二子玉川心中
俺は迷っていた。
大学四年、これでだめならもうきっぱり諦めて地元に帰って就職しよう。
一度はそう決心したものの、どうしても映画の世界への憧れを断ち切れずにいた。
ただ、学生映画祭への応募はこれが最後になる。
だからこそ、どうしても爪痕を残したい。
思いが強くなればなるほどキーボードを打つ指は止まり、舌打ちの回数だけが増えていった。
周りの同期たちはすでに皆就活を終えている。
去年あたりは、やれTOEICが何点だっただの、インターンシップがどうだとか、SPIがどうしたなどと騒ぎ立て、マウントを取り合っていた彼らも今では内定式だの、新入社員の顔合わせだの、まだ卒論だって書き終えていないというのに随分未来じみたことで盛り上がっている。
その様子を呆れながら見ていた。
そんな俺をあちらも呆れながら見ていた。
つい最近まで一緒にロケハンをして、朝までビールを酌み交わしていたあいつも今では、
「お前ももういい加減、夢から醒めろって。」なんて呪いの言葉をかけてくる。
映画にかけてきた情熱はすっかり冷め、夢を語る時の目の輝きもどこへやらだ。
脚本すらできていないというのに出演のオファーをかけるだけかけ、断られ続けている。
ポテトチップスを箸でつまみながらノートパソコンの画面を睨みつけていたその時だ。
突如として止まっていた指が動き始めた。
それは猛然と走る競走馬のように。
◇◇◇
就職活動が思うように進まず、しわくちゃのリクルートスーツのまま暗い部屋でうずくまる大学三年生の岸谷陸。
提出したESはきっちり百社分。
もう九十八回、赤いバツ印をつけた。
そして本日、ついに九十九回目のバツ印。
シャッシャッと一九八本目の線を引き終えた。
もう、インクも涙も枯れ果てそうなくらいだ。
自分はそれなりに優秀な人間であると信じてやまなかった。
だからこそ、この九十九個のバツ印が、「勘違いクソ野郎」の烙印の如く熱く、痛く、耐え難いものとなった。
ただ1社だけ、赤く染まらぬ会社が一縷の望みである。
「……俺がいるべきはこんなレベルじゃねえんだよ。」
一縷の望みと思いたくもなかった。
だが、便宜上一縷の望みとし、そしてその望みをすすんで棒に振ってやりたいと思っていた。
だって、俺は“こんなもん”じゃないのだから。
就職面接に関していえば初陣。
出勤ラッシュを避けた午前十時の電車は、程よくがらんとしている。
きゃっきゃっと窓の外を眺める小さな子どもや、小洒落たブックカバーをかけた文庫本を静かにめくる老婦人、イヤフォンからうっすらとドラムの音を漏らしながら電車の揺れに合わせて狂ったメトロノームと化しているバンドガール。
席はいくつも空いていたが、座るのは負けた気がして吊り革を掴んで慣性の法則にあがなうなどしていた。
そうでもしないと、まだ見ぬ負けをひたすらに食わされているような怒りとも悲しみとも言い難い波に飲まれて死んでしまいそうだったから。
自分の身を置くにはレベルが低過ぎると評した会社の面接とはいえ、“初めて”は緊張するものなのだと冷静に分析する自分に少々の安心感を覚える。
車内には自分以外にも、黒いスーツに白いワイシャツ、黒の革靴に、かしこまった長方形の鞄を持った奴が存在していた。
スラックスの脚も、ストッキングの脚も、心の扉の如くがっちりと閉じられている。
総じて奴らの背筋は嘘のようにピシッと伸びている。
そのシワひとつないスーツも、シャツも、風に揺れぬ前髪も、全部ツクリモノのようで吐き気がした。
目的の駅で降りると、先ほどのツクリモノたちも一定の歩幅で一直線に、一糸乱れぬ統率ぶりで、同じ方向へ歩いていく。
ピカピカと革靴を光らせて歩くその目に光などない。
何かに憑かれたように、進んでいる。
実に不気味だ。
「……面接会場って、もっとギラついているんじゃなかったのか?」
くすみきった革靴を引きずるように、猫背気味に歩く陸は、勝手に作り上げた“就活”のイメージとのギャップに別ベクトルの衝撃を受けていた。
いよいよ受付を済ますと、意に反して心臓は強く早く鼓動を打ち始める。
その動きにつられて、朝適当にかきこんできた食事が飛び出しそうになる。
何を食べたかすら思い出せない。
周りが次々と内定をとる中、自分は内々定すらもらえない。
それどころか書類の段階で弾かれている。
同じ土俵にすら、否、同じ舞台にすら上がれていないのだ。
ずっと馬鹿にしてきた同じサークルのルイにまで先を越された。
懸命に今日の朝、胃に詰め込んだものを思い出そうとしても脳裏を過ぎるのは食わされ過ぎた“負け”の記憶だ。
「第四グループの皆さん、こちらへ。」
案内役の男性の、感情と表情を全て削ぎ落とした声に導かれ、ふらふらと進む。
自分以外のツクリモノたちは、相変わらず光のない目で靴だけをギラつかせている。
グループとはいえ、全員が同じ部屋に詰め込まれるわけではない。
いくつかある面接室前に置かれた椅子に座り、その時を待つ。
「まるで死刑囚だな……」
という心内語を、
「死刑宣告なんか受けたこともないけどな。」
と打ち消す。
心の中で一人漫才を繰り広げる。
「なんだ、結構余裕あるじゃん俺。」
そう強がってみても、やはり思い出せない朝食だけが胃から飛び出しそうになっている。
「岸谷陸さん、お入りください。」
明らかに疲労の色をまとわせた女性の声に誘われ、ドア前に立つ。
「……ノックは三回。」
コンッ…コンッ……コンッ……
「……はーい。どうぞ。」
疲労の色はその濃さを増す。
ガチャッ!
もっと、重いものだと想像していたレバーが思いのほか軽く妙に勢いづいてしまった。
焦りに焦った右の手が、勢い余って自身の太腿を叩く。
「しっ!失礼します!」
面接マニュアルによれば、ここでしっかりと面接官と目を合わせることが重要らしい。
とはいえ三人いる面接官は、揃いも揃って皆、机上の俺と目を合わせている。
実物の、今まさに目の前に存在する“岸谷陸”というものには全く興味がないと言った様子だ。
無の時が流れる。
相も変わらず彼らが見ているのは机の上の岸谷陸であり、実態としての俺など空気も同然である。
ぽつんと申し訳なさそうに置かれた灰色の椅子の左側に立ち、「お座りください。」をひたすらに待っている。
一番左に座っている、鼈甲フレームの眼鏡をかけた面接官がようやくこちらを向く。
「あ、座ってくださいね。」
おいおい、それだけかよ。
既のところで喉奥に落とし込んだが、危うく声となって空気を揺るがすところであった。
すでに面接官の視線は机の上に戻っている。
浅過ぎず深過ぎず、絶妙なポジションを尻で探る。
脚は肩幅ほどに開き、右手は右太腿の上に、左手は左太腿の上に。
誰も見ていないのに滑稽だと思いつつも、勝手のわからぬ初陣。
ここは手順通りに進めたいところだ。
とはいえ、こちらがマニュアル通りに進めたくとも、面接官の方が“面接のいろは”を守らないのだからどうにも流れに乗ることができない。
永遠に飛び込んでいけない大縄跳びの如く、何とも言いがたい疎外感と、しんしんと降り積もる絶望とに押しつぶされそうになる。
ツクリモノだなんだと馬鹿にしていたあいつらよりも自分の背筋の方がよっぽどピンと伸びていることに気付き、慌てて猫背気味に整える。
再び“無”の時間が流れる。
いたたまれなくなり、先制攻撃を仕掛けることにした。
「本日は貴重なお時間をありがとうございます。白山大学三年、岸谷陸です。よろしくお願いします!」
言い切ったあたりで妙な静寂が流れたが、“無”かつ“不動”の時を動かす起爆剤としては大成功だった。
面接官三人衆のセンターにいるのが、声に色を乗せることができる女性だ。
四色ボールペンを乱雑に動かしている。
実体としての岸谷陸には目もくれず、机上の紙の岸谷陸に何らかの評価をくだしている。
目こそ合わないが、いやに左の前髪あたりだけが乱れている。
癖なのだろう。
何かを考える時、心が乱れた時、半ば神経反射の如くそこに手が向かってしまう。
乱雑に動くボールペンは右手で握られている。
つまり、彼女は苛立ちそのままにペンを走らせ、手持ち無沙汰の左手で髪をかきあげ…
と推理を終えようとしたその瞬間、彼女はがしっと自身の前髪を鷲掴みにした。
そのままの格好で、
「……この会社を志望した理由は?」と怒り気味に聞いてくる。
「……よし来た!」
この、誰だって聞かれることを予想できるありきたりな質問をこの俺が取り逃がすはずがないだろう。
「私は御社の“食を通して人々のより善い未来を創っていく”という企業理念に惹かれ…」
「ああー、惹かれちゃったのね?」
ここにきてついに、右端の面接官が初めて声を発した。
人の答えを遮るとは、無礼な奴だ。
学生のビジネスマナーを試す前に、己のマナーを見直してみたらどうだ。
また喉元まで出かかった。
否、最初の三文字は出た。
だから咳払いをして誤魔化した。
「なら、今朝あなたは何を食べましたか?」
あの真ん中の面接官が髪の毛を鷲掴みにしたままに、こちらをまっすぐに見つめている。
身体が固まり、声も出ない。
俺は口をパクパクさせている。
まるでメデューサの視線で石と化したかのようだ。、
「もう一度聞きます。今朝あなたは何を食べましたか?」
「……あ……あ……」
思い出せないならば、適当に「卵かけご飯です。」とでも言ってやればいい。
頭ではわかっているのに、言葉にならないのだ。
シャッシャッ…
シャッシャッ…
シャッシャッ…
面接官の持つボールペンが、それぞれ二回分線を引く。
その音だけが妙に大きく際立って頭の中で響き続けた。
「もう結構です、お疲れ様でした。」
最後はぐったりとうなだれ、面接官たちの方に目をやる気力もなかった。
ただ、あのシャッシャッという三者三様の線を引く音が無限に鳴り響いている。
灰色の椅子の冷たさが、下半身にじっとりと染み付いている。
どちらの手で開けたかもわからない扉は、驚くほどに重かった。
面接会場を後にした岸谷陸という実体は、自身の存在の感覚をなくしたまま二子玉川駅へと向かっていた。
小洒落たエコバッグにズッキーニだのちょっといい赤身の牛肉だのを忍ばせた人々が闊歩する中、駅に背を向け再び歩き出す。
だいぶ前に閉店したと思しき古びたクリーニング店の前を通り、怪しげなペルシャ絨毯の店を睨みつけ、SNS映えに振り切ったカップケーキ屋の前を走る。
道と道とを繋ぐ橋は、永遠と思える程長く感じられた。
足がもつれそうになりながら不規則なリズムでコンクリートの階段を降りる。
「はあ……はあ……」
息を切らし、心臓を弾ませる。
もう、何かわからない朝食は飛び出してきそうにない。
ただ鼓動のみが暴れている。
おそらく、岸谷陸は泣いている。
頬が熱く、湿っているから。
そして、岸谷陸は叫んでいる。
喉が熱く、苦しいから。
あの履き慣れない革靴を脱ぐと、足が軽い。
どこまでも飛んでいけそうなほどに、身体そのものが羽根になったかのように。
秋の昼下がり、太陽が眩しい。
空は高く、濃い青をたたえている。
水面はキラキラと輝き、さらさらと川は流れていく。
どこからか紅葉の葉がその流れへと飛び込んだ。
陸の目にはそれが随分と美しいものとして映っていた。
あの葉を、どうにか捕らえたい。
太陽を背に、宙を舞う身体。
抜け落ちる影と感覚。
赤いバツ印は、九十九個のままである。
インクはまだ枯れ果ててなどいない。
涙の方はどうだ?
それは、誰も知り得ない。
知る由もない。
岸谷陸、本人ですらわかっていないのだから。
◇◇◇
ポテトチップスはまだ三分の一ほど残っている。
ノートパソコンの右下を見ると、「3:46」と表示されている。
薄ら白み始めた外をカーテンで隔てたまま、静かに達成感に震えていた。
忌々しい“就活の鬼”と化した同期たちをこの手で葬り去ったのだ。
何とも形容しがたい清々しさにひたすらに打ち震えている。
カーテンを開け、窓を開ける。
満月がくっきりと浮かんでいる。
「うおおおおおお!」と叫ぶ。
まるで、狼の遠吠えのように。
ついで笑いがこみ上げてきた。
涙が頬を伝うほどに、笑いに笑った。
笑うほどに虚しくなった。
その虚無を打ち消すが如く、俺は通販サイトでリクルートスーツと革靴を購入した。
明日の昼頃にはここに届く算段だ。
俺の夢と復讐はまだ終わってはいない。
むしろ、始まったばかりだ。
岸谷陸の最期を映し出したノートパソコンの前で眠りにつく。
向日葵が咲く、七月半ばの夜明け前の出来事であった。
(5077文字)
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ポテトチップスよりも
お・ぬ・し