ただ、それだけのこと──『水辺のつつじ』ep.15
八月最終日の午後二十一時、僕は冷めたフライドポテトの山とにらめっこをしている。
そしてたった今、惨敗を喫したところだ。
なぜだろう。
笑いが止まらない。
机に突っ伏して、ぶるぶると背中を震わせている。
ひとしきり笑ったところで身体の震えが止まった。
辺りは真っ暗だった。
そして、あまりにも静かだった。
ゴォと音がして右腕がひんやりする。
埃と黴の混ざったような匂い、そして冷めた油の匂い。
忙しない足音、耳につく電子音……。
「お邪魔しまーす!」
ケチャップの匂いと共に店長が入ってきた。
「お……おはようございます……」
「それ、十四時間前にも聴いたよ? 何? 寝てた?」
たしかに、眠っていたのかもしれない。
現に蛍光灯は煌々と点っているし、壁の向こうは騒がしい。
「まあ眠くもなるよね。社員の俺より長い時間店にいるんだから。」
僕は曖昧な笑いを浮かべることしかできなかった。
この夏、僕がしたことの大半は日常をなるべく同じ色で塗りつぶすことだった。
手っ取り早く、確実だったのが「労働」だったと言うだけでその実なんだってよかったのかもしれない。
おかげで出費は減り、貯金は増えた。
そしてこの一ヶ月で、休憩室の壁の紙は八枚増えた。
ひとつは新商品のお知らせで、残りはお叱りメールのプリントアウト。
もはやクレーマーも万策尽きたのか、送りつけてくる文言はただの悪口と化している。
だというのに店長は反撃の手……否。
反撃の赤ペンを緩めることなくたったひとことの悪口に渾身の怨み節をびっしりと書き連ねた。
文字の大きさは以前にも増して小さくなり、裸眼視力一・六の僕ですら目を細めないと判読できないほどになっている。
店長は僕の前の全然減っていないポテトの山から一本つまみ上げ、いつもの半壊キャスター椅子へと大股一歩で進みでる。
そしてギシギシと音を立て腰を下ろし「何? 夏バテ?」としなしなのポテトを唇にぶら下げたまま問うてきた。
「ああ、まあ……たぶん。」
こんな調子で濁していると、彼はおもむろに僕の口の前にホットドッグを近づけた。
「いや、いいです。」
ウインナーの匂いで、胃がズンと重くなった。
ホットドッグをめぐる膠着状態に、僕は呼吸を止めていたらしい。
気づいた時には限界に達していて、さながら擬似溺水のようだった。
肺に溜まった水を吐き出すように、一気に言葉が飛び出した。
「オーダーミスですか?」
「正気ルートです。」
店長は空いている方の手の指でクイと黒縁眼鏡を押し上げる。
そして顔を見合わせると、ふつふつと湧き上がる笑いに申し合わせたみたいに同時に負け噴き出した。
その勢いに任せて、僕はホットドッグにかじりついた。
「それからさ、エアコンの修理立ち合いありがとう! マジで助かったわ……」
僕は大き過ぎたひとくちを後悔しながら首を横に振る。
あれは八月の半ばを少し過ぎたときのこと。
つまり……わりと最近のこと。
その日は台風が東京を直撃。
店長は影響をもろにくらって出勤できなかったのだ。
そこで僕が代わりに出勤して、修理に来てくれた業者の方とやり取りをした。
ただそれだけのこと。
「ただそれだけのこと」が高級焼肉に変わり、胃もたれに変わり、しまいには暗い管を通りまた空から降り注ぐ。
ただ、それだけ。
店長が残りのホットドッグを食べ切っても、僕はまだもごもごと咀嚼を繰り返していた。
彼は一瞬怪訝な顔をして首を傾げる。
そしておもむろにティッシュを取り出し、僕の口の端を拭った。
「ついてた。」
ケチャップがべったりとついたティッシュを見て途端に耳朶が熱を持ち始めた。
それが空っぽの屑籠に丸まって捨てられている。
ただそれだけのことなのに耳朶の熱は急速に冷めていった。
「そういえば傷、どう?」
「え?」
左手人差し指の絆創膏は赤黒く染まっている。
意識すると、途端に痛み始めるのが不思議だ。
でも、もし今店長がこの話をしなかったら……?
僕は傷のことなんかすっかり忘れ、痛みも感じず平然と過ごしていたのだろうか?
店長の手に包まれた傷口をぼんやりと眺めていた。
「知る」、ただそれだけのことが全てを乱していく。
胸骨の裏が、わずかに熱を帯び始めていた。
店長は慣れた手つきで絆創膏を貼り直してくれた。
「よし、できた!」
ポンっと傷を叩く。
おそらく彼に悪気はない。
完全に癖。
僕は第二関節を握り締め悶絶している。
「ごめん! ごめん!」
黒縁眼鏡の後ろの瞳は嘘偽りなく狼狽えている。
大丈夫、ではないけれど大丈夫だと言いたい。
「ごめんなさい……」
結局、これだ。
振り絞ってでた言葉がこれ。
いつだってそうだ。
僕は他人を困らせる。
「ごめん……」
「え?」
いつのまにか店長が真横に座っていた。
ひどく恐縮した顔をしている。
「あの……え? いや、何が?」
彼は目線を落とした。
ゆっくりと。
「あ……」
「俺さ……好きなんだよね。」
相変わらず壁の向こうは騒がしい。
タイマーの輪唱に、バンズの焼けるブザー音。
「しなっしなの冷えたポテト……」
店長はしおらしく、塩辛くなっていそうな指を舐めている。
目の前には空になったポテトのかご。
あんまりにもおかしくて、鳩尾に貯めた笑いはいよいよ溢れ出してしまった。
店長と僕はまた顔を見合わせて笑い合う。
僕は空っぽのかごをかかえた。
店長はネクタイを入念に締め直している。
なんだかんだで悪口メールを気にしているらしい。
「お邪魔しました!」
店長はそう言って休憩室をあとにした。
僕は、「行って来ます。」と電気を消す。
午後二十二時、閉店まであと三時間。
「これ、カスタマー頼める?」
店長に渡されたかごの中には肉が二枚とチーズが挟まったバーガーと、店長のお眼鏡にかなわないポテトが乗っている。
ただ、それだけ。
それだけのことがなんだかおもしろかった。
──五番、か。
商品名の書かれた紙を持つ指はまだ、拍動に合わせて鈍く疼いている。
人もまばらな店内を、僕は歩く。
五番……五番……
窓際の一番奥の角の席。
五番の番号札が立っていた。
「え……?」
指先は拍動だけを残している。
僕は窓の外に目をやった。
街灯に照らされた電線がわずかに揺れている。
このかごを五番の番号札の席に置いて、札を回収してくる。
ただ、それだけ。
ただ、それだけのことを躊躇っている。
ただ、それだけなのに今夜はきっと、寝苦しい。
(続)
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バイト先の初登場シーンはこちら。
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恋愛未満小説。
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恋愛要素いらないよって方は大正時代の文学青年の日常を。
今回は夜中の学校に忍び込みます。
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そこは慣れとか慣れじゃないとかそんなことは関係ない。
ライブ設営をします。
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【エッセイ】
寺にカチコむんじゃねえよ!
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ジョージ・ハリスンと盆栽と俺とお前と私とあいつ。
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ゆきお様・作
こちらにも山がある。
さて、何の山か。
ドラマを観ている気分で読める作品です。
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よもぎちゃーん!
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何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し