不変の予感──『水辺のつつじ』ep.5
七月の朝陽は、磨かれた窓硝子を味方につけて僕の網膜を貫いている。
平日の午前六時、空のどんぶりの後ろ、木島君はページをめくる指を止めた。
「瑞樹……」
「ん?」
「あん時もお前、牛丼不気味な色にしてたよな?」
「あん時……?」
「とぼけんなよ! お前が授業終わりに教授に呼び出しくらった日!」
木島君はしてやったりの顔で腕を組む。
途端、テーブルに置かれたテキストは背表紙を上にしてパタンと閉じてしまった。
一夜漬けの最中に寝落ちするみたいにして。
「正確に言えばその次の日の朝……」
あの日の……いや、あの前の晩の月は消え入りそうなほどに鋭く、ひんやりとして見えた。
クビキリギリスのジーと鳴くのが煩い夜だった。
効きの悪いエアコンは僕の背を濡らし、心臓を包む微熱は微赤色の錠剤なんかではいさめられないほど昂っていた。
悶々としたまま、僕は少しでも美しいものが見たくてふらふらと部屋を出た。
鍵は閉めなかったかもしれない。
どこをどう歩いたか、ただ時折人にぶつかりかけたり、どこまで歩いても付きまとってくる月に腹を立てたりしていたことはうっすらと覚えている。
狂い咲きの薄紅のつつじの匂いの甘い匂いがしていたことも。
とりとめもなく歩いていたようで、その実僕はあの公園を目指していたのだ。
塔と月、そして水。
茂りすぎた広葉樹が街灯の力を弱めている。
夜露に足趾を濡らし、日本刀のようなイネ科の刃に辻斬されつつ僕は歩き続けた。
しばらく行くと、ぼんやりと人型らしきものが横たわっているのに気付く。
わずかに吹く鈍い風が葉を押し退けた。
揺れ漏れた光がその人物の髪を赤く透かす。
僕は身慄いした。
汗がヘドロのようにつたい、べっとりと背中を汚していく。
「あの! あの……その……」
恐る恐る、ぐったりと投げ出された手を握る。
薄く火薬のような匂いがした。
アクセサリーだらけの指も、掌も日陰の土の如く湿り、ひんやりとしている。
ぴくりともしないその人型の傍には長方形のイカついケースが転がっている。
ハードボイルドな映画で、マフィアなんかが太い葉巻を咥えてニヤつく部屋の真ん中にどかっと置かれているようなシロモノ。
……それにしては妙に横に長い気もするが、とにかく黒いボディに銀の鍵のついたきな臭いケースだ。
そうか。
そうだ。
ともすれば、彼は悪党に狙われて……?
「嫌な予感」としか言いようのない感情に駆り立てられた僕は、例の黒いケースを抱き上げた。
ずん、と腕が沈む。
この重みは……現金……?
いや、もっとまずいものかもしれない。
あたりを見回した。
大丈夫だ、誰もいない。
こんなところを誰かに見つかったら、今度こそ彼は殺されてしまうかもしれない。
僕の心臓は暴れに暴れた。
彼の周りに転がっていた背負いの長いケースを背に、転がっていた布バッグを左肩にかける。
赤髪男のだらりと伸び切った腕を自分の右肩にかけようとした時のこと。
彼の口がだらしなく開き、涎を垂らしてることに気付く。
一瞬、ほんの一瞬。
ふっと力が抜ける。
遠くの方でタンッタンッとゴム底がコンクリートを蹴る音が聴こえた。
もう、月のことも、塔のことも、水のことも忘れている。
僕はなけなしの筋肉に力を入れ、荷物ごと彼を抱き上げた。
「うわっ」
と情けない叫びと共に崩れる身体。
それでも再び、ふらつきながらも立ち上がる。
どこをどう進んだか、どれほどの時間を要したのかはわからない。
わずかに薄らいできた藍色の空の下に彼の身体を横たえさせて……
結局、無意識で塔に辿り着いていたんだ。
そして、柵に手をかけて見上げていた。
藍色の向こうの、橙の光線の塊を。
「瑞樹! おい、瑞樹!」
「え?」
「おいおい……せっかく俺が珍しくいいこと言ってんのに聴いてねえの?」
自分で言ってしまっている。
確かに木島君は、珍言は連発するけど良いことはあんまり言わない。
貶してなんてない。
それが彼のいいところだ。
「一緒に視ただろ? 朝焼け。」
「うん、視たね。」
だんだんと小さくなる僕の一口に木島君は少々苛立っているようだった。
「で、お前あん時何て言ったか覚えてっか?」
「え?」
「俺は覚えてるぞ! お前がいくら忘れてくれって土下座しても忘れてやらねえから!」
耳朶を真っ赤にして、人差し指を突き出してくる癖は僕を安心させる。
「よかった、って。お前、よかったって言ったんだよ!」
もちろん、覚えている。
だって、本当に「よかった」から。
「俺からすればさ、なんもよくなかったんだよ! 服は泥まみれだし……だってアレ、お気に入りだったんだよ! それも、バイト代貯めて買って、あの日のライブのためにさ!」
恨み節は止まることを知らない。
「それにあん時のお前、マジで気味悪かったんだからな!」
うん、それはだいぶ失礼だと思うけど。
僕の方だって先の鋭い刃物で右頬をメッタ刺しにするような視線が痛かったよ。
「何より、あいつらの薄情さ! つぶれた俺を放置して帰りやがって……もう俺は打ちひしがれてたわけ!」
テーブルを一発、パンッと叩く。
「だから、お前の『よかった』発言で完全にノックアウト。」
額に手を当て弱々しくしてみせた。
でも、木島君は言葉の圧力ほど僕を責める気はなさそうだった。
あくまでも体感として。
「ひとつ、ずっと気になってることあるんだよね。」
ようやく最後の一口を飲み込んだ僕は噯気を喉奥に詰めながら言った。
「何?」
「あのさ……」
木島君は組んだ脚に胸を近づけた。
「んだよ?」
「ご飯粒、残ってるよ。」
「は?」
「だから、ご飯粒。残ってる。」
僕からはよく見えて、木島君からは見えにくい、どんぶりの曲線上。
「ほんっとに。お前変わんねえよな!」
僕の指さしたのを頼りに米粒をつまんで笑っている。
「お米一粒でも無駄にしたら隣の爺さんが明け方斧持ってやって来るらしいよ。」
「それやめろって! こう見えて怖ェの苦手なんだよ……」
満席の近い店内。
僕たちは笑い合った。
そして実はこっそり、噯気をしたのだった。
店を出る。
朝の二四六沿いはエンジン音が眩くて、ガソリン臭が騒がしい。
大学の看板が控えめにこちらを向いている。
「あ、路上喫煙禁止だよ。」
「はい! 失礼しました!」
木島君は火のついていない煙草を咥えたまま敬礼して見せた。
僕はそれを見て、つい吹き出してしまった。
「相変わらず、だね。」
「人間って、そう簡単に変わんねえだろ?」
と気取って顎を天に向ける横顔。
なんでそんなにえらそうなんだよ、とは言えないから代わりにこう言ったんだ。
「そうだね。」
僕はあの灰色の塔の方角の空を眺めた。
真っ黒なカラスが一羽、羽を翡翠色に光らせ飛び去っていく。
勤勉な街に馴染むのは難しい。
僕は今日、自分が何の試験を受けるのかもわからないまま夏空の下をひた走るのだった。
(続)
↑
直前のお話。
↑
こちらは別の死生観シリーズ。
↑
アホすぎるベースボーカル・砂川恭平の話。
↑
梶井基次郎の檸檬を勘違いする人生(エッセイ)
↑
30話超えた、推定大正時代の文学青年たちの学生生活を元文学部が勝手にでっちあげてます。
↑
ゆきお様・作
一年生違いです。
そして性別も違う、世界線。
二次創作とおっしゃっていますが恐れ多い。
これはもう、ゆきお様にしか描けぬ唯一無二の世界のお話。
素敵なのでぜひ。
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よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し