たった、それだけのこと──『水辺のつつじ』
よもぎさんにささぐ
九月に入ったばかりの夜だった。
店内の冷房は強すぎて、外の湿った空気との境目がわからなくなる。
僕はレジ横で、やたらと余っているナゲットの箱を眺めていた。
多すぎる。
さっきまで足りなかったはずなのに、今は山だ。
なんだこの店。
「お疲れー!」
背後から声。
振り返らなくてもわかる。
店長だ。
この人、だいたいタイミングがおかしい。
忙しいときはいないくせに、落ち着いた頃にだけ現れる。
「それ、今度は作りすぎ?」
見てわかるだろ。
「さっき足りなかったんで……」
「なるほど! じゃあ今は余ってるんだ!」
なるほど、じゃない。
その間を埋めるのがお前の仕事だろ。
この人、ほんと気が利かない。
ナゲットは足りないか、余るかのどっちかだし、さっきは床に置いてあったダンボールにつまずいて派手に転んでたし、そのまま笑いながら客に「すみません、今の見ました!?」とか話しかけてたし。
見てたよ。
みんな見てたよ。
なんで話しかけるんだよ。
よくそれで店長が務まるな。
本気で思う。
「食べる?」
そう言ってナゲットを一個つまんで差し出してくる。
いらない。
油の匂いだけでお腹いっぱいだ。
「いや、いいです。」
「遠慮すんなって。」
遠慮じゃない。
拒否だ。
でもこの人、妙に引かない。
結局、押し切られて口に入れる。
冷めてる。
なんかもう、いろいろ冷めてる。
「そういえばさ、この前の業者の人、感じよかったよね。」
ああ、あの日か。
急に思い出す。
エアコンの調子が悪くて、修理に来た日。
店長は来なかった。
雨で電車止まってたらしい。
いや、来いよ。
なんとかして来いよ。
結局、僕が対応した。
ただ、それだけのこと。
なのに、そのあとやたら感謝されて、なぜか新作バーガーを二個もらって、帰り道で気持ち悪くなった。
意味がわからない。
「助かったわー、マジで。」
店長は軽く言う。
軽すぎる。
その軽さで、なんとなく全部が流れていく。
「ついてる。」
ふいに、指が頬に触れる。
ソースだ。
いつの間にかついていたらしい。
「……ありがとうございます。」
言いながら、なんでこんなことで礼を言ってるのかよくわからなくなる。
ただ拭いただけだろ。
ただ、それだけ。
なのに。
なんか、変だ。
「手、どうしたの?」
見ると、小さな切り傷がある。
ああ、さっきダンボール開けたときか。
忘れてた。
意識した途端、じわっと痛くなる。
さっきまで何ともなかったのに。
なんだこれ。
「ちょっと見せて。」
勝手に手を取られる。
距離が近い。
近すぎる。
消毒して、絆創膏を貼る。
手際がいいのがまた腹立つ。
「はい、完成。」
軽く叩く。
普通に痛い。
「ごめんごめん!」
だから、そういうとこだよ。
でも、顔を見ると本気で焦っているから、強く言えない。
結局、
「大丈夫です。」
としか言えない。
いつもそうだ。
言いたいことは別にあるのに、出てくるのは違う言葉だ。
「これ、テーブルお願いしていい?」
トレーを渡される。
バーガーとドリンク。
番号は七番。
ただ、それだけ。
運んで、置いて、戻る。
それだけのこと。
なのに。
なぜか、一歩が出ない。
指先がじんじんする。
さっきの傷のせいか、それとも。
店内は少しだけ静かになっている。
遠くで機械音が鳴っている。
ただ、それだけの音。
ただ、それだけの空間。
なのに。
なんか、違う。
……ああ、もういい。
これ運んだら、言う。
辞めますって。
こんなバイト、やってられるか。
気が利かない店長に振り回されて、余ったナゲット食わされて、意味のないことで手を止めて。
家で寝てたほうがマシだ。
七番の席を見る。
奥のほう。
客が一人、スマホを見ている。
ただ、それだけ。
本当に、それだけ。
なのに。
足が動かない。
トレーを持つ手に、変に力が入る。
……なんでだよ。
こんなの、ただの作業だろ。
たった、それだけのことだろ。
それなのに。
どうしてこんなに、重たいんだ。
あー。
ラッタッター。
