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凪の蝉──『水辺のつつじ/地中の声』

よもぎさんに捧ぐ




木島君が、地面に埋められていた。

最初にそれを見たとき、僕は何も感じなかった。

校舎裏の、誰も来ないはずのスペース。雑草と砂利と、ところどころに乾いた土。そこに、首だけを出して木島君がいた。まるで最初からそういう生き物であるかのように、違和感なく、しかし確実に異物として存在していた。

「おーい」

と、彼は言った。

いつもの調子だった。

だから僕も、いつもの調子で返した。

「なにやってんの」

「見ての通りだろ」

見ての通り、という言葉が、やけに空虚に響いた。

僕は数秒、いや、もっと長くそこに立っていた気がする。でも体感としては一瞬だった。時間がどこかに吸い込まれている。

「助けてくれよ」

木島君はそう言った。

でも、その声には焦りも恐怖もなかった。むしろ少し楽しんでいるようにすら見えた。いつもみたいに、僕をからかっている顔。

だから僕は、うなずきもしなければ、否定もしなかった。

「じゃあ」

と言って、その場を離れた。

自分でも驚くほど、足取りは軽かった。

———

部屋に帰ると、空気が妙にぬるかった。

窓は閉まっているはずなのに、どこか外の熱気が入り込んでいる。カーテンの隙間から差し込む光が、床の上で歪んでいた。水の中みたいに揺れている。

僕はベッドに倒れ込んだ。

身体が重い。足が、特に重い。さっきまで歩いていたはずなのに、今はもう、自分のものじゃないみたいだった。

目を閉じる。

すると、さっきの光景がそのまま浮かぶ。

地面。首。木島君。

「助けてくれよ」

その声だけが、妙にクリアだった。

僕は寝返りを打った。

無視していいはずだ、と思った。あれはきっと、何かの冗談だ。そういう悪ふざけ。木島君ならやりかねない。周りに誰か隠れていて、僕の反応を見て笑っているのかもしれない。

そう考えると、少しだけ安心した。

でも同時に、胸の奥がざらついた。

「……」

起き上がる。

喉が渇いていた。冷蔵庫を開けて、水を飲む。冷たいはずなのに、味がしない。舌の上をただ通過していくだけ。

そのとき、外から音がした。

蝉の声。

ツクツクボウシが、やけに近くで鳴いている。窓のすぐ外かもしれない。いや、もっと近い。部屋の中にいるみたいだった。

僕は窓を開けた。

熱気が流れ込んでくる。

同時に、音が増幅される。

ツクツクボウシ、アブラゼミ、ミンミンゼミ。全部が混ざって、ひとつの塊になっている。波みたいに押し寄せて、引いて、また来る。

その中に、声が混じった気がした。

「おーい」

僕は窓を閉めた。

音が遮断される。

でも、完全には消えない。

「……助けてくれよ」

さっきと同じ声だった。

僕はしばらく、その場に立っていた。

身体の中で、何かが遅れて動き出すのを感じた。昼間は何も感じなかったのに、今になってじわじわと、理解が追いついてくる。

木島君は、埋まっている。

そして、助けを求めている。

「……」

気づくと、僕は靴を履いていた。

———

外はまだ明るかった。

でも、光はどこか濁っている。夕方に差し掛かっているはずなのに、色がはっきりしない。全部が薄い膜を通して見えているみたいだった。

歩く。

足が、ふらつく。

まるで生まれたての仔鹿みたいだ、とどこかで思った。でもその比喩すら、借り物みたいでしっくりこない。

地面が柔らかい。

アスファルトなのに、踏むたびに沈む感覚がある。足の裏から、じわじわと何かが伝わってくる。

音。

地中から、音がする。

低い、うねるような音。遠くのベース音みたいな、それでいて生き物の呼吸みたいな。

僕は立ち止まった。

足元を見る。

ひび割れた地面の隙間から、何かが動いている。

黒い、細いもの。

それが、するすると這い出してくる。

蝉だった。

でも、普通の蝉じゃない。

体が、人の形をしている。

細長い手足。関節がぎこちなく曲がる。顔の部分だけが蝉のままで、複眼が光を反射している。

それが、ゆっくりとこちらを向いた。

「……」

声は出なかった。

蝉人間は、ぎちぎちと音を立てながら歩き出した。

一歩、一歩。

不規則なリズム。

でも確実に、こちらに近づいてくる。

僕は後ずさった。

足がもつれる。

転びそうになる。

その瞬間、別の音がした。

「うっせえぞ!」

木島君の声だった。

蝉人間が、ぴたりと止まる。

次の瞬間、地面が揺れた。

ぼこり、と土が盛り上がる。

そこから、別の手が伸びた。

人の手。

土にまみれて、でも確かに生きている手。

それが蝉人間の足を掴んだ。

引きずり込む。

蝉人間は、声にならない音を発した。

高い、機械みたいな音。

それが空を裂く。

僕は耳を押さえた。

目も閉じた。

音が、長く尾を引く。

やがて、それが消えたとき、辺りは静かになっていた。

僕は恐る恐る目を開ける。

何もいない。

ただ、土が少しだけ掘り返されているだけ。

そして、その向こうに——

木島君の顔があった。

「……遅えよ」

彼は笑った。

いつもの顔だった。

でも、どこか違った。

目の奥が、妙に静かだった。

凪いでいる、という言葉が浮かぶ。

「ごめん」

僕は言った。

ようやく、ちゃんとした言葉が出た気がした。

木島君は、ふっと息を吐いた。

「まあいいや。掘れよ」

僕はうなずいた。

手で土を掘る。

硬い。爪の間に土が入り込む。痛い。でも、その痛みが、妙に心地よかった。

現実に触れている感じがした。

少しずつ、木島君の体が見えてくる。

肩。胸。腕。

全部、ちゃんとある。

ただ、ところどころが透けていた。

向こう側の土が、見えている。

「……なあ」

と、彼が言った。

「俺、ちゃんといる?」

僕は手を止めた。

その問いの意味が、すぐにはわからなかった。

でも、わかってしまった気もした。

僕は、彼の手を掴んだ。

温かい。

でも、少し低い体温。

あのときと同じ感触。

「いるよ」

そう言うと、彼は笑った。

「そっか」

その瞬間、蝉の声が一斉に鳴き出した。

さっきよりもずっと大きい。

世界が震える。

光が歪む。

僕の視界も、揺れる。

木島君の輪郭が、ぼやける。

「おい、ちゃんと掴んでろよ」

彼の声が遠くなる。

僕は、力を込めた。

でも、手の中の感触が、少しずつ薄れていく。

砂みたいに、こぼれていく。

「……」

気づくと、僕は一人で地面を掘っていた。

そこには、何もなかった。

ただの土。

ただの、空洞。

蝉の声だけが、残っていた。

———

夜。

僕はベッドの中で、目を閉じている。

耳を塞いでいる。

それでも、音は消えない。

あの声も。

あの感触も。

全部、内側に残っている。

心臓が、うるさい。

昼間はあんなに静かだったのに。

今は、暴れている。

僕の中の空に、月がある。

外にはないはずの月。

それが、やけに明るい。

ガスみたいに広がって、全部を照らしている。

逃げ場がない。

僕は、目をさらに強く閉じた。

それでも、光は消えなかった。

(続)

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