見出し画像

永遠の命の条件と付加される報い──イエスの回答


永遠の命を受けるには、何をしたらよいのだろう──

この素朴な疑問に、イエスが答えています。




永遠の命を受けるには


「永遠の命を受けるには、何をしたらよいのだろう」

聖書の話を聞くと、このようなことを素朴に思うものです。

二千年前、イエスに直接この質問をした人がいました。その記録が福音書に記されています。

【マルコによる福音書 10章17-20節】
イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。

イエスは言われた、
「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。

すると、彼は言った、
「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。


「何をしたらよいのでしょうか」

イエスは、
この質問に対して端的に答えました。

💡あなたの知っている戒めを守ることです。

その戒めとは、
殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え」です。

これは、
聖書の神の戒めである十戒の「第五戒から第十戒」にあたります。


十戒の第五戒から第十戒

【出エジプト記 20章12-17節】
あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない
あなたは姦淫してはならない
あなたは盗んではならない
あなたは隣人について、偽証してはならない
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。


聖書を読んだことがなくても、
💡誰もが知っているこれらの戒めを守ることが「永遠の命」の条件です。

これらの戒めは、すべての人の「良心」に刻まれています。

【ローマ人への手紙 2章14-16節】
すなわち、
律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。

彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをし
て、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。

そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。


わたしたちは、聖書の戒めなど知らないはずの異邦人(非信者)が、知らないまま神の戒め(第五戒から第十戒)を守っているのを目にしています。

人は、その心に神の戒めが刻まれており──それが良心です──その良心に従って生きたかどうか、死後の裁きの時に明らかにされるのです。


「永遠の命」とは何か


永遠の命」とは、千年王国時代の後に来る新天新地(パラダイス)に住むことです。

💡永遠の命=新天新地(パラダイス)での命
👉パラダイスは、いわゆる天国と言われます

すべての死者は、千年王国時代の後に復活します

【ヨハネの黙示録 20章11-12節】
(千年王国時代の後)
また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。

これはいのちの書であった。
死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた


千年王国時代の後、死んでいたすべての者が御座の前に立ちます。

生きていた間にキリストを知れなかった者も、信じれなかった者も、すべての死者がキリストの血によって復活するのです。
復活した人は、御座の前に立ち、神の存在も自分が死から復活したことも、それがキリストによるものであることも、すべてを理解し信じざるを得ないのです。

この時「神を信じる」という点において信者と非信者との差はなくなり、十戒の第五戒から第十戒の行いに応じて裁かれるのです(ヨハネ5章29節)。

【ヨハネによる福音書】
3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

17章3節
永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会


📍千年王国時代については、下の記事をご覧ください。


あなたはきょう、パラダイスにいる

【ルカによる福音書 23章43節】
イエスは言われた、
「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。


イエスの処刑の時、イエスと共に処刑された罪人がいました。その罪人は、十字架上で責められるイエスをかばい、キリストを信じました。彼は、死の眠りに就き、目覚めた時にはパラダイスにいることが約束されました。

人の歴史の6000年間の死者は、今はまだ神の記憶の中で眠っている状態です。千年王国時代を含む7000年間の終りに目覚めて──復活し、裁かれ──パラダイスに置かれるのです。

あなたはきょう」とは、死の眠りに就いて目覚めた時には、もうパラダイスにいると言うことです。死者は、死んで復活すると、何千年も経っているのに、その日に目覚めたような感覚なのでしょう。

死んで目覚めた時に御座の前にいるとしたら、生前に少しでもキリストについて知っていれば、その時に受け入れやすくなるでしょう。

下の図は、アダム創造から6000年でキリストが再臨し、千年王国時代の後、新天新地(パラダイス)が来ることを表しています。


キリストと結ばれた死者は、キリスト再臨時(6000年の最後)によみがえり、その他の死者は千年王国時代の後(7000年の最後)によみがえります。

そしてパラダイスでは、神の戒め(十戒)を守らない人は都の外に出され、命の木に預かることができません。

【ヨハネの黙示録 22章14-15】(新天新地)
いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている


永遠の命を受ける戒めの本質


神の戒めは、形式的に守ることではありません。

あなたの良心から「自分を愛するように隣り人を愛す」ことがポイントです(マタイ19章18-19節)。

では第五戒から第十戒について、イエスが語った戒めの本質をご覧ください。

✅第五戒「父と母とを敬え」について

【マタイによる福音書 15章3-9節】
イエスは答えて言われた、
「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。

神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。
こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている

偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
この民は、口さきではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間のいましめを教として教え、
無意味にわたしを拝んでいる
』」。

👉これはイエスがユダヤの教えを否定したものです。
ユダヤの言い伝えでは、父と母への敬いは「神殿への捧げ物がそれです」と言えば、敬ったことになるとされており、それはただの神殿信仰だと指摘しました。

ユダヤの言い伝えは、形式的な敬いや神殿信仰によって父と母を敬うことが免除されることにし、神の戒めの本質を無意味にしていたのです。

形式的であっても何もしないよりいいのでは、という考えもあるとは思いますが、敬う心の伴わない義務感からくる単なる形式的な行為を咎めています。

この場面で形式的な行為者を「偽善者」と非難していますが、これは本質的には出来ていないのに、出来ているつもりになっている人のことを指しています(ルカ18章9-14節)。


✅第六戒「殺すな」について

【マタイによる福音書 5章21-22節】
昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。
兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。
また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

👉「殺すな」とは、絶命させる実際の殺人だけでなく、心の中の状態にまで適用されるものです。

兄弟に対して怒る者、愚か者と言う者、ばか者と言う者は、神の裁きにおいて言い開きをすることになり、それは弁明の余地はありません。兄弟を憎む者は、人殺しなのです(ヨハネ第一3章15節)。

【マタイによる福音書 5章23-24節】
だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。

兄弟との和解は、神への供え物より優先されることが述べられています。

ここでの兄弟とは、一義的には同じ信仰の者を指しますが、「あなたの敵をも愛せ」を適用するなら(マタイ5章44節)、信仰外の人々も同じ父(アダム)の兄弟と言えます。

【マタイによる福音書 5章46-47節】
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。……
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。……


✅第七戒「姦淫するな」について

【マタイによる福音書 5章27-28節】
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。
だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである

👉実際の行為だけでなく、心の中の悪い思いが罪になります。罪が熟すと死を生みます(ヤコブ1章14-15節)。

【マルコによる福音書 7章20-23節】
さらに言われた、
「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る
不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。


✅第八戒「盗むな」について

【マタイによる福音書 23章13-14節】
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない

〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕

👉「盗むな」は、物的な財産を奪うことだけでなく、霊的な財産を得る権利を侵害する(得られるはずの利益を奪う)ことも含まれます。

これには、戒めを破るようにそそのかしたり、間違った教えを吹聴することによって、永遠の命を受けれなくする(遠ざける)ことも含まれます。

また、隣人の時間や体力、健全な身体や精神を損なうことも「盗む」にあたるでしょう。


✅第九戒「偽証するな」について

【マタイによる福音書 5章33-37節】
また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。
いっさい誓ってはならない。
天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。
またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。

あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ
それ以上に出ることは、悪から来るのである。

👉「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」であるべきだと言っています。

これは「何でも思ったことや感じたことを悪口であっても正直に言え」ということではなく、天に対して、地に対して、エルサレム(神の懐)に対して、自分の頭に対して、余計な計略を巡らしたり、偽りの心や思考を持つなということです。

神を欺くこと、自分の心を偽ることは、悪から来るのです(マタイ6章6節)。


✅第十戒「むさぼるな」について

【マタイによる福音書 6章19-21節】
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。

あなたの宝のある所には、心もあるからである。

👉貪欲そのものが心を病ませます。
地上の財産や地位への執着を捨て、欲張って欲しがることから離れることが必要です。

わたしたちは、あらゆる貪欲に対して警戒する必要があります。たとえ地上に富を蓄えても、永遠の命は、その持ち物からは生じないのです(ルカ12章15節)。


以上が、永遠の命を受けるために守るべき戒めの本質です。

ここまで読まれて、戒めの基準が高すぎて嫌になったでしょうか。
確かにそうですね。
神は完全ですから、その基準も完全なのです。

しかし、神は、これらの戒めを守れているか(出来ているか)どうかを裁くのではありません。また、あるラインに達していればOKというものでもないのです。
仮にラインがあったとしても、それは画一的なものではなく、それぞれの人に応じて設定されていることでしょう(神は画一的な見方を否定しています)。

各人が自分の良心に従って、出来ることを・出来るときに・出来るだけやるのがいいと思います(ルカ21章1-4節コリント第一10章13節)。

【箴言 22章4節】
謙遜と主を恐れることとの報いは、富と誉と命とである。

【コリント人への第一の手紙 13章4-7節】
愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐える。


さて、
十戒の第五戒から第十戒について見てきましたが、第一戒から第四戒は守らなくていいのか?と疑問に思われた方は、続きを是非お読みください。


永遠の命に付加される報い


神の民と諸国民の違い

永遠の命は、千年王国時代の後に来るパラダイスでの報いでした。これは亡くなった人との再会の希望になります。

いま生きている人には、キリスト再臨前の今だからこそ得られる特別な報いがあります。
それは、キリスト再臨後に始まる千年王国時代での報いです。

千年王国時代を神の民として生きるのか、諸国民として生きるのか、その報いが大きく異なるのです。


📌わたしに従ってきなさい

前述の「イエスに質問した青年の話」には、続きがあります。
青年は幼い頃からこれらの戒めを守ってきたので、物足りなかったのでしょう。

次のように追加の質問をしました。

【マタイによる福音書 19章20-22節】
この青年はイエスに言った、
「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。

イエスは彼に言われた、
もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。


完全になる」とは、キリスト再臨時に「朽ちない者に変えられる」ことです。朽ちない者とは、「栄光の身体」のことです。

イエスは「栄光の身体になりたいのなら、わたしに従ってきなさい」と言ったのです。


📌神の戒めを守り、イエスに従った者への報い

続けて、イエスが話します。

【マルコによる福音書 10章23-27節】
それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、
「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。

弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。

イエスは更に言われた、
「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。

イエスは彼らを見つめて言われた、
人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。


イエスは、世(地上の富)から離れることは人には出来ない(と断言しています)が、離れることを望むなら神によって成し遂げられる、と言います。

続けて、イエスは奥義を語りました。

【マタイによる福音書 19章27-29節】
そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。

イエスは彼らに言われた、
「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。


キリストが再臨し、この世の国がキリストの国になった時、「神の戒めを守り、イエスに従った者」は栄光の身体に変えられ、千年王国時代においてキリストと共に諸国民を治め裁くことになります(黙示録20:4-6)。

最後の一文は「イエスに従った者だけ●●が永遠の命を受け継ぐ」と言っているのではありません。
従った者は、千年王国時代で諸国民を治め裁くことになり、世から離れた者は幾倍も受け、当然、永遠の命も受け継ぐ、という意味です。


📍キリスト再臨時に「朽ちない者」に変えられる者については、下の記事をご覧ください。


いまは偽預言者がはびこる終末期です


⚠️終末期のしるし

【マタイによる福音書 24章21-24節】
その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
(中略)
にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。


⚠️戒めを破るように教える者

【マタイによる福音書 5章17-20節】
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

よく言っておく。
天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。

しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

わたしは言っておく。
あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。


ここでの戒めとは、神の戒めである十戒を指しています。

十戒を知らない一般の人の中には、先ほどの第五戒から第十戒の戒めについて、破るようにそそのかす者がいるかもしれません。

ところが、ここで問題としているのは、神の民(信者)の中での話です。
信者の中に「戒めを破るように教える者などいるのか?」と思うかもしれませんが、本人にはその自覚がなくても「戒めは守らなくてもいい」と教える者がいるのです。

その人たちは──
「イエスを信じれば罪は赦される。戒めは人には守れないので、神が守れる者にしてくれる。自分の行いで救いを得ようとするのは律法主義で、イエスの無償の贖いを疑うことだ。そもそも旧約聖書はユダヤ人のもので、わたしたちは十戒の下にいない」などと言います。

一見もっともらしく聞こえますが、真理に虚偽が巧妙に織り交ぜられています。そして、このような考えに影響を受けたキリスト者は少なくありません。

神の戒めに自ら従うことを軽視する者は、たとえ千年王国時代に入れたとしても「最も小さい者」とされます。
つまり、千年王国時代での報いが諸国民よりも小さくなるということです。


⚠️つまづかせる者と不法を行う者

前述のとおり、戒めは、守れているかではなく、守ろうとしているかが重要なのです。

「守ろうとしている人」を戒めから遠ざける者は、人をつまづかせる者であり、不法を行う者と同じ報いになります。

💡不法を行う者とは、神の戒めを無にする者です。

次の「良い麦と毒麦」のたとえをご覧ください。

【マタイによる福音書 13章37-42節】
イエスは答えて言われた、
「良い種をまく者は、人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいた敵は悪魔である。
収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。

だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。

人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。
そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。


世界に育つままにされた「良い麦と毒麦」。
収穫の時になったら「毒麦を集めて焼く」とあります。

キリスト再臨時、この世がキリストの国になり、キリストにある者は一瞬で「朽ちない者(栄光の身体)」に変えられます。そして、その国から「つまづきとなる者と不法を行う者」とを集めて炉の火に投げ入れます。

それから、実った良い麦(諸国民のうち正しい者)を収穫して倉(千年王国時代)に入れるのです。


⚠️不法を行う者の末路

【マタイによる福音書 7章21-23節】
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。


「主よ、主よ」と言いながら、不法を働く者(神の戒めを無にする者)は、神の民にあらず、神の王国に入れません(ルカ13章23-30節)。彼らは、千年王国時代を諸国民として生きることになります(民数記32章13節)。

補足:
神の王国は、見られるかたちで来るものではありません。イエスが民の中にいたように、千年王国時代の諸国民のただ中にあるものです(ルカ17章20-21節)。


神の戒めを守り、イエスに従う者


イエスに従う者の報いは、神の民として栄光の身体を与えられ、千年王国時代の諸国民を治め裁くことです(黙示録20:4-6)。

諸国民を治め裁く者が、神の戒めを守ろうしていないなどあり得るでしょうか。そんな者がキリストの国において、王だの祭司だのを名乗って治め裁きを行うと言うのなら、一斉に「お前が言うな」と言われるでしょう。

「神の戒めを守り、イエスに従う者」の神の戒めとは、十戒を指します(黙示録14章12節11章19節)。


👉偶像崇拝は、第二戒で戒められています。
信仰歴が長い人ほど自身が忌むべき偶像を拝んでいることに気づけません。


👉第四戒は、安息日です。
安息日を覚えて聖とするのは、神の民にしか出来ないことです(エゼキエル20章20節出エジプト31章13節)。

【ルカによる福音書 13章24節】
そこでイエスは人々にむかって言われた、
狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから


おすすめ記事



お読みいただきありがとうございます
よければ、フォロー、スキ、共有
よろしくお願いします