飴と瘡蓋──『ミッテラン前夜』
よもぎさんに捧ぐ
この夜、瑞樹はまた瑞樹を裏切り始めていた。
午前一時過ぎ。
不意に鳴った着信音は、眠りの外側から差し込んできたように感じられた。
画面には「木島」。
出るか迷う余地はなかった。
指はすでに動いていた。
「もしもし」
「起きてるか」
短い確認。
返事をする前に、もう次の言葉が来る。
「明日、来いよ」
「どこに」
「会うんだよ」
「誰に」
一拍、妙に長い間。
「ミッテラン」
意味が定着しない。
言葉だけが、表面を滑っていく。
それでも瑞樹は「うん」と答えていた。
通話はそれで終わった。
静けさが戻る。
だがそれは、さっきまでと同じ静けさではない。
どこか圧を含んだ、重たい沈黙。
瑞樹は立ち上がっていた。
理由はなかった。
ただ、じっとしていられなかった。
気づけば風呂場にいる。
蛇口をひねる。
湯が出る。
手を差し入れる。
ぬるい。
一回目。
身体を流す。
石鹸をつける。
流す。
終わり。
二回目。
さっきと同じ動作をなぞる。
なぞっているだけなのに、どこか足りない。
三回目。
順番を変える。
意味はない。
四回目。
五回目。
六回目。
回数だけが積み上がる。
中身は空白のまま。
七回目。
八回目。
皮膚の感覚が鈍くなる。
それでも「まだ」が消えない。
九回目。
十回目。
指先だけがやけに意識に残る。
十一回目。
「汚れている」
声に出ていた。
何が、ではない。
ただそう感じる。
十二回目。
止まる。
止めたのではなく、続ける理由が途切れた。
浴室の曇った鏡に、ぼやけた自分がいる。
瑞樹はそれを見ないようにした。
部屋に戻る。
空気が軽い。
だが、胸の奥は重い。
机の上にメモ帳。
白紙。
「ミッテラン」
口に出す。
音だけが残る。
意味はまだ遠い。
瑞樹は座る。
そして、別の準備を始める。
寿限無。
じゅげむじゅげむごこうのすりきれ……
一回。
二回。
三回。
言葉は流れる。
意味は置いていかれる。
四回。
五回。
途中で噛む。
最初に戻る。
六回。
七回。
八回。
終わる。
終わったのかどうかは曖昧だが、とりあえず区切る。
次に九九。
一の段。
二の段。
三の段。
途切れないように。
十回。
二十回。
どこで間違えたかわからない。
最初から。
三十回。
四十回。
頭の中が熱を持つ。
五十回。
六十回。
数字が音になる。
七十回。
八十回。
もう意味はない。
九十回。
九十九回。
到達したことだけを確認する。
それでも足りない。
台所へ向かう。
冷蔵庫を開ける。
桃がある。
やわらかく、少しだけ傷んでいる。
かじる。
甘い。
舌に広がる感覚だけが、妙に確かだ。
「すもももももももものうち」
言う。
二回。
三回。
四回。
桃を噛みながら。
五回。
六回。
汁が指に垂れる。
七回。
八回。
言葉が崩れる。
九回。
十回。
止まらない。
二十回。
三十回。
繊維が歯に絡む。
四十回。
舌がもつれる。
五十回。
ようやく止まる。
静寂。
瑞樹は立っている。
何も変わっていない。
なぜやるのか。
理由は明確だ。
👉 コントロールしたいから。
だが同時に、理解している。
👉 コントロールできていないからやっている。
風呂。
言葉。
数字。
すべて同じ構造。
👉 「ちゃんとした自分」を作ろうとしている。
しかし、そのたびにズレる。
指先を見る。
桃の汁が乾いて、ざらついている。
爪でこする。
少し剥がれる。
その感触。
一瞬、心地よい。
やめる。
また触る。
やめる。
またやる。
飴と同じだ。
甘いもの。
やめられないもの。
そして、少しだけ痛いもの。
瑞樹は小さく笑う。
「いやだな……」
木島には何も言っていない。
この一連のことも。
言う必要もない。
明日、瑞樹は会う。
ミッテランに。
そのときの自分は、どれだろう。
十二回風呂に入った自分か。
寿限無を八回言った自分か。
九九を九十九回繰り返した自分か。
桃をかじりながら、言葉を五十回繰り返した自分か。
どれでもない。
どれでもある。
瑞樹は思う。
自分であることは、
すでにひとつではないのかもしれない。
夜は、瑞樹にはお構いなしに更けていく。
