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クロカワキヨエ(仮名)

「あー! あのクロカワキヨエか!」

いや、どのクロカワキヨエだ。
そして、もちろん仮名である。

「裏切り者のキヨエ!クロカワのキヨエ!」
まくし立てるように喋り続けるこの女の名前を私は必死に思い出そうとしている。

というのは嘘だ。
この女は松元純奈。
中学の同級生である。
略すと某人気アイドルグループのイケメンみたいな名前になるから、よく覚えている。
少し明るめの茶髪のストレートヘア、前髪はまっすぐにパツンと切られ、眉の下あたりで美しく足並みを揃えて風に揺れている。
白のハイソックスがふくらはぎに不自然に貼り付いていないことを除けば、あの頃と数ミリも違わぬ姿である。

五分前、十五年ぶりに再会したのだった。

私はさっきから彼女が興奮気味に発する“クロカワキヨエ”が一体何者なのかを考え続けている。
再会してから五分も経って……たった今、六分経過したが
「あー! あのクロカワキヨエか!」
の前にどのような言葉を交わしたかが全く思い出せないのだ。

そんなバカな話があるか?
と自分でも驚くばかりだが、そんなバカな話がたった今、我が身に降りかかっている。

裏切り者だの、一億二千万円を横領した銀行員の話の超絶劣化版創作小説のタイトルの如く叫ばれる“クロカワキヨエ”に若干の気の毒さすら感じ始めている。

やはりなぜ“クロカワキヨエ”の話になったのかが思い出せない。
いや、もしや私が“クロカワキヨエ”で、松元純奈は私に復讐しにきたのか?

「ちょっとー! 自分だけいい子ちゃんすんの? カンナでしょ? 一番クロカワキヨエのこと嫌ってたの!」

ああ、よかった。
私が“クロカワキヨエ”であるという嫌疑は晴れた。
ほっと胸を撫で下ろす、というのは冗談でどちらかと言えば人生で初めてy=ax²を元にパラボラアンテナを描いた時に相当する「なるほど」の顔をしたつもりだった。
どうやら私はクロカワキヨエを一番嫌っていたカンナらしい。
それはそれでどうなんだろうか。
たかだか二秒前の私は、何をもってして「よかった」などと思ったのだろう。

しかしどうもこの脊髄反射でものを考える癖らしきものが妙にしっくりくる。
これこそが私を私たらしめているというか、クロカワキヨエを一番嫌っていたカンナらしいというか。

そもそも、なぜ私は自分について他者を介してしか認識できていないのか。
そこがまずおかしいのだ。

「あれえ? ちょっと! 何? 結婚すんの?」
「え?」
「何とぼけてんの? だってそれ、ゼクシィじゃん!」
「は……はあ……」

恐る恐る目線を下げていく。
確かに、先程から腹部に当たる右腕と胸部に当たる左腕、そして腕に伝わってくるつるりとして冷たく、硬いのに少し力を入れるとひしゃげるそれが気になってはいた。

私ではなく、表紙モデルのほうがよっぽど松元純奈をまっすぐに見つめている。
“ゼクシィを持っている私”を全力でアピールする“クロカワキヨエを一番嫌っていたカンナ”である。

「よかったじゃん! これで、オバカンナ卒業じゃん!」

何かわからないが、腹の底が灼けるように熱い。
喉元までその熱さが上がってくるのがわかる。

「本当に。夫婦別姓が認められる前で。不幸中の幸い。」

ムッとしながらも精一杯の作り笑顔でオバカンナとして声を発することができた。

「そう言えば、純奈は相変わらずマツジュンなの?」

少しずつ、“オバカンナ”及び“クロカワキヨエを一番嫌っていたカンナ”が板についてきた。

「そうそう、相変わらずマツジュン。あ……でも……」

前髪を両掌で交互に上から下へと撫で付ける。
これは、大体何を言うか誰でも見当がつきそうなことを勿体ぶりたい時にやる彼女のクセ……「ヘキ」と呼びたいタイプのクセである。

「いやあ、一回マツジュンじゃなくなったんだけど嵐解散に伴いマツジュン再びよ……!」

再びのマツジュンこと松元純奈(再)はゲラゲラと笑っているが、これは当事者だけが笑っていいパターンの笑いなのかそれともこの状況を共に笑い飛ばしてくれという共感を求める笑いなのか、
板につき始めたばかりの“オバカンナ”及び“クロカワキヨエを一番嫌っていたカンナ”には理解できず、へどもどする。

そんな私の背中をビシビシと叩きながら、
「ほらー! 笑え笑えー! 出戻りだぞ!」と道ゆく人が振り向くほどの大声で言う。

ヤケクソでもない、一抹の後悔すらなさそうな、純粋に自身の置かれた状況を楽しんでいるような彼女の姿にやはりへどもどしっ放しの私であった。

「で、お相手の苗字は……?ドゥルルルルルルルル……」

妙に上手い巻き舌は、相変わらず健在だ。
そうだ、松元純奈はずるいのだ。
ドゥルルルルルルルルなんて口ドラムロールをされたら、その息が苦しくならないうちに答えねばというサイコパスでもない限り、その心に抱くであろう良心をわかりきっている。

「ハシツメ!」
またびっくりするくらい大きな声が出た。
そうか、私はハシツメなる人物にプロポーズされたかしたかでゼクシィを買いに来た。
まあ、あのゼクシィの持ち方から予測するにプロポーズされたのだろう。
簡単な推理だ。

おおよそ、三十路と呼ばれる年齢になり何かしらの焦りや苛立ちを覚えていたのだろう。
いわゆる第一次結婚ラッシュを見送り、御祝儀貧乏を経験。
そして、自身でも結婚という社会通念的なものに乗っておかねばと思い始める。
三個下あたりの後輩が婚約指輪をギラつかせているのを見て完全に変なスイッチがオン。
そんな矢先、五年付き合ったハシツメにプロポーズされる。

世の中のまだプロポーズすらされていない三十路たちへのマウント的な意味合いでゼクシィをあんな持ち方をしていた。

絶対にそうだ。

「じゃあハシカンじゃん! もうこれでオバカンナ卒業じゃん! 祝! ババカンナ改めハシカン!」

──“オバカンナ”及び“クロカワキヨエを一番嫌っていたカンナ”はババカンナだった。
この段階で私は、クロカワキヨエよりババカンナの両親に良心の呵責はないのか?
と怒りに震え始めた。

よく考えてみろ!
否、よく考えなくてもわかるだろう。
“バ”の隣に“カ”がつく名前なんて、ほぼ百パーセント“バカ”いじりされるに決まっている。

そもそもが“ババ”だ。
“バ”と“バ”が重なれば、言わずもがなわかるよな?

そんな潔過ぎる“ババ”、ただでさえとんでもないいじられポテンシャルを秘めた苗字の後ろに“カンナ”はないだろう!
何もわかっちゃいない。
“ババカンナことオバカンナ及びクロカワキヨエを一番嫌っていたカンナ”が不憫でならない。

「オバカンナからハシカンってとんでもないほどの昇進じゃない?」
「それはそれで嫌だよ! 可愛くないハシカンとか、おばさんなのにハシカンとかまたそうやって悪口言われるに決まってる!」

先程までの“ババカンナことオバカンナ及びクロカワキヨエを一番嫌っていたカンナ”の両親への怒りの熱そのままに相当強い口調でまくし立ててしまった。

松元純奈はスゥッと大きく息吸った後フゥーと力強く、長く吐く。
今一度先ほどの半分くらい息を吸い、一段階温度を下げた表情で言う。

「でも、私はよかったって思ってるよ。式挙げるなら呼んでよね!」

くるりと向きを変え、イヤホンを両耳に入れ駅方向に歩き出そうとした彼女に私は咄嗟に叫んだ。

「ねえ! 今もエヴァネッセンス、聴くの?」

彼女は首を傾げ、
「エヴァ……?何それ?」と言葉をこぼし、去って行った。

ザザーと黄色い葉をかき分ける風が冷たい。
そろそろ、秋が終わる。

それから半年後、私とハシツメはこぢんまりとした式を挙げた。
身内と、ほんの少しの友人を招いて。

松元純奈にも招待状を送りたかったのだが、連絡先を覚えていなかった。
知っているものだと思っていた。
だからあの日も聞かなかった。

「カンナはバカだなあ!」
茶化した口調で、悪気なくハシツメが言う。
なぜか、無性に腹が立った。

「誰がオバカンナだよ!」
「いや……オバカンナとは言ってないよ……ごめん……」

胃の奥がムカムカとしている。
本気ですまなそうに小さくなっているハシツメに、素直に謝れない自分がいる。

なんだか、この日からずっと私たちはよそよそしい。

なんとか取り繕おうと無理して笑う瞼が奥二重なのが気に触る。

「これ、好きだったよね……?」
と斜め下から見上げてくる前髪がトイプードルみたいにくるくるしているのが気に入らない。

それに私、ホイップクリームは好きじゃない!
それなのに、何?
“大満足!ホイップ四十六%増量ロールケーキ”って。
大不満だ。
しかも、四十六って何?
この奥二重プードル男が急坂からゴロンゴロンと落ちていく様を思い描きながら、無言で一口食べた。

「おい……しい……?」
「っあーーー、よかった! よかった!」

つぶらな瞳でなけなしの尻尾を振るような反応にまた腹が立つ。

なぜ、一口目があんなにおいしかったのかは謎だが二口目からは重くて重くてたまらなかった。
でも、残すのは目の前のコイツに気を許したようで嫌だった。
ヤケクソで全部食べてやった。

もちろん、もたれた。

腹が立つからこの後もずっと冷徹なカンナを貫いた。

私は白無垢が良かったが、
“ただでさえとんでもないいじられポテンシャルを秘めた苗字の後ろにカンナを持ってきた配慮に欠く両親”及び、“何処の馬の骨ともわからない奥二重プードル男の両親”および、その息子ことハシツメに押し切られる形でウエディングドレスを着ることになった。
ドレスの白とタキシードの白は、よそよそしいを通り越して白々しい。

結婚指輪は、前日浴びるように酒を飲んだせいでむくみ散らかしていたせいでファランジリングになってしまった。
それに気付いたハシツメの母親が必死に笑いをこらえていることに気付く。
カンナ至上、最も愛すべきは彼女だった。

よそよそしいまま式を挙げ、よそよそしいまま三年の月日が流れていった。
その間二回、腹が大きくなったり小さくなったりした。

私はすっかりハシカンとしての振る舞いが上手くなっている。
今のところ、危惧していた“可愛くないハシカン”とか、“おばさんなのにハシカン”とは言われず平穏に過ごしている。

稀に、「ハシカン?!」などと色めき立つ奴がいるが、
そういう場合にのみ先回りして
「そうです、私が千年に一度のアラサーです!」
などと訳のわからない名乗りでその後に続くであらうイジリを封じ込める。
何事も先手必勝。
これが、“ババカンナことオバカンナ改めハシカン及びクロカワキヨエを一番嫌っていたカンナ”の流儀である。

例のプードル男がある時を境にプードルであることをやめた。
ホイップクリームが増量されたロールケーキを買ってくることもなくなった。
よそよそしさを消し去ろうと躍起になることも無くなっていた。

その日の夜、息が苦しくて目が覚めた。
三歳の娘の左足が私の鼻を押し潰していたのだ。
娘の身体を布団の中にグイグイ戻していると、枕元でひっくり返っているスマートフォンが薄らと布団を照らしている。
男のスマートフォンだ。
「Androidだったのか……」
この日初めてコイツのスマートフォンがAndroidだと知った。
コイツがだれとなにをしていようが、そもそもコイツが家にいようがいるまいが全く興味がなかったから、スマートフォンのOSすら知らなかった。
それでいて二人も子どもをもうけているあたりに人間の悲しい性を感じたが、それはまあいいとしよう。

なぜか、この時はその光が何を知らせるものだったのか気になってしまった。
そこに罪悪感などない。
私は、急いでAndroidを仰向けにする。

目を疑った。

そこにあったのは……

クロカワキヨエ
「今日は楽しかった! 次、いつ会える?」

コイツ、バカなの?

こんな不倫のお手本みたいな現象、本当にあるんだな。
どこぞのわかりやす過ぎる安い非倫理的ドラマみたいで反吐が出る。

妻や彼女、夫や彼氏、とにかく性別問わず恋仲にある者を持つ人間ってもんはどうにかして隠そうとするものじゃないのか?
理解の足りない視聴者なんて、実生活にはいないのに何を開けっぴろげにしているんだ?

ポップアップ通知に送信主の名前からメッセージの内容まで丸々出しっぱなしにするなんて、油断するにもほどがある。

いや、そこじゃない。
クロカワキヨエ……

胃がムカムカしてくる。

「絶対に許さない」

私の怒りの矛先は、完全にクロカワキヨエに向かっている。

週末はよく晴れていた。
お日柄もよく、“ババカンナことオバカンナ改めハシカン及びクロカワキヨエを一番嫌っていたカンナ”も浮腫みなく、左手には銀色のファランジリングを輝かせ、コンビニで買ったモチモチ白鯛焼きを四体をコートのポケットに忍ばせ見知らぬマンションの駐車場の赤い車の影に張り込んでいる。

私の視線はiPhoneの画面と和モダンな建物のエントランスとモチモチ白鯛焼きとを忙しなく行ったり来たり。

そもそもなんの迷いもなく自分がここまで来ていることがおかしいのに、そのおかしさすらもう忘れていく。

滞りなく、前日の夜に“奥二重プードル男改め奥二重無理矢理サラサラストレート男”の両親に娘二人を預けた。
“ただでさえとんでもないいじられポテンシャルを秘めた苗字の後ろにカンナを持ってきた配慮に欠く両親”は信用ならないので、子どもたちの預け先候補にはかすりもしなかったらしい。

三匹目の鯛焼きの入った袋を開けたところで、あの男が女と一緒に歩いてくる。

冷や汗が出るとか、胸が不穏にドキンとすることもなく、ひたすらに胃がムカムカする。
胃液とマグマとが入れ替わったような心持ちだ。
地球の温度が下がり、私の体温だけが上がり続けていくような、怒りを超越したわけのわからない感情。

三匹目の鯛焼きを乱暴に食いちぎりながら、私は猛然と二人の元へ進んで行った。

「何やってんだよ!」

テレビで見かけた大阪県警のガサ入れの如く、私と下半分だけの鯛焼き、そしてポケットの中の鯛焼きは二人に突撃する。

こちらを向いた女の前髪は少し明るめの茶髪のストレートヘア、前髪はまっすぐにパツンと切られ、眉の下あたりで美しく足並みを揃えお行儀良く立ち止まっている。

「え……?」
私は危うく鯛焼きを無駄にしそうになった。

女は前髪を両掌で交互に上から下へと撫で付けている。

「クロカワさん、行こう。」

あの男が女の手を引っ張って奥へと消えていった。

あれは、誰かのクセだったはずだ。

そして、私の頭にはあの女が言わんとしていたことがはっきりと浮かんでいる。
浮かんでいるというより、脳全体にベッタリとこびりついている。

「私がクロカワキヨエ。相変わらず、オバカンナだね。」

反転していた胃液とマグマとが再び正しい関係に戻った時、
私は“相変わらずのオバカンナかつクロカワキヨエを一番嫌っているババカンナ”になっていた。


──という5,947文字の夢を見た。
朝っぱらから地獄と現世の反復横跳び2,973.5回もしたからな。

現実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、現実よりも小説よりも夢が奇だよ!
あの慣用句考えた奴出てこいや!

せめて夢くらいすっきりしたオチをつけてくれよ!
朝からもやもやして天野に八つ当たりしちまっただろう!
否、それは夢のせいではない!
私の性格が悪過ぎる!

もう、起こりすぎて頭の血管が切れかかっている。
昼寝をしよう、そうしよう。



こっちは夢の中で北村匠海さんとじゃんけんした話。

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