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緑が透明になる季節

「もみじの葉が赤く色づき始めました。」
 天気予報で傷付くのは私くらいのものだろう。
「銀杏の葉も黄色く色づいてきましたね。」
気象予報士さんの何気ない言葉に腹を立てる。
「良い季節になりましたね。」
アナウンサーの同意に言い容れぬ寂しさを覚える。

 日曜日の朝、テレビ画面を90°に横倒しに、ぼんやりと眺めていた。
今日はどうやら雨は降らないらしいということがわかり、画面に背を向け目を閉じる。

 秋が来るたび、私は透明になる。
そして今年もまた、紅葉が赤く、銀杏が黄色く色付いて私は透明になった。
緑色の掛け布団に顔をうずめ、お目当てのおもちゃを手に入れられなかった子どもの如く、不貞腐れていた。
ベッドに飲み込まれるような感覚があり、テレビの音がいつの間にか遠くへ消えていった。

◇◇◇

ピピピピッピピピピッピピ…
緑色の鳥の形をした目覚まし時計がいつも通り可愛らしく朝を告げる。
肌寒くなり始めた十月初めの朝の布団は、足を出す前からすでに恋しい。
薄らと残る眠気と、ふんわりと差し込む日差しと、眠りに落ちるその瞬間まで読み耽っていた文庫本。
カチッ……
意を決し、掛け布団を足の方へ追いやる。
ふぅっと息を吐き一気に身体を起こす
腕を天井方向にぐいっと伸ばし、ひんやりとした部屋の空気を肺に送り込む。
ゲホッゲホッ
今日は頭よりも身体の方が寝ぼけているらしい。

 咳き込んだ後の気だるさに、壁紙の凸凹の数を数えそうになった。
あまりにも不毛だと思い直し、やめる。
「今日は何が起こるのだろう」ということよりも枕の横に転がっている文庫本の次の展開のことで頭がいっぱいであることに気づく。

 少し、のんびりし過ぎた。
慌てて階段をドタドタと駆け降りる。

 父が台所から「おはよう」と言う。
カシミヤの毛布みたいな声で、起きたばかりなのにまた眠くなる。
「おはよう……」
私にも、一般的な十六歳と同じく思春期というものが来ているから挨拶すら素直にできない。
食卓にはすでに、ご飯、卵焼き、わかめと豆腐のお味噌汁が並んでいる。
ご飯にはシラスと高菜が乗っている。
ということは、これは冷凍ご飯だ。

「お、みどり。さてはYシャツに着替えてから寝たな?」
元来お調子者の父は、娘の思春期のことなど気にも留めず、果敢に挑んでくる。
「……うん。楽だし。」
「だよな! 俺もずっとそうだったよ。あとは学ラン羽織って、パンを片手にレッツゴーだ!」

何を隠そう前日の夜にYシャツを着込んで寝るという技は父から伝授されたものだった。
中学生になり、Yシャツ人生を始めた私に父が真っ先に教えたのがこれである。
「せっかくアイロンかけたのに! シワシワじゃない。」
 母は毎朝同じ理由で怒っていた。
しかし寝起きの悪い、否、毎晩夢の世界よりも本の世界に入り浸り、現実の生活に支障をきたしている私が朝食をきちんと食べ時間通りに学校に行けるならそれに越したことはない、いたしなたない、と前向きに諦めてくれていたようだ。

「お弁当、置いとくよ。」
緑色のギンガムチェックの布袋が私の横に置かれる。
皿の上のと同じ、甘い卵焼きの香りがふわふわと立ち上ってくる。

“あさだみどり”
 もうすっかり色褪せた平仮名で書かれた名前。
高校生にもなって、ほんの少し恥ずかしくもある。
クラスメイトはコンビニの袋をガサガサ言わせて教室に入ってくるから。
父に素直に朝の挨拶すらできないほど思春期であるくせに、母の作ったお弁当袋に入れられた父の作った弁当を黙々と食べる。
そんな自分の矛盾に苛立ってみたりもする。
それでも卵焼きは美味しくて、心も顔も弛んでしまう。
その弛みを慌てて引き締める

「みどり? どうした?」
ハッとして時計を見ると、六時二十分。
「もっと早く声かけてよね!」
 あまりにも理不尽な怒りを父に投げつけ、慌てて朝食を胃に仕舞い込む。
テーブルに逃げ出した三匹のシラスも、一匹残らず捕まえた。

 家が遠い私は、早めの電車で通学していた。
人もまばらな早朝の車窓を眺めたり、ガタンゴトンという音を聴きながら読書をすることが密かな楽しみとなっていた。

 入学当初は、いわゆる登校のゴールデンタイムに照準を合わせていた。
身動きの取れないほどの満員電車で身体が宙に浮いた状態で運ばれる日もあった。
それこそ、ベルトコンベアならぬひとコンベアで強制的に目的地より前の駅に運び出されることもあった。
 どうにも自分が無機質な荷物にでもなったかのように感じられた。
荷物であると同時に、誰かにとっては自分が梱包材。
その感覚は到底受け入れられるものではなかった。
そんな理由から、必要以上に早く家を出るようになったのである。

「行ってきます!」
 ひとつ季節を飛び越したのかと思うほどにひんやりとした朝六時三十分、私は深い緑色のカーディガンの袖に手を半分ほどしまい、こすり合わせる。
その合わさった手と手にはあっと息を吹きかけるが、その息はまだ透明だった。
 見上げると黄色く染め上げられた銀杏の葉が、高い空の青とがくっきりと分かれている。
いつもより早足で進む。
五分遅くなっただけで、すれ違う人の顔ぶれがこんなにも違うことに驚く。

 いつも後ろから来て追い抜いていく柴犬が、今日はすでに前を歩いている。
プリッとしたお尻に、ふわふわの巻尾を揺らす。
本格的なランニングウェアを着込んだ女性が私を追い抜いていく。
変わらないのは、柿の木があるお屋敷のように立派な家の上品な白髪の女性が庭の手入れをしていること。
「おはよう。」
彼女は、毎朝必ず静かに微笑みながら挨拶をしてくれる。
「おはようございます。」
父にはすんなりと言えない朝の挨拶も、すんなりと滑らかに口から出てくる。

 ピッ!
いつもより少し遅れても、改札を通り抜ける時の軽快な音は通常通りだ。
電車も滞りなく三分に一本くらいの割合でやってくる。

 座席の中央を隔てる手すりの左側の席に座り、早速鞄を開ける。
ふわっと卵焼きの甘い香りがする。
慌てて鞄を手で押さえ、縮こまりながら左右の乗客に
「失礼しました」の気持ちで会釈をする。
しかし、彼らは眠っている。
私の謝罪はおろか、卵焼きの匂いすら彼らには届いていない。
なんとも言い容れぬ後味の悪さを感じつつ、鞄の開きは最小にしてあの文庫本を引っ張り出す。
ページをめくるたびに、甘い香りが鼻に入ってくる。
しかし、程なくして私は卵焼きのことすら忘れ、幻想の中で胸を焦がしていた。
どっぷりと文字の奥で溺れている。
それでいて、口の中がほんのりと甘いような感覚があった。

 ガラガラ…
教室の引き戸を開ける。
電気はついていないけれど、カーテンが揺れている。
さすがに今日は一番乗りではなかったか……。
ほんの少し気落ちしつつ、教室の隅に目を遣る。

 教室の後ろ、ロッカーの上に座る初沢七瀬が視界に飛び込んでくる。
初沢さんと言えば、いわゆる一軍女子でとても目立つタイプだ。
自分とは正反対で、話したことすらない。
一週間ほど前から、不自然なまでに彼女は常に一人でいるようになっていた。
恐る恐る、声をかける。
「……おはよう。」
ちらりとこちらを見ると、紺色のブックカバーがかけられた本を膝に置いてから
「……おはよう。」
と私がしたのと同じように恐る恐る挨拶を返してくれた。

 なんとなく緊張してしまい、ブリキのおもちゃのようにギシギシと自分の席まで歩いて行く私。
もし、物語の世界ならきっと“ウィーンガシャン”という擬音表現をつけられてしまうであろうぎこちなさである。
 キシッキシッと音がしそうな動きでまた本のページをめくり始めるが、今度は全然文字の世界に沈み込んでいけない。
初沢さんのいる方から時折聴こえるパラリという音が頭の中で響いていた。

 窓の外では、校庭に植えられたもみじが赤い葉を揺らしていた。

 廊下からバタバタと生徒たちの足音が近づいてくる。
ガラガラ、バンっと少々乱暴に扉が開けられる。

「誰もいないじゃん!」
「ほんとだー! ミナもいないし、ゆいぽんもいないしー! ウケるんですけど!」
「てか! うちら早すぎん? えらすぎん? マジ優等生! やばー!」
 一軍女子たちのお出ましである。
ゲラゲラと笑いながら教室を自分たちの色で塗りつぶしていく。
初沢さんも、私も、彼女たちにとっては無色透明なのだ。
まるで、見えていない。
初めから存在しないも同然である。

 彼女たちの場違いな程に大きな笑い声の合間にも、初沢さんがページをめくる音が聴こえてくる。
私はその間、一度たりとも音を立てていない。

 私はあの教室ではずっと透明だったけれど、初沢さんがいつ、どうして透明になったのかはいまだにわからない。

 どれ程の時間が経っただろう。
目を開けると、視界がぼやけている。
ひどい近視だが、それでは説明もつかないほどぼやけている。
つけっぱなしのテレビは「お部屋片付け術」を私に伝授していた。
重い身体を起こし、眼鏡をかける。
それでも視界はくっきりとしない。

 散らかり放題の部屋の色がぼやーっと映っている。
枕元には緑色の目覚まし時計。
一週間前から、時間を確認することにしか使っていないけれど。
床には文庫本とハードカバーとが身を寄せ合っている。
いつから読んでいないのか、もうわからないけれど。
ベッドの上まで侵略している服を適当に引っ掴んで、パジャマを脱ぐ。

 こんなことなら、夜のうちに今日の服に着替えておけば良かった。
そんなことを思いながら急いで深緑のスウェットをかぶる。
ぼやけていた視界もだんだんとはっきりしてきて、改めて部屋の乱雑さが目につく。
時計の針は十一時を指している。

 二十五平米のワンルームで、残り三枚になった六枚切り食パンを一枚、焼きもせず、バターもつけず、かじる。
カーテンを開けて、六階から見下ろす景色はすっかり秋なのだ。
銀杏の木は黄色く、立ち止まる人々はきっと笑っている。
小さな女の子が二人、大人たちの周りをくるくると走り回っている。
ケタケタと笑っているのだろう。
 一瞬の間があって、脳裏をぎる良からぬ希望に首を振る。
 部屋にはパンの匂いが漂っているけれど、一体私は何を食べたのか。
どうやら食パンらしいということを、台所に落ちたカスに教えられる。

 味がしない。
どんな食べ物も、舌の上で透明になってしまうのだ。
パンも、りんごも、卵焼きも。

 十一時十五分、私は慌ててスニーカーに足を突っ込む。
急いでいるつもりではあるが、頭でイメージするより動きは緩慢で、二十秒ほどのタイムラグを感じる。
まるで、胃の中でじわりじわりと膨らんでいく透明な食パンのように。

 エレベーターでは、誰も乗ってきませんようにと祈る。
下りのエレベーターの上からグイグイと押さえつけられるような感覚が苦手だ。
昔は漠然と嫌いだったこの感覚が嫌いな理由も、今なら言葉にできる。
生きていることを実感させられること、それでいてその生きているという事実に安心しているということ。
またそれを感じている時点で自分というものがこの世に生かされているということを嫌でも認識せざるを得ないこと。
“命の重み”というものがずっしりと足首にのしかかり、この世界に私を縛りつける足枷となっていること。

 ずるずると自分自身を引きずりながら、共用スペースの横を通る。
無口な管理人さんがソファで本を読んでいる。
ほっとした。

 外へ出ると、部屋から見た銀杏の木が黄色の葉を揺らしている。

「すっかり色づいたね。」
「綺麗……」

 道ゆく人、立ち止まる人は各々に感想を述べている。
ゆっくりと顔を上げると、あの日の朝のように銀杏の黄色と空の青とがくっきりと分かれている。

 私はまた、透明になった。
色づき始めた木々の前で、私は透明になった。
無色として扱われる緑に、何人の人が気づいているのだろう。
色づいた先が黄色や赤ならば、その前の緑は無色透明である。
あるけれど、ない。
いるけれど、いない。

 診察室、私は深緑のスウェットの裾をギュッと掴む。
「先生、私、仕事……やめました。」
主治医はひとつ、呼吸を置いてからゆっくりと言う。
「そうでしたか。変わることは、とても勇気がいったでしょう? 進みましたね。」
移ろう季節の途中、私は変われたのだろうか。
クリニックを出る時、ほんの少しだけ誇らしい気持ちになった。

 少し歩いたところで、ポケットの中のスマートフォンが震える。
父からメッセージが届いている。
送られてきたのは二枚の写真だった。
一枚は半分が黄色でもう半分が緑色の銀杏の葉の写真。
二枚目は子どもの頃、よく連れて行ってくれた近所の公園のもみじの木。
木のほとんどはまだ緑色で、ほんの少し赤くなり始めている。

「みどりへ。葉っぱの色が変わり始めたよ。お父さんは今年から花粉症デビューしました! 今日、薬をもらってきてさっき飲んだけどまだ全然効きません。鼻が詰まってしまってご飯の味がわからなくてうんざりです。それでもお腹は空くから食べているよ。さっきも味がしない栗ご飯を二杯も食べました! みどりは今日何を食べた? 今度こっちに戻ってきたら壺焼き芋というのをご馳走するよ! あのスーパーの……」

 長いよ、お父さん。
そう思いながらも、父にとっての黄色と赤の前には緑が緑として存在していることを知る。
今、私の目と鼻はきっともみじにも引けをとらないほどに赤いに違いない。

 相変わらず共用スペースで本を読んでいる管理人さんの横を軽く会釈をして通り過ぎる。
誰にも会わず、六階の自分の部屋までたどり着く。

 処方された薬を袋のままテーブルに置き、惰性でテレビをつける。

「もみじの葉が赤く色づき始めました。」
「銀杏の葉も黄色く色づいてきましたね。」

 相変わらず緑色は透明なままだった。
しかし、私自身は少しずつ、色を取り戻し始めている。
残りの食パンを一枚手に取る。
一口、かじってみる。
やはり、舌の上で透明になってしまう。
それでも私は一心にその透明を食べ続けた。

 ふと、透明になった職業欄を想う。
よく考えてみれば、透明になったのではない。
私は私の意思で透明にしたのだ。

 何にだってなれる。
でも透明は曇りやすいから、少しずつ少しずつ、磨きながらその純度を高めていけばいい。

 秋、私は透明になりたい。
差し込む夕日に赤く染められながら、そう願っていた。

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