夏風邪が見せた幻ならば──『水辺のつつじ』ep.7
「もう、起きてるんでしょ?」
その言葉を聴いた途端、胸の奥底に押し込めていたものが溢れ出た。
僕は肺がひっくり返るくらい咳をした。
窓の方に身体を向ける。
さっきまで僕の髪を撫でていた手は背中をさすっている。
水もないのに溺れそうだった。
藍色と混ざり始めた西陽が、涙の向こう側で微睡んでいる。
咳き込むたびに、ゴボゴボと胸が水没していく音が聴こえる。
「だから言ったじゃん、寝てなきゃだめって!」
窓に薄らと映る顔は全然怒っていない。
「さっき、夢見たんだ。」
「どんな夢?」
「まだゆうかの名前、知らなかった日の夢……」
──それは本当に断片的な記憶だった。
掴んでいたはずの窓枠は、柔らかな布に変わっていた。
テーブルには飲みかけの水があって、その隣に僕のキーケースが置いてある。
ここは自分の部屋だ、と身体では理解しつつも思考がついてこない。
それはきっと、帰り道の記憶がないからだ。
大学からアパートまでは歩いてだいたい十分くらい。
途中、古本屋があって僕はほとんど毎日そこに寄る。
そして大抵、誘惑に負け、二、三冊本を増やして店を出る。
それから、猛犬注意のステッカーに恥じぬ咆吼を轟かすチワワを横目に右に曲がる。
今日はこの辺りの記憶の一切が抜け落ちている。
思い出さなければ……
思い出さなければ……
すっかり薄暗くなった部屋の中、僕は記憶をたぐり寄せる。
激しい西陽に瞳を灼かれていた気がする。
そうだ。
僕は大学にいた。
それも七号館、五階の大教室。
橙色の光の中、崩れていく自分の影……
違う。
僕は自分自身に嘘をついた。
ひどく喉が渇いている。
テーブルの上の水に手を伸ばす。
わずかに手が届かない。
諦めた右腕をだらりと垂らす。
ただただ重力に身を任せ、ベッドに沈み込んで目を閉じる。
諦めついでに白状しよう。
あの橙色の光の中で、僕が最後に見たのは自分の影なんかじゃない。
白いワンピースの裾と、水色のサンダルだ。
そしてそのサンダルは今、僕のスニーカーと一緒に行儀良く玄関に並んでいる。
「はい、飲める?」
蓋を外したペットボトルが差し出された。
「あ……ありが……とう。」
どうにも状況の飲み込めない僕は、普段以上にぎこちなく声を出す。
「どういたしまして。」
僕は当たり前みたいに飲みかけのペットボトルを手渡した。
すると、彼女もまたそれを当たり前みたいに受け取り蓋を左に回す。
「……ござい……ます。」
小さく付け足した。
ふふっと俯き気味に笑ったあと、僕の目を見て吹き出した。
しばらくケラケラと笑ってから言った。
「体温計って持ってる?」
「あ……」
気に留めたこともなかった。
物心ついたときから毎年夏風邪に苦しめられてきたにも関わらず、迂闊だった。
ふいに目の前に手が伸びてきて、額に触れた。
思わずギュッと目を閉じてしまった。
「大丈夫、大丈夫だよ。」
ああ……
僕はこの人に、澱みの一部を飲ませてしまった。
「ごめん……なさい。」
彼女は何も言わなかった。
ひんやりとしていた手の甲がすっかり触れているかもわからないほどになった時、ようやく瞼を持ち上げることができた。
シュウ……と何かが吹くような音がして、温かな匂いに包まれる。
「ああ!」
と叫んで彼女は台所へと走っていった。
と言っても、ものの三秒でたどり着けるほど狭い部屋なのだけれど。
「ごめん! 汚しちゃった……」
後ろ姿で困り果てている。
「大丈夫……」
ひどくかすれた声は、五徳と鍋底の擦れる音でかき消えてしまった。
運ばれてきたお粥は重湯が多めでさらりとしていた。
僕が食べている間、彼女はずっと後ろ姿だった。
ぼんやりとした白い光の下で、前傾姿勢で忙しなく腕を動かしている。
椀を傾け、重湯を全て飲み切った時。
垂直に落っこちるみたいに眠気に襲われた。
どうやら眠っていたらしい。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽射しで目が覚めた。
無意識に、スマートフォンの不愉快なアラーム音に叩き起こされる朝とこの瞬間とを天秤にかけてため息をつく。
溺れた後のような身体のだるさがかえって心地いい。
まだ薄らと眠気の残る瞼で光を眺めていると、紙をめくる音が聴こえた。
まさか……
僕は音を立てぬよう慎重に、慎重に身体の向きを変える。
僕は絶望した。
どうか、体調不良からくる幻聴であってほしい。
僕の願いは砕け散る。
彼女はベッドに寄りかかり、文庫本を読んでいる。
──盥の水が躍り出して水玉の虹がたつ。
なぜかそのページが次に繰られることはなく、途方もない時間開かれたままになっている。
「prism、ただし色鉛筆の水色のグラデーション」
「曇りガラスの後ろで割れる」
「タライは白く鈍い銀」
僕は今、時を遡って制服姿の僕を殴ってやりたい。
スゥっと息を吸う。
途端に胸がむず痒くなって咽せこんだ。
「起きてたの?」
彼女は笑顔で振り向いた。
僕は飛び起きて叫んだ。
「ごめんなさい!」
そしてベッドの上に立って「ごめんなさい」、部屋の中を歩き回り、ひたすらに「ごめんなさい」を唱え続けた。
ぐるぐるぐるぐると狭い空間を頭を抱えて回り続ける僕に、彼女は極めて冷静に言った。
「そんなに謝らないで? 何かあったみたいになるじゃん。」
そして、あの本の表紙を僕に向けて
「これ、好きなの?」と聴く。
途端に言葉を失くした僕は、頭をぎこちなく上げ下げした。
目が回った。
そして手招きされるまま彼女の隣で膝立ちになる。
「私はね、ここが好き!」
その指先がなぞる。
──ゼリー、漣、海の青色
──そのなかをいくつも魚が泳いでゐる。
「え?」
「意外?」
「あ……いや……うん。」
僕は彼女の一切を知らない。
何をもってして「うん」と言ったのだろう。
気づいた時はもう玄関の靴は僕のスニーカーだけになっていて、あの文庫本は本棚にかえっている。
飲みかけの水は残りわずかで、生活感のない一口コンロの上には重湯のひいたお粥が入った小鍋が乗っていた。
いっそ、高熱が見せた幻なら良かったのに。
そう思いながら僕はベッドに寄りかかり、彼女が見たであろう景色をぼんやりと眺めていた。
(続)
↑
西陽が凄まじい教場には気をつけたまえ。
↑
ヒアシンスは咲きましたか?
↑
大正時代の文学青年たちが現実に打ちひしがれている話。
↑
【エッセイ】
それを言うなら豆腐の角だろう!
↑
ゆきお様・作
爺と婆が織りなすお話。
クスッと笑えてじんわり泣ける。
絶妙な塩胡椒の塩梅!
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