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正解しても「わかっている」とは言えない理由。ゲティア問題で考える偶然の正解

◾️ 知識とは「正当化された真なる信念」の崩壊

前回の記事では、知識とは何かという問いが、古代から近代までどのように考えられてきたのかを見てきました。

知識とは、「正当化された真なる信念」である。

真であること。
信じていること。
正当な理由があること。

この3つがそろえば、人はそれを「知っている」と言える。

一見すると、とても納得しやすい定義です。

しかし、20世紀に入って、この定義を根本から揺さぶる出来事が起こります。

それが、ゲティア問題です。

この定義が、学習理論の根底にある問いと深くつながっています。知識をどう捉えるかによって、「学ぶとはどういうことか」の答えが根本から変わるからです。学習理論の変遷については以下の記事で紹介しています。

□ エドマンド・ゲティア

「1963年、エドマンド・ゲティアは、たった数ページの論文を発表しました。その論文のタイトルは、「正当化された真なる信念は知識なのか」というものです。

問いは、非常にシンプルです。

正当化されている。
真である。
本人も信じている。

それでもなお、「知っている」とは言えない場合があるのではないか。
ゲティアが示したのは、まさにこの問題でした。

それまでのJTBの考え方では、知識には3つの条件が必要だとされていました。

① 本人がそれを信じている
② その内容が真である
③ その信念に正当な理由がある

しかしゲティアは、この3つをすべて満たしていても、それを「知識」と呼ぶには違和感が残るケースがあると指摘しました。

つまり、JTBの3条件は、知識にとって必要かもしれない。
しかし、それだけでは十分ではないのではないか。

ここに、ゲティア問題の核心があります。


□ ゲティア問題の核心

偶然に正しくなった信念は知識なのか?

具体例で考えてみます。

Aさんは、教室の机の上にドーナツの箱が置いてあるのを見ました。

その箱には、有名なドーナツ店のロゴが入っています。
さらに、さっき友達が「そこにドーナツ置いておいたよ」と言っていました。

そこでAさんは、こう信じます。

この箱の中にはドーナツが入っている

このとき、Aさんにはそう信じる正当な理由があります。

ドーナツ店の箱がある。
友達もドーナツを置いたと言っている。

だから、Aさんが「箱の中にドーナツがある」と信じるのは自然です。

ところが、実際には、その友達が置いたドーナツは別の人がすでに食べてしまっていました。


つまり、Aさんが見ていた箱は、すでに空になっていたのです。

しかし、たまたま別の人が、
同じ箱の中に新しいドーナツを入れていました。

その結果、Aさんの信念は真になります。

箱の中には、たしかにドーナツが入っている。

Aさんはそれを信じている。
その信念には、それなりに正当な理由もある。
そして、その内容は真である。

では、Aさんは「箱の中にドーナツがある」と知っていたと言えるでしょうか。


ここで、多くの人は少し引っかかるはずです。

たしかに、結果として正しかった。
信じる理由もあった。
でも、それはたまたま当たっただけではないか。

Aさんの理由は、「友達が置いたドーナツが箱に入っている」という前提に支えられていました。

しかし、その前提は実際には崩れていました。

それでも偶然、別のドーナツが入っていたために、信念だけが真になった。

このような場合、JTBの3条件は満たしているように見えます。

しかし、それを「知っていた」と呼ぶのは不自然です。

ここで明らかになるのは、
知識にとって大事なのは、ただ正しいことではないということです。

正しい信念であること。
正当な理由があること。

それでも、その正しさが偶然によって成り立っているなら、私たちはそれを知識とは呼びにくい。

つまり、「正しい」と「知っている」は同じではないのです。


□ 偶然の正解

当たったことと、わかっていたことは違う

これは、学校の勉強で考えるとかなりわかりやすくなります。

たとえば、テストで4択問題が出たとします。

生徒は答えがわからなかった。
でも、なんとなくCを選んだ。
そして、たまたまCが正解だった。

このとき、その生徒は正解しています。

しかし、その生徒が「この問題を知っていた」とは言いにくい。

なぜなら、正解に至る理由がないからです。

では、少し違う場合はどうでしょう。

生徒はそれっぽい理由を持ってCを選びました。

ただし、その理由は途中で間違っていました。
けれども、偶然その間違った理由から出た答えが正解と一致しました。

この場合、生徒には一応、理由があります。
答えも真です。
本人もCが答えだと信じています。

しかし、それでも「本当にわかっていた」とは言いにくい。

なぜなら、その正解は理解によって支えられているのではなく、偶然によって支えられているからです。

これがゲティア問題の感覚に近いと思います。

たまたま当たった。
結果として正しかった。
理由もあるように見える。

それでも、「知っている」とは言えないことがある。

ここに、JTBの限界があります。


□ 知識論の転換

知識の正体は何なのか

ゲティア以降、知識論ではさまざまな議論が生まれました。

  • JTBに何を足せば、知識になるのか。

  • 偶然ではないことが必要なのか

  • 信念と真理の間に、もっと確かなつながりが必要なのか

  • 正当化のあり方をもっと厳密に考えるべきなのか

  • そもそも、知識を個人の頭の中だけで考えることに無理があるのではないか

このように、ゲティア問題は「知識とは何か」という問いを再び開きました。

知識には、正しさだけではなく、その正しさにたどり着く過程が必要です。

そして、ここから問いはさらに広がっていきます。

知識は、個人の頭の中にある信念なのか。それとも、人との関わりや、言葉の使い方や、実践の中で成立するものなのか。


□ おわりに

ゲティア問題によって、JTBは大きく揺さぶられました。

知識とは、ただ正解を持っていることではない。
ただ理由を持っていることでもない。
ただ信じていることでもない。

では、知識とは何なのか。

この問いに向き合うためには、知識を個人の頭の中だけで考えるのではなく、言葉、他者、実践との関係の中で考える必要があります。

なぜなら、私たちは一人で知識を持っているように見えて、実際には言葉を使い、他者と関わり、共同体の中で「知っている」と認められているからです。

ここから、知識の見方は大きく変わっていきます。

知識は、頭の中にあるのか。

それとも、人と人との間にあるのか。

次の記事では、スキナー、ピアジェ、ヴィゴツキー、ウィトゲンシュタイン、そしてレイヴとウェンガーを手がかりに、「知識は頭の外にある」という考え方を見ていきます。

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