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非番の平日、粛々と

別れは突然やってくる。

ねえ、ミク。
私たち、直接触れ合うことはなかったし言葉を交わすこともなかったよね。
ミク……そう、あなたの名前を知ったのは全てが終わった後だった。

──ピーポーピーポーピーポーピーポー……
ウォウウォ!
ピーポーピーポーピーポーピーポー……
ウーウッ!
ピーポーピーポーピーポーピーポー……

……現在、八時二十五分。
今日は非番。

目を閉じる前は「好きなだけ寝る」なんて意気込むのに、結局普段通りに目が覚めるのが常だ。
悲しいかな、これが勤め人のさがというものなのだろうか。
もう九年、されど九年。
すっかり、べっとり、勤め人としての自覚、それも間違った方の自覚が身体にこびりついてしまったらしい。

午前四時三十分、冬の朝の空は私の目の下よりもはるかに黒く、街に蓋をしている。
ごそごそと起き出して、私は冷蔵庫の扉を開けていた。
何か、食べたい。
腹が減っている気がする。
白過ぎる光を浴びながら、働かない頭を噴き出す風で冷やしている。
手は伸びなかった。

薄汚れた窓越しに聴こえるふざけたサイレン。
音も、赤色灯もぼわあ……と不気味に部屋に忍び込んでくる。

すっかり日は昇り、街は勤勉に平日を始めている。
私は粛々と非番の平日を始める。

今日は溶かしきれないほど時間がある。
いつもならば、溶けきらない致死量のインスタントコーヒーのザラザラを喉奥で味わうところだが、今日は真っ直ぐに紙製のコーヒーフィルターに手を伸ばす。

近所の焙煎所で挽いてもらった豆にゆったりと湯を回しかける。
すると、深呼吸でもするかのようにゆったりと膨らんでいく。
ぽた、ぽた、と豆を伝い落ちる液体はどこか憂いを帯びている。

その傍らにはつぶれたビール缶と、鶏の骨がいっしょくたに捨ててある。
日常と非日常、結局は地続きなのだ。
でもそれでいい。
荒みきった日常の上でこそ今この瞬間が輝くのだから。

おろしたての白い鳥柄パジャマにカーディガンを羽織りテレビをつける。

この背徳感が好きだ。
今着ているのがパリッとした白シャツではなく、てろんとした白いパジャマであること。
画面に映るのが防犯カメラ映像ではなく、毒にも薬にもならない噂話と私見の垂れ流しであること。

くだらなければくだらないほどいい。
意味がなければないほどいい。
生産性がなければないほどいい。

ただこのサイレンだけが、私を現実に繋ぎ止めようとしてくる。
それだけが腹立たしい。
これを除けば完璧な非番だったのに。

ここで、グリークヨーグルトに、皮の上でペティナイフで輪切りにしたバナナ、皮ごとキウイにグラノーラあたりを乗せた朝食があればいかにもな非日常だが、私は今妙に胃が重い。


テレビの中は忙しい。
笑顔の家族が笑顔で朝、食パンを囲んでいたと思えば、あっという間に夜が来て今度はクリスマスケーキを食べている。

その直後には怒りや恐怖、悲しみや無関心、それらを全てならしたような人たちが白い壁に背を向けて座っている。

画面上部、「ニュース速報」の文字が入る。

12日未明、女性の遺体見つかる。
連続無差別殺人事件との関連を捜査。

東京都柿川市             
警視庁

休みの日でも、ふとした瞬間に入り込んでくる。
もはやどちらが日常なのか。

私のため息と同時に画面の中の均衡は崩れ始める。

「速報です。本日十日未明、身元不明の女性の遺体が見つかったそうです。」
アナウンサーがテロップより十秒ほど遅れて原稿を読み始める。
奥歯で怒りを噛み殺しているのがわかる。

「遺体の状況から、先月中頃から発生している遺体損壊事件との関連も視野に操作を進めているとのことです。」
ここまで言い終えた彼女はカメラの先を睨みつけている。

「第一の事件の被害者は二十代会社員の女性、第二の被害者は十代大学生の男性。 いずれも遺体がバラバラにされるという大変いたましい事件ですが……七尾さん、今回の事件との関連性についてご自身の見解を……」

七尾というのは元警視庁捜査一課の敏腕刑事だ。
私は彼に憧れて警察官になった口だ。

最近ではやたらとテレビに出まくっており、世間ではベラベラと喋る気前のいいコワモテのおじいちゃんと認知されているようだが決して成り下がったわけではない。
彼の中には今も「罪の奥に潜む哀しみを砕け」という信念が生きている。

その彼が、この三件の事件をこれから紐解いてくれるのかと思うと不謹慎にもわくわくとしてしまった。
まるで、刑事ドラマでも観ているかのように。

一人目の被害者は朱雀ふみか(二十二歳)、雑貨店店員。
勤勉だがおっとりとした性格。
彼女の同僚によれば、誰よりも早く出勤して店前の掃き掃除を欠かさないそうだ。
人当たりもよく、誰からも好かれるタイプ。

「なんでもないような日に、ちょっとしたお菓子を買ってきて休憩室にさりげなく置いておいてくれたり……」
休憩室にはまだ、朱雀ふみかが買ってきたという可愛らしいピンクの米菓子がひとつ残されていた。
「朱雀さんが、“あ、遠慮のかたまりになってるじゃないですか〜! 食べちゃいますよ!”なんて冗談めかして言ってくれるのをみんな待ってるんです。」
店長の男性は懸命に慟哭を鳩尾で止めている。
「そんな日は来ないって、分かってはいるんですけど。」
ふうっと息を吐ききるも両手の拳は強く握られたままで、太腿の隣で小刻みに震えている。
「これ、ふみかちゃんがつけていたから憧れて買ったんです。」
朱雀ふみかが好きだったというふわふわの綿花を持った少女が教えてくれた。
彼女の耳元で揺れていたのは、見覚えのある麦モチーフの金色のイヤリングだった。

遺体発見現場、否、朱雀ふみかの遺体は上がってるきてはいない。
しかし、彼女の自宅アパートの玄関前に残されていたのはまさにこの麦のイヤリングとわずかな血痕であった。

「心当たりがあまりにも多くて……」
店長は重苦しく語り始める。

「これ、店のインスタグラフなのですが……」

メッセージボックスは朱雀ふみかのシフトを尋ねる文字で溢れかえっている。

店長は怒りに打ち震えながらスクロールを繰り返す。

「え……」

そこには朱雀ふみかが店前を掃除する写真から、通りの反対側から撮影したと思しき接客中の様子を映した写真が何パターンにも渡り送られてきている。
彼女の服装を見るに、何日間にも渡って撮られ続けている。
極め付けは自宅に恋人らしき男性と共に入っていくところだ。
まるでコマ送りのように執拗に撮られている。

しかし、不自然なのだ。
こんな盗撮紛い、否、盗撮写真の中に明らかにカメラに使って無邪気に笑顔を向ける写真がいくつも混ざっている。

「朱雀さん、こちらが心配になるくらい他人の悪意に気付けないんです! だから、こうして……」

そこには誰が見ても、百人に見せたら関係ないところからもう百人、さらにもう百人さらにもう……
たくさんの人が寄ってきて
「かわいい! 尊い!」
と叫ぶであろう朱雀ふみかの笑顔があった。

「確かにかわいいっすね……」
バディを組む羽鳥が明らかにこのタイミングで言うべきではない思いを口にし始めたところで現場をあとにした。

いよいよ胃もたれがひどくなってきて、私は胃薬を探す。
部屋の外は外で騒がしい。
滅多にこの時間部屋にいることはないからこれが日常なのか非日常なのかはわからない。
ただ、やはり聞き慣れたくぐもった人の声や、つんざくようなサイレンは耳障りだった。

「正直俺はストーカーの仕業だとは思わないね。」
テレビの中の七尾が冷静に述べる。
「そう、私も!」
相手が画面の向こう側ですらなく、電波に乗ってやってきているのをいいことに馴れ馴れしく同調する。

「もっとも、押し入ってどうこうしてやろうとかさ。それに……」

私は吐き気が限界でトイレへ駆け込んだ。
不摂生がたたったのか、せっかくの休みだというのに。
結局何も出てこなくて、ズンとした重みだけが残り続けている。

トイレから戻ってくると、今度はコメンテーターたちが呆れ腐ったような嘲笑じみた表情で饒舌に言葉を交わし合っている。

「まあ当然じゃないんですか? 僕だって嫌ですもんね、こういうのは。」

おいおい、いくら本音だってあんたは中立な立場でいないといけないんじゃないですか?
とこちらが呆れてしまうほどに、その死を悼んですらもらえない第二の被害者・浅木椋(十九歳)。
慶蓬大学経済学部の二年生だ。

彼の遺体はあろうことか大学構内で発見された。
現場には黄色のハイカットスニーカーとわずかな血痕。
ニューエラの黒いキャップも付着した毛髪とSNSから彼の持ち物であることが判明した。

彼に関する聞き込みは難航を極めた。

「どういうことなんだよ! なんで! 椋に会わせろ!」
「ぜってえ許さねえ! あいつらの仕業に決まってんだよ! 国家の犬は黙ってろ!」

怒号飛び交うキャンパス。

気付いたら私の視界は二段階も下がっていて、尻に激痛が走った。

「公務執行妨害の現行犯で……!」

遺体発見現場をはるかに上回る血の気の多さに私は辟易しながら立ち上がる。

「──羽鳥君。」
自分から出た、衝撃的な低音にせっかく立ち上がったのにもう一度尻もちをつきかけた。

「はいはい、落ち着いてね。私たちは国家の犬じゃなくて東京都の犬。うん、犬でもないかな。私はカラス。烏丸カスミといいます。こちらは羽鳥。もはや生物でもないね、鳥の羽。よろしく。」

ヤケクソで名刺を渡した。

「やべえ! 名刺だ! ウケる!」
「すごくね? 俺らも名刺作りたくね?」
「ウェイ! いいね!」

はあ……
“単純”が返って面倒臭いとはこのことだろうか。
わずかに残る若さまで彼らに吸い取られたような感覚がある。

「ところで、浅木君についてだけど……」

言い切るよりも先にドバドバと情報がもたらされる。

「こないださ、飲んでたんよそこの! ホッケとか美味い居酒屋で。」
「あー、あれやばかったな!」
「めっちゃ美味えんすよ。」
「そうじゃねえだろ! そのホッケの店で……」

“やばい”の大渋滞を今すぐ交通課に連絡してなんとかしてもらいたいと思った。

「喧嘩したんすよね、隣の体育大の奴と。」

隣?
このキャンパスの隣にはだだっ広い公園とブルジョワマンションしかないのに。

「自分の大学から一番近い大学のことを“隣の”って言うんすよ。」
力強めのウィスパーボイスで羽鳥が耳打ちしてくれる。
高卒の私にはいまいちわからないノリだが、そういうことらしい。
こんな、
「お前どこの保育園だよ?」
「幼稚園だし!」
的なやり取りを世の大学生はしているものなのか……
散々反対された高校を出てすぐの就職も今なら
「うるせえ! 好きにさせろ!」
と言って退けられそうだ。

なんだかもう私はまともに彼らの話を聞けず、捜査メモはほとんど白いままだった。

「椋──!」
スマートフォンを両手で持ち、祈りを捧げるような格好でひざまずく黒の無造作ヘアの学生。

馬鹿騒ぎする人々の声が流れている。

「これは……」

「最後に椋と遊んだ日。あいつが電車を降りる前……」

「もう一回聴かせて!」

──阿佐ヶ谷、阿佐ヶ谷。
一番線、ドアが閉まります。

つまり、総武線だ。
黄色だ。
浅木椋は、黄色い電車を降り、黄色いスニーカーで黄色い線を踏み、その数時間後に死んだ。

だからなんだと言うんだ。
羽鳥の独り言のせいですっかり訳がわからなくなった。

少し胃薬が効いてきた。
せっかく淹れたコーヒーはすっかり冷めているけれどよく考えてみれば冬でも氷たっぷりのアイスコーヒーを飲むくらい猫舌……いや、熱いものが苦手だからちょうどいい。
冷めたホットコーヒーはアイスコーヒーにはなれないけれど。

非番なのに、こんなにも仕事のことばかり思い出して馬鹿みたい。
世の中の二十七歳って何をしているのだろう。
私は職場と家との行ったり来たり。

たまの休日に出かけても担当している事件のことが気になって、結局現場を見に行ったりしている。
流行りのパンケーキとか、人気のラーメンなんて食べたりもしない。
それこそコンビニのご奉仕品、その中でも廃棄寸前の「助けてください」と書かれたおにぎりを買って、正義感と空腹を満たしている。

変わり映えのしない真っ黒な服ばかりのクローゼット。

同僚が陰で
「カスミ、大きめのアクセサリー好きそう!」
「わかる、でっかいルビーとかでしょ?」
「そうそう! で、家中に飾っててビッカビカ!」
なんて下品な妄想で私の悪口を言っているのを知っている。

正直、宝石には興味がない。

しかし、その妄想に応えてやらないといけないような気もして……

よくわからないセンチメンタルに浸ってしまったのは、こんなにも明るいのに相殺されない赤色灯のせいだ。

「新しい情報が入りました! 現場の胡桃沢さん、お願いします!」

画面が忙しなく切り替わる。

「こちらが遺体発見現場の柿川市です。現場には大勢の報道陣が詰めかけ……」

それはそうでしょう。
わざわざ特集を組んでまで報道するような事件、報道陣も野次馬も集まるに決まっているじゃない。

また胃がムカムカとしてくる。

十時二十三分。
当たり前の映像にうんざりした私はスマートフォンをいじる。

1回目:3.04秒
2回目:2.48秒
3回目:3.55秒
4回目:3.29秒
5回目:2.38秒
平均:2.948秒

この約三秒を意味する数字の束を私は理解したくなかった。

ワイプの中の七尾が訝しげな、それでいて何かを掴んだような目をしているのを私は見逃さなかった。
画面右下から私は目が離せない。

程なくして、画面いっぱいに七尾が映る。
全てを察したかのように語る。

「実行犯はひとり。ひとりなんです。」
そこに映るのは、バラエティ番組の玩具のように扱われている七尾ではない。
刑事時代の、あの七尾だ。

「ひとり、というのはその……一人で犯行に及んだ、と。」

「ええ。“ひとりの犯人がひとりで”。」

──独りの犯人が一人で

──ピーポーピーポーピーポーピーポー……
ウォウウォ!
ピーポーピーポーピーポーピーポー……
ウーウッ!
ピーポーピーポーピーポーピーポー……

外は騒がしさを増す。

「被害者の身元が判明しました! 大豆生田美鳩おおまみゅうだみくさん、二十七歳、看護師……」

私はまたトイレに駆け込む。
勿論何も出てきやしない。
喉でも切れたのか、血の匂いがする。

朱雀ふみかの金色の麦のイヤリング、浅木椋の黄色のスニーカー、大豆生田美鳩の灰色のコート……

──ピンポーン……


大豆生田美鳩、あなたは白になれなかった。
私と同じように。
あなたは私よりほんの少し白に近かっただけ。
でも、知ってる?
真っ黒なものって真っ白にもなれるの。
ほんの光の当て方ひとつでね。
看護師だもの、きっと知ってるよね。
大丈夫、安心して。
その、無念は私が必ず晴らすから。


私が大豆生田美鳩の事件で聞き込みに行くことは、一切なかった。

街はもう、すっかり沈み返っている。


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