に限られている。これらの人たちは、長崎の被爆者を代表するものではなく、その人だけの掛け替えのない生と向き合う、個としての存在である。
過去に起こった出来事で、忘れられないことを、決して忘れてはならないことを、後世に語りつぐ人を、語り部という。原爆の悲惨についての直接的な語り部は、もちろん被爆者である。被爆者は、存在をもって、原爆の悲惨を明かす。そのとき、写真は、被爆者の存在を証すための視覚伝達の接置となる。 1995年4月14日

あとがき





1995年 大石芳野『HIROSHIMA 半世紀の肖像―やすらぎを求める日々』(角川書店)

撮影:1984年〜

 大石芳野『HIROSHIMA 半世紀の肖像―やすらぎを求める日々』(角川書店、1995年)

被爆者たちが味わった苦労は、被爆していない私たちとは、その形も意味合いもかなり違うのではないかー1人ひとりに会い、話を聞かせてもらい、写真を撮らせてもらいながら、私は、徐々に、そして、強くそう感じるようになった。
何よりも、彼らは健康に対する不安が大きい。
被爆当時はむろん、その後も、弱い人から亡くなっていった。「次は自分かもしれない」との不安が、この50年間、一度も消えることなく続いた。
病気をしたことのある人は、誰しも思い当たるだろうが、例えば肺炎に苦し(中略)
差別もあった。だいぶ薄らいだようだが、今でもまだひたひたと続いている。「うつる」「遺伝する」などと、医学的に解明もされていないのに、噂によって騒ぎたてられた。
(中略)
だから、被爆者たちは隠そうとした。被爆の事実を隠すことで対等にもなれた。しかし、心の奥底に巣食う健康への不安を覆い隠すことはできなかった。
(中略)その一端を私は垣間見たにすぎないが、1人ひとり、それぞれに何と凄まじいドラマがあることか。アメリカの原爆投下の真意は明らかにされていないが、被爆者たちは末だに戦争の傷痕に翻弄されつづけている。
かれらは、この歳月を1日1日、這うように送ってきた。人生の厚みも深さも、そして私たちが教えられることも膨大だ。どの人も、分厚い生活を営んできた半世紀の風貌をもっている。
同じ時代を生きてきた私たち、そして次の世代を生きる人びとが、この重さをどう受け止めていくのか、問われているような気がする。

はじめに「ヒロシマを撮り始めて」



思い返してみると、ヒロシマを撮ろうと思ったのは、もうかなり前のことだ。ベトナムの戦争、カンボジアのポル・ポト時代、沖縄戦などの傷痕に苦しんでいる人びとに、会って話を聞き、写真を撮ってきた。その私にとって、ヒロシマ・ナガサキは欠かすことのできないテーマだった。
だが、先輩の写真家たちが撮影した原爆投下から間もない頃の、衝撃的な写真がたくさんある。とても、手が出せない。長い間、周々とした気持ちを引きずっていた。それでも考えれば考えるほど、どうしても撮っておかなければならないという思いは強くなる。これは、自分の記録だ・・・・・。写真家の道を歩いている以上、私は一度でも1人でも、シャッターを押さなければならない・・・・・・。
そんな思いから、1984年やっとヒロシマで1枚また1枚と撮り始めた。大勢の人から多くを教えられながらの、積み重ねだった。

あとがき「凛然とした歳月」1995年1月 大石芳野


大石芳野、そして2000年代初頭から広島を継続的に撮影してきた笹岡啓子の存在は、広島の写真表現史を論じる上で不可欠である。しかし、そのような実践が存在していたにもかかわらず、「(カタカナ)ヒロシマは男が言うこと」「広島を撮影してきたのはすべて男性写真家であり、ヒロシマの(写真の)歴史は男性社会に支配されていた」といった誤認だらけの言説が、十分な史料的検証を欠いたまま流布され、一定の影響力を持って受容されてきた。このような歴史認識がいかなる背景のもとで形成され、誰によって拡散され、また本来それを是正すべき立場にあった研究者や学芸員がなぜ十分な批判的検証を行わなかったのかについては、ある程度特定できるものの改めて検証される必要がある。同時に、そのような誤った歴史認識の流通によって相対的に評価を高める結果となった言説や実践についても、日本写真史および広島の写真表現史の観点から再検討することが求められる。


1995年 土田ヒロミ『ヒロシマ・モニュメントⅡ』(冬青社)

撮影:1979年〜

土田ヒロミ『ヒロシマ・モニュメントⅡ』(冬青社、1995年)


壊滅的破壊にもかかわらず、それをくぐり抜け戦後永く生き続けてきた事物一建物、橋、樹木、石碑などーが市井の片隅に点在している。それらを「ヒロシマ・モニュメント」と名付け、敗戦30数年後の1979年に最初の撮影をした。
さらに同じ対象を、定点観測の手法でおよそ10年毎に撮影した。
約10年という時間経過の中で、それらの事物がどのように変化したのか、もしくは、させられたのか、また、それらを取り巻く風景がどのように変化しているかを確認するためであった。この作業を通じてくヒロシマ>の変容の質を写し撮ることができるのではないかと考えたのである。
1979年から2025年まで、約45年間の時間の中で変化する「ヒロシマ・モニュメント」の撮影を継続してきた。この写真集は、それら4回の記録をまとめたものである。

はじめに『Hiroshima Monument』(ふげん社、2025年)


これらの風景の喪失は、「被爆」という事実を認知することがいよいよ困難になっていくことを具体的、象徴的に表していることに通じています。「ヒロシマ・モニュメント」の作業は、「被爆」の記憶が40年にわたって喪失していくプロセスを記録していることを表す作品なのです。


1995年 土田ヒロミ『ヒロシマ・コレクション』(NHK出版)

撮影:1982年〜

土田ヒロミ『ヒロシマ・コレクション』(NHK出版、1995年)

 広島平和記念資料館は、市民自らの主体的な寄贈・寄託行為によって成り立っている世界でも稀な博物館です。
 私は、1982年を初回として、継続的にこれまで4期(1982年、1995年、2018年そして2023~2024年)にわたり被爆資料を記録してきました。その理由は、永く、個人が私蔵していた遺品類の寄贈・寄託が止むことなく続いていたからです1)。2000年以降、遺族の世代交代の時代に入り、一世代が守り続けてきた「形見」としての遺品の寄贈が増えてきましたが、そのような遺品を記録するには、長期間撮影を継続する必要があったからです。それらの被爆資料を通して、原爆による惨状が市民生活の日常の広範囲かつ深部に及んでいることを記録しなければならないと考えたのです2)。

 また、もうひとつの動機として、原爆による悲劇を「他者の痛み」にとどめてはいけない、という思いがありました。私たちは、核戦争が常に身近で起こり得る世界に生きていること、さらに、そこにはもはや勝者も敗者もないのだと認識する必要があるのです。

あとがき『Hiroshima Collection』(NHK出版、2025年)


 撮影における方法論は、一切の私的感情を排して、即物的な記録に徹すること。対象について私的な解釈をしないことを第一義としてきました。写真家の個人的な解釈や感性によって、事実と乖離したイメージの美化や資料の持つ悲劇性のみが誇張されることを避けるためでした。また、様々な資料の「日常のかたち」の記号性を重視することは、1945年8月6日のヒロシマが、紛れもなく現在の私たちの日常につながることを示唆しています。この方法論は、40年前の最初の撮影から現在まで一貫しています。
テクニカルな記録方法については、初期の撮影では銀塩フィルムを使用。今世紀に入り、デジタル技術の進化によって圧倒的な高画質での記録と自在な表現が可能になり、3回目からの撮影はデジタルカラーでの記録となりました。

 私の「ヒロシマ・コレクション」の表現の特異性は、写真表現の中に「文字」を構成的に用いたことです。資料自身の「物語」を写真と同格に文字として配置し、両者を同時に知覚できるように構成しています。時間を遡ることが困難な写真に、過去を自在に表現できる文字を同平面に一体化させることで、被爆の事実が過去の出来事に留まることなく、現在という時間にも通底する表現になると確信し、継続してきました。このコンセプトが、被爆の実相をリアリティを持って伝えていくことを願っています。

あとがき『Hiroshima Collection』(NHK出版、2025年)



被爆地の写真表現には、1990年代から2000年前後にかけて明確な断絶が認められる。この時期以前に被爆地と向き合った写真家と、それ以降に初めて被爆地を撮影対象とした写真家との間には、被爆者との距離や関係性において大きな差異が存在する。
この時代、写真評論文化の衰退、写真とアートの関係性、メディア受容環境の激変やデジタル技術の台頭など、評価する側の世代交代含め写真を取り巻く環境は大きく変容した。こうした変化に加え、人々の思想やヒロシマ・ナガサキへの関心などは1991年のバブル崩壊以後の社会変動とも連動していると考えられる。この問題については、別途検討する。


2000年〜

2000年 東松照明「長崎マンダラ」展覧会カタログ(長崎県立美術博物館)

東松照明「長崎マンダラ」展覧会カタログ(長崎県立美術博物館、2000年)

本展覧会では、1960年代より約40年間、長崎県内各地を撮影し続けておられる東松照明氏の作品を紹介いたします。
(中略)
東松氏の長崎県に対する想いは深く、現在長崎市に定住し、長崎市内のほかにも五島・佐世保・諫早と、県内のさまざまな自然・文化を撮影し続けておられます。
日本の西端に位置し、かつて遣唐使の寄港地、南蛮・中国・オランダ貿易の窓口として栄えた長崎県は、また、原爆・米軍基地・水害・千・過疎など、日本の縮図ともいえる様々な問題を抱えています。東松氏は、そうした長崎県を、被爆者の撮影を基点としながら撮影されています。しかし、東松氏の「長崎」作品群は、単に様々な問題を告発するという社会派としての眼差しで捉えられたものではなく、不思議なほどの「美」を内包しています。
本展覧会では1960年代より撮影された作品、未発表の作品、そして本年撮影のものなど数万枚にも及ぶ「長崎」をテーマとした作品群の中から、東松氏自身の手で新たに選択・構成し直された約300点を「長崎マンダラ」と題し展示いたします。したがって、これは東松氏の「眼による長崎論」であるといえるかもしれません。

平成12年(2000)11月2日 長崎県立美術博物館 館長 平田徳男




2002年 江成常夫『ヒロシマ万象』(新潮社) 

撮影:1985年〜

江成常夫『ヒロシマ万象』(新潮社、2002) 


日本に限らず中国をはじめ近隣諸国に、甚大な犠牲と恋しみをもたらした「昭和の15年限争」は、満洲建国に深くかかわる満洲事変に始まる。事変は間もなく日中戦争、さらに太平洋服争へと火を拡大させ、広島、長崎への原爆投下をもって終間する。負の昭和を洗視し仕事の文脈を免罪符に、私が撮影と取材を目的に、はじめて広島を訪ねたのは、被爆40周年に当たる昭和60(1985)年8月6日である。この日も朝から曇一つなく晴れ、炎天の街に買っ赤な夾竹桃の花がひときわ目についた。罪業の日から40年が過ぎた広島はすでに100万都市に変貌し、被爆の原形は消えていた。

見えなくなった原爆禍の視覚化ーーその手掛かりを記憶に求め、肉体的苦しみと、精神的痛みを体験してきた被爆者を、機会を見つけては訪ねた。あの悪魔のキノコ雲のもと、一発の原子爆弾がもたらした地獄の光景は、被爆した一人一人の体に喰い込んで、消えることなく顕在していた。死者が川面を埋めた元安川、防火用の水槽に体を突っ込んだ幾重もの遺体、土のいたるところに棚引いた荼毘の煙一広島に足を選び記憶を重ねて質すうち、私は変説したヒロシマの万象に、原爆で犠牲になった人々の魂を重ね合わせていた。

それにしても土門拳の「ヒロシマ」に接して以来、私の「ヒロシマ」への道程は万里に似て遠かった。しかし、写真の道を歩き草の根の昭和を見詰めてきた私が、なんとしても「ヒロシマ」にレンズを向け、写真表現者としての精魂を注ぎたかったのは、平成7(1995)年4月、すでに上梓した写真集「まぼろし国・満洲」に合わせ、「ヒロシマ」を編むことで、大罪を犯した「昭和の15年戦争」の因果関係を現代史の時間軸のもとで確認しておきたかったからである。

罪業は罪業の忘却から始まる。ヒロシマの万象に死者の霊を託した本書が負の昭和を記憶し、次代への語り部の役が、いささかでも果せれば仕合わせである。

2002年5月15日 沖縄本土復帰30周年の日に


2004年 笹岡啓子 「photographers’ gallery File 03 Park City」(photographers’ gallery)  

 撮影:2001年〜

笹岡啓子 「photographers’ gallery File 03 Park City」(photographers’ gallery、2004)



2005年 土田ヒロミ『ヒロシマ2005』(NHK出版)

撮影:1975年〜 

2005年 土田ヒロミ『ヒロシマ2005』(NHK出版、2005年)


2005年、戦後60年の節目である。人の歳にたとえて「戦後も還暦を迎えた」という表現を、この夏、数多く見聞きした。還暦という言葉には、なにか見限るような諦めのニュアンスがあって、ヒロシマの表現にながく拘ってきた者として、そのような風潮が広がっていることに、ある種の焦燥感に駆られることがあった。
というのは、以前から計画していたヒロシマについてのいくつかの課題を、私は着手しないまま引き延ばしてきていたからである。そのひとつは、『原爆の子』に作文を寄せている作者たちを再訪する、という計画であった。
1951(昭和26)年に出版された少年少女の被爆体験記『原爆の子ーヒロシマの少年少女のうったえー』(長田新編/岩波書店)には、186名の作文が寄せられている。私は、29年前の1976年にその作者たちを尋ねるルポルタージュを開始し、ようやく186名中107名の方々とお会いして写真集『ヒロシマ1945-1979』(1979年、朝日ソノラマ)を発表した。作文執筆時(昭和25年頃)の作者たちの年齢構成は、年長者は大学生、若年者は小学生。若年者の方と私は年齢が重なることもあり、私自身が還暦に至った時、再訪の約束をしていたのである。
(中略)
前回1976〜79年の取材は、戦後31〜34年。その頃の『原爆の子」諸氏はみな仕年であった。今年(2005年)、その何人かに、老いを迎えた現在の想いを語っていただいたのである。

また、8月6日前後の広島の風景を撮影。私にとって久し振りの夏の平和記念公園は、まさに祝祭にも似た風景であった。明るく、賑やかな空間に身を浸しながら、「式典には、どうしても足が向かない⋯⋯」という何人かの声を思い出さずにはいられなかった。

世紀末から新世紀へ。壮年から老年へ。戦後60年を生きた人たちの表情と、2005年の広島の風景、それらを編集構成することで、"ヒロシマの現在"について考察を試みた。

はじめに


戦後60年、還暦という表現には抵抗感があるが、千支が一回りして元に還るという長い年月である。世代が交代するには十分な時間である。いまや、われわれ日本人が、世代を超えて、あの戦争についての共通の記憶を持つことや、ましてそれを直接伝えていくことは困難な状況に立ち至っている。
そして、その中の原爆の記憶もまた伝えていくことは、被爆者の高齢化などにとどまらず、広島・長崎という特定域に限定されていることがらであることや、どうせ伝わらないのだからと最初から絶望してしまって、
「話したくない」と口を噤んだままの人も多いことを考えると、継承はいっそう困難な状況にある。しかし、口を噤む人を他人が責めてはならない。また、責めることなど許されるはずもない。
阿鼻叫喚――人間としての尊厳を喪失させるほどの徹底的な破壊を被ったとき、人は、言葉を失う。言葉を超えた体験をふたたび自らが言語化することは、困難で、むごい作業である。だが、被爆は確かに記録し継承していかねばならない惨事である。
いうまでもないことだが、原爆による破壊は、人類史の視野からみて記録されねばならない文明史的意味を有する惨事であるからだ。原子核の操作による破壊は、ここに至った人類を自らが破壊し、それにとどまらず、地球上のすべての生態系を破壊することにも繋がるからだ。

あとがき

子どもの頃に書いた一編の作文が、一人の生き方に深く関わってきたのは、単に偶然ではあるまい。そこに記した負の深い溝を、身をもって彼ら彼女らは生きてきたからに他ならない。思考を深化させる文字の力でもあろう。負を背負いながらも、歩き出すべき原点を確と受け入れ、凛として時代に向かい合って生きてきた姿には、誇り高いものすら感じさせる。喩えが大きすぎるかもしれないが、鞭に打たれて十字架を担ぎ、ゴルゴダの丘に向かう聖者にも似て、メシアたらんとする覚悟すら感じさせられた出会いでもあった。
坂口博美氏がふともらした「この不幸が少しは自分をましに導いてくれたかもしれない⋯」の一言に、私は感銘した。偶然にもたらされた不幸を忌避すべきものと捉えるのではなく、そこからの運命は自分で責任を取ろうとしてきた生き方、そこには、多くの被爆者に共通する意識を見ることができる。

あとがき

8月6日に広島を訪ねたのは、久しぶりであった。
60年という節目だったからだろうか、平和公園は、祭りの広場のように演劇化していた。合唱あり、ピアノ、尺八、紙芝居、ドームを描く合作会、平和行進、政治集会、お経の唱和、木魚、風船、明るく楽しげにも見える人々。これも60年という年月の長さが成しているのであろう。記憶を共有し得なくなった者たちにとってできることは、おのれの生の燃焼を捧げることしかない。場違いに見えるピアノだが、精一杯に天に響けとキーに打ち込むのが、新しい世代の素直で真摯な表現なのだ。しかし、私にとって興味深いのは、
この賑やかな劇場空間と静かな被爆者とのあいだのキョリである。
当事者と非当事者とのあいだに横たわる深い乖離、その溝を埋め切れない人間の限界を超える思想が、この広島から生まれてくることを願うばかりである。
2005年11月1日


2007年 細江英公『死の灰』(窓社)

(発表は1970年)
撮影:1958年〜 1967年


細江英公『死の灰』(窓社、2007年)





2008年 石内都『ひろしま』(集英社)

撮影:2007年〜

石内都『ひろしま』(集英社、2008年)


 
 私がですか?というところから始まった。母の遺品シリーズ"Mother’s”は個人的な写真から離れて、作品の自立を感じていた頃でもあり、写真の質の流れとして広島に呼ばれたのかもしれなかった。そして広島へ、一度も行ったことがなかったのである。
 広島平和記念資料館は、常設展示室と収蔵庫に、約1万9千点の被爆死した人の遺品と被爆した品物が大切に保管されている。その中から肌身に直接触れた品物を中心に選んで撮影する。
(中略)
 生地が織られ、裁断され、縫い合わされて、その日の朝に着ていた背景が浮かびあがる。戦争と科学の実験の場にされた町に遺る品物は、何も語らず、ただそこに在るだけなのに、ディテイルの過激な陰りと裏腹に、鮮明な彩色と上質な衣布(ぬのごろも)のテクスチャーに思わず息をのむ。

 光の中を漂う時間の糸が無数に交差して、記憶の泉になっていく。小さなモノ達は自然の光のもとに連れ出して、忘れてしまった本来の姿に近づける。資料となってしまった日から今日までの時間は、私の生きて来たのとほぼ同じ長さであることを実感する。

 今、私に出来ることは、眼の前にあるモノ達と共有している空気にピントを合わせ、その場の時間をたぐり寄せながらシャッターを押すだけだ。

 冬、春、夏、秋の撮影が終わって、初めてたずねた広島の町から、固定された広島なるもののイメージが解きほぐされていった。私の計った距離の短長が像となり、自由が許されて写真となった。人は一世紀生きることはむずかしいが、モノ達はもっと長い存在が与えられている。私達よりもその先々の世まで。決して過去になれない世界最大級の跡の品物として。
 この遺されたモノ達に万感の想いをこめて、何ひとつとして記録のない(資料集めの最初期の品)誰のものかまったくわからない2着のワンピースへ、美しき乙女の姿態を重ねながら、この写真集を上梓する。

在りつづけるモノ達へ『ひろしま』あとがき

2008年「石内都展ーひろしま/ヨコスカ」展覧会カタログ(目黒区美術館)

「石内都展ーひろしま/ヨコスカ」展覧会カタログ(目黒区美術館、2008年)



石内:あのね、痛みはやっぱり他者ですよ。広島の痛みは私には理解できない。
小勝:それはそうですけれども。
中嶋:痛み自体は、ということですかね。
石内:そうです。だからそういうところじゃないんだよ。痛みは本当にその個人しかわからないことであって、私例えば、被爆した方に初めて会ったんですよね。半日くらいお話しを聞いたんだけど、やっぱり聞いてるだけね。答えることは全くできない。じーっとただ我慢して聞くだけね、ということしかできない。その痛み、わからないもの。わかったなんて言えないな、ということと、そういう立場でものごとを考えちゃいけないと思ったの、私。
中嶋:言い換えると、わかるかも知れないという可能性を持って撮っているわけじゃない、ということですね。
石内:そう。それは全くないね。理解しようと思って撮ってるわけじゃないから。

石内都 オーラル・ヒストリー 第2回 2011年1月13日インタヴュアー:小勝禮子、中嶋泉

石内:だからね、よそ者なの。私、いつも。横須賀もよそ者なんです、よそから来て。広島もよそ者なの。よそ者っていうのは初めから距離を持っている訳ですよ。だから見えるの。距離をちゃんと、とらえる事ができるから見えて写真が撮れるの。と、私は最近、「ひろしま」もそういう風に思い始めて。だから、他人の痛みなんて撮れるわけがないじゃない。自分の痛みだってよく撮れないのにさ(笑)
小勝:それはもちろん、そうです。それはそうですけれども、その一方でこの遺品の特に女の子の洋服、可愛らしいドレスが、自分が着ていたかも知れないっておっしゃってますよね。
石内:それは思ったの。それはね、現実的に目の前にした時に、このスカートにしても、「なんか私が着ていてもおかしくないな」と本当に思ったんですよ。それはリアリティだよね、今目の前にある、という。別に60何年前の被爆したときのことはどうでも良いの。どうでも良いっていうのか。だから私は全てこれ、データがありますから、一個一個ね。ないのもあるけれども、誰がどこでどうしてこうしてっていう全部ストーリーがあるんですよね、この遺品には。
小勝:それを寄贈した人々のね。
石内:私はそれ(寄贈した人々のストーリー)に全く興味がなかったの。それは過去の話であって、私の目の前にあるものは60何年経った、時間とともに今目の前にあるものだから。一番初めの物語には、全く私は興味がない。そうしたらそれで、すごくいろんな問題が起きたんですよ。「そんなことでいいのか」みたいな。

石内都 オーラル・ヒストリー 第2回 2011年1月13日
インタヴュアー:小勝禮子、中嶋泉

石内:初めのワンピースと最後のワンピースは寄贈者がいなかったの。
(略)
石内:ああ、そう。なんで? って。だから、私のものなの。
本当にびっくりして、なんで? って資料館にたずねたらね、最初期はデータを取らなかった時なんだって。取ってもきっとどっかにいっちゃったりとかね。この二つだけ寄贈者がいないの。実は発表する時に全部寄贈者に許可をもらうんですよ。一応寄贈者の名前をどっかにいれなくちゃいけないのね。
中嶋:これは寄贈者の名前なんですね。被爆資料リストというふうにありますけれども。
石内:うんうん。だから展示するにしても、どこかでまとめて寄贈者の名前はどこかに展示しなくちゃいけないの。そういう決まりがあって。でもこの二つは寄贈者がいないからいいの、勝手に。勝手にというとまた語弊があるけれども。そうか、と思って。これは私が着ていてもおかしくない。だから、すごくちょっと誤解されるけど、私物化できるぞ、と。広島を私物化できるなんて大変なことなんだけど、でも私はあえてそれはしなきゃいけないと思った。ということは、全責任を負うぞって事だからね、私物化するってことは。だからそういう覚悟が、実はある。この「ひろしま」には。

石内都 オーラル・ヒストリー 第2回 2011年1月13日インタヴュアー:小勝禮子、中嶋泉

石内:ね、やっぱり原爆という大変な大事件を受けたら、それは被害者としてそんな普通の生活をしていちゃいけないんじゃないか、という。ところがどっこい、普通で当たり前で、普通に生活にしているわけですよ。広島だって長崎だって、東京だってパリだってニューヨークだってね。8月の6日はね。それなのにもかかわらず、広島・長崎っていうのは、そこら辺がすごくなんかこう塗り込められちゃった。変だよね。私はこれはね、普通の人が普通に生きて、普通にお洒落をして、こういうものを着てたっていうことを、私これは発見したんだと思ってるよ。
中嶋:そうですね。
石内:だから、言っちゃいけなかったんですよ、こういう風に。でも、当たり前じゃんって。原爆が落ちる前はみんな一緒だよ、みたいなかんじですよ。
小勝:一番びっくりするのは、この色彩とか素材とかの美しいままで残っていたということですよね。
石内:残ってたから。それはびっくりですよ。それも発見ですよね。
小勝:本当にそうですね。
石内:だって私、モノクロのイメージしかなかったんですもん。
中嶋:そうですね。
小勝:なんかみんな茶色く変色したね、そういうものしか今まで見てこなかったですよね。展示室や写真では。
中嶋:やっぱり白黒で撮られることが多かったんですよね、きっと。

石内都 オーラル・ヒストリー 第2回 2011年1月13日インタヴュアー:小勝禮子、中嶋泉



2009年 東松照明「色相と肌触り」展覧会カタログ(長崎県美術館)

東松照明「色相と肌触り」展覧会カタログ(長崎県美術館、2009年)

そこで生き延びた方が放射能を帯びて、その後、毎年、毎年、何人か、何十人か死に続けていく。苦しみながら、生活苦、病者との願い、差別との聞い、苦難の中で生き税続けている。しかも私が来た時は、16年経っていまして、その16年間の苦悩を目の当たりにして、私はカルチャーショックを受けて一。何も長崎のこと知らずに仕事として割り切って来た。仕事というのはお金を貰うから来るわけですね。原爆のことも何も勉強せずに来たという自分の浅はかさといいますか、自責の念といいますか、気持ちの整理がつかないというのはそういう意味ですね。かといって、どうしたらそういう自分の気持ちの整理がつくかというのは分からないから、兎に角、その次の年に、今度は白要で、親まれ仕事ではなくて、長崎にふらっと来てしまった。来れば、当然最初に来た時にお会いした被爆者 20数人を一軒一軒回って、「お元気ですか」といって声をかけた。行けば、写真家ですから、写真を撮りますね。だけど、それで結論が出る訳ではない。また、その次の年も、また同じ年に2回来た時もありますけれど、また時間が出来ると長崎に来てしまうという。

「色相と肌触り」カタログ


長崎という都市が持っている、歴史的な、時間的な厚み、そういう文化の厚みと言ってもいい、それから人々の生活ー僕は長崎風のスローライフが大好きで、ゆっくリズムですねーーそういうことも、段々来る度に、どんどん興味が広がると同時に、どんどん、どんどん長崎という町が好きになっていく。
それから、付き合っている被爆者の人たちは、最初は被爆者なんだけれど、もう2回日、3回目と来ると、同世代が多かったものだから、時代を共有した友達となる。

「色相と肌触り」カタログ


被燥者の方が何人かが共通して言っていたのは、ケロイドというのは、原爆の落ちる側、大体右の類を向けていたら、そちら側だけがケロイドになって、反対側は綺麗ですよね。普通どこの新聞社も、どこのテレビ局も原爆の取材に来たら、当然のことながら、ケロイドの側からしか撮らない。「でも東松さんは両方撮ってくれるから感しい」と言って、そういう言葉を何回か聞いて、逆に私はピックリしたんですけれども。もう友達付き合いですから、被爆者を振りに来ている訳ではなく、友達を撮る訳だから、家族同様の人たちを撮るわけだから、ケロイドを撮る必要はない。だからこっちも撮れば、あっち側も撮る。いろんなアングルで、生活のいるんな々で、いろんなアクションを撮っていくという。だから付き合い方が全く変わって来る。


僕は被爆者ではないですから、被爆者と全く同じ風には考えられないし、同じような感情も持ち得ないんです。(…中略)やはり被爆者でない私には実感できないんですね。その距離を縮めるためには、どうしたらいいかと言う疑問で、また次の年来てしまうーーというようなことの繰り返しですね。
ではその距離が縮まったかというと、縮まったような気もするし、縮まらない、永久に縮まらないような気もするが、しかし私に出来ることというのは、写真を撮ることしかないということだけがはっきりしている。では撮り続けようということで、こちらに引っ越して来ました。被燥者にはなり得ないけど、同じ時代を生きた人間として、伴走者というか、助走者というか、その時代を共に生きていく、共に迷っていく。
昭和なら昭和、平成なら平成という時代を共に走っていく。まあ、どちらが先に死ぬかわからない。いずれは死ぬでしょうけど。だけれど、写真は残るだろうということで、その程度の結論しか出ていませんが。今は伴走者、助走者として走れる間は、走り続けようと思っています。
「長崎県美術館研究紀要 No2」(2009年)より抜粋

「色相と肌触り」カタログ



2009年 笹岡啓子『PARK CITY』(インスクリプト)

撮影:2001年〜

2009年 笹岡啓子『PARK CITY』(インスクリプト)


敗戦からすでに60余年が経ち、語りがたい記憶を抱いたまま確実に経験者たちは亡くなり、そのうちに誰もいなくなるとは、よく言われていることだ。そうならば、何はともあれ、かつてそれがあったことを絶えず顧慮するための仕掛けを開発しなければならないと、軽薄な者も重厚な者も普通の者もこぞって思案を重ねているのが現状だ。そんな仕掛けを作ってみせることが、今なお残された喪の仕事であると見なされて、広島は依然として政治と芸術の都合の良い加工材料であり続けている。すべて記憶の減衰とのたたかいの営みであり、焦燥にかられてのことだからといって、かかる状況を見過ごしていていいのか。広島とはすでに「話題」の別名になった。だからといって、語り継ぐきっかけを首尾良く提供すれば広島はそれでいいのか。そんなことはない、そんなことではなかった。

そんなことはない、と項を硬くしながら首を横に振るところから、笹岡啓子の「PARK CITY」は確かに始まったのだ。

倉石信乃「広島の印象一笹岡啓子『PARK CITY』に寄せて」

すべてが失われ、吹き払われた爆心地には公園ができ、公園の中にアーカイヴが設置された。だが追悼の集いのある一時を除く日常において、そこはあまりに手がかりをいた、とりつく島のない、非フォトジェニックな空間である。しかし笹岡は、この公園に特殊な「撮りにくい」空間の性質を、歩行する身体との関係において、昼夜を問わず見事に把捉している。それは例えば、原爆ドームを背にして原爆死没者慰霊碑へ、さらにそれを過ぎて平和記念資料館へ向かって公園を歩く時の、あてどなさのことだ。空漠とした拡散的な場にあって、足の運びの頼りなくもつれる感じのことだ。また、ある秩序のようなものに促されて、どこか一つのところに停留することができずに、ただゆっくりと通過することしか許されていない、そんな身体に差し向けられた微かな空間的な強制力のことだ。あるいは、広さのただ中にあって、隠れることがかなわず、剥き出しに曝されているようなざわついた皮膚感覚のことでもある。

倉石信乃「広島の印象一笹岡啓子『PARK CITY』に寄せて」


特に注目されるのは、写真家(=笹岡)が平和記念資料館の内部で撮影するのはきまって、写真パネルやジオラマ、あるいは解説用の短映画であって、展示の順路上のハイライトとしてある「もの」ではないことだ。資料館の展示室はあくまで展示室としての性質を証すものとして捉えられているのである。すでに見たように、土門拳から石内都にいたる写真家が、「もの」としてある被爆資料への強い関心を示してきた「原爆写真史」の展開にあって、現時点での笹岡のアーカイブに対する関心の傾きは例外的なものだ。
こうした主題選択の理由の一つはおそらく、われわれの視覚的環境の「貧しさ」においてしか、出来事に大幅に遅れてきた者の「喪の仕事」は始まりようがないことを作者がどこかで知っているからだ。複写を重ねてある映像資料は、しばしば鑑賞者越しに写されることで、対象との隔たりの感覚を保ちながら、いっそう見えにくいものとなる。この「見えにくさ」や影の領分は比喩ではなく、「追体験としての被爆」の可視性の度合いを字義通りに表している。

倉石信乃「彼女のワンピース 被爆資料と写真の現在」『写真空間2』青弓社、2008年


2010年〜

2013年  『立ち上がるヒロシマ1952』(岩波書店)

名取洋之助、長野重一
撮影:1952年

『立ち上がるヒロシマ 1952』(岩波書店、2013年)


数年前,段ボール箱を整理していたら,『広島――戦争と都市』(1952年)の密着焼きを収めた印画紙の箱が出てきた.密着帳散逸後に,岩波映画製作所で新たに作成したものらしい.めくってみると,『広島――戦争と都市』に掲載されていない写真がたくさんある.
 まず,この密着焼きをルーペで覗き,「感じる写真」に付箋をつけることから始めた.何度もくり返しているうち,原爆ドームの位置などから,撮影場所がだんだんわかってきた.最終的には150枚を超えるプリントをラボに発注,出来あがった写真を並べてみたのだが,復興する広島市街の生き生きとした表情に思わず引き込まれてしまった.
 じつは1997年ごろ,岩波映画製作所の最初のスタッフカメラマンだった長野重一氏(1925-)から,編集長格の名取洋之助(1910-62)と一緒に広島の撮影をしたことをうかがっていた.今回,写真を選んでいて,2人の写真のレベルの高いことを実感するばかりだった.
 たとえば,太田川沿いの不法住宅や隣接する公営住宅群は,「住」を求める強烈なエネルギーとして描かれ,駅前マーケット周辺の賑わいは,「衣」「食」へのエネルギーとして写しとられている.そして,原爆ドーム周辺のみやげ物屋の小屋には,爆心地こそヒロシマの中心であることを象徴させる――いや,それだけではない.2人は,広島ならではの隠し味をちゃんと発見していた.それは,オート三輪タクシーだ.ステーションワゴンのような客席を載せたスマートなものもあり,地元の東洋工業と,岡山県の三菱・水島製作所で製造していたようだ.広島駅前にオート三輪タクシーが並ぶ光景は,アジア風な魅力にあふれている.【編集部:桑原 涼】



2013年 福島菊次郎『証言と遺言』(デイズジャパン)

福島菊次郎『証言と遺言』(デイズジャパン、2013年)


2014年 石内都『Fromひろしま』(求龍堂)


石内都『Fromひろしま』(求龍堂、2014年)


2015年 三田村陽『hiroshima element』(ブレーンセンター)

撮影:2005年〜 ?

三田村陽『hiroshima element』(ブレーンセンター、2015年)


2015年 大石芳野写真集『戦争は終わっても終わらない』(藤原書店)

撮影:

大石芳野写真集『戦争は終わっても終わらない』(藤原書店、2015年)


2015年 新井卓『MONUMENTS』(PGI)

撮影:

新井卓『MONUMENTS』(PGI、2015年)


2016年 「東松照明ー長崎ー」展(広島市現代美術館)展覧会カタログ

「東松照明ー長崎ー」(Akio Nakagawa Publishing、2016年)


2017年 石内都『肌理と写真』(求龍堂)

石内都『肌理と写真』(求龍堂、2017年)


2017年 藤岡亜弥『川はゆく』(赤々舎)

撮影:2013年〜

2017年 藤岡亜弥『川はゆく』(赤々舎、2017年)


2019年 大石芳野『長崎の痕』(藤原書店)

撮影:

2019年 大石芳野『長崎の痕』(藤原書店、2019年)


2019年 江成常夫『被爆: ヒロシマ・ナガサキ いのちの証』(小学館)


江成常夫『被爆: ヒロシマ・ナガサキ いのちの証』(小学館、2019年)


2000年以降、新たに広島を撮影し始めた写真家たち、それを新たに論じ始めた研究者やジャーナリストら 
明らかな被写体の違い 被爆者に対するアプローチ 世代 時代 時間差


2020年〜



2024年 金川晋吾『祈り/長崎』(書肆九十九)

撮影:

金川晋吾『祈り/長崎』(書肆九十九、2024年)


2025年 宇佐美雅浩「Recollection ⇆ Vision 東広島の過去・現在・未来」展 (東広島市立美術館)

撮影:

宇佐美雅浩「Recollection ⇆ Vision 東広島の過去・現在・未来」展覧会カタログ(東広島市立美術館)


2025年 土田ヒロミ『Hiroshima Monument』(ふげん社)


土田ヒロミ『Hiroshima Monument』(ふげん社、2025年)


2025年 土田ヒロミ『Hiroshima Collection』(NHK出版)

土田ヒロミ『Hiroshima Collection』(NHK出版、2025年)


2025年 土田ヒロミ「ヒロシマ・コレクションー1945年、夏。」展覧会カタログ(中之島香雪美術館)


土田ヒロミ「ヒロシマ・コレクションー1945年、夏。」展覧会カタログ(中之島香雪美術館、2025年)



展覧会カタログ

特に1945年の原爆投下直後に撮影された写真に関しては、いくつかの重要な展覧会が開催されている。

1995年  Nagasaki Journey: The Photographs of Yosuke Yamahata August 10, 1945 (Pomegranate)

Nagasaki Journey: The Photographs of Yosuke Yamahata August 10, 1945, Pomegranate, 1995


2015年「被爆70年記念写真展  復興の記録」(泉美術館)
2023年「広島の記憶」(泉美術館)

展覧会カタログ


被爆70年記念写真展 復興の記憶 ヒロシマを見つめた写真家たち― いま、伝えたいこと ―
2015年7月16日(木)~2015年9月6日(日)
泉美術館


広島の記憶
2023年6月17日(土)~2023年8月27日(日)
泉美術館


展覧会カタログ


2025年「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」

『記録写真集 被爆80年企画展 ヒロシマ1945』中国新聞社・朝日新聞社・毎日新聞社・中国放送・共同通信社(ザメディアジョン、2025)

被爆80年企画展 ヒロシマ1945 2025.5.31 (土) — 8.17 (日)
東京都写真美術館
主催:主催:中国新聞社 朝日新聞社 毎日新聞社 中国放送 共同通信社


展覧会カタログ


中国新聞によると、東京都写真美術館で開催された「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」(会期:2025年5月31日~8月17日)の総入場者数は、約3万7,000人
東京都写真美術館は会場のみの提供で、本展企画には関与していない。


(参考)

1995年 「核-半減期 The Half-Life of Awareness: Photographs of Hiroshima and Nagasaki」

1995年09月21日〜11月10日
東京都写真美術館

展覧会カタログ



(参考)

2008年『HIROSHIMA1958』写真:エマニュエル・リヴァ(インスクリプト)

編:港 千尋、マリー クリスティーヌ ドゥ ナヴァセル
写真:エマニュエル リヴァ 

『HIROSHIMA1958』(インスクリプト、2008年)



参考文献


1995年『トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録』写真:ジョー・オダネル(小学館)
撮影:1945年

『トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル(小学館、1995年)




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