凪の蝉──『水辺のつつじ』ep.14
「おーい、そろそろ休憩にしよう!」
そう声がかかるのをずっと待っていたのかもしれない。
途端に身体から力が抜け落ちる。
視界を奪っていた黒い物体がぐらりと傾いた。
「ちょ……おい! 馬鹿! 瑞樹!」
「あ!」
愚図で愚鈍の僕が脊髄反射から〇・二秒遅れ程度で反応できたのは不幸中の幸いだった。
物体はまた元通りの均衡を取り戻している。
「急に力抜くなよ……っぶねえなあ……」
「ごめん。」
「ま、いいや。とりあえずこれだけはステージまで運んじまおう!」
「うん……」
僕の脚は生まれたての仔鹿の如く震えている。
汗が目に沁みる。
「瑞樹……さてはお前……」
「何……?」
「いや? なんでもない。」
僕たちを隔てるこの箱は、一瞬だけ透明になった。
してやったりの顔だ。
僕の心を見透かして、勝ち誇った顔をしている。
「瑞樹くーん、がんばれー!」
聞き覚えのない声援の方を向き、僕は頭を下げた。
「瑞樹! 誘惑に負けるな!」
ツクツクボウシがアブラゼミから主旋律を奪っている。
桜の葉が半分黄色くなってやつれていた。
「せーの!」
プールの底から水面に頭を出したときのように、ぷはっと息を吐く。
ようやく重荷から解放された僕は陽の光が燦々と注ぐステージに仰向けになった。
右目だけで、それも五本の指越しに視る太陽は若干の物憂さを漂わせていたけれど、やっぱり今日も酷たらしく街を、僕を灼きつけている。
目を閉じた僕の額に硬く冷たいものが当たった。
どうせ木島君がふざけているのだろうと思って手を伸ばす。
指先の探索はあっという間に終わった。
手に触れたものをそのまま包み込む。
ゴツゴツと硬い金属、そして僕のより少し低そうな体温……
「木島君……?」
手の中の体温は小刻みに震え出し、同時に少し離れたところで堪えきれなかった笑いを破裂させたような音が聴こえた。
「やられた」と思った時にはもう遅かった。
目を開けるとそこにはさっき、僕にがんばれと声をかけた人がいる。
僕はしばらく彼女の手を包んだまま黙っていた。
自分でも驚くほどに、心臓は凪いでいる。
「ごめんなさい……」
そして手を離し、身体を起こす。
彼女は僕の背に手を添えてくれている。
「はい! お疲れさま。」
「あ……ありがとうございます。」
汗と結露でびしょ濡れの前髪もそのままに、渡された炭酸水を一気に飲み干した。
またぷはっと息を吐きかけて、すんでのところで堪えたのにゲフと奇怪な音を立ててしまった。
木島君の笑い声が太陽光線と一緒になって降ってくる。
腹を抱えてゲラゲラと笑いながら僕を眺め下す彼の髪はすっかり色が抜けていて、乾いた稲穂の如く風に揺れていた。
依然として背中に添えられた手。
それでいてやはり、異様なまでに穏やかな鼓動。
照りつける太陽に頭を灼かれながら、その理由を考えて続けている。
ただ、あまりの暑さにくらくらとして思考はボウフラが湧く水の如く澱みきっていた。
木島君は僕の髪をわしゃわしゃと揉み上げて、
「金髪にでもすれば? 涼しいぞ。」
と言う。
「あー! 似合いそう、見てみたいかも!」
そう同調した彼女の指の銀色は、僕の髪に引っかかっているのと同じ形をしている。
僕はステージ下の椅子を眺めた。
金色の髪の毛は想像できたのに、自分の顔だけが思い出せない。
「和馬? いつまでやってんの?」
「んあ?」
背後から木島君の間の抜けた声が聴こえた。
「ああ……ああ? おお! ごめん、ごめんな瑞樹!」
どうにも彼は茫漠たる意識の中で僕の髪をいじくり回していたらしい。
僕も僕でその時間の皮膚感覚の記憶がすっぽりと抜け落ちている。
振り向いた僕を見下ろした木島君は手をパチンと打ち、「悪ィ」と空砲を鳴らした。
「あ……」
少し先の青緑に茂った桜の木から一匹の蝉が飛び立った。
僕はその軌道を指でなぞる。
それは頼りなく、それでいておおらかな波を描いていた。
すぅっと高く昇ったところで一瞬止まる。
そのまま一気に椅子の群れへと墜落した。
僕の指は軌道を失い、宙に浮いたままになっている。
唇が青ざめていく感覚がしたけれど、その理由は全くわからなかった。
時を同じくして誰かの声が甲高い機械音に変わり、夏の空を劈いた。
思わず耳をおさえる。
目も閉じていた。
あの音はずいぶん長いこと尾をひいていたけれど、「うっせえぞ、恭平!」という木島君の咆吼と共に、ようやく絶ち消えた。
過たずして、腹の底に響く低音やうねる弦の音が引き裂かれた空に吸い上げられていく。
僕はそれをステージ下の椅子にだらしなく身体を凭せかけたまま、ただぼんやりと見つめていた。
「ねえねえ。」
また知らない声だ。
「ねえねえ。」
今度は肩に触れる感覚があった。
触れられた肩の方を向くと「大丈夫?」と覗き込む人……とその後ろに二人、知らない顔が並んでいる。
「今日って、設営の手伝いで来たの?」
「あ……はい。」
「え、待って? 好きなの? やば! いいよね、うちも好き。あのほら……ベンガルトラと……ハイボール?」
僕のTシャツを指さして色めき立つ知らない顔。
それをいうならウィスキーだよ……
この言葉を飲み込んだせいだろうか。
だんだんとぼーっとしてきた。
「あの、連絡先……」
と言って差し出された奇天烈な四角い画像に僕はたじろいだ。
方法がわからないわけじゃない。
ただ、次々と増えていくその白と黒の四角形を前に僕はどの挙動を選ぶべきか、それがわからなかった。
気づいた時にはスマートフォンは僕の手を離れ、次から次へとその四角形を飲み込んでいく。
「お、瑞樹! モテモテじゃん。さすが……」
僕のスマートフォンは若干重くなって帰ってきた。
「こいつはやめとけ? こう見えてとんでもねえ女ったらしだからな! 俺は知ってるぞ!」
「え? そうなの……?」
「なに真に受けてんの? 木島だよ? 絶対うそ!」
「えー? ひどくない? 俺ってそんなに信用ない?」
「ない! 木島の話の九割は嘘って未佳が言ってた。」
チッ!と舌打ちをした木島君の視線の先にはさっきまで僕の背をさすってくれていた人が舌を出して、いたずらっ子の顔で笑っている。
何が何だかわからないうちに、「嵐は過ぎ去った」然とした心象風景に僕は安堵の息をつく。
「……ありがとう。」
「またまたご冗談を……邪魔すんなよって思ってんだろ?」
木島君は頭の後ろで手を組み、まんざらでもない顔でふんぞりかえっている。
僕は返事をすることも頷くこともできず、ただ曖昧に笑っていた。
足元には脚を縮こめた蝉が落っこちていた。
僕は今ひとりベッドの中、目を固く閉じて耳を塞いでいる。
眩しくて、煩くてとてもじゃないけど眠れない。
こんなにも眠いのに。
あんなにも凪いでいた鼓動が、今になって乱れ打っている。
月のない夜だった。
街明かりでぼかされた星々は寝不足気味。
僕の中の空にだけ、ガスになった月が煌々と照りつけるのだった。
(続)
↑
「恋」も「愛」もよくわからない大学生の話。
↑
身体の反応が許せない十八歳の頃。
↑
2月に生まれたから卑屈なんじゃない。
たまたまだ。
↑
【エッセイ】
誤字です。
×気
◯期
↑
ゆきお様・作
土の中と外。
人なの?違うの?
そんなことはどっちだってかまわないんだ、きっと。
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お・ぬ・し