見出し画像

飴と瘡蓋──『水辺のつつじ』ep.13

この夏、僕は僕自身を裏切り続けている。

煩悶を吐き出して、いっぱいになったままの屑籠ごみばこと空になった身体、そしてやましさの履歴。

脳を灼くような映像は幾度となく甦ってくる。

そのたび僕は悲しくなる。
自分自身が憎くなる。

目に余る身体反射と、手に負えない劣情。

もう何時間、ここに座り続けているのかわからない。
エアコンの人感センサーすら、僕がいることに気づいていないらしい。

「今日一日、何してたっけ……」

そこかしこに積み上げられた本。
たたまないまま床に転がしてある服。
食べ損ねて綿黴の生えたコンビニのおにぎり。
それらが恨めしげに僕を見つめている。

「ごめんなさい、ごめんなさい」と唱えながら、穢れたままの指先で罪の痕跡を消していく。
それなのに、その痕跡の中の悩ましげなものに脳を灼かれ、再び罪を塗り重ねてしまう。

狂ったように、深く早く呼吸を繰り返す。
前髪の先から弾け飛ぶ汗までもが西陽に染められている。
襟足を伝った汗はシャツをぐっしょりと濡らした。

指先の穢れは幾重にも重なり、屑籠はいよいよ溢れ、その役目を果たさなくなっている。

力無く天井に向かってへなへなと手を振ってみた。
何の反応もない。
口を開けたまま、ただ緑色の丸い光を注ぐだけの大きな箱。
それは僕を冷やすことも救うこともなく、無関心の傍観者のようにそこに存在するのみだった。

背面のベッドに頭を凭れかける。

誰にも気づかれず、ただひとり腐りゆく妄想に、ほんの少しだけ笑ってしまう僕がいる。
「いやだなあ……」

途端に力が抜けて腕は膝に落ちた。

橙色の光に染まる部屋の中、いやに白く浮かぶ自分のてのひらをぼんやりと眺めていた。

この部屋の空気はどんよりと澱んでいる。
汗と屑籠の中の煩悶と何か……
熱せられた「生」の匂いが鼻につく。

どれも全部、僕のせい。
僕から出ていったもののせい。
だからやっぱり僕のせい。

吐き出した瞬間からまた溜まっていく感覚が、肺底に沈めてきた言葉に重なる。
べたつく汗を涙が洗う。

プールサイドで濡れた膝を抱え、ぶるぶると震えていたあの日。
黒く濡れたコンクリートが元の薄灰色に戻っていくのを見つめた途方もない時間。
あの時感じた肺のだるさによく似ている。

ああ……よかった。
僕は正しく不幸せだ。

嗚咽の拍子に吸い込んだ空気に押されカラン、と何かが奥歯に触れた。
舌先で押すと、それはすでに薄硝子ほどの厚みになっていて、眩暈がするほど甘い。 

右手の人差し指が湿り気のあるざらつきに触れた。
舌の上の飴は熱に耐えきれず、みるみる溶けていく。
ざらつきの縁を爪でなぞり抉る。
そしてわずかに浮き上がった境目を焦らすように引き上げた。

パキ……

「消えないで」
そう、願いっておいて、僕は飴を噛み砕く。
足趾ゆびの股は思い出したようにジクジクと疼き始めた。

爪の間を赤黒いかすと鮮血が埋める。

撫でるような優しい痛みに、喉が震えた。

ふと、目線を上げる。
テーブルの上、透明な包装紙にくるまる琥珀色の飴。
その傍らに同じく透明の破られた袋。
そして、くたびれたメモ用紙。

──眠れた? これよかったらどうぞ。

丸みのある文字。

透明な袋の中の頑なな琥珀色を前歯で無理矢理引き剥がした瞬間。
刹那に感じた高揚感はなんだったのだろう。

表向きには破壊や残虐を嫌う僕の正体は、実は酷たらしい猟奇的な獣なのかもしれない。
そう考えると、近頃は自分の手がとんでもなく忌々しいものに思えて、日に何度も洗う。
橙色の水が銀のシンクの中で砕けては排水管へと引き込まれていく。
こすっても、流しても、落ちきらない。

「汚い……! 汚い……!」

途端にザアザアと響く水音がこもるようにして重なる。
ビカビカと明滅する視界。

シンクを這う水は灰色に変わった。

「雨だ……!」

窓の外、干したままの洗濯物が揺れている。

水道の水を止めたかもわからない。
たかだか五、六歩で辿り着くベランダが妙に遠く感じた。
開け放った窓から飛び出した僕は、銀色のピンチハンガーごと部屋の中に放り込む。

干していたタオルも、服も、触れた瞬間、乾いているのがわかった。
代わりに乾くことのなかった僕の身体は今、「これでもか」と言わんばかりに濡れている。

稲光を瞳に焼き付けながら、身体を、熱を鎮めたかった。
そんなことをしたって、相変わらず胸骨の裏のざらざらとした熱っぽさが際立つだけなのに。

夕立のあと、また光が戻ってきた。
僕はあれからシャワーを浴びた。
そして、崩れた本の山を片付けた。
表紙を見ても、一体何が書いてあって、僕の心はどう動いたのか、何も思い出せない。
そもそもがいったいどこまで読んだのか、そもそも読んでいたのかそれすらもわからない。

──僕が僕であることを拒んでいる。

アスファルトの凹凸に溜まった雨が鈍く光を飲み込み、泥濘ぬかるんでいる。
都会の夜はあまりに明るくて、月を薄くしてしまう。
僕はそんな非力な月を見上げつつ、沈む時の息苦しさだけを絶えず思い浮かべていた。

──八月ももう、終わりに近づいた夜のことだった。

(続)


オフィーリアを推す大学生の話。


国道246が騒がしい章。


誕生日のたびに遺書を書く男の話。


【エッセイ】
喧嘩を転売するそうです。


ゆきお様・作
寿限無、言えますか?
私は言えません。
覚えたこともありません。
どれだけの人が言えるのでしょう……
私は遡って覚えたい。
まだ脳が記憶力を今よりは持っていた頃に戻って。

いいなと思ったら応援しよう!

よもぎ よもぎちゃーん! はーい! 何が好き? ポテトチップスよりも お・ぬ・し

この記事が参加している募集