微熱と飴玉
よもぎさんに捧ぐ
朝、母は「じゃあ行ってくるからね」とだけ言って買い物袋を提げ、玄関の戸を軽く引いた。金属のぶつかる乾いた音がして、家の中は急に静かになった。
瑞樹は布団の上でその音を聞きながら、うっすら開けた目をまた閉じた。さっきまで「おなかいたい」「ちょっと熱っぽい」と言っていたのは自分だ。ぜんぶ嘘ではないにしても、ほんとうでもない。学校に行きたくない、それだけのために、少しだけ具合の悪い顔をしてみせた。
仮病、という言葉が頭に浮かぶ。
途端に、なんだかその二文字が額の裏に張りついたみたいに不快だった。
起き上がる。誰もいない居間は妙に広く見えた。さっきまで母がいたはずなのに、湯呑みだけがぽつんと残っていて、もうこの家のぜんぶが自分の怠けを知っているような気がする。
「……だる」
言ってみたが、本当にだるいのか、言い訳としてだるいのか、自分でもよく分からない。
カーテンを少し開けると、外はからりと晴れていた。登校班の声ももう聞こえない。今ごろ教室では一時間目が始まっているころだろう。黒板、日直の声、がたがた鳴る椅子。そこに自分がいないことを思うと、胸のあたりが少しざわついた。
けれど今さらランドセルを背負って走る気にもなれない。
瑞樹は台所へ行った。昨夜の残りの麦茶が入ったペットボトルが一本、流しの横に転がっている。コップに注ごうとして、やめた。口をつけて直に飲む。ぬるい。妙に腹が立った。飲み干したあと、そのまま手の中でぐしゃりと握りつぶす。
乾いたへしゃげる音が鳴った。
「……え」
自分でやったくせに、瑞樹はペットボトルを見つめた。いつもはこういうの、うまく潰せない。両手で力を入れても中途半端な形になるだけなのに、今日は一回でぺしゃんこになった。
別にたいしたことじゃない。そう思うのに、何かしてはいけないことをした気がした。
証拠を隠すみたいに、資源ごみの袋へ押し込む。
そこで瑞樹は、流しに置かれた朝食の皿を見た。母が洗う前の茶碗、みそ汁の椀、菜箸。いつも見ているのに、今日はなぜだかひどく散らかって見えた。
少しだけ、胸がむずむずする。
学校を休んだのだから、せめて何かしなければならない気がした。何か、ちゃんとしたことを。怠けてないぞ、という証拠になるようなことを。
瑞樹は袖をまくった。
まず皿を洗った。泡が立って、ぬるぬるして、すすぐとつるりとした。皿洗いは思ったより単純で、だからこそ無心になれた。つぎに洗濯機のふたを開ける。母が分けておいた洗濯物の山を見て、一瞬たじろぐ。白いもの、色のついたもの、タオル、靴下。ぐちゃぐちゃに放り込んだら怒られる。いや、家庭科で習っただろ、と瑞樹は自分に言い聞かせる。
「白いのと、色つき……」
ぶつぶつ独り言を言いながら分ける。洗剤を入れて、ボタンを押す。ぐわん、と水が回り始めると、少しだけえらくなった気がした。
待つあいだ、部屋の掃除もした。居間に落ちている新聞をたたみ、テーブルの上のリモコンをそろえ、掃除機を引っぱり出す。コードが足にからんでいらいらする。椅子の脚にぶつけて、がん、と音がした。
「もう……っ」
誰に怒っているのか分からないまま、瑞樹は掃除機をかけ続けた。畳の目にそって動かすと、目に見えないほこりが吸いこまれていく。きれいになっていくのは気持ちがよかった。
洗濯が終わるころには、汗が首すじをつたっていた。
ベランダへ出る。太陽が高い。洗ったシャツをぱん、と振ってしわをのばし、洗濯ばさみで留める。白い布が風にふくらむ。タオル、靴下、母のエプロン、父のシャツ。家族のものを自分が干しているのが、妙にくすぐったかった。大人になったみたいで、でもほんの少しさびしい。
全部終えると、瑞樹は息をついた。
ここまでやったんだから、もう十分だろう。そう思ったのに、台所に戻ると今度は冷蔵庫が目についた。にんじん、じゃがいも、玉ねぎ。豚こま。カレールウの箱。
家庭科の時間、先生が言っていた。「カレーは順番を守ればだいたい失敗しません」
だいたい、という言葉がやけに頼もしく思えた。
「……作れるかも」
瑞樹は鍋を出した。
玉ねぎを切ったら目にしみた。じゃがいもの皮をむくのに時間がかかった。にんじんは太さがばらばらになった。豚肉を炒めるとじゅわっと音がして、台所に匂いが立ちこめる。鍋に水を入れて煮る。灰汁を取る。ルウを割り入れる。木べらで混ぜる。
その一つ一つが新鮮で、同時にひどく疲れた。
学校を休んでいるくせに、どうしてこんなことをしているんだろう。
でも止まれなかった。止まったら急に、自分がただのずる休みした子どもに戻ってしまう気がした。
ぐつぐつ煮える鍋を見つめながら、瑞樹はぼんやりした。額が熱い。さっきから汗が止まらない。火の前に立っているからだと思いたかったが、少し違う気もした。
炊飯器のごはんをよそい、カレーをかける。見た目はちゃんとしていた。ひと口食べる。少し薄い。でもちゃんとカレーだ。
「うま……」
言った途端、ぐらりと台所が揺れた。
鍋のふた、流し、冷蔵庫の白い扉、その全部が遠のいたり近づいたりする。耳の奥でじいんと音がする。瑞樹は椅子を引こうとして失敗し、その場にしゃがみこんだ。
気持ち悪い。
喉がひどく渇いているのに、立てない。床板の冷たさだけが頬に気持ちよかった。
最初は仮病だったのに、洗濯して、掃除して、料理までして、ほんとうに具合が悪くなってしまったのだと、そのときやっと思った。
母が帰ってきたのは、瑞樹が台所の床に座りこんだまま、半分眠っていたころだった。
「ちょっと、瑞樹!?」
あとはもう、熱を測られて、布団へ運ばれて、額に冷たいものをのせられたことぐらいしか覚えていない。母は怒るより先にあきれて、それから少し笑った気配があった。
「休んだ日にカレー作って倒れる子、はじめて見たわよ」
その言葉に反論したかったが、口を開く元気もなかった。
次の日、瑞樹は本当に学校を休んだ。
朝の光は昨日よりやわらかかった。けれど体は鉛みたいに重い。仮病ではない休みは、妙に後ろめたさが少なくて、そのことが逆にしゃくだった。
枕元に、見覚えのない飴玉が三つ置いてあった。透明な包みの中で、琥珀色に光っている。下に小さな紙が折ってある。
瑞樹はのろのろとそれを開いた。
──眠れた? これよかったらどうぞ。
「……よかったらどうぞ、って」
飴玉のことか。たぶんそうだ。ほかにどうぞできるものはない。
一つ手に取り、包みをむく。舐める。甘かった。まっすぐに甘いだけじゃなくて、少しとろっとした、蜂蜜みたいな味がした。
不思議においしい。
でも、誰だ。
母の字ではない。父の字でもない。もっと丸くて、小さいのに妙に丁寧な字だった。
昨日、誰か来たか。いや、自分は寝ていた。母がもらったのか。近所の人か。同じクラスの誰かか。先生か。ありえない。先生が飴玉をよこすだろうか。
考えれば考えるほど分からない。
分からないことが、だんだん腹立たしくなってくる。
「誰なんだよ……」
せっかく甘い飴を舐めているのに、胸の奥はちっとも甘くならない。むしろ、見えない相手にじりじりさせられている。親切なら名前ぐらい書けばいいのに、と瑞樹は思う。けれど本当は、それを書かないところがその人らしいような気もして、そこがまた気に障る。
もし同じクラスのやつなら、どうして自分が今日も休むって分かったんだ。母が話したのか。誰に。なんのために。
額の裏がじわりと熱を持つ。
せっかく下がりかけた熱が、またぶり返してきそうだった。
瑞樹は手紙を裏返した。何もない。もう一度表にする。やっぱり名前はない。
琥珀色の飴を舌の上で転がす。甘い。むかつくくらい甘い。
窓の外では、風に揺れた洗濯物が白くひるがえっていた。昨日、自分が干したシャツだ。ちゃんと乾いている。そのことだけは、なぜだか少しうれしい。
瑞樹はもう一度、手紙を見た。
──眠れた?
そのたった一言が、熱のある体には妙にしみた。
誰なんだ、といらだちながらも、紙を捨てる気にはなれない。飴も、残り二つを箱に戻す気にはなれなかった。
結局その日、瑞樹は正体の分からない誰かに腹を立てながら、少しだけ救われてもいた。
それがいちばん、気に入らなかった。
