【ファクトチェック】#01 教育出版『中学国語3』収録 梯久美子「薔薇のボタン」
2024年10月、教科書副教材出版社から、該当文章における土田ヒロミ〈ヒロシマ・コレクション〉《ワンピース 寄贈者:小川リツ》作品画像掲載申請があったことが確認されている。使用用途は以下「これまで広島の遺品といえば陰影を強調したモノクロと相場が決まっていた。原爆の悲惨さを伝える目的のために撮られてきたからだ。」という土田のコンセプトからも、写真史や写真技法的にも事実とおよそかけ離れた文章のための参考図版として同作品写真を使用したいという、驚くべき依頼内容であった(土田から作品についての説明を行い、副教材会社は画像使用申請を謝罪とともに取り下げている)。
以下は、該当文章の内容を、土田本人とともにファクトチェックを行った結果である。
(2024年11月、2025年9月・12月に教育出版株式会社への事実確認依頼=いずれも回答不十分)

【誤1】これまで広島の遺品といえば陰影を強調したモノクロと相場が決まっていた。
誤りである。
第一に、「相場」という語が用いられているが、広島平和記念資料館にて被爆資料の写真作品としての継続撮影を許可されている日本人写真家はこれまで三名のみ(※1)。そのうち、2000年以前に写真表現(作品)として発表したのは土田ヒロミ一名のみである。土田は1982年の時点で既にカラー・モノクロ両方で撮影を行い、同年刊行の『きみはヒロシマを見たか』(NHK出版)にはカラー写真の掲載がある。また、2000年以降はカラー撮影が主流であり、つまりモノクロームによる作品発表は土田一名に限られる。したがって、先行事例と比較対象が一件(※2)のみであるにもかかわらず、これを「相場」と表現し、あたかもモノクロによる被爆遺物の撮影事例が多数存在したかのような記述は、事実に基づかない印象操作に該当する。
第二に、「陰影を強調した写真」という表現は、土田ヒロミの作品特性と明確に矛盾する。土田の「ヒロシマ・コレクション」においては、陰影を極力排除すべくフラットな照明が用いられ、均質さを保つ処理が意図的に施されている。ゆえに、これらの写真を「陰影を強調したモノクロ作品」と定義することは不可能である。
※1 2024年12月資料館回答、単発撮影は国内外複数写真家の実績あり
※2 石内の撮影は報道ではなく、明確に「アート/写真表現」として行われたものであり、報道・記録・個人撮影等を除いた「作品表現を目的とする撮影」の先行事例として提示された件数である。しかし、原爆報道を代表する媒体である『アサヒグラフ』1982年8月10日増刊号には、被爆資料の写真が8ページにわたりオールカラーで掲載されており、著者の事実誤認を示す一例となる。
※「陰影を強調したモノクロの被爆遺物」の歴史的先例としては、東松照明による写真作品が挙げられるが「長崎の遺品」であり「広島」ではない。
【誤2】原爆の悲惨さを伝える目的のために撮られてきたからだ。
誤りである。
この解釈は、土田ヒロミ「ヒロシマ・コレクション」における表現意図および方法論を著しく矮小化している。土田は1982年から一貫して、恐怖や悲惨さ、あるいは傷跡といった感情的要素を強調するのではなく、現在につながる「資料の日常のかたち」そのものを記号的に示しそこに文字を付加するという独自の方法論で「ヒロシマ」の被爆資料を表現してきた。とりわけ、陰影などの演出的効果を排し記録性と現代性が共存するコンセプトは、ここで言う「原爆の悲惨さを訴える表現」とは全く異なる系譜に位置づけられる。したがって、土田の目的を「悲惨さを伝えるため」と断定することは、土田の作品コンセプトに対する適切な理解に基づいていない。本文においては、土田本人に対する聞き取り調査や一次資料への検証が行われた形跡がなく、著者による結論ありきの主観的解釈や憶測のみに依拠して断定的に述べられており、学術的な妥当性を欠く。
【誤3】けれども石内の写真からは「美しく撮る」という明確な意志が感じられた。
正確ではない。
この記述は「(以前に撮影した)土田は美しく撮らなかった」との解釈を促すことになる。しかし、土田が 1982年以降に展開した撮影のコンセプトは「被爆遺品をありのままの形で、かつ美しく撮影する」ことにあり、現在も全く変わっていない。事実、 1985年頃「ヒロシマ・コレクション」に対して「美しすぎる」との指摘は複数あった(一例:当時の朝日新聞広島局記者他)
とりわけ、著者のモノクロ写真技法やヒロシマの撮影表現史に関する理解が欠如したまま「カラー=美しい、モノクロ=美しくない」といった単純な二項対立的な認識に基づいて短絡的に「美しさ」の定義がなされている記述には、慎重な再検討を要する。
【誤4】タブー破り
正確ではない。
2000年以前に資料館所蔵の被爆遺物を撮影し作品として発表した写真家は土田ヒロミのみであり、そこに「タブー」という概念が存在した事実はない。「タブー破り」といった表現を用いて石内の撮影をさも革新的であるかのように位置づける主張は、写真史上の事実と整合せず、正確性を欠く。また、2000年以降は被爆遺物はじめヒロシマのドキュメントにおいてカラー撮影はむしろ主流であり「カラー撮影による新しさ」といった解釈も実態と乖離する。
土田が1982年に被爆遺物を撮影した際に採用した「現代性(日常性)」というコンセプトや「記号的な俯瞰の構図」といった表現手法が後発作品において剽窃されているとの指摘は、2007年頃から写真界において存在している。
※当該写真家による被爆遺物の撮影姿勢については「タブー破り」との表現ではなく、むしろ作品販売やトリミングなどにおける「ルール違反/モラルの欠如」という観点から論じる必要がある。また、「タブー」として石内が破ったものがあるとすれば、作品表現に関することではなく、「ヒロシマを売って利益を私物化する」といった行為や、先行事例や先人の写真家たちのヒロシマの表現についての事実誤認・史実に基づかない虚偽の発言を重ね、自身の作品評価を上げようとする行為などが挙げられる。(別途リンクにて詳細記述)

【誤5】死の瞬間まで丁寧に営まれていた日常
正確ではない。
平和記念資料館の所蔵資料をすべて「遺品」と一括りにしているが、実際には生き延びた本人が寄贈したもの、持ち主が誰かに託したもの、拾得されたもの、来歴不明なものなど資料の背景は様々である。その多様性こそが資料館の存在意義のひとつでもあるが、それらすべてを「遺品」扱いし「死の瞬間」といった一言で情緒性を煽る記述は事実に反している。さらに「営まれていた日常」とは、土田ヒロミが1982年の時点で既に撮影コンセプトとして実践しており、被爆資料の撮影史において、石内都によって初めてフォーカスされた事実ではない。
【誤6】当時は皆、もんぺをはいていたのではなかったか
記述が不適切である。
1983年刊行「アサヒカメラ増刊」に掲載された土田の「ヒロシマ・コレクション」撮影全72カットのうち、モンペはわずか1点、防空頭巾は2点である。ワンピースのカットはそれを上回る3点の掲載がある。
1995年に刊行された『ヒロシマ・コレクション』(NHK出版)に収録された約120点の作品のうち、防空頭巾は3点、モンペは1点にすぎず、その他の大半はワンピース、シャツ、ジャケット、時計、弁当箱など現代においても日常的な衣類や生活用品の写真で構成されている。この点からも、同シリーズの主題が「過去」ではなく「現代(現在性)」の視点に基づいていることが明確である。土田の作品は、被爆遺物を「現在性」として捉えるというコンセプトを写真史において初めて提示し(出典:多木浩二 「あの日の悲劇と現代社会を二重写しする土田の『ヒロシマ』 /『ヒロシマ』(佼成出版社、1985)、国内外で一定の評価を受けてきた。しかしながら、後発写真家がそのコンセプトを自ら発見したものとして語り、先行する写真家のヒロシマの表現に対して「ヒロシマという既成概念に毒されていた」「モンペに防空頭巾といった決まりきったイメージのみ」「カタカナの「ヒロシマ」は男が言うこと」という誤ったイメージの流布を自ら行っていることが複数媒体で確認されている(以下リンクにまとめあり)。
【誤7】もんぺや地味な上衣の下に、ひそかに身につけていたのだという。
この事実を石内が見出したと読める記述は不適切である。
土田ヒロミが1982年に発表した「ヒロシマ・コレクション」の代表的な《ワンピース(寄贈者:小川リツ)》の作品中に「ワンピースは、上着とモンペの下に着けていたもの」との記載がある。
(承前)持ち主の小川節子さんがこのワンピースをモンペの下に着ていたという物語があり、1982年に発表した作品中にそれを明記しています。… https://t.co/dF1kqGqSZB pic.twitter.com/aOcm4h73Mf
— 土田ヒロミ Hiromi Tsuchida (@hiromi_tsuchida) December 12, 2025
広島の被爆資料を「現代の日常」の視点で捉える方法論を確立し実践したのは石内ではなく、石内より25年も早くこれらの資料を撮影した土田である。ワンピースが「もんぺや地味な上衣の下に、ひそかに身につけられていた」ことに着目し、それを作品化したのは土田が最初であり、石内による新しい発見ではない。
※『薔薇のボタン』初出 学士会会報 No.896 (2012年9月発行)
本件問題点の整理と考察
写真史および写真技法教育における誤った解釈の伝達の問題
現代においてモノクロ写真を読み解く視覚的・歴史的リテラシーが低下しつつある中、教科書等の教育媒体において写真史やモノクロ表現に関する誤った解釈が掲載されることは、教育的観点から重大な問題である。特に、「モノクロ=過去の出来事」「古い・悲惨な記録媒体」という固定観念を助長するような表現が継続的に使用されることは、写真表現に対する誤認識を強化する要因となり得る。これは、写真技法そのものの多様性や意図的表現としてのモノクロ写真の価値を矮小化し、モノクロ写真についての美的判断力を失わせ、次世代における写真理解の質を損なう可能性がある。ひいては写真史の改竄にあたると言っても過言ではない。事実と異なる記述がもたらす名誉毀損および歴史改竄への懸念
教科書に掲載されている該当の記述は、単なる著者の誤認にとどまらず、当該写真家および作品に対する名誉毀損の可能性、さらにモノクロで記録された被爆者やその遺族・遺品提供者に対する敬意の欠如といった倫理的な問題も含んでいる。教育現場における指導や教科書の記述は公共的影響力を持ち、改竄された写真史に基づく評価が美術界における価値基準に連動し、更なる誤認の連鎖がアートマーケットにおける作品価格や作家への評価にも影響を及ぼしたことを考えると、そういった内容が教科書に掲載され誤った指導がなされ続けられている責任は大きい。教科書会社の対応に関する組織的責任の問題
当該記述に関して、土田本人から誤りの可能性を根拠とともに指摘したにもかかわらず、教科書会社(教育出版株式会社)による事実確認の調査は一切行われず、論点のすり替えや問題の矮小化が認められた。また、出版社として最低限行うべき著者本人への確認さえも行われなかった。出版社から提供された回答の中には、事実と明らかに異なる虚偽の内容が含まれていた点も確認されており、企業としての説明責任および社会的責任が問われる事態となっている。特に教育に資する出版物においては、情報の正確性と対応の透明性が強く求められるため、こうした対応姿勢は重大な信頼性の毀損につながる。
この作品を「陰影を強調したモノクロ」と分類することは専門知識がある者にとっては到底不可能なことであるが、モノクロ写真を見る訓練や写真史の学習をしていない者にとっては「先入観と思い込み」でそのように見えてしまう、また学校教育によってそのような「モノクロ写真についての誤った知識、偏見」が教えられているという事実が明らかになったと言える。

寄贈:1974年1月30日/寄贈者:小川リツ(小川節子さんの母親)/570×820mm 小川節子さん(当時21歳)は第五師団司令部(爆心地から790m)で朝の体操中に被爆。縮景園に逃げたが、火の勢いを避け京橋川に浸っているところを兵隊に助けられ、師団司令部に収容された。9日、似島に転送されたが、11日に死亡。この絹のワンピースは、上着とモンペの下に着けていたもの。
以下は高校の教科書だが、「モノクロ写真」を深い洞察とともに「読み取る」ことができ、それを的確に表現できる人々も存在する。しかしながら、上記のような偏向的な中学教育を受けた人々には困難な道であろうと察する。
※比較参考:
小川洋子「死者の声を運ぶ小舟」/筑摩書房「文学国語」(高等学校国語科)2023年

寄贈:1962年7月24日/寄贈者:折免シゲコ(折免滋君の母親)/175×45x105mm, 95×145x55mm 折免滋君(当時中学1年生)は、学徒動員として中島町(爆心地から600m)で建物疎開作業中に被爆。8月9日早朝、母シゲコさんが太田川の土手で、積み重ねて焼かれた滋君の遺体を発見。この水筒と弁当箱の入ったカバンを巻きつけていた腰の部分が焼け残っていたので本人と判明。「今日は大豆ご飯だから、昼飯が楽しみだ」と言って出かけたという。
今、私の手元に、広島平和記念資料館の収蔵品を撮影した写真集『Hiroshima Collection』(撮影土田ヒロミ)がある。中学1年生、折免滋(おりめんしげる)君の弁当箱と水筒の写真を見つめている。滋君は動員学徒として作業中に、爆心地から500メートルで被爆。川の土手に積み重ねられた遺体のカバンから、お母さんがこれを発見した。「今日は大豆ご飯だから、昼飯が楽しみだ」と言って出かけたという。弁当箱は歪み、蓋には穴が開き、中身は真っ黒に炭化している。
この小さな箱には、息子を思う母親の愛情と、質素な大豆ご飯を楽しみにしていた少年の無邪気さが詰まっている。たとえ原爆の体験者が一人もいなくなっても、弁当箱が朽ちて化石になっても、小さな箱に潜む声を聴き取ろうとする者がいる限り、記憶は途絶えない。死者の声は永遠であり、人間はそれを運ぶための小舟、つまり文学の言葉を持っているのだから。
初出全文翻訳(ニューヨーク・タイムズ)
以下の石内と梯による対談において、「(2007年の)被爆地は戦後の反戦平和の歩みに『がんじがらめ』」「遺品たちをもう少し自由にしたい」といった発言が見られる。しかし、これらの「がんじがらめ」や「不自由な遺品」といった表現はいずれも石内の主観的認識に基づくイメージ操作であり、写真史の史実に即した事実とは言い難い。
(中国新聞 2013年10月9日朝刊掲載)
「男によるヒロシマ」の「悲惨でがんじがらめの表現」を「女である石内が解放し自由にした」とする架空のナラティブに対しては、とりわけ女性層を中心に強い共感と支持が集まり、それを肯定的に論じる言説が多数生み出されてきた。こうした「心地よいナラティブ」にフェミニズム的要素を付与した石内による「物語」の浸透に大きく寄与したのが梯氏の文章であったことは否定できない。しかし、ヒロシマをめぐる梯氏の言説は、ノンフィクションとしての実証性よりも「幻想的物語」に大きく依拠したものであり、その点は継続的に批判的検討の対象とされるべきである。
また、石内にとっての「自由」とは、「ヒロシマの写真史を恣意的に解釈し、誤った内容を流布する」こと、撮影資料について「所有者の存在を消去する」ことや、「原型が判別できないほどトリミングを施す」こと、さらには「遺品写真を高額で販売する」こと、「看護師の制服を洒脱なワンピースとして再解釈する」ことなどを含むものと理解される。しかし、これらは平和記念資料館のミッションや、資料の所有者・寄贈者が託した意図と大きく乖離していると考えられる。ゆえに、このような「自由」の妥当性については、今日あらためて検討されるべきであろう。
【追記1】
上記事例から正確な写真の知識を持っているとは判断し難い梯氏が、日本を代表する写真賞の一つである第44回土門拳賞の選考委員に名を連ねており、その選任の妥当性については主催者側の説明が求められる。さらに、土門拳は、梯氏が評価する石内都が長年批判してきたカタカナ表記の「ヒロシマ」写真表現の第一人者として位置づけられる写真家であり、また石内が否定的立場を示してきた「ヒロシマ表現」を継続している土田ヒロミおよび江成常夫はいずれも土門拳賞受賞者である。
【追記2】
土田の事務所から梯久美子公式サイトへの問い合わせに対し、「一度発表したものに対しての問い合わせは一切受け付けない」との回答を示していた梯氏が、土田ヒロミXアカウントの2025年11月14日付投稿(投稿画像1枚目は同会が提供)に対して、文書を送付したことが確認されている。
【ファクトチェック】(承前)昨年、このワンピースの掲載申請があり「中学国語3」(教育出版)掲載、梯久美子著『薔薇のボタン』の存在を知りました。2007年に被爆遺物を撮影した石内都についてのテキストですが、史実・事実に基づかない写真技法や作品解釈の誤認が、複数確認されています。”陰影を強調… pic.twitter.com/iBTo1j6deF
— 土田ヒロミ Hiromi Tsuchida (@hiromi_tsuchida) November 14, 2025
「薔薇のボタン」について、「本文中に土田さんのお名前が一切出てこない以上、今回、土田さんが問題にされている部分の記述が土田さんおよび土田さんの作品に言及したものではないことを証明をする必要はない」
土田氏から提供された梯氏の文書では、「これまで広島の遺品といえば陰影を強調したモノクロと相場が決まっていた」とする記述の根拠として、複数のモノクロ写真事例(いずれも「写真表現」ではなく報道・記録写真)が挙げられている。しかし、これらの事例は「広島の遺品写真に陰影を強調したモノクロ写真が存在した」ことを示すにとどまり、「陰影を強調したモノクロと相場が決まっていた。」と断定する根拠にはならない。加えて、梯氏には「写真表現」と「報道・記録写真」を混同し、日本写真史および写真技法に関する基本的理解を欠いているという根本的な問題が認められる。さらに、報道・記録写真の領域に限定しても、「陰影を強調したモノクロと相場が決まっていた」との記述は事実認識として不正確である。
そもそも本件は、教科書副教材制作会社による土田宛の「ヒロシマ・コレクション(ワンピース)」掲載依頼に端を発している。この事実は、石内作品以前における「陰影を強調したモノクロの広島の遺品写真」を指し示す代表例として、第三者によって土田作品が明確に選択されていたことを意味する。しかも、その選択は、実際には「陰影を強調していない」作品に対してなされている点で注目される。すなわち、石内以前の同主題に関する写真表現において、土田作品以外の選択肢が事実上存在しないことを示す根拠となる。したがって、「土田の名前が一切出てこない以上、土田作品への言及ではないことを証明する必要はない」とする梯の主張は、写真史的文脈への理解を欠くのみならず、著者としての説明責任を軽視した態度であると言わざるを得ない。
例えば、1982年刊行の『アサヒグラフ 総集編 原爆の記録 1945広島・長崎』では、被爆資料を撮影したカラー写真が8ページにわたり掲載されている。


「アサヒグラフ」は、プレスコード解除後の1952年に日本で初めて原爆被害を本格的に報道したグラフ誌であり、1982年刊行版には同年当時の内容が再録されている。この点からみても、同誌は原爆被害報道史において極めて重要な刊行物の一つと位置づけられる。したがって、1982年時点ですでに存在していたこれらの報道状況を踏まえるならば、「これまで広島の遺品といえば陰影を強調したモノクロと相場が決まっていた」という梯氏の断定には矛盾が生じる。また、これらの写真がいずれも「陰影を強調した」表現ではない点も認識しておく必要がある。
さらに、土田ヒロミも1982年の時点で、被爆資料の撮影においてモノクロとカラーを併用している。


当時のメディア受容環境においては、ドキュメンタリーにおけるカラーには特別の意味や多くの情報が付加される傾向があり、作品としての「ヒロシマ・コレクション」では、より記号性と匿名性を際立たせるためモノクロ写真によって発表されている。一方で『きみはヒロシマを見たか』(NHK出版)の巻頭には、被爆資料をカラーで撮影した写真が複数ページにわたり掲載されている。


この事実は、「これまで広島の遺品といえば陰影を強調したモノクロと相場が決まっていた」とする梯氏の記述が事実に反することを示す明確な根拠である。また、土田の撮影もまた「陰影の強調」とは対極に位置し、フラットな照明によって演出性を極力排除する手法を採用していることが、技術的観点からも明らかである。
被爆資料に限らず、この教科書に掲載されている梯氏の杜撰な記述や「女性だからこそ日常の視点、生活者の視点で広島を撮れた」(出典: p.267『国語総合 現代文編 指導資料』(東京書籍、2017))といった根拠なき解釈に見られるような不正確な写真理解と歴史認識、旧態のジェンダー論に基づく指導がなされていることで、ヒロシマの記録写真における「モノクロ表現」に対する根拠の乏しい先入観や偏見を学校教育の中で再生産している。土田が1982年の時点で着眼したのも「1945年の人々の日常(とそれが一瞬で断ち切られた事実)と現在との共通性」でありそれが「ヒロシマ・コレクション」の重要なコンセプトである。
また、1945年の被爆直後に広島へ入った報道写真家たちの記録(>別途リンク参照)は、決して「悲惨さを強調する陰影的なモノクロ」という画一的なステレオタイプに収斂するものではない。さらに、ヒロシマの写真表現の起点としてしばしば言及される土門拳に先立ち、名取洋之助と長野重一は被爆地・広島の風景を撮影している。これは『広島――戦争と都市』(岩波写真文庫、1952年)の取材の一環であり、残されたコンタクトプリントには、多くの未採用写真の中に、公営住宅や交通機関、市場の賑わいなど、復興へ向かう都市の日常と人々の活力が生き生きと記録されている。これらは、「悲惨な陰影を強調したモノクロ写真」という通俗的理解とは対極に位置する重要な記録写真群である。

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