『霧の森食堂』ep.2「珈琲豆の記憶」
だんだんと煮詰り、とろりとし始めたとっておきのきのこスープ。
その傍らでは古びた秤がギィギィと音を立て、針をぐるりと回している。
秤の上では少々ひしゃげたボウルがぐらぐらと揺れている。
「あらあら……ちょっと入り過ぎたかしら。」
傾けた紙袋を立たせながら、キリコは目を細め、目盛の動きを捕える。
「……一〇七二g」
目盛は蛇に睨まれたかの如くぴたりと動きを止める。
視線はそのまま、銅製のコーヒースプーンをたぐり寄せる。
入れ過ぎた小麦粉を袋の中に戻すにはこの少し深めのコーヒースプーンがぴったりなのだ。
カランコロン……カラン……
入り口では、来客を知らせるベルが優しく揺れている。
「一〇五九g……一〇四二g……一〇二八g……」
ベルの音は、キリコの耳には届いているはずだ。
しかし、脳へと向かう道の途中でどうにも迷子になってしまったらしい。
「一〇〇三g……九八八g……九七二g……」
紙袋からボウルに移すときはどさどさと豪快だが、
戻すときは科学者の如く微調整していく。
いわゆる、“匙加減”というものに並々ならぬこだわりを持っている。
「……七百g!これでよし……次はライ麦を……」
小麦粉の紙袋に封をしながら、次の工程を頭に浮かべる。
「……相変わらずですね、キリコ先生。」
はっとして振り返ると、焙煎所の柏のじいさんこと柏木がホーローのキャニスターを抱えて立っている。
珈琲豆の香ばしい香りと、きのこスープの香りとが混ざり合う。
「あら、ごめんなさいね……わざわざ。」
「いいんですよ、ずっとこうだったじゃないですか。」
柏木は穏やかに微笑む。
「ちょっと失礼しますね。」
ところどころ色褪せた無垢の桐製のテーブルにキャニスターを置く。
音も無く。
閉店後、仕込み時間の食堂は静かである。
ついさっきまでのにぎやかさのせいで、より一層静けさが引き立っている。
「小指をクッション代わりに、それが“モノ”への敬意の証……ね。」
キリコはうっすらと小麦粉でさらさらになった自身の手と彼の手を見比べ少々ばつの悪そうな表情を浮かべる。
「それは僕なりの、ですからね。いいじゃないですか、みんなそれぞれで。」
左右の踵が平等にすり減ったキャメルの革靴から響くトン、トン、トンという規則正しい足音を聴きながら、キリコは先ほどのコーヒースプーンでライ麦粉をボウルに入れていく。
「あ、それ使ってくださってるんですね!」
声が弾んでいる。
「……二百g」
柏木は、慌てて自身の口を右手で隠した。
今度は音を立てないように、そろそろと本棚近くの客席へと歩いていく。
日に焼けた、今にもぼろぼろと紙が砕けてしまいそうな文庫本を手に取る。
「……全粒粉は百二十g。」
独り言にしては大きく、問いかけにしては小さいその声が彼女が自分自身と向き合っているのであることを彼は知っている。
「……ライ麦八十g!ぴったり……!」
柏木はすかさず、
「完成ですか?!」と声を上げる。
「いやね、まだよ。この後まだお水、お塩、イーストだのお砂糖だの入れて……こねて……その前に忘れちゃいけないの、レーズン。とにかくまだよ。」
「ははは……失礼しました。相変わらず、はやとちりしてしまって。」
材料を指折り数えながらも、キリコの視線は右手の下に置かれた文庫本に捕えられている。
鼻の付け根から喉奥が熱くなるのを感じ、ひと呼吸置く。
「ちょうどスープができたのよ。……そう、きのこの。よかったら味をみてもらえない?」
精一杯の落ち着き払った声で言う。
返事も待たずに鍋の蓋を開け、カップに注ぎ込まれるきのこのスープ。
彼はその一瞬のキリコの動揺に気付き、もう視線もないのに隠すように本棚の元あった場所に押し込むようにして戻した。
ほんの少しピリッとした空気が流れる。
忌々しい呪文だけを集めた魔導書にでも触れてしまったかのような、なんとも言えぬ罪悪感が彼の心をざわつかせた。
一方キリコは、雨水を含んだ枯葉の如き重苦しさを感じている。
互いに核心をつく言葉を避けつつも、静かに突破口を探している。
大鍋の蓋を閉め、ミトンをはめたままの右手で小瓶を持つ。
たっぷりのきのこ、こんがり焼けたベーコン、仕上げに乾燥パセリを三振り。
「……できた。」
小瓶の蓋は、秤の隣に転がっている。
深い青みがかったナプキンに包まれた木のスプーンと、大ぶりのカップに注がれたスープが柏木の前に運ばれてくる。
天井からコウモリがうらめしそうに見つめている。
ふんわりと立ち昇る柔らかな湯気が、先ほどまでの空気の棘を丸めていく。
「……いただきます。」
古びたランプに照らされたスープは柔らかな、春の陽射しを思わせる極めて白に近い黄色をしている。
大ぶりのきのこにふう、ふうと息を吹きかける。
湯気がふわっと離れては消え、また浮かび上がる。
そんなことを三回ほど繰り返し、口へと運ぶ。
はふっはふっと思いのほか熱さを保っているきのこで火傷気味になりつつも、穏やかに広がる滑らかなうまみに舌鼓を打つ。
スプーンが止まらない。
しかし、食べ終えてしまうのが惜しくて一口の大きさはだんだんと小さくなっていく。
それでも頬張りたくなって、三口分ほどを詰め込んでみたり……
そんなことを繰り返しているうちに、あっという間にカップの底にたどり着いていた。
「ごちそうさまでした。」
手を合わせ、空のカップに一礼する。
両手にべったり小麦粉を貼り付けたままのキリコが厨房から出てきてたずねる。
「お味はいかがだったかしら?」
少し、人を試すような口調で尋ねる。
編み上げブーツの紐が解けている。
「いやあ、これは最高傑作!今まで口にしたスープの中で一番です。」
まっすぐにキリコの目を見て言う彼の言葉に嘘はない。
「……ですが。」
「塩をもうひとつまみ、きのこは三種類におさえて、にんにくはあと一欠片増やして……ベーコンの炒め具合、ここは好みの分かれどころですが……おそらくもう三分くらい短くするといいかもしれませんね! それから……」
「ふふっ……はっははははは!」
べったりと小麦粉のついた手で腹をおさえ、涙を流しながら大笑いするキリコに柏木は、その笑いの理由と自分の発言とをかえりみる
つられて笑い始めた。
「……先生、失礼しました! 長年の癖というものはなかなか抜けなくて。いやあ……美味しいんですよ、とっても。僕はこのままで好きなんですけどね。」
キリコはエプロンが小麦粉まみれになっていることに気づき、さらに笑いに拍車がかかってしまう。
「そうよね、もう驚いちゃうくらい。……つい入れ過ぎるの。これ、私の悪い癖ね。でも、入れ過ぎた分足りないものも出てきて……変わらないし、変われないのね。」
「変わりたくない、というのもまた然りでは……?」
キリコは本棚に押し込まれた古めかしい文庫本の背表紙に目をやる。
やはり、鼻の付け根はツンと痛むが喉奥はこの森のように穏やかである。
「……ええ、それ“が”いいと思っていたから。いいえ、いいと思っているから。」
「よかった。僕も同じです。だから、先生。また……」
柏木はかろうじて言葉を堰き止めた。
「また、きます。」
「いいのよ、今度からは私が取りに行くから。ね。」
「いやあ! ほら、たまには僕も歩かないと。それに、おいしいスープだって……食べられるじゃないですか。」
「ふふ。そうね。あなたの方から来てくれるっていうのも……。あの頃を思い出せるものね。」
キリコが食器を下げようとすると、柏木がすかさず、
「先生、手。」といたずら好きの少年のような目で言う。
「え?」
自分の手が小麦粉だらけであることに再度気づく。
二人は顔を見合わせてまたケラケラと笑いながら、
柏木は食器を持ち。キリコはなぜか大きく腕を上げ下ろししながら厨房へと歩いて行く。
「ああ、そうだ。届けてもらって早々に悪いんだけど……ロブスタの在庫ってまだあるかしら?」
「ええ、先生のところにしか出してませんから一応ありますよ。」
「よかった……そうしたらいつも通り、深煎りでお願いできるかしら?」
「かしこまりました。明日の閉店後、また届けに……」
「……私がとりにいくから。」
とジャージャーという水の音越しに言う。
「じゃあ、待っていますね。」
柏木は扉に手をかけている。
エプロンで手を拭きながらキリコは小走りで厨房から出てきて、紫色のリボンをつけた小袋を差し出す。
「これは……?」
「ラスクよ。うちの名物のレーズンパンで作ってるの。」
袋越しにも芳醇な香りがふんわりと浮かぶ。
「ラム……?」
「あら! 気付いた?レーズンパンのレーズンは、レーズンはレーズンでもラムレーズンなの。」
「……そうでしたっけ?……でも、ありがとうございます!」
カラン……コロ……
食堂をあとにした柏木は、両手の平でラスクの小袋を包み込みながら自身の焙煎所に向かい、歩く。
すり減った靴の下では苔がジュワ、ジュワと水を吐き出している。
しんと冷えた森の空気とラムレーズンのほんのりと温かみのある香りとを吸い込みながら、
「……そうだったかなあ?」
と一人思いを巡らせる。
右手でつむじをとんとんと叩きながら、霧の晴れた道を進むのであった。
「ロブスタ、深煎り……ロブスタ、深煎り……」
キリコからの注文を独り言として唱えながら、キャラメルのような香りを鼻の奥に漂わせる。
「ラスクとも合いそうですね……」
足を止め、ぐぅっと身体を伸ばした。
さあ、もう一仕事だ、と気合を入れるかのように。
柏木が去った後、キリコはあの文庫本の背表紙を見つめていた。
手に取ろうかとしてはやめる。
これをもう幾度繰り返しただろうか。
厨房ではパン生地がゆったりとぷっくりと、膨らんでいく。
ラムレーズンと、柏木が持ってきたキャニスターから漂うコーヒーの香りに包まれてキリコは微睡む。
客席で、薄目を開けて寝ぼけたまま呟く。
「……変化を……恐れない……」
スゥ……スゥ……
穏やかな寝息につられ、天井のコウモリもすっかり眠っている。
本棚からあの古びた文庫本だけが、キリコを見つめ続けていた。
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『霧の森食堂』episode1
「魔法であって魔法にあらず」
にぎやかな魔女がご来店。
案外魔女ってのは現実的な生き物で…?
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『霧の森食堂』制作秘話。
秘話というほどでもないが言ってみたかっただけ。
私が眠ったらばあちゃんたちが大暴れしたって話。
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有識者・山本蛇内氏によるレコメンド。
第一話の世界最速レビューである。
どこまでも仕事が早い。
あと、この記事はいわば私専用の「読む点滴」である。
「読むビーフリード」である。
実際のビーフリードとは異なり、炎症は起きない。
栄養が摂れる最高の記事である。
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大学4年の「俺」が映画で同期に復讐します。
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ポテトチップスよりも
お・ぬ・し