見出し画像

ぼんやりとした硝子

──誰も喋らなくなった。
誰も立ち止まらなくなった。
否、皆それぞれ好き勝手に生きている。
言葉は今日も生まれ続けている。

その声が聞こえなくなった。
俺は一人、雑踏に置かれた透明の箱の中に入れられている。
「出せ! 出してくれ!」
そう叫んでいるつもりだが、肺から出た空気が喉を梳いていくのみで声にならない。

透明な壁を拳の小指側で殴りつける。
ゴッ……ゴッ……と鈍い音がする。
この透明は、分厚い。
先が見えている。
光は届いている。
しかし、細胞の塊はここをすり抜けることができない。

赤く染まった拳より、肘関節がじんじんと痛む。
真っ白な袖を捲り上げ腕をさすろうとして今度は右手親指側に跳ねるような痛みが走る。

「うっ」と漏れそうになる声ですら、喉元を掠めるのみ。
うめくことすら許されない。

痛みを誤魔化そうとして、痛みに苦しめられる。
まるで副作用を打ち消すための薬のそのまた副作用という円環の上でくるくると踊らされているように。
おどけているように見えて、その実自我の主導権がどこか遠くに奪われていく恐怖そのものに見張られている。

手をつけば、べっとりと白く指紋が残る。
呼吸をするたびに、あたりは少しずつ白く濁っていく。
触れるたびに厚みを増していくような錯覚に、心臓は拍動を打ち間違える。

「おい! 誰か……そこの! そこの赤い服の……」
やはり、声にならない。
我が言葉は空気を揺らすことすらできない。
もしくは真空の中に在るようでもある。
しかし驚くほど喉元はひらけていて、酸素は有り余るほど肺を薄くする。
それがむしろ苦しい。

いつかどこかで誰かが言っていた、「声が、言葉が透き通る」とはこのことなのだろうか。
ともすれば俺は彼女をいたく傷つけていたのかもしれない。

「君の声は美しい。君の描く世界は美しい。まるで、透き通ったガラス細工みたいだ。」

あの時の微笑みは……

透明なナイフで、その心臓を抉りとったのは紛れもなく自分だったのかもしれない。

「言葉は無力、君は無力……」

やめてくれ。

左手と額とを分厚い透明に押し付ける。
ひんやりとした感覚が接地面から全身へと広がっていく。
すぅっと脳幹が冷えるのを感じた。
その姿勢のまま、透明の外側の世界を睨みつける。
知らない顔が忙しなく、通り過ぎていく。
人間の密度は高い。
それでいて誰もこの箱にぶつからない。
不思議だ。
誰とも目が合わないのに、皆ここをよけている。
それはまるで、まん丸な石の周りをすり抜けるように流れる水のよう。

十五・六の時分、あの滑らかな水の流れに心を奪われた。
乱反射のような派手さはなく、陽の光を水中で抱き込むような穏やかな煌めき。

眺めているうちにその均衡を崩してみたくなる。
流れをわかつあの石を、右手で掴む。
凛と澄んだ水が手首を撫でていく。
しばらくそのままにしていた。
背中に穏やかな陽の光の温かさを感じながら、じんじんと冷えていく右手の痺れた感覚が妙に心地よかったのだ。
おそらく、人生において「恍惚」を初めて知った瞬間である。

痺る右手ごと石を引きあげる。
ポタリ、ポタリ、手から石からもといた場所へと還る雫の輝きを見ることもしなかった。

特段、流れに変化は見られない。
何事もなかったかのように、まるで初めからそうだったかのように再び光を包み込みながらどこまでも流れていった。

心臓が一度だけドンっと強く打った後、また元のように動き出す。
鼻の奥がツンとして、喉奥に氷が落ちるような違和感を覚えた。
少し意識が遠のいた後、水のせせらぐが現実と俺とを繋ぎ止める。

無意識に右手をポケットに突っ込んで、その重みに何か秘密を握った時のような高揚感を覚えた。

──まさか、な。

雑踏の中に見知った顔を見つける。
途端俺は一発、ドカンと透明を殴りつける。
怒りにも似た、悲しみにも似た、喉元が灼け焦げるような感覚に衝動が抑えきれなかった。
瞬間、後ろに倒れ込んだ。
自分でも驚くほどの力だった。
弾力などないはずの透き通った壁、それに身体を弾かれる。

「俺が! 俺のことが! 見えないのか?」
やはり声にならない。
パクパクと口を動かす。
まるでガラス鉢の中、餌を待つ金魚ように。

見知った顔は、ちらりともこちらを向かない。
俺の姿は奴の眼中にすらないのだ。
嘲り笑っているように見えてならない。
光の中へと消えていくその誇らしげな背中をぶん殴ってやりたい。
ふらつきながらも立ち上がりもう三発、透明を殴りつけた。

ゴッ……ゴッ……ゴッ……

鈍い音が生まれては消え、生まれては消えを繰り返す。

拳は赤黒く染まり始めている。
打ち付けた背中が鈍く痛む。
呼吸も浅い。
後頭部を打ち付けたせいだろうか、くらくらしている。
全てが痛い。
関節という関節は全て外れ、内臓も破れてしまったと錯覚するほどに、痛い。

眼球だけを動かして自分の身体を確認する。
白い袖は胴体の部分から伸びていて、手指が見えている。
動く。
右手は握り込むような動きでぎこちなく痛む。
左は壁を殴りつけた小指側含め、全体的に引き攣ったような痛みがある。
息を吸えば胸が膨らみ、吐けばぺしゃんこに潰れる。
その下には白くゆったりとした布地の先に伸びすぎた爪の足が見える。
いやに筋張っている。
しかし、これは見慣れた俺の身体だ。
……衣服を除いては。

かろうじて生きている。
その証拠に透明の内側はもうだいぶ曇っている。
俺はまだ生きている。
重力に準えて言えば地面と呼ばれる側の透明に背中を預けたまま指で白をなぞり消す。

瞼はおろさない。
この無関心の全てを身体中に刻みつけてやる。
力なく笑う。
おそらくこれが、「輝きを失った瞳」というやつだろう。
ただまだ、感情は抜け落ちてはいない。
多少の起爆剤くらいは残っている。

相変わらず人の群れは互いに無関心だ。
触れることなく器用に流れていく。

群衆の中に、白黒の男が佇んでいるのが見える。
俺は驚いて身体を起こす。
ギシギシと軋むような痛みすら、どうでもよくなるほどにその男の姿をよく見たいと、分厚い透明に両手と額をグイグイと押し付ける。
目を凝らす。
何度も瞬きをしては目を凝らす。

彼は着物を着ている。
ゆっくりとこちらへ向かってくる。
あんなに器用にぶつからずにするすると移動していた人々はなぜか彼の身体をよけることはしない。

……すり抜けているのだ。
一体何が起きているのか。

ついに彼は箱の前までやってきた。
その瞳は確実に俺を捉えている。
互いの網膜に姿を映しあっている。
そう、確信させて欲しい。
見えるのか?
俺のことが、見えるのか?

俺は口をパクパクと動かす。
男は微動だにしない。

白黒であるにも関わらず、肌は透き通るように白く、くちびるは真紅でやや紫がかっているのがわかる。
その妖艶さに魅入ってしまう。

「俺は、あんたと話がしたい!」
それは心の声だ。
現実には脳がすっかり溶け落ちたような妙な感覚に陥っている。
口を開けたまま、舌の奥まで乾ききっている。

男は伏目がちに何かを取り出す。
するとおもむろに自身の顔の高さにそれを掲げ、こちらへ向けてきた。

息をふっと吸い込んだ瞬間、体感一秒程時が止まった。
まもなく頭の中に風が駆け抜けていく。
全てを吹きさらっていった。

この時初めて、我が脳がまっさらではなかったことに気付く。

蝋燭の炎が、限界まで靡くが如く言葉も掠め取られていく。

身体がガタガタと震え始める。
男はまた伏目がちにそれをしまい、去っていく。

このかん、あの妖艶な真紅の脣は一度たりとも動かなかった。

彼の背を見送りながら、渦巻く感情に気づく。

「ぼんやりとした不安」

全てのピースがはまったときのような、脳を涼やかな風が掠めるようなあの感覚を覚えた。
輪郭のないものを言葉として捉えた瞬間の、一種の全能感に似たものを噛み締めている。

腰の右側の衣服がややずり落ちてくる感覚があった。
ポケットの中のむわっと生々しい温度の物体に触れた。

透明をすり抜ける光はやや照度を落としている。

今も皆、それぞれ好き勝手に生きている。
言葉は今日も生まれ続けている。

ぼんやりとしたものの輪郭をなぞる指は生暖かい。
じんわりとした痛みが左手に残されていた。



ゆきお様による解説。
色々と制作時の意図を見抜かれておりまして度肝を抜かれました。

【絶賛!スランプ中】
全米が泣きも笑いもしない絶賛スランプ中!
通常運転の記事はこちら。


童謡を聴き間違えてラルク降臨。


書店で屁をこいた話。


小学生時代、橋田壽賀子先生をも凌駕する長台詞を生み出した話。


梶井基次郎の有楽町駅放尿事件。

いいなと思ったら応援しよう!

よもぎ よもぎちゃーん! はーい! 何が好き? ポテトチップスよりも お・ぬ・し

この記事が参加している募集