微熱の名前──『水辺のつつじ』ep.8
カーテンを開けた。
一気に夏の光線がなだれ込んでくる。
眩暈がして、慌てて光を遮断する。
そしてまた、くらくらとする感覚を求めて開け放つ。
シャッ、シャッと忙しなく音を立て、ひとり場面転換を繰り返していた。
「九時……か……」
偽物の宅配便の通知だけが並ぶスマートフォンによれば、どうやらそうらしい。
走ればまだ間に合う。
いくら僕が鈍足かつ病み上がりとは言え、今この瞬間に部屋を出れば遅くとも九時九分には到着する。
ただ僕の心は今、正直に言えば行かない、に傾いている。
どうにもまどろっこしく考えてしまうのは、「皆勤」を逃すのがほんの少し惜しい気がするからだろうか。
もし僕が狡猾と怠惰に忠実で、欲望のままに生きるギラついた学生だったとする。
ともすれば、代返なる青春の象徴的システムを存分に駆使し、このモラトリアムとやらを賢く謳歌するのだろうけれど、あいにくそんな器用さも甲斐性も持ち合わせていない。
だからこそ今まさに砕け散りそうな「皆勤」の称号を前に「行く」・「行かない」を天秤にかけ、そのくせ「行かない」の皿が下がることを心のどこかで祈っているのだ。
そもそもこういう時に「代返しとくからサボれよ」なんて囁く悪魔的な知り合いすらいないのだから、考えるだけ無駄なのだけれど。
伸びをした拍子にあくびがでた。
「まあ、いっか……」
午前九時十五分。
諦める理由を理由を探すのに、随分と遠回りした感覚がある。
遠回りついでに高二の夏、誰かに貸した現代文のノートのことを思い出した。
「瑞樹、頼むよ! 俺たち親友だろ?」
顔の思い出せない親友の胸に抱かれた青いキャンパスノートの映像だけがやたらと鮮明に浮かぶ。
きっと彼は「借り」を作ったことすら忘れている。
「消費者金融なら今頃とてつもない利子がついてるよ……」
僕だけが一方的に作られた「貸し」を唐突に思い出し、怖い顔の取り立て人を妄想の中で送り込んでいるに過ぎない。
そして、あの親友とやらの人生は詰んだも同然だろうなどと相手がいないのをいいことに好き勝手言っている。
はあ……
こういうジメジメとした自分の性格がつくづく嫌になる。
とにかく、貸しも借りもどちらも作らないに越したことはない。
「先週、代返してやったんだから……」
なんて、平和な日常に暗雲が注ぎ込まれる心配がないのだから。
ひとしきり考えを巡らした後、僕はすっかり温まったペットボトルの水を飲み干して、ぐしゃりと握り潰した。
左手で鳴った物体のひしゃげる音に、
「え?」と思わず声が出た。
僕は、物理的にモノを壊すことが苦手だ。
だからいつもペットボトルすら潰せず、塵芥回収車の空き容量を圧迫するような捨て方をする厄介な住民として生活している。
遡れば小学生のころ。
学校祭の後、僕は内装の花飾りを片づけていた。
薄紙で作られた、黄色や白の花。
それらをボードからひとつひとつ外して袋に入れていく。
それだけでもなんだか胸がつかえて、鼻もつんとしていたことを覚えている。
「早くしろよ! 貝原!」
「遅ェよ! ボケ!」
そんな言葉と共に、踏み荒らされていく花々。
僕は耐えられなかった。
気づけばボードに覆い被さり、今度は自分が踏まれたり蹴られたりしていた。
ただただ破壊を嫌っていた。
そんな僕が平然と、半ば無意識にペットボトルを握りつぶしている。
自分の中のまだ見ぬ破壊衝動的なものに、呆然としていた。
一刻も早くこの証拠品然としたものを消し去りたくて、台所のゴミ箱に突っ込んだ。
次の瞬間目に入ったのは玄関のスニーカーだった。
遠慮がちに左に寄っている。
まるで、隣に誰かいるみたいに。
ここにいるのは、僕ひとりなのに。
今日はどこまでも行動が自分の原理原則を裏切ってくる。
定位置に戻った白いスニーカーは、かえって不自然にひっくり返っている。
タングで微笑む西洋人が、今日は静かに怒っているように見えた。
僕は彼と睨み合いながら、汗で湿ったアイスブルーのシャツのボタンを外していく。
昨日を脱ぎ捨てるように着ていたもの全てを洗濯機に放り込んだ。
何かあった訳じゃない。
何かあった訳じゃないからこそ、全て無かったことにしてしまいたい。
計量りもしないで適当に洗剤を注ぎ込み、洗濯機のスタートボタンを忙しなく叩いた。
玄関扉の前を、男女の声が混ざり合って通り過ぎる。
わずか四センチほどの金属板一枚隔てたところでは当たり前のように生活が営まれている。
それなのに僕ときたら素っ裸で機械に八つ当たりして……
抑え込んでいた叫びが溢れ出た。
ひどくかすれて、声なき叫びと相なったのは不幸中の幸いか。
そして風呂とトイレの一緒くたになった、この部屋で僕が一番嫌いな空間に足を踏み入れる。
「あ。」
僕は本当に独り言が多い。
一人暮らしを始めてからというもの、悪化の一途をたどっている。
踵を返すことすらままならない空間で、「ちょっと待った! ストップ、ストップ!」とカスカスの声で制止を試みる。
もちろん、聴き入れてもらえるはずもない。
停止ボタンを押し、恐る恐る蓋を開けた。
「危なかった……」
僕はネイビーのデニムを取り出し、床に放った。
この部屋のタオルが何枚かを残してほとんど全部薄ら青いのは、洗濯失敗の証。
結果的に自分好みに染め上がったタオルも、結局は失敗作でもう二度と元の色には戻らない。
釈然としない思いは微熱のように頭蓋の裏にこびりついている。
一刻も早く、微熱らしきものを洗い流したかった。
僕はバスタブの中、シャワーも出しっぱなしで髪から足の先までひたすらに洗った。
シャワーを止めボディソープの匂いのする湯気に包まれた時、ふいに身体が浮かぶような感覚に見舞われた。
湯温が高すぎたのか、それとも熱がぶり返したのか……
縁に手をついて、しばらく前髪から垂れ落ちる雫を眺めていた。
二十平米のワンルームには、火照った身体を冷ますだけの距離的猶予が存在しない。
喉が渇いている。
例の薄ら青のタオルでガシガシと髪を拭きながら僕は冷蔵庫を開けた。
干からびたネギのほかは何もない。
へなへなと座り込んで、扉に額を打ち付ける。
結局コップに水を汲んだ。
五杯も飲んだけれど、薄雲のような身体の熱感は消えることはなかった。
ただ、今はこの熱っぽい鈍りに溺れていたかった。
床に座りベッドにもたれ、普段通りに本を開く。
字は読める。
でも、文が読めない。
ぼんやりとテーブルを眺める。
琥珀色の飴が三つと手紙らしきものに気づく。
それでもページをめくる指は止まらない。
自分でもわからない。
靄のかかった頭は確実に何らかの文字を求めている。
ふいに手を止めては身悶える。
気づけば眠りに落ちていて、また目覚めてはページをめくる。
そんなことを繰り返しているうちに、薄手のカーテン越しの西陽が玄関まで橙色に染め上げていた。
琥珀色のレンズで、橙色の光を透かし視た。
「だめだ……」
こんなに美しいものは僕にはふさわしくない。
それでもやめられなかった。
左右両方の網膜に、交互に色を灼きつけていく。
ベタつく指先。
「甘……」
無意識のまま、僕は橙を宿した琥珀を溶かし始めている。
それは、蜂蜜の味がした。
──眠れた? これよかったらどうぞ。
飴玉みたいに丸っこい、それでいて芯のある丁寧な文字。
──眠れたよ、ありがとう。
僕は名前も知らない君が読んでいた本の続きを読みながらまた、眠りに落ちている。
橙色の光の中で。
(続)
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『水辺のつつじ』、まとめ読みはこちら。
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直前のお話。
夏風邪はしつこい。
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我が家のヒヤシンスは咲きました。
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メロウゴールド食べたい話。
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ゆきお様・作
いよいよ私は筆を折る時が来たようです。
なので皆様、ゆきお様の作品をご堪能ください。
おいしそうなカレーが出てきます。
生き生きとした登場人物、文章ですが生きています!
ゆきお様の物語の中では人物が熱を持って生きています。
それを、その目でご確認あれ!
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ポテトチップスよりも
お・ぬ・し