『取っ手にぶらぶら、酢昆布』
よもぎさんに捧ぐ
瑞樹はくだらないダジャレが好きだ。
「風邪ひいたって? それは“かぜん(過然)”としないなあ」 と送ったLINEに、既読はついたが返信はなかった。
「……うん、ドラマだったらいきなりの強制退去かもな」
ひとり頷き、畳の上で胡座をかき直す。六十を過ぎても、スベりはスベりとして胸に来る。
相手は、ゆうか。バツイチ同士。いや、正確に言えば“バツさん同士”とでも言うべきか。お互いにいろいろあって、いろいろあった末に、今ここにいる。
出会いは数ヶ月前の飲み屋だった。
ベロンベロンに酔ったゆうかを、たまたま近所だったという理由で部屋まで送り届けた。それだけの関係。それ以上でも以下でもない。……はずだった。
それが、数日前。
「具合が悪いから、お米買ってきてくれない?」
とLINEが来た。
「お安い御用。米だけに“おこめん”なさい、ってね」
送信してから五秒で後悔したが、既読はついた。返信はなかった。まあ、いい。そういう関係だ。
瑞樹は近所のスーパーで米を買い、ついでに酢昆布もカゴに入れた。
「体にいいしな。酢こんぶ……“すこんぶる”元気に、ってね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
さらに果物売り場で足が止まる。
グレープフルーツ。黄色くて、丸くて、ちょっと苦い。
「人生みたいな顔してるなあ、お前」
ひとつ手に取り、もうひとつ入れる。
理由はない。なんとなく、二つ。
ゆうかのアパートの前。
直接渡すか、少し迷った。
ピンポンを押して、「どうもどうも」なんて言って、顔を合わせて。いや、それは少し……いや、かなり照れくさい。
「六十過ぎて照れるってのもなあ……照れすぎて“てれび(テレビ)”でもつけるか」
つぶやいて、また自分で苦笑する。
結局、紙袋に入れて、ドアの取っ手にぶら下げた。
中身は、
米と、 酢昆布と、 グレープフルーツ二つ。
そして、柄にもなく、手紙。
手紙なんて何十年ぶりだろうか。
ボールペンを握りながら、しばらく固まった。
「お大事に」だけでは味気ない。
かといって、気の利いたことなんて書けるわけもない。
結局、こう書いた。
──米は二キロ。重いから気をつけて。 ──酢昆布、好きかどうかわからないけど、体にいいらしい。 ──グレープフルーツは、皮むくの面倒だったら、そのままでも。
──あ、でも自分はちょっと苦いくらいが好きです。
「……なんだこれ」
書いてから首をひねる。
「恋文でもなければ、レシピでもない。中途半端だなあ」
それでも、折って入れた。
ビビデバビデブー、なんてことは起きない。起きる年齢でもない。
せいぜい、おせっかいが一つ、ぶら下がるだけだ。
帰り道、遠くで花火が上がった。
ドン、と低い音が腹に響く。
夜空に、白い光が開いて、すぐに消えた。
「おお……“はなびら(花びら)”みたいだな」
また、しょうもないことを言ってしまう。
誰も聞いていないのに。
部屋に戻ると、瑞樹は靴を脱ぎ、いつものように文庫本を手に取った。
『鬼平犯科帳』。読みかけのページを開く。
だが、文字がうまく頭に入らない。
花火の残像が、まだ目の奥にちらついている。
一方、その頃。
ゆうかは布団の中で、うとうとしていた。
喉が痛い。体がだるい。熱もある。
玄関の物音に気づいたのは、ほんの一瞬だった。
「……気のせい、かな」
そう思って、また目を閉じる。
しばらくして、ふらりと起き上がる。
水を飲もうとして、玄関の方へ行く。
ドアを開ける。
取っ手に、紙袋がぶら下がっていた。
「……なにこれ」
声が少し、かすれる。
袋を外し、部屋に持ち込む。
中を見る。
米。
酢昆布。
グレープフルーツ。
そして、手紙。
「……ああ、あの人か」
少し笑う。
名前を呼ぶほどでもない、でも誰かはわかる。
そんな距離。
手紙を読む。
途中で、くすっと笑った。
「苦いくらいが好き、ね」
少しだけ、喉の奥がやわらぐ気がした。
ゆうかはグレープフルーツを一つ手に取る。
少し重い。
皮をむくのは面倒だ。
けれど、そのままかじる気にもなれない。
しばらく見つめてから、テーブルに戻した。
「……あとでいいか」
小さくつぶやく。
外では、また花火が上がる。
音だけが遅れて届く。
瑞樹は同じページを三度読み返していた。
ゆうかはグレープフルーツを見つめたまま、湯のみを握っていた。
どちらも、何かに気づきかけて、
しかし、それを言葉にすることはなかった。
花火はまた開いて、また消えた。
同じようで、少しずつ違う光。
取っ手にぶら下がっていたものは、もうそこにはない。
だが、受け取られたかどうかは、
まだ、どこにも確定していなかった。
「……まあ、そのうち“すっぱり”元気になるだろ」
瑞樹は誰にともなく言い、
ページをめくった。
ゆうかはグレープフルーツの皮に、そっと指を当てた。
夏の夜は、少しだけ長かった。
