ネタネタふりふりナイト
よもぎさんに捧ぐ
──この幸せが、末長く続きますように。
そんなことを、思ってはいけない。
僕に幸せは、少しばかり似合わない気がする。
けれど、もし神様というものがいるのなら、今日のことくらいは少しだけ目をつぶってくれてもいいんじゃないか、そんなことをぼんやり考えていた。
大学七号館五階、大教室。
夜の校舎は、昼間とは別の建物のように静かだった。
昼はあれほど騒がしい学生たちの声も消え、蛍光灯の白い光だけが机と椅子の列を整然と照らしている。
僕と彼女は、その教室の真ん中あたりに座っていた。
机の上にはノートが一冊。
そこには、ぎこちない字でこう書いてある。
「漫才ネタ案」
「ねえ、もう一回やってみよ」
彼女が言った。
橙色のワンピースの裾をぶらぶら揺らしながら、腕を机に乗せてこちらを覗き込んでくる。
「え、まだやるの?」
「まだネタフリが弱いんだよ」
彼女は真剣な顔で言った。
僕たちは別にお笑いサークルでもなんでもない。
ただの大学一年生だ。
それでもなぜか数週間前から、二人で漫才の真似事をしていた。
きっかけは、たしか文化祭の出し物を考えているときだった。
「漫才とか面白くない?」
彼女がそう言ってから、すべてが始まった。
僕は人前に出るタイプではない。
むしろ、教室の隅で静かに本を読んでいる方が落ち着く。
けれど彼女は違う。
思いついたことをすぐ口にする。
面白そうだと思えば、とりあえずやってみる。
そしてなぜか僕は、そういう彼女の隣にいる。
「いい? 最初はこう」
彼女は姿勢を正して、いきなり手を挙げた。
「どうもー!」
教室に声が響く。
僕は慌てて立ち上がる。
「いや誰もいないよ!」
「そこが面白いんじゃん!」
彼女はケラケラ笑う。
僕もつられて笑ってしまう。
「ほら、次ボケ!」
「え、急に?」
「早く早く!」
「いや僕まだ心の準備が……」
「はい時間切れー!」
彼女は机を軽く叩いた。
「ネタフリが遅い!」
「そんな指導されるとは思わなかった」
「漫才はテンポだよテンポ」
彼女は腕を組み、妙に偉そうにうなずく。
その顔が妙に可笑しくて、僕はまた笑った。
笑いながら、ふと思う。
こんな時間がずっと続けばいいのに、と。
だけど、そういうことは思ってはいけない。
僕には、少し贅沢すぎる気がするから。
「ねえ」
彼女が言った。
「次、私がネタフリやる」
「いいよ」
「絶対笑ってよ?」
「努力はする」
「努力じゃだめ!」
そんなやり取りをしているうちに、ふと気づくと教室の空気が少し変わっていた。
時計を見る。
午後十時。
いつの間にか、かなり時間が経っていた。
「……眠くない?」
彼女が言う。
「ちょっとだけ」
「じゃあ一回休憩」
彼女は机に突っ伏した。
僕も、なんとなく同じように机に顔を伏せる。
蛍光灯の光が、まぶた越しにぼんやりと滲んでいた。
ネタフリ。
そうだ、次は僕のネタフリだった。
「どうもー」
いや違う。
もっと自然に。
そう考えているうちに、意識がゆっくり沈んでいった。
「おい」
低い声がした。
「おい、君たち」
肩を揺さぶられる。
僕はゆっくり目を開けた。
まぶしい。
蛍光灯の光が、やけに強い。
目の前には制服姿の男が立っていた。
警備員だった。
「……は?」
頭がうまく働かない。
ここはどこだ。
僕は誰だ。
さっきまで何をしていた?
隣を見る。
彼女も同じように目をこすっている。
「……あれ?」
彼女はぼんやりした声で言った。
「ここ……どこ?」
警備員は腕を組んだ。
「大学の教室だ」
「大学……」
「もう夜中だぞ」
時計を見る。
午前一時。
その瞬間、記憶が少しずつ戻ってきた。
漫才。
ネタフリ。
練習。
そして、寝た。
「君たち」
警備員が言った。
「ここで何してたんだ?」
僕と彼女は顔を見合わせた。
どうする。
このままだと完全に不審者だ。
すると彼女が、突然立ち上がった。
「どうもー!」
僕は反射的に立ち上がった。
「いや夜中ですよ!」
教室に声が響く。
警備員が一瞬、固まった。
彼女は続ける。
「僕たち大学生なんですけどね!」
「それは見ればわかります!」
「漫才の練習してたんですよ!」
「こんな時間に!?」
「ネタフリが難しくて!」
「知らないよ!」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
警備員が突然、吹き出した。
「……ははっ」
肩を震わせている。
「なんだそれ」
「すみません!」
僕は頭を下げた。
彼女もぺこぺこ頭を下げている。
警備員は笑いながら手を振った。
「まあいい。早く帰りなさい」
「はい!」
僕たちは慌てて荷物をまとめた。
教室を出る。
廊下は静かだった。
外に出ると、夜の空気が少し冷たい。
校門の前で、彼女は立ち止まった。
「……今日さ」
「うん」
「結局ネタフリばっかりだったね」
僕は笑った。
「確かに」
ネタフリして。
ネタフリしようとして。
そのまま寝て。
警備員に起こされて。
結局、最後までちゃんとした漫才はできなかった。
彼女も笑っている。
「まあいっか」
「うん」
「じゃ、また明日」
彼女は手を振って歩き出した。
僕も反対方向へ歩き出す。
夜道を歩きながら、ふと思う。
今日は、ネタフリばかりの一日だった。
でも、もしかしたら。
僕の人生そのものが、
まだ寝たふりいやネタフリなのかもしれない。
そして、本当の笑いが始まるのは、
もう少し先のことかもしれない。
そんなことを考えながら、僕はちょびっとだけ笑った。
