見出し画像

ルシファーはドーナツの穴から何を見る?

 今にも泣き出しそうな空とはよくいったものだが、今日の空は泣き出しそうというよりはお漏らし寸前と言った様相を見せている。
波がある。
たまに陽の光が入ってきて、また曇る。
そして真っ黒な雲が来る。
が、また光が差す。

「津田ルシファー様
それでは、二〇二五年十月十六日(木)午前十時
ご予約承りました。
お待ちしております。
カウンセリングオフィス パンプキン瓜生うりゅう

 午前八時、ベッドの中でスマートフォンをいじりながら今日の予定を確認する。
「はあ……」
絶望と二酸化炭素の混じり合ったため息を大きめにつく。

 桜文鳥のサクちゃんがチチチチチと鳴いている。
「おはよ……」
サクちゃんはまたチチチチチと鳴いた。
この鳴き方は、文鳥という生物の挨拶らしい。
サクちゃんと暮らすにあたり読んだ本にそう書いてあった。
あの頃はまだ、“文字”というものが行儀良く本の中で整列していた。
どこぞの国の軍隊のようにピシッと並び、私の方を向いて敬礼していた。
 それが今では、自由気ままな旅人の如く好き勝手に歩いたり、船に乗ったり飛行機に乗ったり……
とにもかくにも、文字のお行儀の良いうちにサクちゃんをお迎えできたのは不幸中の幸いである。

 枕に顔をうずめ、右手に持ったスマートフォンを腕ごとだらんとベッドの下に垂らす。
うんうんと唸る。
眠れるわけでもないのに、ベッドに立てこもり続ける。

「なぜ、予約してしまったんだ」
 今、私の頭の中はこのことでいっぱいだ。
嬉々として予約を入れた、得意げな顔をした自分をぶん殴ってやりたい。

 思い返せばこんなことばかりだ。

 金曜日の放課後に、なけなしの友人・茉莉花まりか百合ゆりとドーナツ屋へ行く。

 十六歳、高校二年。
こんな私でもほんの少し色気付いて、ダイエットに勤しんでいた。
生意気に、
「お母さん、私、揚げ物はダメなの。」
なんて昨日の夜メンチカツを泣く泣く突っぱねたばかりだというのに、
なんだか楽しくなってしまって甘々なドーナツを五つもトレーに乗せている。

 ホイップクリームがぱんぱんに詰まった穴のないドーナツに、苺味のかわいらしいピンク色のチョコレートでコーティングされたドーナツ、ココナッツがふりかけられたココア生地のドーナツ、季節限定の紫芋のもちもちドーナツに、極め付けは飾り気はないけれどずしんと重い、メニュー内トップクラスのカロリーキングのザクザクドーナツ。

一つ目を半分食べ終えるか終えないかのうちに後悔が始まる。
もちろん、脂質と炭水化物の黄金コンビの共演に脳は有頂天。
とはいえ私が有名人なら、「また、いとも簡単にダイエット断念か?」なんてしょうもない見出し付きで電車の天井から吊るされるのだろうと起こり得ないスクープに辟易としている。
全くをもって見当違いの取り越し苦労である。

「ねえ、明日カラオケ行かない?」
「いいね! ありさ・・・も大丈夫そう?」
「行ける行ける! むしろ、行きたい!」

 この段階では摂り過ぎる予定のカロリーへの罪悪感は忘却の彼方である。
それと同時に、土曜日の吉祥寺のカラオケで「残酷な天使のテーゼ」の替え歌で「残酷な教師ヤマザキ」を熱唱する気満々なのだ。
マイクを持って悦に浸る自分と、爆笑する気の置けない友人二人の姿を思い浮かべ、大満足を先取りする。

 しかし、帰りの電車から雲行きが怪しくなる。
茉莉花が降り、百合が降り、一人電車に揺られる時、扉のドアに映る自分を見て、優に一二〇〇キロカロリー以上をたかだか十五分ほどで腹に詰め込んだ挙句、たった今ぐぅと空腹のを奏でる腹の虫に衝撃を受けると共に絶望する。
「ああ……振り出しに戻る、か。」
二重顎目前の首の辺りを摘みつつ、まだ血となり肉となる前の五個分の過ちをいかにして清算すべきかに思考を巡らせる。
 考えれば、カロリーを帳消しにできるはずだと言い聞かせる。
確か脳のエネルギー源はブドウ糖で、とりわけ砂糖は光の速さでブドウ糖に変化するから……
やっぱり今、私の中に沈むドーナツたちは……
 そんなことを考えていたら二駅も乗り過ごした。
もう整合法で攻める方が早い。
つべこべ言わず、二駅分歩くことにした。
二駅分の乗り越し料金ですら、ドーナツ半分も返済しきれない。
その状態で、夕飯の竜田揚げ〜タルタルソースを添えて〜を食べたのだから、利子は膨れ上がる一方である。
一時的な快楽のために闇金でお金を借りてしまう人の気持ちは、大いに想像がつく。

 そして、寝る前にメールを確認して
「じゃあ明日、吉祥寺駅十時集合!」
に対し、「了解」と打とうとして、「り」まで打ち固まる。
ほんの五、六時間前まであんなに楽しみにしていたというのに今、とても行きたくない。
もう、明日というもの自体が来なければいいのにとさえ思う。
とんでもない自己都合で地球滅亡を懇願する。
「ごめん、やっぱり行きたくなくなった」
とは冗談でも打つ勇気はない。
だからこそやはり、地球には……
いいや、私とてそこまで短絡的ではない。

 私の“楽しみ”の絶頂は約束をしたその瞬間で、そこからゲレンデの超上級者コースを直滑降で滑り降りるかの如く急降下する。
 降下中にありとあらゆる後悔を身体で絡め取り、雪だるま式に丸々と肥えていく。
今もなおごろんごろんの身体でマットレスを泣かせながら、地球滅亡を密かに願っている。

 今一度予約メールを開く。

「津田ルシファー様
それでは、二〇二五年十月十六日(木)午前十時
ご予約承りました。
お待ちしております。
カウンセリングオフィス パンプキン瓜生うりゅう

 何度開いても日付は変わらない。
そして私の失態も、しっかりと残っている。
画面の向こう側でまだ見ぬ臨床心理士のパンプキン瓜生……否。
カウンセリングオフィス・パンプキンの瓜生さんが、
大真面目に「津田ルシファー様」に予約確認メールを打ったのかと思うと途端に言い容れぬ恥ずかしさで顔面から吹いた火で部屋を焼き尽くさんばかりだ。

 ふと、サクちゃんが視界に入る。
その手前のセンターテーブルには、昨夜無意識で食べたと思しき焼き鳥の串とタレがベッタリと残ったトレーが置かれている。
ブンブンと首を振れば髪が枕に擦れてガサガサと音がする。
チュピチュピと鳥籠の中を右往左往するサクちゃんはどことなく慌てているように見えた。
本来慌てるべきは私なのに。

 小鳥型の時計の針は刻一刻と九時へと近づいている。
動かなければ、と思うほどに自分に作用する重力だけがやたらと強くてなっているように感じられた。

 何度見たところで予約をしたという事実も、それがあと一時間後に差し迫っているという現実も紛うことなき真実だというのにまだ奇跡を信じたい私はスマートフォンを手に取った。
真っ暗な画面に映る、期限切れの温泉まんじゅうのような顔。

 どう転んでも“ありさ”という見た目ではない。
だからと言って、“ルシファー”でもない。
ならば転ばずともしっくりくる名前とは?と問われたとて「御名答!」と十人いたら七人に言ってもらえる程度の名前は自分を持ってしても不明だ。
何にせよ、まだ見ぬ瓜生さんはこれまたまだ見ぬ私を目の当たりにした時、一体何を思うのだろう。

そんなことは、「神のみぞ知る」なのだろうが、その神にすら「知ったこっちゃない」と見放されたような心持ちなのだ。

 考えるだけ野暮なことをひたすら考えるほどに野暮な私を「絶対偽名だろう」と右口角を上げ、死んだ目をしたヴァンパイアが嘲笑う。
──これがルシファー的パンプキン瓜生の第一印象である。
会ってもいないのに、第一印象を持っているのもおかしな話だ。

***

 季節を先取りしたかの如く重い身体でベッドに籠城する私は去る九月三日、この部屋で三十歳を迎えた。
もう何年も会っていない茉莉花と百合から今年も午前〇時ぴったりに「お誕生日おめでとう」のメッセージが届く。
十五歳で知り合って、十六歳の誕生日からずっとこうして送られてくる。
ここ五年ほどはもう、半ば習慣というか義務のような空気さえ感じる。

 茉莉花は私がドーナツを食べ過ぎた五年後に結婚して、その一年後と三年後に子どもを産んだ。
百合は件のドーナツ事件から十年後にあろうことか、生ドーナツ専門店をオープンさせた。
今では超がつくほどの人気店となり、カリスマ社長としてもてはやされている。

 正直、誕生日が来てうれしいという年齢のピークはとうに超えた。
むしろ、「年齢よ、とまれ! 巻き戻れ!」と心の中の魔法少女に叫ばせるくらいには年齢に抗いたい年頃なのだ。
“ミソジ”という響きも、どうにも受け入れられない。

加えて私は今、“うつ病”なのだ。
生きる気力というものが随分と摩耗している。
そんな状態で“おめでとう”と言われても、返答に困ってしまうのだ。
特に、自分の力で輝いている類の人間からの“おめでとう”は今の私が受け取るには重量オーバーである。

 つけっぱなしの電気に照らされるポテトチップスをぼろぼろこぼしながらぼやける画面に打ち込む「ありがとう」。
塩味の強すぎる砂を噛むような後味の悪さに、言葉を飲み込んだ。

 全くをもってめでたくない誕生日は、心療内科の通院日でもあった。
二週間おきに通っていた。
前回受付で「次回は九月三日です。」という言葉と共に診察券を受け取った時は、
「ワタクシのバースデーパーティーの招待状ですわ」
と気色の悪いプリンセスと化していたのだが、なんということはない。
無断キャンセルした。

 私の中では地球が滅亡していたのだが、巷では全くそんなことはなかったらしい。
スマートフォンの画面には開店前の人気ドーナツ店の開店を待つ人々の如く同じ顔をした電話番号が並んでいる。
これこそが、地球存続の証である。

 責任転嫁をすると、まず主治医がどこぞの国の王子様と言った風貌の麗しい見た目をしているのがいけない。
やはり、王子様に会うにはそれ相応の、せめてお城の使用人くらいの風貌になっておく必要がある。

 とはいえ、この頃の私は巷で話題の“風呂キャンセル界隈”の中でもトップクラスの風呂キャンセルクイーンだった。
髪は伸び放題、もちろん風呂は最後に入った日付も思い出せない。
にも関わらず、やはり王子様との逢瀬。
身綺麗にしておかねばという使命感はあれど、どうにも身体が動かない。

 相変わらずベッドの中でうんうんと唸り、世界滅亡の呪文を唱えるなどしていた。
そうこうしているうちに日付が変わり、茉莉花と百合から「誕生日おめでとう」メッセージが届く。

「全然、おめでたくはないけどね」
そう心の中で悪態をつく。

 そして猛然と二人のインスタグラフをチェックする。
日焼けしていない白い肌を、大きなぬいぐるみやスターバックルのタンブラーでひた隠しにする茶色の巻き髪。
子どもの顔隠しの熊のスタンプの少しずれたところから覗くぱっちり二重の目は彼女そっくりだ。
タワーマンションの高層階から望む花火は羨ましくはないが、眩しい。
全体的に、白と茶色でまとまった茉莉花のインスタグラフは砂糖とミルクを入れ過ぎて原型をなくしたコーヒーのようで胸焼け必至。

 「賞味期限、三十秒」の字幕の後ろでドーナツにホイップクリームを詰める百合。
ずらっと並ぶお客さんの早送り映像から、顔の前で手を合わせ甘々な声で「ごめんなさーい」と頭を下げる百合。
コメント欄は、「そのカロリーを抱きしめて眠りたいです」「穴のないドーナツでドーナツ外に風穴あけたな」なんてサムい賞讃で溢れかえっている。

彼女たちが欲しいであろう言葉は、ひとつ残らず一ミリの狂いもなく見当がつく。

「おめでとう」に「ありがとう」と返せばそこから始まる不毛なラリー。
故に私は無視を決め込んでいる。
彼女たちのバケモノのように膨らんだ承認欲求を満たし、むしろカロリーオーバーでまるまると太らせてやれるだけの言葉を私は飲み下していく。
これがまた強炭酸の如く刺激が強いのだ。
でも、これは左の喉のやや奥あたりで落とせば痛みが少ない。
もうずっとやっているから、ベストポジションはわかっている。

 言葉を全て飲み込んで、胃は灼けるようにムカムカしている。
突然身体に力が入り、胃のムカつきにのたうち回れるほどになった。
床に落ちている、中の文字が全部夜逃げしたり、地球一周に旅立ったりして真っ白になった文庫本とをかき分け午前三時、のたうち回りついでに風呂にお湯を張る。
ゴソゴソと服を脱ぎ捨てていく。

 何日振りかわからない風呂。
薔薇の香りのシャンプーで絡まった髪をほどく。

「まどろっこしいんだよ!」

心の絡まりをほどきたくて、くぐもった叫びを放つ。

ジャスミンの香りのボディソープでどこぞのプリンセスを気取る。

「はいはい、すごいですね! それに比べて私は……」

湯船には随分と昔にもらったチョコレートの香りの入浴剤を入れた。
三種類の甘い香りが混ざり合う浴室で、私は自分の人間臭さを誤魔化している。

「やっぱり、二人には敵わないなあ!ははっ……はははははは……」

ぼろぼろと涙が頬を伝い、チョコレート色の中に消えていく。

時間だけが過ぎていく。
すっかり湯船の中は冷え切ったけれど、相変わらず私はチョコレートの湖の中でふやけている。
このまま湯煎されるチョコレートのように溶けて、バレンタインの頃まで気づかれなければ面白いのに。

 一瞬きた躁で風呂入ったものの途中で鬱に切り替わってどうしようもなくなって湯船の中であわやチョコレートになりかけた記念すべき三十歳の誕生日。
私は王子様との逢瀬をすっぽかしたのだった。

***



初めての場所に行く時は、霧雨の日のムートンブーツの如く足が重い。
口も軽い方ではないし、フットワークも重い。
唯一の救いはフットワーク以上に体重が重いことだろうか。

「それのどこが救いなの?!」

 小回りのきかない身体は、慌てふためくという表現に最も適さない形をしている。
全く急ぐ努力をしているように見えないのに、部屋中の至るところに激突して怪我をする。
今も、部屋の角という角全てと足の小指とを木っ端微塵にしながら支度をかろうじて終えたところだ。

玄関でしょうもない自問自答をしながら、履き潰したスニーカーに木っ端微塵になった小指ごと足を突っ込む。

チチチチチチ……
唯一この一部始終を見ていたサクちゃんは、鳥籠の外に粟穂の粒をすっ飛ばしながら「いってらっしゃい」と挨拶してくれているようだ。

「いってきます」

 今日は妙に、足首に体の重みが堪える。
昨日コンビニに新作のかぼちゃプリンとチョコレートクリームが入ったたい焼きを買いに行った時の私は羽根のように軽かったのに。

 十月十六日(木)午前九時四十五分、私は息を切らし緑から黄色に変わり始めた銀杏並木を走る。

私の中のパンプキン瓜生は未だ死んだ目で右口角を吊り上げている。

 空は突き抜けるように青い。
黒雲は随分と遠くの方で消えかかっている。

 風景描写と実際の心模様は、正反対の方向に背を向ける。

 重い身体を転がすように進む。
今は逸る気持ちを抑えることなく、ヴァンパイアの巣窟へ走れ。

ザザザー……
ふいに強く吹いた向かい風。
身体を預ければ、倒れることなく透明なクッションにでもなってくれそうな強い風。
試してみたくなり、進行方向に背を向けてみる。
なんの躊躇いもなく、力を抜いてみたら思いがけず尻もちをつきかけた。
「おっと……」
体勢をもち直そうとバランスの修正を試みるも、血となり肉となったあれこれが邪魔をする。
「おおっ……おっと、と……」
さしずめ、ピエロである。
わざと滑稽なことをして、人を笑わせて。

 なんだか素直に前を向く気になれなくて、進行方向に背を向けたまま、背中側へと歩を進める。
思いの外、悪くない。

 未来を想像することが、ずっと怖かった。
超近未来のことであれば、「パンプキン瓜生が津田ルシファーをどうジャッジするか」問題。
なんだかんだで十分後に差し迫っているこの未来から目をそらしたい自分がいる。
それでいて、パンプキン瓜生が私の未来をなんとかしてくれるのではないかという楽観的かつ他力本願な望みも抱えている。

 後ろ向きはだめだと言われがちだが、未来に背を向けていても、その背中の方向に歩けば結局は前進していることになる。
例えなんかではない。

現に私は今、未来及び目的地に背中を向けて向かっている。
GPSの矢印はちょっとパニック気味だけれど、カウンセリングオフィスパンプキンへ着実に近づいている。

 目線は過去を見ている訳で、先回りして知ってしまったら逃げたくなるような未来も済んでから認識できる。

公園遊びには 似つかわしくない高級バッグを膝に乗せ、ふんわりとしたワンピースでしゃがみ込み、スマートフォンを高く掲げ、小首をかしげてアヒル口。
なかなかお気に召す盛れた・・・写真が撮れないのか幾度となくカシャ、カシャ、とシャッター音が響く。
「ねーえー! ママー! ブランコ乗りたいよー! 早くー! とられちゃうよー!」
「ちゃんと笑って?」
目当てのブランコの主導権を他の子どもに取られたくない子どもの話などお構いなしだ。

 これだって、未来に正々堂々向き合っていたら回れ右でUターンしていたに違いない。
スマホを渡されて、撮ってくださいなんて言われたら……
あんな映えに特化した映えの権化のような人間を満足させられるような写真はとてもでは無いが私には撮れない。

だから全てがサプライズで入力される後ろ向き歩行はいい。
前を向いて歩いたらネタバレの危機だから。
だって、物語も最高潮に盛り上がって参りました!ここからが見どころです!
というところで自分の推しが自身の信条を揺るがすような、空前絶後のクズだと知ってしまったら……
それはもう目も当てられない。

 ドーナツの描かれたキッチンカーが停まっている。
中から一人、女性が出てきた。
キッチンカーに寄りかかり、エプロンのポケットからおもむろにたばこの箱を取り出した。
一本をくわえ、火をつけて壊れた車みたいに口から白い煙をもくもくと噴き出している。
彼女にはなんの罪もないけれど、がっかりだ。
私が勝手に作り上げたドーナツの持つポップでキュートなアイドル性に、ふかすたばこのやさぐれ感は不要だ。

 このやさぐれ間も真正面から斬り込んでいたら、弱腰の私はビビり散らして元来た方向へ走り逃げ出したと思う。

 つまり、後ろ向きも悪くない。

 文庫本の中から旅に出ていった文字もそう。

「生き生きと動く文字なんて、なかなか見られたものじゃないですからね。活字だけに活きがいい。」

内容ばかりに気を取られ、文字そのものに価値を見出したことなんてなかった。
私が鬱になったから、見ることができた世界。

 夜通し眠ることができなくなった日から、月の満ち欠けを観察するようになった。
私の食べたカロリーを分けてあげたくなるくらい儚げな二日月を眺めながら食べる月見バーガー。
初めて夜空を意識した。

 朝はずっしり重いけど、夕方ごろ少しずつ動けるようになってくるあの感覚。
昼夜が逆転しているようで、いかにも怠惰な生活だと絶望したあの日々も、
「白いレースのような、烏瓜の花のよう。儚げで、美しいんですよ。」

 十月十六日(木)午前十一時二分。
 夏の暑さに負けた茶色の落ち葉がじっとりと濡れている。
空は、泣き腫らした形跡もないほどにすっきりと青い。
元来た道を前向きに戻る私のスニーカーは、よく足に馴染んで軽い。
ぎこちないスキップで、落ち葉を鳴らす。
 前向きなうつ病患者の私は今、落ち葉の音で腹の虫の音を隠した。

 私はキッチンカーのドーナツの箱をぶら下げて、部屋のドアを開ける。

「ただいま!」

チチチチチチ……
サクちゃんは粟穂の軸だけになったものを桜色のくちばしで加えてブンブンと振っている。

 衣食住が地続きの二十五平米ワンルーム。
家賃七万円。

欲にまみれ、承認欲求でごろんごろんに肥えるより
身の丈にあった部屋でお気に入りだけに囲まれて
物理的に肥えていたい。

とはいえ現実は甘くない。

 ごとん、とポケットから転がり落ちたスマートフォンを拾おうと身体を前に折り曲げようとしたら
お腹周りの季節外れの浮き輪が邪魔をする。
血となり肉となった記憶にないカロリーは私の身体を軋ませる。

「いたたたた……」

前傾姿勢で膝をさすった時、視界に飛び込んできたのは、一通のメールだった。

「津田ありさ様
本日はありがとうございました。
次回のご予約は
二〇二五年十一月二十日(木)午前十時
で確保しております。
また、お話しましょう。
カウンセリングオフィス パンプキン瓜生うりゅう

 箱に詰められたドーナツは、どれも穴が空いている。
黄色いドーナツを箱から出してみるとかぼちゃの甘い香りに包まれた。
ドーナツの穴の先ではサクちゃんが新しい粟穂を夢中でつついている。

「あなたがいるのはちょうどドーナツの真ん中。何もないから損したなんてことはなくて。そこは安全地帯なんです。それに、ちょっと、ファインダーみたいじゃないですか?そこを通して何が見えるか、です。」

ちょっと、わからなかったけれどわからないから自分で勝手に解釈する。
振り向いて、背中側にある窓に黄色のドーナツをかざす。

穴から覗いた空は先ほどよりも狭いけれど、よりくっきりとして、ひたすらに青かった。

(8,579文字)

【その他小説】


エッセイ+小説

いいなと思ったら応援しよう!

よもぎ よもぎちゃーん! はーい! 何が好き? ポテトチップスよりも お・ぬ・し

この記事が参加している募集