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【偶像崇拝】神殿を汚す忌むべき偶像──気づかずに拝む人たち


偶像とは何か


イスラエル十二族の一つであるダン族は、偶像崇拝によって北イスラエル王国滅亡の端緒となり、その後の南ユダ王国滅亡の遠因となりました。
黙示録7章には、終末期に神の印を押されるイスラエル十二部族のうち、ダン族は押されないことが示されています。

このことから偶像崇拝者は、たとえヤコブの子であり相続地の権利があったとしても神の印は押されず、神はこれを悪しきものと捉えていることが分かります。

📌この記事では──
いわゆる偶像崇拝の偶像とは何か、何を避けるべきなのかについて、次のとおり書きました。



1|原語から「偶像」の意味を探る


まずは、偶像崇拝を禁じる戒めを聖書本文から確認しましょう。

十戒:第二戒

【出エジプト記 20章4-6節】
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。
それに仕えてはならない。

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

この本文にある「刻んだ像」は【ヘブライ語:פֶּסֶל, pesel】の訳語ですが、この単語は、聖書の中でも古い時代の書物(出エジプト記、申命記、士師記)で使われています。他の日本語翻訳では「偶像」「いかなる像」「彫像」などの訳語が当てられています。

これは、当時の偶像崇拝が具体的な「神々の彫像や鋳像の製作と礼拝」に焦点が当てられていたためと考えられます。

【ヘブライ語】出エジプト記 20章4節

その後、士師の時代を経て王国の時代になると、預言者たちは偶像崇拝を激しく批判し、偶像とは価値がないものという意味合いになっていき、偶像を指す言葉は変化していきます。

たとえば、イザヤ2章8節では【ヘブライ語:אֱלִיל, 'ĕlîl】が使われ、これは「力のない神々」「無価値なもの」という意味で、日本語翻訳では「偶像」「偽りの神々」などの訳語が当てられています。

そして、エゼキエルの時代(南ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚の頃)になると、単なる物理的な像ではなく、神に背く価値観や人の心の中で神よりも優先されるものを偶像とみなす概念に変化していきました。
たとえば、エゼキエル14章6節では、【ヘブライ語:גִּלּוּל, gillûl】が使われており、これは「忌むべきもの」「汚れたもの」という意味で、多くの翻訳はこれを「偶像」と訳しています。

このように、十戒本文にある「刻んだ像」は、物理的な彫刻や鋳造の像を意味しますが、その後「忌むべきもの」「汚れたもの」として神の価値観に背く内心を指すようになりました。
これは新約聖書においても踏襲されています。

この戒めの理由には「主であるわたしは、ねたむ神であるから」とありますので、神のねたみを受けないためには、物理的な像だけ(形式)でなく、内心の背き(実質)にフォーカスされるのは当然と言えます。

👉偶像とは、内心の背きを含む「忌むべき汚れたもの」


2|イスラエルの偶像崇拝の歴史


偶像は、物理的な像から内心の背きを含む「忌むべき汚れたもの」へと、原語に変遷があることが分かりました。

イスラエルの民は、BC1435年にエジプトを脱出後、BC526年に南ユダ王国が滅亡するまでの約900年間、偶像崇拝による堕落の歴史であったと言えます。

エジプトを脱出し、十戒の石板を授かり神の価値観を文字で知ってから、偶像崇拝はどのように変遷していったのか、イスラエルにおける偶像崇拝の歴史を辿ってみます。

1.出エジプト直後:金の子牛崇拝(BC1435年)
モーセがシナイ山で十戒の石板を授かるその時、イスラエルの民はモーセの兄であるアロンに「我々を導く神を造ってくれ」と頼み、エジプトの影響を受けた金の子牛の鋳造し、それを拝みました(出エジプト32章1-29節)。

2.士師記の時代:カナン文化の影響とダン族の偶像崇拝(BC1395年~)
イスラエルの民はカナンの地に入植後、カナン人が崇拝していた「バアル」や「アシタロテ」の像を取り入れるようになりました(士師2章11-13節)。これらは農業の神であり、豊穣を祈るために性的儀式や神殿娼婦制度が伴いました。

また、士師記17〜18章 には、ダン族が偶像崇拝に陥る様子が詳述されています。ミカという男が個人的に刻んだ像を造り、これを祭る祭司を立てました(士師17章4-5節)。ダン族は自分たちの地を探す途中で、この像を奪い、自分たちの民全体の偶像崇拝の中心としました(士師18章14-31節)。

ダン族は神が与えた割り当て地ではなく、異邦人の土地を奪って定住したため、信仰も堕落していったと思われます(士師18章27-29節)。この堕落は、偶像崇拝が個人レベルから部族レベルに拡大し、後の北イスラエル王国の偶像崇拝の端緒となりました。

3.王国時代:国家的な偶像崇拝(BC959年~)
次の堕落の波は、ソロモン王の時代(治世BC959~919年)にやってきました。
ソロモン王は異国の妻(モアブ、アンモン、エドム、シドン、ヘテなど)を多く迎え、その影響で彼女らの神々(ケモシ、ミルコム、モレク、アシタロテ)を崇拝するようになりました(列王上11章1-8節)。エルサレムの神殿とは別に、異教の神々のための「高き所」が建設されました。

このように王自身が偶像崇拝に陥り、国全体がその影響を受けました。このような国家的な風潮が民の価値観となり、政治や宗教的文化の影響に流され偶像崇拝を受け入れてしまうことになりました。

4.北イスラエル王国の偶像崇拝(BC919~660年)
ソロモン王の死後、王国が南北に分裂すると、北イスラエル王国の初代王ヤロブアムは、金の子牛を2体を造り、ベテルとダンに設置しました(列王上12章28-30節)。ここでダン族の偶像崇拝が、北イスラエル王国の国家宗教の一部として制度化されました。

その後、アハブ王とその妻イゼベルは、バアル崇拝を推進し、またアシラ像を造り異教の神殿を築きました(列王上16章30-33節)。

5.南ユダ王国のマナセ王の極端な偶像崇拝(BC636年~)
北イスラエル王国の滅亡後(BC660年)、南ユダ王国では、ヒゼキヤ王による信仰の復興が見られましたが、その子であるマナセ王により極端な偶像崇拝がなされました。

マナセ王(治世BC636〜582年)は、バアル崇拝、アシェラ像、星の神々への礼拝、モレクへの子供の犠牲、占い、魔術、口寄せなどを行いました(列王下21章1-9節)。エルサレム神殿の中に異教の神々の祭壇を築くという、神に真っ向から背く行為をしました。

この時代まで来ると、偶像崇拝が国家宗教として定着していました。後にマナセ王は回心しましたが、南ユダ王国は既に偶像崇拝によって腐敗しており、彼の後を継いだアモン王は、再び偶像崇拝を復活させました。

次の王であるヨシア王(治世BC579~549年、マナセ王の孫)は、異教の神々の像や高き所を取り除き大改革をなしました(列王下22章1節-23章30節)。
しかし、続く王らによって神への背きが繰り返されました。

6.バビロン捕囚と偶像崇拝の終焉(BC526年)
神はバビロン帝国を用いて南ユダ王国を滅ぼし(BC526年)、民を捕囚の地へ送りました(列王下25章1-7節)。最終的には、偶像崇拝に対する神の裁きが、国家の滅亡という形で行われたのです。

その70年後にバビロン捕囚が解かれ、紀元前456年の神殿再建命令によって、以降のユダヤ人は偶像崇拝ではなく律法遵守を重視するようになりました(バビロン捕囚の解放後にレビ族が中心となりユダヤ教が確立していった)。

7.偶像崇拝が再び(BC400年~)
しかし、この律法遵守が極端になっていき律法主義や権威主義という新たな偶像を産み出すことになっていきました。
そして西暦28年にメシアが到来したのです。


3|エゼキエルによる偶像崇拝への警告


エゼキエル書は、南ユダ王国滅亡(BC456年)の約10年前から約25年間に渡って書かれ、南ユダ王国滅亡の前には、偶像崇拝がイスラエルの民の堕落を招いた根本的な罪として描き、神の裁きを警告しています。

下の表は、口語訳聖書における「刻んだ像」と「偶像」の記述回数です。ご覧のとおり、エゼキエル書で「偶像」が断トツの最多で44回記述され、偶像崇拝への警告を最も主張していることが分かります。


次にエゼキエル書にある偶像崇拝の警告を示す記述を二箇所(8章と14章)紹介します。

📕神殿内で行われていた偶像崇拝(エゼキエル 8章)

この章では、神が幻の中で、エルサレムで行われている偶像崇拝の実態をエゼキエルに示します。幻によって神殿内で密かに行われていた偶像崇拝を暴露します。

注:引用が長いので、太字部分のみお読みください。

【エゼキエル書 8章1-18節】
8:1 第六年の六月五日にわたしがわたしの家に座し、ユダの長老たちがわたしの前に座していたとき、主なる神の手がわたしの上に下った。
(中略)
8:5-6 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。
彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。

8:7-13 そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。

そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。

時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。またわたしに言われた、「あなたはさらに彼らがなす大いなる憎むべきことを見る」。

8:14-15 そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。

8:16 彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。

8:17-18 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらにわたしを怒らせる。見よ、彼らはその鼻に木の枝を置く。

それゆえ、わたしも憤って事を行う。わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。たとい彼らがわたしの耳に大声で呼ばわっても、わたしは彼らの言うことを聞かない」。

神殿内で行われていた四つの「忌むべき汚れた」偶像崇拝

神はエゼキエルに「これはわたしを聖所から遠ざけるものである」と言い、次々と神殿内で行われている四つの偶像崇拝の場面を示しました。

  • ねたみをひき起す偶像(5-6節)

  • 隠れた偶像の部屋で行う長老たちの背教(7-13節)

  • 女たちが異教のタンムズを悲しむ(14-15節)

  • 神殿に背を向け太陽を崇拝(16節)


これはわたしを聖所から遠ざけるものである

聖書において聖所・神の宮・神殿とはたとえで用いられ、神の霊が宿る信仰者(信者自身)を表しています

👉神殿とは信仰者自身のことです

【コリント人への第一の手紙 3章16-17節】
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

つまり、エゼキエルが見たこの幻は、神殿である信仰者自身の内面をたとえて表していると言え、さまざまな偶像や異教の崇拝とが混合され、本来の神聖さを失っていることを示しています。


自分では気づきにくい
ステルス偶像崇拝の怖さ


真の神を信仰しているつもりでも、実は異教の神々や偽物の神々が入り込んでいる場合があります。これは、なかなか自分では気づけないものです。

現代でも、我らが正統派などと言って他の価値観に対し異端やカルトや異教など互いにレッテル張りをしていますが、双方ともに偽物が入り込み、知らぬ間に神の価値観から外れてしまっている可能性が大いにあるのです。

伝統や慣習、歴史的や科学的などと言う価値観に囚われていると、聖書本来の真理から外れているかもしれないので、ご自身の信じているものが真の神であるのかどうか吟味が必要です。

【エレミヤ書 7章4-11節】
あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。
(中略)
見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。

わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。


📕偶像崇拝者に対する神の拒絶(エゼキエル 14章)

この章では、イスラエルの長老(比較的信仰歴の長い人)たちが神を求めながらも、心の中で偶像を崇拝していること(本人は自覚がないかもしれない)が指摘され、それに対する神の厳しい姿勢が示されています。

注:引用が長いので、太字部分のみお読みください。

【エゼキエル書 14章】
14:1-3 ここにイスラエルの長老のうちのある人々が、わたしの所に来て、わたしの前に座した。時に主の言葉が、わたしに臨んだ、「人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち、罪に落しいれるところのつまずきを、その顔の前に置いている。わたしはどうして彼らの願いをいれることができようか。

14:4-6 それゆえ彼らに告げて言え、主なる神は、こう言われる、イスラエルの家の人々で、その偶像を心の中に持ち、その顔の前に罪に落しいれるところのつまずくものを置きながら、預言者のもとに来る者には、その多くの偶像のゆえに、主なるわたしは、みずからこれに答をする。これはその偶像のために、すべてわたしを離れたイスラエルの家の心を、わたしが捕えるためである。

それゆえイスラエルの家に言え、主なる神はこう言われる、あなたがたは悔いて、あなたがたの偶像を捨てよ。あなたがたの顔を、そのすべての憎むべきものからそむけよ。

14:7-8 イスラエルの家の者およびイスラエルに宿る外国人のだれでも、わたしから離れ、その心に偶像を持ち、その顔の前に罪に落しいれるところのつまずきを置きながら、預言者に来て、心のままにわたしに求めるときは、主であるわたしは、みずからこれに答をする。

わたしはわたしの顔を、その人に向け、彼を、しるし、およびことわざとなし、これをわが民のうちから断ち滅ぼす。その時、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。

14:9-11 もし預言者が欺かれて言葉を出すことがあれば、それは主であるわたしが、その預言者を欺いたのである。わたしは手を彼の上に伸べ、わが民イスラエルのうちから彼を滅ぼす。彼らはその罰を負う。その預言者の罰は、問い求める者の罰と同様である。

これはイスラエルの家が、重ねてわたしを離れて迷わず、重ねてそのもろもろのとがによって、おのれを汚さないため、また彼らがわが民となり、わたしが彼らの神となるためであると、主なる神は言われる」。

① イスラエルの長老たちと偶像崇拝(1-3節)
イスラエルの長老たちがエゼキエルのもとに来るが、彼らの心の中に罪に堕ちる偶像があるので、神が彼らの求めに応えられない。

② 神の警告と裁き(4-8節)
イスラエルの民で心の中に罪に堕ちる偶像がある者が、預言者に尋ねるなら、回心し偶像を捨て憎むべきものから離れよと神は警告する。
イスラエルの民や居留者で背教し心の中に罪に堕ちる偶像がある者が、回心することなく預言者に尋ねるなら、神はこれらを断ち滅ぼす。

③ 偽預言者とその責任(9-11節)
預言者が誤ったことを言う場合、神がそれを許しているのであるが、その預言者は滅ぼされ、民も裁きを受ける。

前述のエレミヤ書7章4-11節にあるとおり、本人の無自覚のうちに心の中に罪に堕ちる偶像が入り込み、長らくその状態で過ごしているため自分自身で誤りに気付かず、隣人をつまづかせて(偽りの教えを拡散して)しまうことがあります。

それも表面上は攻撃的ではなく穏やかなものであったりするので、隣人も本人もその偽りに気付けず、その人の主張が正しいのではと誤認してしまいます。
その人は偽りの教え(間違ったこと)を真剣に信じ切っており、それは心に入り込んだ偶像であり、これを取り除くのは非常に困難なものと言えます。

👉心の中に罪に堕ちる偶像が入り込む


4|偶像=「忌むべき汚れたもの」の具体例


イスラエルの民がエジプトの奴隷であったのは、ヤコブ一族がエジプトに移住してから約240年間でした。エジプトは異教と偶像崇拝の地でしたが、民は神に導かれてエジプトを脱出し十戒を石板で授かりました。

神に背いた世代が亡くなってから民はカナンの地に入植しましたが、全地はアダムのゆえに呪われた地のままでした。
この呪われた地である全世界は、霊的なたとえでエジプトであるのです。

現在、この呪われた地である霊的エジプトに居留する奴隷とも言えるわたしたちは、この地で偶像崇拝を避けるために、どうすればいいのでしょうか。

パウロやペテロの手紙には偶像崇拝と並べて「忌むべき汚れたもの」が示されており、そのようなことを行う者は、神の国を継ぐことができないと強く警告しています。
偶像となる「忌むべき汚れたもの」を知り、何を避けるべきなのか見ていきましょう。

【コリント人への第一の手紙 6章9-10節】
それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。

【ガラテア人への手紙 5章19-21節】
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。

【エペソ人への手紙 5章5節】
あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

【コロサイ人への手紙 3章5-6節】
だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。

【ペテロの第一の手紙 4章2-3節】
それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。

ヨハネの黙示録にも、次の通りの記述があります。

【ヨハネの黙示録 21章8節】
しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

【ヨハネの黙示録 22章15節】
犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。

これら列挙されたものを分類して整理すると、次のとおりになります。
注:太字は、ヨハネの黙示録に記載されたもの。

① 性的堕落
不品行な者、不品行な者、不品行、不品行、汚れたことをする者、汚れ、汚れ、好色、姦淫をする者、姦淫を行う者姦淫を行う者、男娼となる者、男色をする者、情欲、犬ども忌むべき者

② 異教的背信
偶像を礼拝する者、偶像礼拝、偶像を拝む者偶像を拝む者、まじない、まじないをする者まじないをする者おくびょうな者信じない者

③ 社会的堕落
貪欲な者、貪欲な者、貪欲、盗む者、そしる者、略奪する者、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、悪欲、酒に酔う者、泥酔、宴楽、人殺し人殺しすべて偽りを言う者偽りを好みかつこれを行う者

また「貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者」「貪欲は偶像礼拝にほかならない」とあるとおり、貪欲は偶像崇拝に繋がります。


偶像=「忌むべき汚れたもの」
性的堕落、異教的背信、社会的堕落
貪欲は偶像崇拝


📕七つの教会への手紙(ヨハネの黙示録)

ヨハネの黙示録にある七つの教会に宛てた手紙の中に「責むべきこと」として偶像に関する苦言があります。

【ヨハネの黙示録 2章14節】
しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。

つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせた」ことが、責めるべきことだとあります。

つまづきになるものとは、神の戒めに背かせること、神への信を揺るがせる誤った教えや誘惑と言えるでしょう。
偶像とは「忌むべき汚れたもの」でした。
では、偶像に捧げたものとは、それを食べさせるとは、一体何のことなのでしょうか。

前述しましたが、神殿とは信仰者自身でした。捧げもの(供え物)とは、神殿(祭壇)にするもので、これは信仰者の献身を表します。

つまり、
① つまずきになるものを置かせて
② 偶像にささげた
③ ものを食べさせ
④ また不品行をさせた
とは、

① 神の戒めに背かせ、信を揺るがし、間違った教えや、誘惑を用いて、② 「忌むべき汚れたもの」に信仰者自身がその身も心も犠牲として捧げてしまうことによって忌むべきものとなってしまい、③ その汚れた価値観を他の信仰者らにも取り入れさせることで、④ 不品行を蔓延させた。

と言い換えることができます。
これは、偶像崇拝によって汚れた信仰者が、他の信仰者をも汚れさせ、疫病のように不品行が蔓延していると警告しているのです。
偶像崇拝者に自覚がなくても、隣人はその影響を受けてしまい、結果的に多くの人が神に背くことになってしまうことを警戒しなければなりません。


おわりに


偶像崇拝を続ける者は、たとえヤコブの子(イスラエルの子)であっても神の印は押されないとのメッセージを受け、これを避けることの重要性から「偶像崇拝」を特集しました。

偶像とは、物理的な像だけでなく、自分でも無意識に入り込んでしまっている内心の忌むべき汚れであることが分かりました。

「忌むべき汚れたもの」として分類した三項目がありました。
① 性的堕落、② 異教的背信、③ 社会的堕落

①と③については、比較的分かりやすいというか、避けるべきものを知ってさえいれば、自分の行為や内心の動機は自己分析できそうですし、その傾向があるかどうかは自覚できるのではないかと思います。中には、長年の習慣や癖や無意識に身体が求めてしまうことで、やめられずに悩んでしまうことがあるかもしれません。
しかし、弱い肉の体ですのである程度は仕方のないことで、それが「忌むべき汚れたもの」だと自覚があるなら神に頼り、回心の助けを求めることができます。

難しいのは、②の異教的背信だと言えます。
エゼキエル書の長老がそうであったように、自分は正しいと信じ切って疑うこともできなくなっている場合、どうやって間違いに気付けるのか、どう修正できるのか、本当に難しいと思います。

聖書を読んでいるはずのキリスト教界隈でも「十戒はモーセ律法の要約」「十戒はモーセ律法の一部」と教える牧師や教会があります。

この考えから導き出されるのは「モーセ律法は十字架によって廃止されたので十戒は守らなくてよい」「十戒とモーセ律法はイスラエル人に与えられたものなので異邦人には関係ない」「信じるだけでよい、戒めを守ろうとするのは律法主義だ」などといい、とにかく十戒から遠ざける方向に誘導されます。

このような間違った教えによって、忌むべき汚れた自称キリスト者となってしまった人が、隣人にこれぞ真理とばかりに吹聴し、又聞きの連鎖でどんどん不品行が蔓延してしまいます。

十戒の中でも第四戒の安息日は、神のしるしだと聖書に書かれているにもかかわらず、正しい安息日を調べることも、守ろうとすることに嫌悪する風潮があります。安息日を覚えなくても他人に迷惑を掛けるわけではないため、咎められることもなく、回心のチャンスが生まれにくいのです。

安息日を守らせない風潮は「忌むべき汚れたもの」の②に該当するのではないかと思います。この記事を読まれた方は、ぜひ正しい安息日を知っていただけたらと切に思います。


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