何度やっても「わかった」にならない理由。スキナーとピアジェで考える学びの限界
□ スキナーとピアジェで考える学びの限界
前回の記事では、ゲティア問題について考えました。
知識とは「正当化された真なる信念」である。この考え方は、長いあいだ知識論の中心にありました。
しかし、ゲティアはそこに問いを投げかけました。
正当化されている。
真である。
本人も信じている。
それでもなお、「知っている」とは言えない場合があるのではないか。
この問いは、教育にもそのままつながります。
生徒が正解した。
理由も一応言えた。
本人も「わかりました」と言っている。
それでも、本当にわかっているとは限らない。
テストでは正解したのに、少し形を変えると解けなくなる。
授業中はうなずいていたのに、自分の言葉では説明できない。
解法を覚えていたのに、どの場面で使うのか判断できない。
こういうことは、教室で何度も起こります。
この問いに向き合うために、まずは学習を外側から捉えたスキナーの考え方から見ていきます
□ スキナー 「刺激と反応」
◾️ 知識は行動の蓄積として説明できるのか
学習を外側から説明しようとした人物として、スキナーがいます。

スキナーは、人間の学習を「刺激」と「反応」の関係から捉えようとしました。
ある刺激がある。
それに対して、ある反応が起こる。
その反応が強化されることで、行動が形成されていく。
かなり単純化すれば、学習とは望ましい反応を積み重ねていくことだと言えます。
詳しくは以下の記事で、
スキナーの「行動主義」の学習観を解説しているので、ぜひご覧ください。
たとえば、英単語を覚える場面を考えてみます。
問題が出される。
答える。
正解なら丸がつく。
間違えたら直す。
もう一度覚える。
この繰り返しによって、少しずつ正しく答えられるようになります。
漢字練習もタイピングもそうです。
これは、行動として見れば「できるようになった」と言えます。

問題は、ここからです。
反復によって「できるようになる」ことはあります。
しかし、それは本当に「わかっている」と同じなのでしょうか。
◾️ 反復の限界「できることと、わかっていることは違う」
スキナーの考え方が強いのは、外から見える行動を説明できる点です。
しかし、知識には外から見える行動だけでは説明できない部分があります。
それが「意味」です。
なぜその答えになるのか。
なぜその方法を選ぶのか。
どの場面でその知識を使うのか。
その知識を使って、自分は何を考えるのか。
ここまで見ないと、本当に「わかっている」とは言いにくい。
英単語テストで正解できることと、その単語を使って自分の考えを表現できることは違います。
計算問題を反射的に解けることと、その式が何を意味しているのかを理解することは違います。
プログラムの型を覚えることと、自分の作りたいものに合わせてコードを設計することは違います。
ここから、次の問いが生まれます。
学ぶとは、外から与えられた反応を積み重ねることではなく、子ども自身が意味をつくっていくことなのではないか。
この問いに向き合ったのが、ピアジェです。
□ ピアジェ 「知識は子どもが能動的に構成する」

◾️ 学びは、ただの反応ではない
ピアジェは、子どもをただ知識を受け取る存在として見ませんでした。
子どもは、自分なりに世界を理解しようとします。
目の前の出来事を、自分の中にある考え方で解釈する
うまく説明できない出来事に出会う
自分の考え方を少しずつ組み替えていく
このようにして、子どもは知識を能動的に構成していくと考えられました。
詳しくは以下の記事で、
ピアジェの「構成主義」の学習観を解説しているので、ぜひご覧ください。
これは、スキナーの行動主義とはかなり違います。スキナーの考え方では、学習は外側から見える行動の変化として捉えられます。
一方で、ピアジェは、子どもの内側で起きている認識の変化に注目しました。
子どもは、ただ正しい反応を覚えているのではない。自分なりの考え方で世界を理解しようとしている。ここが重要な点です。
たとえば、小さな子どもが「重いものの方が速く落ちる」と考えていたとします。これは、大人から見ると間違った理解かもしれません。

しかし、子どもにとっては、自分の経験からつくった一つの説明です。
重いものは力強く落ちそうに見える。
軽いものはふわふわ落ちそうに見える。
だから、「重いものの方が速く落ちる」と考える。
しかし、実験をしてみると、思った通りにならないことがあります。

そのとき、子どもは自分の考え方と現実とのズレに出会います。
「あれ、思っていたのと違う」
この違和感が、学びのきっかけになります。

そして、子どもは自分の中にある考え方を少しずつ組み替えていきます。


このように、知識はただ外から入ってくるのではありません。
子ども自身が考え、試し、間違え、違和感を持ち、自分の考え方を更新していく。その過程で、知識はつくられていきます。
これは、教育を考えるうえで非常に重要な視点になります。
知識は、教師から生徒にそのまま渡されるものではない。生徒自身が、自分の中で構成していくものです。

◾️ 学びは能動的だが、一人の頭の中に閉じやすい
ピアジェの強さは、子どもを能動的な存在として見た点にあります。
ただし、ここにも限界があります。
それは、学びが一人の頭の中に閉じやすいことです。
子どもが自分で世界を理解する
自分で考え方を組み替える
自分で知識を構成する
もちろん、それは大切です。
しかし、実際の学びは本当に一人だけで起こるのでしょうか。
友達の一言で、急にわかることがあります。
先生の問い返しで、自分の考えの弱さに気づくことがあります。
他の生徒の間違いを見て、自分の理解が深まることがあります。
誰かの説明を聞いて、今までバラバラだった知識がつながることがあります。
このように、実際の学びは一人の頭の中だけでは完結していません。
自分で構成しているように見える知識も、実は他者との関わりに支えられています。
ここで、知識はさらに外へ向かいます。
知識は、ただ反復によって身につくものではない。
知識は、子どもが能動的に構成するものである。
しかし、その構成は、一人だけで起こるわけではない。
では、理解はどこで生まれるのか。
一人では届かない理解に、どうすれば届くのか。
この問いに向き合うために、次の記事ではヴィゴツキーの考え方を見ていきます。
□ 第三部の終わり
ここまで、スキナーとピアジェを通して、学びの見方を考えてきました。
スキナーは、学習を刺激と反応の蓄積として捉えました。反復し、修正し、正しい反応を増やしていく。これは、基礎技能の習得には非常に有効です。
しかし、それだけでは意味や理解までは説明しきれません。
ピアジェは、知識は子どもが能動的に構成するものだと考えました。子どもは、自分なりに世界を理解し、ズレに出会い、考え方を組み替えていく。
これは、学びを深く捉えるうえで重要な視点です。
しかし、それでもまだ、学びは一人の頭の中に重心があります。
実際の教室では、理解は一人で完成するわけではありません。
友達の言葉。先生の問い。他者の失敗。一緒に考える時間。
それらによって、一人では届かなかった理解に届くことがあります。
では、そのような理解はどのように生まれるのか。
次の記事では、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」を手がかりに、
教室で学ぶ意味について考えていきます。
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