雨と浴衣、夏の毛布──『水辺のつつじ』ep.10
──「O-L」、「O-L」、「17-L」……
八月のシフトを移し終えると、僕はリュックを枕に休憩室の天井を眺めた。
「押し入れ」とか「人間物置」などと揶揄される極めて狭い空間だけれど、僕は結構気に入っている。
もちろん飲食店の休憩室としては決して褒められたものではないし、お客様には絶対に見られてはならないディオゲネスぶりだが、僕としてはそういうところが好きなのだ。
それにしても病み上がりの身体に設定温度十八度の強風は堪える。
手近にあった、一体いつから存在しているのかも、誰のものかもわからない毛布にくるまり目を閉じた。
そして目を開けた。
壁越しにひっきりなしに聴こえるオーダー音は束の間の微睡すら許してはくれない。
──休憩室にして、休憩室にあらず。
騒がしい壁をぼんやりと眺める。
新旧、種類、ありとあらゆる紙が野放図に貼り付けられている。
僕がこの空間で本を読まない理由はこれだ。
いわゆる「整った」形式からは得られない栄養がここにはある。
正直この「●●からは得らない『栄養』が××にはある」という表現が大嫌いなのだが、そうとしか言えないので仕方あるまい。
とりわけ栄養価が高いのは、たかだか二行程のお叱りメールをプリントアウトしたA4サイズの紙だ。
そこに赤ペンで、それもお叱りメールの一文字の約三分の一サイズの文字でびっしりと恨み辛みが記されている。
端々は破れ、真ん中あたりはヨレていて、それでもかろうじて壁に貼り付いている。
……しがみついているというほうが合点がいく。
「おつかれ!」
店長が山盛りのポテトと共に休憩室に入ってきた。
あの赤ペンで恨み辛みを書き連ねた張本人である。
黒縁眼鏡の奥の瞳はいつでもおちゃらけていて、到底あんなにも陰鬱な文章を書くようには見えない。
「いやあ、こうも忙しいとオーダーミス連発で参っちゃうよねえ……」
この妙に芝居がかった喋り方の意味を知ったのはもうだいぶ前のこと。
だいぶ前、と言ったけれど僕がここでアルバイトを始めてからはまだ三ヶ月しか経っていないのだけれど。
店長はよいしょ、と僕をまたぐついでに揚げたてのポテトを餌付けしていく。
唇に当たる、なんの栄養も得られない寧ろ背徳感ばっちりの脂質と炭水化物の塊をほとんど反射で咥えた。
店長は最奥のキャスター付きの椅子に腰を下ろすとゴキゴキと首を鳴らし、シフト表をめくりつつ「本当にいいの? 俺としては助かるんだけどさ……」と申し訳なさそうに尋ねてきた。
僕はまだあの背徳の塊をもごもごと動かしていたので店長は気を利かせて、
「帰省とか」
「旅行とか」
「花火とか」
といった具合に想定される正しい大学生の夏のイベントをあれこれ並べていった。
それでもなお、僕のもごもごが止まらないので、さらに
「流しそうめん、海……ああ、夏フェス! バーベキュー……」
と付け足した。
そうか、世の大学生というのは随分と忙しいのだなと感心したところでようやく油と芋を飲み込んだ。
──バタンッ!
ドアが開くやいなや、ムワッと生暖かな空気とそれに付随する夏特有の筆舌しがたい臭気と共に先輩が出勤してきた。
肩で息をしている。
「いやあ……降ってきましたよ、雨!」
「おはよう、牧野君。来たか……いよいよ来たか、雨!」
「はあ……店長……」
男三人ともなると、いよいよ定員オーバーといった様相を見せる休憩室。
スペース確保の為、僕はのそのそと起き上がる。
すっかり冷めたポテトの山をぼんやりと眺めていた。
「もう道が混んじゃって、全然進めないんすよ! 参っちゃって……」
牧野先輩は僕の後ろの簡素な更衣室のカーテンの後ろで嘆いている。
「夏祭り渋滞って言うのかな。『やだあ! 雨ェ!』なんて言いつつ全っ然焦ってないんすよね! むしろ、よろこんでるというか……」
先輩の恨み節はとどまるところを知らない。
壁の向こうのオーダー音もいよいよ切れ間がなくなった。
シャッ!とカーテンが開き、飛び出してきた先輩の膝が僕の背骨を直撃した。
「うおっ! ごめん!」
「いえ……あの、こちらこそごめんなさい……」
「あれ? もしかして風邪ひいた?」
先輩は僕の背中をさすりつつ、冷え切ったポテトを次から次へと口に放り込んでいく。
みるみるうちに山は小さくなっていった。
「ああ……えっと……ごめんなさい……」
僕はだんだんとわからなくなってきた。
一体何に対しての「ごめんなさい」なのか。
いつもこうだ。
人から言葉をかけられるとすぐ謝罪会見を開いてしまう。
最終的には、「ごめんなさい」と言ったことに対して「ごめんなさい」をしている。
店長と牧野先輩が揃って大笑いしている。
「え? え?」
困惑する僕をよそに二人はまだ笑っている。
オーダー音をかき消すほどの各種タイマーの輪唱に、ついに店長が「よし。」と立ち上がった。
牧野先輩がそれに続いた。
僕もつられて立ち上がり、休憩室の電気を消した。
店内は雨に濡れたお客さんでごった返している。
ここ最近、全く日の目を見ることなく店内後方で眠っていた毛布が全て出払っていた。
僕はミネストローネとコーンスープをトレイに乗せ、番号札五番の客を探す。
──見つけた……!
番号札五番は、浴衣を着た男女二人組だった。
例に漏れず雨に打たれたらしく、髪が濡れている。
寄り添うようにして一枚の毛布にくるまっていた。
僕がスープを置くと、二人同時に「ありがとう。」と微笑んでくれた。
その微笑みはやがて互いに向けられていて……
店内を見回すと、この二人と同じく毛布にくるまる人たちがあちらこちらにいる。
その後もひっきりなしにずぶ濡れの人々が入れ替わり立ち替わりやってきた。
僕はただ、番号を追いかけた。
そして今、雨上がりの道をひとり歩いている。
濡れたアスファルトから立ち昇る、ぼんやりとした街灯の光。
風はなく、街を包む潤んだ空気は澱むでもなくただそこにある。
狂い咲きのつつじの色が、夜になりきれない都会の深夜にぼやけていた。
もう、熱は下がったはずなのに喉を抜ける僕の息はひどく熱を持っている。
走ったわけでもないのに、呼吸は跳ねていた。
一刻も早く身体中の熱を、とかく胸の辺りを冷やしたくてたまらない。
浴衣姿の笑顔が網膜にこびりついている。
「もう読まない」と決めたはずの、丸っこい字のメモ紙は冷蔵庫の扉に貼ってある。
僕はその、浅はかな昨日の自分に苦しめられている。
這うようにして進み、わずかに濃い紅をした果実を掴む。
冷蔵庫の扉から漏れる光。
ひと想いにかぶりついた。
──酸っぱい。
舌が麻痺するほどに酸っぱい。
飲み込む時にはもう、僕の体温と混じり合って胸の奥はまだ燻るように熱い。
──でも………………。
──わたし………………。
文字を追いかけてしまう、自分の癖を呪う。
種だけになったスモモを、まだ口の中で転がしている。
午前三時。
薄い壁の向こうは静まり返っていた。
(続)
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読書好きの大学生・貝原瑞樹の学生生活。
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名前がわからない、呼べない。
もどかしい。
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【エッセイ】
私がアイドルだった時のこと(?)
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いつか本格的な刑事もの書きたい。
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ゆきお様・作
早口言葉が出ます。
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