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【安息日】を覚えて聖とせよとは?──安息日の守り方を考えます

「安息日を覚えて聖とせよ」とは、どうすることか?

「十戒を守るべきなのは分かったし、第四戒の安息日も大事なのは分かったよ。でも、どうすればこの戒めを守ったことになるのか分からない」という人は多いのじゃないかと思います。
わたしもその一人です。

下の記事は「何をせずに」「何をするのか」という着想で書きましたが、これは律法主義的で、形式的に守ろうとしているだけになりがちで本来の趣旨とは違うのではないかと感じるようになりました。

※この記事は掲載後に気づき、取り下げました。

もう一度聖書に戻って、調べてみましょう。
聖書に十戒の全文が記述されているのは、二箇所あります。それは出エジプト記と申命記です。

十戒の第四戒と言われる安息日の戒めは、出エジプト記20章8-11節申命記5章12-15節に記述されています。



聖書の本文を見てみましょう


【出エジプト記 20章8-11節】
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。
あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

【申命記 5章12-15節】
安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。
六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。
あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。

あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。

本文を見比べると、「~せよ」「~ならない」の戒めの部分(太字部分)がどちらも三項目あります。内容は同じですが、申命記は「覚えて」が「守って」になっているのと、「神が命じたように」が付加されています。
また、「なんのわざもしてはならない」の後に続く説明文が若干違います(申命記は「あなたと同じように」が付加されやや長い)。

そして戒めの理由が違いますね
おそらく、出エジプト記がオリジナルで、申命記はより伝わるように説明を付加したのだと思われます。

では、「どうしたらいいのか?」を探るために、まずは戒めの理由を見てみます。


戒めの理由


【出エジプト記】
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。
それで主は安息日を祝福して聖とされた

👉神は天地万物を六日で完成させ、七日目を休まれ、その完成を祝福されたことが強調されています。


【申命記】
あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。
それゆえ、
あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。

👉エジプトの地からの奴隷解放を覚えておくことが強調されています。


これらの理由から「どうしたらいいのか?」を考えていきます。

まずは、神が天地万物を六日で完成させて、七日目に休まれたことを覚えておきたいですね。これを思い出すために七日目を特別に思うことを覚えておきたいです。

この六日の後の七日目を安息するというサイクルは、創造のわざの後の七日目をすぐに聖別されたことから、最初の人であるアダムにも適用されており、ノアやアブラハムら父祖たちもこの七日目の安息を守っていたことが分かります。

そして、この日を意識できるのは、神を知る者の特権であると言えます。

※七日目の安息は、神も守られています。七日目ならいつでもいいわけではありません。神も守られている七日目とはいつなのかについては、こちら


次に、安息日は、あなたがかつてエジプトでの奴隷状態から救われたことを思い出す日でもあるとあります。と言っても、イスラエル人以外の異邦人にとって、古代エジプトでの奴隷時代については異国のことですし、しかも約3500年前の出来事でピンときません。
それに奴隷解放(出エジプト)と七日目の安息とどう関係があるのかと思いませんか?

確かに、出エジプトは安息日も関係していました。第二週の六日目である14日の夜に過越しがあり、翌15日は安息日で、その夜にエジプトを脱出しました。
このことを覚えておくことも重要です。そうです。過越しを覚えておくことは非常に重要です。

これがなぜ重要なのかと言うと、実は、この「エジプト」と「イスラエル」いう表現はたとえであると考えられるのです。


「エジプト」とは何を表すのか


【創世記 1章9-13節】
神はまた言われた、
「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。
そのようになった。神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。(中略)夕となり、また朝となった。第三日である

神の創造の三日目に乾いた地が現れました。三日目とは第三千年期のことで、乾いた地とはエジプトのことです。乾いた地とは、要するに草木の育ちにくい不毛な地と言えます。実は、これはこの世(今の世の中)を表しています。

今のこの世の中は、エジプトにたとえられるということです。


「イスラエル」とは何か


【創世記 32章28節】
その人は言った、
あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。

これは、イスラエル十二部族の父であるヤコブにイスラエルという名が与えられた場面です。「あなたはもはや名をイスラエルと言いなさい」と言った理由が、「あなたが神と人とに、力を争って勝ったから」とあります。

この翻訳では分かりにくいのですが、原語的には「with God」のニュアンスがあり、正確には「あなたは神と共に奮闘し、人と戦って勝ったから」となります。

つまり「神と共に奮闘し、人と戦って勝つ者」は、その名を「イスラエル」と言うのです。


真のキリスト者こそがイスラエルなのです


いま私たちは、乾いた地(不毛の地)霊的なエジプトに居留している奴隷とも言えます。実際、イスラエル人は第三千年期(神の三日目)にエジプトを脱出しました。私たちが、このことを覚えておくことは重要です。

なぜなら、神の六日とはアダムから6000年のことで、その6000年目の後、神の七日目である千年王国時代(第七千年期)の到来を覚えておくことに繋がるからです。

十戒は千年王国でも有効ですから、この世の奴隷状態から導き出された後、きっと「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、そこからあなたを導き出された」ことが実感として思い出されることでしょう。

この地の奴隷状態からの解放とは、キリスト再臨のことです。
神は六日(6000年)で完成し、七日目(第七千年期)を聖とする千年王国の計画があることも覚えておきたいです。

補足:
日本人の中には、渡来したイスラエル人とユダヤ人の血筋の者がいることは間違いないですが、ここではその血筋でなかったとしても、真キリスト者は「イスラエル」になるとして考察しています。
・ヤコブの血筋の者=血統イスラエル人
・その名をイスラエルと言う者=真キリスト者


戒めの理由と、それを覚えておくべきことが分かりました。では、戒めの本体「~せよ」「~ならない」の部分を見ていきましょう。
戒めの要約をするまでもないですが、次のとおりとなります。


安息日を覚えて(守って)聖とせよ
六日は働いてあなたのすべてのわざをせよ
七日目はなんのわざもしてはならない


安息日を覚えて(守って)聖とする

覚えて】(ヘブライ語:זָכוֹר, zāḵar)には、「思い出す」「忘れずに行動する」という意味があります。
【聖とする】(ヘブライ語:לְקַדְּשׁוֹ, qāḏaš)には、「聖別する」「特別な目的のために取り分ける」という意味があります。

つまり、安息日は単なる休息の日ではなく、神が特別な目的のために取り分けた日であり、他の日と区別される、神が定めた特別な日であるということです。ただ休むだけではなく、戒めの理由を思い出して過ごすことが本来の趣旨と言えそうです。

六日は世的な仕事をし、七日目は世的な仕事をしない

十戒本文に【わざ】(ヘブライ語:מְלַאכְתֶּךָ, mᵊlā'ḵâ =thy work)と訳されているいわゆる仕事ですが、どんな仕事を意味しているかといえば、「世的な仕事」、つまり、自分のための活動と言えるでしょうか。

就労や商売(収入を得ること)や学業や部活(成長や自己研鑽)や趣味(個人的な関心)などが含まれるかもしれません。しかし、外形的に同じ内容の活動であっても、それが神や隣人のためなのか、自分のためなのかで異なると言えそうです。

極端な例ですが、人助けの仕事であっても、収入のためと思えば世的な仕事になりますし、隣人のためと思えば聖とすることになり得ます。

安息日と聞けば休むことが思い浮かびますが、「六日は働け」と書いてありますね。確かに、神は六日間働いたのだから六日は世的な仕事をしなさいというようにも読めますが、これは七日目を休むために六日の間働きなさいということでしょう。

確かに、アダムに課せられた「額に汗して糧を得なければならない(創世記3:19)」のは、わたしたちにも当てはまりますが、そうしなくても生活できるのに無理してでも六日間働けという趣旨ではないでしょう。

むしろ、生活のために六日は嫌でも働くが、働くのが好きな場合でも七日目は「安息日」を思い出し、特別な日として取り分けるための六日間と言うことでしょう。


具体的にどうるするのか


具体的にどうるするのか、ここが気になるところです。
では、福音書にあるイエスの記録に基づいて、「安息日を覚えて、聖とする」 ことを、私たちの生活の中でどのように適用できるのかを考えます。
次に五つの点を挙げました。


1. イエスは安息日に会堂で礼拝し、御言葉を教えた

📖それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。(ルカ4章16節)

👉イエスの活動
・安息日にはいつも会堂に行き、神を礼拝した。
・聖書を朗読し、教えた。

💡私たちへの適用
【礼拝を最優先にする】
安息日には神を礼拝し、聖書を学ぶ時間を確保する。教会に行くことが難しい場合でも、自宅で聖書を読み、祈り、オンライン礼拝やYoutube動画などで学ぶことができます。

パソコンやスマホ、インターネットの使用は、安息日にはどうなんだろうと思うかもしれませんが、先に述べたように一律に「これはダメ」「これはOK」ではなくて、何のためにするのか、その目的と動機がどうなのかでしょうね。それが安息日を聖とするためなのかどうかなのだと思います。

【家族や友人と「信」を深める時間を持つ】
家族や友人、SNSで繋がっている信仰の友との分かち合い、聖書を読み、祈る時間を作る。聖書について語り合い、霊的な成長を助け合う。もちろん形式的で義務的な会合になってはあまり意味をなさないのかもしれませんが、お互いを思う機会を作ることは良いことだと思います。


2. イエスは安息日に弟子たちが食べることを認めた

📖そこでイエスは彼らに言われた、『あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。(マタイ12章3節)

👉イエスの活動
・弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたことを擁護した(マルコ2章23-28節)。
・空腹を満たすことは安息日の本質と矛盾しないと教えた。

💡私たちへの適用
【安息日は「命を支える日」として大切にする】
家族や友人と食事を共にし、交わりの時間を持つ。仕事や学校、家事などの忙しさから離れ、神の前で静まる時間を持つ。過労を避け、仕事やストレスから離れ、心と体をリフレッシュさせる。もちろん、これも形式的にではなく、戒めの理由を思い出して、特別な時間を味わうことがいいかもしれません。

隣人の必要を考え、食事を分かち合い、孤独な人とともに過ごしたり、労働に追われる人のために、助ける手を差し伸べることができるかもしれません。


3. イエスは安息日に病人を癒し、人を助けた

📖安息日に良いことをするのは正しいことである。(マタイ12章12節)

👉イエスの活動
・手の萎えた人を癒した(マルコ3章1-5節)
・腰の曲がった女性を癒した(ルカ13章10-17節)
・水腫のある人を癒した(ルカ14章1-6節)
・38年間病気だった人を癒した(ヨハネ5章1-18節)

💡私たちへの適用
【安息日を「人を助ける日」にする】
高齢者や病気の人を訪問し、励ます。小さな親切を行う(メールや手紙を書く、電話をする、食事を分かち合う)。

【信仰仲間や地域で奉仕する】
教会に通っておられる方は奉仕活動に参加することができるかもしれません(礼拝準備、掃除、子どもたちの世話など)。
わたし自身は、特定の教会に所属しておりませんので、同じような状況の方は、地域のボランティア活動に参加したり、近所の人たちや外ですれ違う見知らぬ人にもちょっとした愛を示すことができるかもしれません。

このような隣人への親切は、普段からされておられるといつもと変わらないことになってしまいますが、戒めの理由を思い出すことによって、安息日を守れる特権を(ひそかに笑)味わえるのかと思います。


4. イエスは安息日を「人のためにあるもの」と教えた

📖また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。(マルコ2章27節)

👉イエスの活動
・形式的に守るのではなく、人を生かし、祝福する日とされた。
・律法主義的な安息日のルールではなく、神の本質的な御旨を示した。

💡私たちへの適用
【ルールに縛られるのではなく、神と人との関係を大切にする】
安息日を義務感やルールとして形式的に守るのではなく、神との関係を深める日とする。「やってはいけないこと」ではなく、この戒めの趣旨を思い出しで「何ができるか」を考えましょう。

安息日は、神からの恵みを味わう日とし、喜びと感謝の心をもって(安息日を守れる特権を)過ごし、神の愛を深く味わいましょう。

【仕事をしないということ】
イエスの活動の多くは安息日でした。これを受けて、イエスは安息日に「働いていた」ので、わたしたちも「仕事をしていい」のだと言う人がいますが、これは誤読解です

イエスが安息日に行っていたことは、いわゆる「仕事」ではありません。前述しましたが、仕事とは「自分のための活動」のことでした。イエスは、安息日は人のため(隣人のため)にあると言われたのであって、自分のための仕事(ビジネス)をしていたのではないのです。

このように言うと、「仕事は簡単に休めないじゃないか」と思われますよね。そのとおりです。これも前述したことですが、わたしたちは今、霊的なエジプトに寄留する奴隷なのです。奴隷は自由に仕事を休めないのです。

だからこそ、人の七日目ごとに神の七日目(千年王国)を思い出して、奴隷解放(出エジプト)を待望しつつ、安息日を自分のためではなく隣人のために特別に思い用いることは(難しいけれど)非常に大切なことだと思います。


5. イエスは「真の安息」はご自身にあることを示した

📖すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11章28節)

👉イエスの活動
・すべての人に「真の安息」を約束された。
・平安は神との関係の中にあると教えた。

💡私たちへの適用
【神に信頼し委ねることで、心の安息を得る】
日々の生活の中でイエスに安息を見出し、安息日をイエスの恵みを味わう日とましょう。不安やストレスを抱えるとき、神に委ねる祈りをし、「自分の力で何とかしよう」とするのではなく、「神が導いてくださる」と信じてみましょう。

自分の行いではなく、神の恵みによって救われていることを思い出します。「神の愛にとどまる日」として、喜びと感謝の心を持ちたいですね。

収入やキャリアの不安から解放され、「神がすべてを備えてくださる」と信じる。「休むことで神に委ねる信仰」を実践する。これは、言うは易し、行うは難しかもしれません。

しかし、安息日を思い出して、それを重視するなら世的な仕事を休むこと、場合によっては、今の仕事を見直すことを神は喜ばれると思います。


🌿 まとめ 🌿


イエスが示した安息日の過ごし方は、単なる「してはいけないこと」のリストではなく、神を愛し、隣人を愛する行動を取ることに重点が置かれていました。神を知ることを大切にし、善を行い、休息しつつ神を思うことで、私たちもイエスのように安息日を過ごすことができるでしょう。

安息日の聖別は、神とわたしたちとのしるしとなります。
隣人への親切など普段と変わらぬ行動でも、わたしたちは、安息日を思い出し、その日に正しいこと(神や隣人に善いこと)をすることによって、聖書の神がわたしたちの神であることを知ることができるでしょう。


🌿 思うこと 🌿


安息日は十戒の一つで、守るべき戒めです。
守るのが難しいからと言って、「現代社会では守れないんじゃないか」「多くの人は守っていないじゃないか」「守らなくていいのじゃないのか」と、戒めを否定する方向に気持ちが誘導されることに気を付けてください。

エバが蛇にどのように騙されたのか思い出してください。
「食べても決して死なないよ」。

今回見てきたように、「何をしてはいけないか」「何をすべきないのか」といった思考自体が間違っていました。形式的な守り方は、神は喜ばないことを忘れていました。これはパリサイ人も陥ったサタンの罠でしたね。安息日が、肉の割礼になってしまっては本末転倒です。

安息日を覚えるべき理由を思い出し、この日を特別に思うことが一番なのだと思います。

人ですから上手くできないときもあります。そんなときの方が多いです。
失敗してしまったとき、アダムはどうすればよかったのかも思い出しましょう。

わたしたちは、完全ではありません。
戒めを完全に守れるのはイエスだけです。
戒めは重荷ではありません。


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