【十戒】十戒とモーセ律法とは別物──十戒は「殺すな」、モーセ律法は「殺せ」のわけ
十戒には「殺してはならない」とあるのに、モーセ律法には「殺されなければならない」とあります。
十戒とモーセ律法との関係について、次のような説明を聞かれたことはありませんか。
「十戒はモーセ律法全体の要約」「十戒はモーセ律法のいち部分」「十戒はモーセ律法の象徴」など。
聖書の神を信じる人の中でも、十戒はモーセの時代になって初めて制定されたものと思っておられる方が多いようです。
下の記事では、十戒は最初の人と共にあったことを述べました。
📌この記事では、
十戒には「殺してはならない」とあるのに、モーセ律法には「殺されなければならない」とあるのはなぜなのか、十戒とモーセ律法との関係を聖書から調べていきます。
今まで聞いていたことと異なるために、違和感を持たれる方もいると思いますが、実際、聖書にはどのように書いてあるのかを詳しく見ていきましょう。
十戒とモーセ律法とは明確に区別されている
次の場面をご覧ください。
これは、神がシナイ山でイスラエルにおきてを与える場面です。神は民全体に十戒を語ります。
【出エジプト記 20章1-2,18-19節】
1-2節 神はこのすべての言葉を語って言われた。
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
(中略)
18-19節 民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。
民は恐れおののき、遠く離れて立った。
彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。
神は直接、言葉(雷・稲妻・ラッパの音)で民全体に十戒を語りました。
その後、民は恐れおののき、十戒以外についてはモーセに仲介させました。
【出エジプト記 24章3-4節】(シナイ契約)
モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。
そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、(以下略)
モーセは仲介者となり、十戒以外のすべてのおきてを書き記し民に告げました。これらは、モーセが自分で書き記しました。
続けて、十戒の石板を授かった場面を見てみましょう。
【出エジプト記 25章16節】
そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。
【出エジプト記 31章18節】
主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。
【出エジプト記 32章16節】
その板は神の作、その文字は神の文字であって、板に彫ったものである。
【申命記 4章13節】
主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。
それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。
十戒の石板は、神の指で書かれました。
それは神の作、文字は神の文字で、二枚の石板に書き記されました。さらに、この石板を箱に納めさせました。
次の一節は、終末期における最終場面です。
【ヨハネの黙示録 11章15-19節】(大いなる日)
第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。
すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。
(中略)
そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。
また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った。
この終末期の最終場面において、天の聖所が開いて、その中に契約の箱が見えたとあります。
この場面で契約の箱が天の聖所に見えたということが、何を意味すると思われますか。
十戒の石板が納められた契約の箱が、この最終場面において、わざわざ言及されるほど重要なものだということ以外に考えられないでしょう。
以上をまとめます。
十戒は、神が直接、言葉で民全体に語った
民は、十戒以外はモーセに仲介させた
十戒以外は、モーセが自分で書き記した
十戒の石板は、神の指で書かれ、箱に納めた
天の聖所の中に契約の箱が見えた
これでも、十戒はモーセ律法の要約だとか、モーセ律法の一部だとか象徴だとかの反論があるかもしれません。
仮にその反論が正しいのであれば、終末期の最終場面で天の聖所に見えた契約の箱には、モーセ律法が含まれることになります。
【列王記上 8章9節】
箱の内には二つの石の板のほか何もなかった。
これはイスラエルの人々がエジプトの地から出たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで、それに納めたものである。
いかがでしょうか。
この記事は、これで終わってもいいのですが、物足りない方のために、もう少し詳しく見てみましょう。
十戒とモーセ律法との関係について、次の順序で書きました。
十戒とモーセ律法の相違点
注:ここからの記事は、聖書引用を聖句の切り取りにならないように、ご覧いただきたい部分の前後も載せてあります。引用が長くなっていますので、太字のみを読んでいただいても差し支えありません。
【第二戒】とモーセ律法の相違点
👉あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない(出エジプト20章4-5節)。
【出エジプト記 25章18-22節】
また二つの金のケルビムを造らなければならない。これを打物造りとし、贖罪所の両端に置かなければならない。
一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に造り、ケルビムを贖罪所の一部としてその両端に造らなければならない。(中略)あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。(以下略)
【民数記 21章8-9節】
そこで主はモーセに言われた、
「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
💡十戒は「偶像崇拝を目的とした像の製作」を禁じています。
出エジプト記では、契約の箱の上に、金で造られたケルビム(天使像)を設置するよう命じました。また、民数記では、神自身が、青銅の蛇という像を作るよう命じています。
モーセ律法における像の製作は、神殿や幕屋の装飾、特定の目的(奇跡のしるし)として許容されていたようです。
「自分のために…造ってはならない」とあるので、自分のためでなければいいのかと思いきや、後に青銅の蛇は偶像崇拝の対象となり、ヒゼキヤ王によって破壊されました(列王記下18章3-5節)。
【第四戒】とモーセ律法の相違点
👉安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない(出エジプト20章9-10節)。
【出エジプト記 31章14-15節】
それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。
これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。
六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。
すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。
【民数記 15章32-36節】
イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。
そのとき、主はモーセに言われた、
「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。
そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。
💡第四戒は安息日を覚えて聖とする(忘れず特別とする)戒めです。
モーセ律法は、安息日を破る者に死刑を命じました。民数記15章は、実際に安息日の違反者が処刑された事例です。
十戒は「安息日を覚えよ」と命じていますが、違反した場合の罰則は記載ありません。モーセ律法では「安息日を破ったら死刑」という厳しい罰則が加えられています。
十戒の第六戒に「殺してはならない」とあるので、違反に対する罰則とはいえ、死刑は第六戒と矛盾します。
【第六戒】とモーセ律法の相違点
👉あなたは殺してはならない(出エジプト20章13節)。
【出エジプト記 21章12節】
人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。
【レビ記 20章10節】
人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。
【民数記 35章16-17節】
もし人が鉄の器で、人を打って死なせたならば、その人は故殺人である。故殺人は必ず殺されなければならない。またもし人を殺せるほどの石を取って、人を打って死なせたならば、その人は故殺人である。
故殺人は必ず殺されなければならない。
💡十戒は殺人を禁じています。
モーセ律法は裁きとしての死刑や特定の罪人に対する殺害を命じています。
「殺人と死刑」を「犯罪と刑罰」の違いと考えれば、完全な矛盾ではないと思われるかもしれませんが「殺してはならない」と「殺されなければならない」とは、明らかに対立しています。
この箇所だけでも、十戒とモーセ律法は別物だと分かります。
新約聖書に姦淫の女の赦しというエピソードが収録されています。イエスは姦淫の罪に対して死刑を適用せず(十戒を守り)、赦しを示しました(ヨハネ8章3-11節)。
【第七戒】とモーセ律法の相違点
👉あなたは姦淫してはならない(出エジプト20章14節)。
【申命記 25章5-6節】
兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。
その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。
そしてその女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない。
💡十戒は「姦淫してはならない」と命じています。
モーセ律法では、死んだ兄弟の妻と結婚する義務(レビラト婚)を課しています。弟にすでに妻がいる場合でも、兄が子を残さずに亡くなった場合、弟は兄嫁と結婚する義務がありました。
レビラト婚は、単なる結婚制度ではなく、家系の存続と土地の継承を目的としたものであり、弟の個人的な状況よりも、亡くなった兄の家名を絶やさないことが重視されました。
モーセ律法では、一夫多妻制(重婚)が一定の条件下で許容されていました(ダビデやソロモンなどの実例)。
もし弟が兄嫁を妻とすることを望まない場合、レビラト婚を免除する手続きが用意されていました(申命記25章7-10節)。
その手続きでは、兄嫁が長老たちの前で弟の履物を脱がせ、顔につばを吐き「兄弟の家を建てようとしない者」と宣言する儀式が行われました。
これは社会的な恥辱とされていました。
【第八戒】とモーセ律法の相違点
👉あなたは盗んではならない(出エジプト20章15節)。
【申命記 20章14節】
ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。
また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。
【民数記 31章9-12節】
またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、貨財とをことごとく奪い取り、そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた。
こうして彼らはすべて奪ったものと、かすめたものとは人をも家畜をも取り、その生けどった者と、かすめたものと、奪ったものとを携えて、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの平野の宿営におるモーセと祭司エレアザルとイスラエルの人々の会衆のもとへもどってきた。
💡十戒は「盗んではならない」と命じています。
モーセ律法では、戦争では敵の財産や人を奪うことが許されています。個人間の窃盗は禁止だが、戦争での略奪は認められている。
十戒とモーセ律法が別物でないなら「盗んではならない」が「略奪は認められる」のは、詭弁ではないでしょうか。
少なくとも、十戒にはそのような例外規定は書かれていません。
以上をご覧になってどう思われるでしょうか。
十戒は、モーセ律法を要約しているでしょうか。十戒は、モーセ律法の一部でしょうか。これらは、別の物だと考えた方が合理的だと思いませんか。
イエスは何と言っているか
イエスは、十戒とモーセ律法について何度も言及しており、それらの関係をどう理解すべきかについて重要な教えを示しています。イエスは十戒を肯定し、その本質を厳格に語り、明らかにしました。
ここでは、イエスの発言から十戒とモーセ律法との関係を整理します。
✅「殺すな」について
【マタイによる福音書 5章21-22節】
昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
👉十戒の「殺すな」は、単なる肉体的な殺人ではなく、心の中の状態にまで適用されるものであると、正しい解釈を示しました。
つまり、モーセ律法の「殺されなければならない」を肯定するのではなく、罪やミスを犯してしまう者に対しても、怒ったり、愚か者やばか者と言うのは、そういう人こそが第六戒(殺すな)に違反することになると示し、十戒の本質(神が求めること)を明らかにしました。
✅「目には目を」の否定
【マタイによる福音書 5章38-39節】
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
👉出エジプト記 21章24節にある「目には目を、歯には歯を」は、モーセ律法の一部ですが、イエスはそれを否定し、敵を愛するように教えました(マタイ5章44節)。
つまり、モーセ律法の一部について普遍ではないことを示しました。
十戒の第五戒から第十戒は、隣人に対する戒めと言われますが、「目には目を」が適用されるなら、仮にこれらの戒めの違反による攻撃を受けた場合、やり返すことがモーセ律法の正しい適用とも言えます。
しかし、隣人に対してそのようなやり返すなどというのは、おおよそ神の基準ではないだろうと、良心が備わっている人なら理解できるはずで、イエスの言われることに同意できるのではないでしょうか。
✅「姦淫するな」について
【マタイによる福音書 5章27-28節】
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
👉これも同様で、実際の行為だけでなく、心の中の欲望自体が罪であると示しました。
つまり、表面的な繕いや形式的な紳士然とした態度だけでは足りず、その内面の清さも求められるのが神の基準だということです。
✅「離婚の規定」について
【マタイによる福音書 19章7-9節】
彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。
イエスが言われた、
「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。
👉申命記24章1節には、夫が妻を離婚できる規定があります。イエスはそれを「本来の神の意志ではない」と指摘しました。
つまり、モーセ律法の一部は人間の弱さに対する配慮であったと示しました。
✅「最も重要な戒め」として十戒の要約を示す
【マルコの福音書 12章28-31節】
ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
イエスは答えられた、
「第一のいましめはこれである、
『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
第二はこれである、
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、
「あなたは神の国から遠くない」。
それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
👉これは、ユダヤの律法学者が戒めの中でどれが第一のものかと尋ねた場面です。
イエスは、モーセ律法に詳しい律法学者からの質問であることからモーセ律法の中から第一の戒めを述べました。
それが、申命記6章4-5節の「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」です。
また、聞かれていなかったにもかかわらず、第二の戒めを述べました。
それが、レビ記19章18節の「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」でした。
このやり取りから、イエスの念頭には、十戒があったと思われます。
十戒のうち第一戒から第四戒を第一の戒めとして、第五戒から第十戒を第二の戒めとして、それぞれモーセ律法を引用して要約して見せたのです。
なんと粋なことをするのでしょうか笑
この答えに柔和な律法学者は感嘆し、それらは「すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」と応じました。これに対しイエスは、「あなたは神の国に遠くない」と言ったのです。
注:十戒がモーセ律法全体の要約ではなく、十戒をモーセ律法のいち部分を使って要約した。つまり、モーセ律法には十戒と相容れない部分があるということ。
✅イエスは律法を廃止したのか?
【マタイによる福音書 5章17-20節】
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである。
よく言っておく。
天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。
しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
わたしは言っておく。
あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
👉イエスは、モーセ律法(律法や預言者)を廃止するのではなく、それを「成就する」ために来たと述べました。成就とは単なる遵守ではなく、律法が定められた目的が完成することを意味します。
「最も小さいいましめ」とは、十戒のうち、短い言葉で書かれた戒めのことでしょう。主に、第五戒から第九戒を指していると考えられます。
ここでも、「律法」と「いましめ」とが使い分けられていることが分かります。
この戒めを破ったり、破るように教える者は、天国で小さい者と呼ばれるとイエスは言っています。
そして、モーセ律法や人の言い伝えを頑なに守っているパリサイ人(彼らも間違った守り方ではあるが、モーセ律法を形式的には守ろうとしている)よりも、義が勝っていなければ天国に入れないと言っています。
つまり、十戒が有効なのは言うまでもなく、形式的にではあるがそれを守ろうとしているパリサイ人よりも勝る義をもって、神の戒めを愛す必要があるということでしょう。
✅古いのが良い
【ルカによる福音書 5章37-39節】
まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。
まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。
👉新しいぶどう酒とは、モーセ律法や人の言い伝えのことです。古いぶどう酒は、初めからあった神の戒めである十戒です。
新しいぶどう酒は熟成が進んでおらず発酵によるガスを出すので、皮の堅い新しい革袋に入れないと、せっかく使い込んで年季の入った古い革袋が台無しになってしまいます。
ぶどう酒は古い方が良いと言っているように、いましめも十戒の方が良いということです。
モーセ律法の目的
モーセ律法は、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から導き出され、後にメシアを到来させる器として聖別するために、神の特別な契約の下で与えられた律法であり、その内容は創造の初めから存在する普遍の十戒を基盤にしながら、特にイスラエルの民を導くために適用されるものです。
【エレミヤ書 7章22-23節】
それはあなたがたの先祖をエジプトの地から導き出した日に、わたしは燔祭と犠牲とについて彼らに語ったこともなく、また命じたこともないからである。
ただわたしはこの戒めを彼らに与えて言った、
『わたしの声に聞きしたがいなさい。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしがあなたがたに命じるすべての道を歩んで幸を得なさい』と。
この箇所は、神は当初「十戒」のような基本的な道徳律を求めただけであり、犠牲の制度や詳細な規則は後で追加されたものであることを示唆しています。
【ガラテア人への手紙 3章19節】
それでは、律法はなんであるか。
それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。
また、パウロはこの箇所で、モーセ律法は「違反を促すために後から加えられたもので、約束の子孫が来るまで存続するだけ」であり「天使たちを通して制定されたものにすぎない」と明確に述べています。
モーセ律法は、イスラエルの民が神の民として聖別されるために、以下のような理由で犠牲の制度や詳細な規則が加えられたのでしょう。
① 神の民としてのイスラエルを形成し、他民族と区別するため
② 外見的特徴を通じて他民族との差別化を図るため
③ 十戒をイスラエル社会の戒律として具体的に適用するため
④ イスラエルを聖なる民として清く保つため
⑤ メシア(キリスト)へと導く役割を果たすため
これらの規則は、メシア到来と贖いの達成によって、完成されたとされています。
【コロサイ人への手紙 2章14節】
神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
【エペソ人への手紙 2章15-16節】
数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。
それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
イエスの新しい戒め
【ヨハネによる福音書 13章34-35節】
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
【ヨハネによる福音書 15章12-17節】
わたしのいましめは、これである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
(中略)
これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
「互いに愛し合いなさい」
これがイエスが与えた新しい戒めです。
「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」
この場面で、イエスが十戒を廃して、この戒めに切り替えたと思われますか?「互いに愛し合うだけ」で十戒は守らなくてもよくなった?
とんでもない誤読です。
人の創造以来、当時、四千年間に渡り父祖や神の民によって守られてきた、創造主の価値観である十戒。イエス自身も守り、正しい守り方を示した十戒を廃して、「互いに愛するだけ」になったわけではありません。
【へブル人への手紙 8章8-13節】
ところが、神は彼らを責めて言われた、
「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。(中略)
神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。
年を経て古びたものは、やがて消えていく。
十戒に加えられる契約は、モーセ律法(犠牲の制度や詳細な規則)のようなものではなく、イエスの戒め(互いに愛し合いなさい)であることが分かります。
イエスの戒めは、十戒を正しく守るために、十戒に加えて新しい戒め(新しい契約)として与えられたのです。
注:イエスの新しい戒めの「愛」とはアガペーです。モーセ律法のような形式的に守れる規則などより高度な、無限で無償の神のような愛(アガペー)をもって、愛し合いなさいと言っています。
モーセ律法とともに
十戒も廃棄されたなどいうことは
あり得ません
思うこと
「十戒はモーセ律法の要約」「十戒はモーセ律法の一部」と言う解釈の拡大は、そのように教える牧師の影響が大きいと考えられます。
困ったことに、有力な(発言力のある)牧師が、このように語っているため、多くの人がそれを信じてしまっています。この流れから来る「モーセ律法は十字架によって廃止されたので十戒も守らなくてよい」「十戒とモーセ律法はイスラエル人に与えられたものなので異邦人には関係ない」「イエスの新しい戒め(互いに愛しなさい)だけを守れば良い」など、とにかく十戒を守らせない方向で誘導されます。
このような教えに誘導された人たちは、ご自分で聖書を読んで「戒めを守れって書いてあるけど」と思っても、牧師の意見や多数派の圧に押され「律法は廃止された」「救いは十字架を信じるだけ」「律法遵守は律法主義」「行いによるのは十字架の否定」「互いに愛するのがイエスの教えだ」などと言われると、そうなのか、それでいいならその方がいいやと思ってしまうのが非常に危険な気がしています。
確かに、なるべく守るべきルールを少なくしたい気持ちは分からなくはありません(あれこれ違反だと裁かれるのは嫌ですからね)。しかし、十戒は神との関係を築くにあたり創造主の価値観や人としての道徳観や倫理観を知り、それを実践する上で基本中の基本です。
イエスは十戒の本質を述べ、正しい守り方を示しました。
特に、第四戒の安息日について、キリスト者でもおそらくほとんどの人は「覚えて聖としなければ」という感覚は薄いのではないかと思います。
十戒が守るべき戒めであるなら、第四戒も守るべき戒めであるはずです。十戒において、この戒めは守らなくてもよいなどと言う例外はありません。
守れているかどうかではなく、守ろうとしているか、神の戒めを大切に思っているかが問われているような気がしています。
おすすめ記事
めちゃくちゃ長くなりました😅
最後まで読んでいただきありがとうございます!
是非フォロー、スキ、共有
よろしくお願いします
