僕はミニアテュウル──『水辺のつつじ』ep.4
大学に入って、最初の夏のこと。
エアコンの壊れた教場は、前期試験を間近に控え、すし詰めの蒸し風呂状態だった。
あの日、僕は窓側の前から四列目の席に座っていた。
わずかに開いた窓からは、小さな子どものおどけた声と土臭い熱風が吹き込んでくる。
風邪の後の肋のほの怠さと、耽り過ぎの物憂さから、ほとんど集中を欠いていた。
これは少し言いにくいけれど、隣に来た二人組。
結構、苦手なタイプだ。
二人分の香水と、整髪料、わずかな煙草と汗の匂い。
三人席の居心地の悪さもいよいよ限界が近い。
いや、僕が悪いんだ。
一番最初に入室して、どうせ今日もガラ空きなんだろうって何も考えずにこんなところを陣取ったのだから。
とはいえ、この二人には僕が見えていないようなのだけれど。
黒い柵の向こうに広がる公園を眺める。
とは言ったもののあまりに緑が茂り、何も見通せない。
どうにも逃げ場のない景色はまるで、今の僕が置かれた状況の縮圖のようだった。
……と、ルーズリーフの隅に走り書いた。
おかしいな。
逆だ。
ぎっしりと詰まった緑の縮圖が僕だ。
二重線を引く。
──僕は緑の……
少しでも邪魔をしないようにと窓に近づいて行ったら、板書するスペースがなくなった。
隣から飛んでくる消しゴムのカスを爪で寄せ集める。
黒板にはこう書かれている。
──昇天か、溺水か。
故意か、偶発か。
僕は窓にルーズリーフを一枚押し付けて、その問いを書き写した。
「は? 夢遊病じゃね?」
半笑いの声が机が小刻みに揺らした。
「普通に、suicideだろ?」
「はは、めっちゃエモ! それ手ェ挙げて言えって!」
「やだよ!」
「挙げろって!」
彼らの下品な正論は逆上せた風呂場の酔っ払いの歌のよう。
狭苦しく感じていたこの部屋が僕を中心に、ぐわんぐわんと音を立て、歪に拡がっていく感覚に襲われる。
意識はうわずり、指先は痺れていた。
「K君はオフィーリアと眠った……」
喉からではない。
舌の真ん中あたりから思考が転がり落ちる。
半ば、意地だった。
偶発であってたまるか。
故意で片付けられてたまるか。
お前たちに何がわかる。
「ただそれだけのことではありませんか?」
机の上には消しゴムのカスと、僕の口から吐瀉かれた言葉とが散らばっている。
その言葉ひとつで、教場は凍りついた。
西田教授の白シャツは右上がりにシワを作ったまま固まっている。
「なるほどね……」
石灰のわずかに砕ける音の後、低く咳払いをして彼は言った。
「君、授業終わり僕のところに来てください。」
瞬間的に熱くなった脳の芯も今はすっかり冷え固まっている。
額をぬめるように汗が這っていった。
教場はまた元のように縮こまり、それこそ社会の縮圖をまざまざと僕に見せつけてくる。
「ウケるんだが……」
「さすがに昼間っからだめだろ……」
「っていうかオフィ? え? 何?」
「知らねえよ!」
右肩に湿った背が触れる。
薄く、湿気たタールの匂いが鼻をついた。
みんなと一緒に回れ右、気をつけ、そして礼のできない奴は打たれ、磔にされ、焼かれてしまう。
きっとそう言いたいんだ。
僕は鞄の中身を色々に取り出して、彼らとの間に積み上げる。
十三・七センチのささやかな抵抗。
こういう時、あからさまに迷惑げな顔ができたらな。
そんなことを思いながら僕は挙動不審に頭を下げた。
「今日の日替わり、鯖ミソらしい!」
「マジか、当たりじゃん。行こうぜ。」
彼らの意識と胃袋はすでに学食にすっ飛んでいるらしい。
ともすれば、もぬけの殻の肉体に……?
程なくして終鈴が鳴った。
そそくさと抵抗を片付けて、立ち上がる。
でも、ここでとんでもないことに気づいた。
僕の席は窓際の前から四列目。
言わば袋のネズミ状態だ。
ただの一匹、回れ右をした哀れなネズミの目の前には、どっかり居座るヒトの抜け殻。
後ろはあの窓だけど、それは解放の顔をした罠だと僕はすでに知っている。
袋小路で絶望した。
消えきらない、黒板上のオフィーリア。
あまりにも完璧な八方塞がり。
視界の右下には鮮やか過ぎる赤い色。
そこから放たれる視線があまりにも痛い。
ああ……後ろにもいたのか。
苦手な種類の人間が。
左の机を乗り越えて行こうかな……
いや。
そんなことしてみろ、鈍臭い僕はひっくり返って笑いモノになるに決まってる。
「あ、悪ィ! ちょっとあれ!」
アクセサリーまみれの指が僕の前に伸びてきて、真ん中の学生の背に触れた。
「あれ、とってくんね? 吹っ飛ばしちゃってさ。」
「どれ……?」
学生は身を乗り出した。
つられてもう一人も同様に。
「もうちょっと前!」
指先から放たれる矢印はまるでミステリーツアーへの誘い。
「あとちょい! ちょい右! そうそう、通路の方!」
僕もつい、その指先を追っていた。
一体、何を落としたのだろう?
掴みどころのない指先の延長線上、教授が手招きしている。
急がねば……
「あー! そうそう! 前!」
ガタン、と椅子がずれる。
今しかない。
この時僕は自己ベストを大幅に更新し、二メートルほどを移動した。
視界の右側に赤い髪が揺れた気がする。
「瑞樹! おい! 瑞樹! お前、この店潰す気か!」
「え?」
僕の前にはどぎついピンク色に染め上げられた丼が鎮座していた。
「ほんっとに……ひと様の善意を食い荒らすなよ!」
一利どころか、十利。
いや、兆利はある。
もし僕がこの調子で毎朝来店したら、この店舗は間違いなく二ヶ月以内には潰れると思う。
「そういえばさ、あの時何落としたの?」
紅生姜を摘む割り箸の先は赤く染まっている。
「なんの話?」
「一年の時、ちょうど今くら……」
「ああ! お前が教授に呼び出しくらった時の?」
「うん。」
「なあなあ、あれ結局なんだったんだよ……」
「いや別に。こっちのことはいいんだって。何落としたの?」
木島君は珍しくしょげた顔をして牛肉を吸い込んだ。
全然知らない歌がスピーカーから流れている。
サビらしきものが終わったところで彼は口を開いた。
「単位! 言わせんなよ。俺、今もあの授業履修してんだから!」
この後も木島君は、心の傷がえぐられただの、どうしてくれるんだだのと大騒ぎしていた。
そのくせ僕の紅生姜がまだ終わらないというのに、特盛の牛丼はもう残すところ米粒三粒といったところだ。
時計はちょうど六時を指している。
街はもう平日の顔で歩き出し、店の中にもちらほらと座り始めた。
ようやく辿り着いた甘辛い肉の脂が口の中でじわりと溶けた。
「やっぱり、重いね……」
苦笑いする僕に、腕組みをした木島君は言った。
「ちゃんと食えよ?」
「わかってるよ。木島君、辛いの苦手だもんね。」
「あ、また言ったな?」
冗談めかした怒り顔を見抜けるようになっていた僕は、柄にもなくずっと笑っていた。
牛丼は、まだ半分以上残っている。
木島君は目の前で、あの日と同じ本の年季の入ったのをめくり始めた。
泥にまみれた、白いTシャツのまま。
(続)
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直前はこちら。
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そろそろヒートテックの季節終わりますかね。
ヒートテックエッセイ。
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私は決して帝大生ではないです。
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ゆきお様・作
マクドナルド文学です。
短い言葉を淡々と積み上げる。
そして生まれる多層的な物語。
ぜひ、声に出して読んでみてください。
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