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西陽染めのワンピース──『水辺のつつじ』ep.6

──この幸せが末長く続きますように。

そんなことを、思ってはいけない。
僕に幸せは勿体無い。

そもそも、ここ二年ほどで僕は随分と強欲になった。
特に、「幸せ」の意味を上書きしてしまったあの日から。

西陽が炭酸水をオレンジに染め上げている。
その手前、僕より四十二秒ほど早めにめくられていく物語を追いかけている。

──たらいの水が躍り……

駆け足気味にページがくられた。

「待って。」
ふいに声が出た。
自分でも聴き取れないほど、ひどくかすれた声だった。
文字が小刻みに震えている。
「やっぱり起きてた。」
振り向いた彼女は、いたずらっぽく笑う。
その笑顔もまた、橙に染められている。
頬は紅く、無造作にくくられた髪の下にのぞく首筋は汗でじっとりと湿り、下着同然の姿のまま炭酸水を飲み干した。
「寒い?」
彼女の問いに、僕は困惑した。
目の前に広がる光景は、明らかに暑い。
しかし、僕の身体は真冬の風呂場に素っ裸で閉じ込められたみたいに凍えている。

「ちょっと我慢ね!」
そう言うと彼女は勢いよく掛け布団をどかし、僕の服に手を突っ込んで右脇に体温計を差し込んだ。

悪寒戦慄おかんせんりつと指の感触に身悶え、肺が悲鳴を上げる。
背中をさすってもらううちに、僕はまた眠ってしまったらしい。
記憶の中、ピピピ……という電子音が中途半端に途切れている。

七号館の五階、隅の大教室の真ん中で僕はぼんやり本を読んでいた。
背面に大きくひらけた窓があって、迂闊に最後列に座った日には終鈴のなる頃には激しく背を灼かれることを僕は知っている。

火曜日四限、文化人類学。
入学から三ヶ月、ようやく教室の移動にも慣れてきた。
この大学で生き延びるには、位置的な慣れもさることながら、体力的な慣れも不可欠なのだ。

いかんせん、エレベーターのない校舎が半数以上を占めている。
だから必然的に階段を使うしかないわけだが、キャンパスの狭さ故、横並びに増築することが難しい。
よって、大量の学生を収めるべく建物は上へ上へと伸びていったらしい。
それこそ、少子化に歯止めがかかるどころか第X次ベビーブームなんてものが訪れたら……
考えただけでも恐ろしい。
僕は、灰色の空へと伸びるてっぺんの見えない塔と、そこに響く雷鳴を思い浮かべていた。

「え? 誰もいないじゃん!」
カツッカツッと靴底がタイルとぶつかる音と共に人の声が転がり込んできた。

僕は咄嗟に机に突っ伏し、目を閉じた。

──カツッ、カツッ……

「え? なんで? 教室間違えたかなあ……」

当たり前だが、足音と声とは一緒になって近づいてくる。

いるんだけどな、という想いと
ああ……どうか、どうか僕に気づかないで。
という相反する感情のはざまを漂う。

結局気づいても話しかけないで、に行き着き、寝たふりをしたまま祈り続けていた。

「おかしいなあ……」

少し遠ざかっていった。

ふりだったはずの眠りはいつの間にか僕を夢の中へと引き込んでいたらしく、その何分間かの記憶が全くない。

本が床に落ちる音で目が覚めた。
拾い上げるよりも先にがらんとしただだっ広い教室にただただ驚いていた。

時計はもう、授業開始時刻をとうに過ぎた十五時を指している。

ふいに、左から小さく笑う声がして僕はその方向を向く。
視線がぶつかり、不思議な空白が前後の時空を歪ませた。
僕の喉からはすごくまぬけな音が飛び出して、身体は垂直に跳ねた。

彼女の笑う声は次第に大きくなっていく。
ケラケラと頬が紅くなるまで笑ってから、
「はい、これ。」と僕が落とした本を差し出してくれた。
「あ、ありがとう……ございます……」
ギシギシと油切れのチェーンのようなぎこちないお礼をする。
「どういたしまして!」
その屈託のない笑顔に、僕は絶望すら覚えた。
人はあまりに美しいものを目の前にすると、名伏なぶしがたい喪失感に見舞われるものらしい。

だめだ、だめだ、と僕が自分の頭をぼこぼこと叩くのをなんにも言わずに止めてしまった。
二つの拳は桜貝のような爪の指に包まれて、机の上で大人しくしている。

たぶんこういう時、小説だったら心拍数が上がって何かしらカギカッコが始まるのだろう。
しかし僕の心臓ときたら、血流の拍出を忘れてしまったらしい。
トンッと大きく一回打ったきり、うんともすんとも言わなくなった。
無論、カギカッコは空のままである。

手が離れ、しばらくして少しずつ指先に熱が戻ってきた頃、教室はオレンジに染まり始めた。

時刻は十六時。
終鈴まであと十分。

「ねえ! 来て!」
橙色のワンピースの人物が窓の方で手招いている。

僕は夢でも見ているんじゃないかと思いながら立ち上がった。
頭の前の方がいやにぼんやりしている。
やはり夢なのだろうか。

「早く、早く!」
カンッ、カンッとかかとを鳴らして僕をかす。

僕が隣に立つと彼女は勢いよく窓を開けて、「ほら!」と真っ直ぐに指を伸ばす。
その先には大き過ぎる沈む太陽。

あまりのまばゆさに眩暈がした。

しかし彼女はずっと西に顔を向けている。

「よく見てられますね……」
と、呆れと尊敬の半々の声を掛けた。

彼女は振り向いて
「ねえ! タメなんだから敬語やめてよ!」と言った。

喉を抜ける息が熱を帯びている。
顔が熱いのが、西陽のせいなのか照れているのか、なんなのかわからないけれど意識が朦朧としてくる。
どうあがいても焦点が合わず、水中映像の如く視界が揺らいでいる。
僕は窓枠を掴みながら膝から崩れ落ちた。

あの日、あの場所、たしかに誰もいなかった。
でも、たしかに君と僕はいた。

そして今。
髪を撫でる感触に僕は眠りの続きを演じている。
湧き立つ肺を黙らせながら。

(続)



ひとつ前のお話はこちら。


死にたがりの小説家と破天荒詩人が平成で大学生をやってみる。


【エッセイ】
作り話のし過ぎで誰の人生を歩いているのかわからなくなるという話。


何書いたか忘れたけどカバー画像気に入ってる記事。
(エッセイ)


ゆきお様・作
これほどまでに日本語は美しくなれたことがあっただろうか。
ストーリーに笑い、日本語の絶妙な噛み合い方に嘆息する。
これらを併せ持つ絶品小説です。

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よもぎ よもぎちゃーん! はーい! 何が好き? ポテトチップスよりも お・ぬ・し

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