待ち人の名、知らず──『水辺のつつじ』ep.9
「ドラマだったらさ、そろそろ喀血する頃だよね。」
激しく咳き込んだ後、掌を眺めて僕は言った。
隣で背中をさすってくれていた彼女は、突然動きを止める。
しばらく僕の掌を見つめたあと突然、
「だめ! やだ! 絶対やだ!」と飛びついてきた。
僕を押しつぶす彼女の身体が震えている。
「あ、いや……その……ごめん。」
彼女は何か押し殺すような呼吸をしている。
咳を受けた手で触れるのはどうにも憚られ、気休め程度にシーツにこすりつけてからその背を撫でた。
汗で湿っている。
「ゆうか?」
窓の外、西陽の橙はほとんど藍色へと変わっている。
ゆっくりと頭を起こしたゆうかは悪戯っぽく笑っている。
ああ、騙された。
ゆうかは僕の髪を指で梳きながら言った。
「ねえ、まだ寒い?」
「え?」
一瞬、何でそんなことを訊くのだろうと困惑した。
「暑い……」
答えたあと、僕は再び目を閉じる。
「伝染るよ。」
答えはなかった。
目を覚ました僕は本の続きを読んでいた。
とはいえさっきから物語は堂々巡りで、紙とインクの匂いの花火が打ち上がるのをもう四、五回は観た気がする。
またうつらうつらしてきた僕は咄嗟に手近にあった琥珀色の飴玉を掴み、ページの間に差し入れた。
しかし、意識より先に腕が眠りに落ちたらしい。
左手は本を掴んだまま身体の脇にだらりの伸び、ページは飴を吐き出した。
すぅっと息が漏れ、瞼が落ちきる二秒前。
ふいに玄関の方で音が聴こえ、気づいた時には扉を開けていた。
しかしいくら見渡しても、エコバッグをぶら下げた疲れた顔の男の人や部活帰りと思しき高校生が通り過ぎるだけだった。
雲ひとつない澄んだ藍色の夕空の下、僕はしばらく人の往来を眺めていた。
誰かを待っている、そんな気がした。
眺めるほどに気が滅入っていったのは、その「誰か」の正体が明白であるにも関わらず、その「誰か」を呼び止める術を僕自身が持ち得ないからに違いない。
僕は一度、大きく伸びをした。
そして再び道を眺める。
「誰も、いない。」
家路を急ぐ人々が忙しなく駅を目指していた。
振り向き、ドアノブに手をかける。
──カサリ
生温い湿った金属と、乾いた紙の手触りがぼんやりとした頭をさらに混乱させた。
鮮やかな黄色い紙袋の真ん中には、ハトの形のお菓子が描かれている。
「鎌倉……? おみやげ……?」
夏休み明けなら、そういうこともあるのかもしれない。
しかし今は夏休み前。
日曜昼のハンバーガーショップの如くごった返すレポート課題や試験勉強を放っぽり出して、呑気に「いやあ、今年の紫陽花はいやに長く咲くね。」なんてうっとり頬杖をつくような知り合い、僕にはいない。
そもそもが、幸せのお裾分けの象徴として名高い「旅のおみやげ」なんてものをやりとりする相手がいない。
ガサガサとレジ袋の音が背後を過ぎる。
ドアノブと固く握手を交わしたままの僕は傾げすぎた首を戻すタイミングを失っている。
視線の先、気まずそうに鍵を回す隣人。
袋の真ん中のハトは空を目指している。
僕は慌てて首を戻し、小さく会釈をした。
向こうも向こうで、もごもごと何か言いながら控えめに頭を下げる。
彼の部屋の鍵の閉まる音を聴いた後、僕も紙袋と一緒に部屋に戻った。
薄暗い玄関の内側で扉にもたれ、へたり込んだ僕は袋の中を覗き込む。
ふわっと甘酸っぱい匂いが漂ってきて、衝動的に紙袋を漁った。
この時、なぜか中を見てはいけない気がして天井を見上げていた。
指先に、温まったハリのある球体が触れる。
袋の中で握る。
それは片手に収まる大きさでわずかに柔らかかった。
気づいた時にはもうかぶりついていて、今まさに、一気に溢れ出た果汁に狼狽えているところだ。
正体不明の紙袋を何の躊躇いもなく部屋に招き入れ、あろうことか欲望赴くままにその中身を貪るなんて……
僕は今日幾度目かわからない絶望に打ちひしがれていた。
自分が自分でなくなってしまったようで、恐ろしくてたまらない。
そもそもこれは僕に宛てたものだったのか?
もしかして、おっちょこちょいな送り主が隣の部屋と間違えたとか?
だとしたら……
だとしたら、今食べてしまったあれはどうしよう。
これぞまさしく「禁断の果実」……
僕はベタベタの指をわなわなさせつつ、なけなしの廊下を二歩進んでは三歩戻ることを繰り返していた。
隣人への言い訳や謝罪をシミュレーションしつつ、僕はようやく手を洗い、口を濯ぐ。
そして例の紙袋を抱え、テーブルに乗せた。
恐る恐る中身を出していく。
一つ目、米。
大きめのジッパー袋にぎっしりと詰められている。
重さは……二キロほどあるだろうか。
真っ白で透き通る、宝石みたいなお米。
二つ目、梅干し。
小さなジャムの瓶に詰められた梅干し。
ところどころに赤紫蘇が絡んでいて、青みの紅が美しい。
三つ目、例の果物が二つ。
僕がひとつ食べてしまったから本当は三つあったはずの赤紫の果実。
光の下で見ると、皮の下に果肉の黄色が透けていて何となく直視することがはばかられる。
何を果物を前に恥じらっているのかもわからないけれど、謎の悶々とした熱っぽさが心を腫れぼったくするのでその二つの果実は袋の中に隠蔽した。
最後に、メモ用紙が出てきた。
見覚えのある丸っこい字。
──実家のお米と、梅干、すももです。
手紙にはこのあと、お粥の作り方がこと細かに書かれていた。
──梅干、すっごく酸っぱいから気をつけてね。
あとスモモ。
皮がついてると酸っぱいから、苦手だったら剥いた方がいいかも。
ああ……
あれは禁断の果実じゃなくて、スモモだったんだ。
──でもわたしは皮付きが好き。
「え?」
ふと漏れた自分の声が無限に部屋に響いている。
トン、と穏やかに鳴った心臓。
その後も一定のリズムで淡々と打っている。
──でもわたしは……
そのあとを僕はこれ以降読まないことにした。
床に落ちていた本の続きの中に逃げ込む。
僕は本日六回目の打ち上げ花火をただひとり、眺めていた。
(続)
↑
絶望的にモテない大学生・貝原瑞樹の人生まとめ読み。
↑
直前のお話。
↑
ゼクシィとか、松潤とか、ハシカンちゃんとか、エヴァネッセンスがでてきます。
↑
【エッセイ】
昨日、天野とメロンパン買いに行った。
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ゆきお様・作
何年か後の世界観。
それでも果物は出てくるのだった。
どんな味なのか、ご覧ください。
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何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し