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ワーカホリック=『大人の中二病』説。スパイダーマン新作に自分が批判されてた件

映画『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』を観ていたら、僕の仕事場が映っていました。

もちろん実際はそうではないのですが、マジでそっくり。

ラップトップを横に置いて、でっかい画面をいくつも見ながら、トム・ホランド演じる主人公ピーター・パーカーが音声でAIに指示を出しながら、あのクモの糸を出す装置「ウェブシューター」を作っていく。

その様子が、僕の2026年現在の仕事風景そのまんま。本当にこうやって仕事しています。

「あ、自分じゃん」と思って、素直にテンションが上がりました。

でも、映画館を出て駅まで歩いている途中で「ハッ」としました。

実は自分、この映画に批判されていたのでは?と。


筆者プロフィール:照沼健太
ポップアート2.0作家、YouTuber、音楽家。テレビ東京やNetflixのメディア運営、レディオヘッドら数々のアーティストのCD封入解説文、HIKAKIN、米津玄師、押井守、藤本タツキなどのクリエイターや多くのビジネスパーソンの取材を担当。2023年末からはYouTubeチャンネル「てけしゅん音楽情報」を運営。

仕事に没頭するスパイダーマンの生活、危うい

今作のピーターは、誰にも正体を知られないままスパイダーマン業に打ち込んでいます。

一見、すごく調子良さそうに見えますが、よく見るとかなり不穏。

NY市民の救助にのめり込んで明らかにハイになっていて、自宅ではAIと一緒にスパイダーマンの装備開発に打ち込んで、食事はほぼデリバリー。よく喋る相手はAIを除けば、現場で顔を合わせる刑事さんくらい。その刑事さんとはしょっちゅう事件についての電話をするけれど、事件の話題はそれ一辺倒で、親しみを抱いているのはピーターだけであることが示唆されます。

仕事は充実しているし、関わる人もいる。でも、誰にも踏み込めない。だから友達がいない。それが本作の、大人になったピーターです。

しかもこの映画は、そんなピーターの生活をヴィランがわざわざ品評するシーンまで用意しています。中盤、ヴィランであるジーンがピーターの部屋に忍び込み、電話をしながら部屋の様子やその印象を本人に向かって、執拗なまでに語り続ける場面があります。いかにも、な感じの孤独な20代男子のひとり部屋。「お前は孤独だ」と。

でも、ここで面白いのは、ピーターが自分の部屋やライフスタイルそのものへの皮肉にはあまり動じないところです。元カノへの手紙を読まれたことには超動揺するんですけど、自分のライフスタイルをディスられてることには、多分そこまで気づいてない。僕が映画館を出てから「あれっ?」と思ったように。

このシーン、その後わかるヴィランの性格からすると「そこまでやるか?」って違和感があるくらい悪意丸出しなんですよね。「脚本家あるいは監督の“個人的な何か”が出ちゃってない?」って。

ヴィランの攻撃材料が、独自の武装や能力を使った物理攻撃でも、人質を取った狡猾な二者択一でもなく、部屋と手紙。ここまで細かく主人公のライフスタイルを描いて、それを挑発の道具に使うんだから、作り手のメッセージ/作品のテーマの一つは明らかだと思います。

「こういう生活は危ういぞ」と。

で、僕はこれが笑えない。このnoteのいろんな記事でも書いているのですが、朝からAIと楽しく仕事して、ご飯はUber Eatsや冷凍食品で、気づいたらスーパーのレジの店員さんとしか話していないなんて当たり前。あるいはカフェでコーヒーを受け取るときのやり取りが、その日唯一の会話だったりする。そういう日が、僕にはマジで普通にある。というかデフォルト。

あらためて、ハッとします。

そもそも『スパイダーマン』という作品は、主人公のスーパーパワーと、少年の第二次性徴の混乱を重ねて描いてきた作品シリーズだと言われています。でも、本作の主人公ピーターは、どう考えても少年ではない。前作で取り返しのつかない失敗・挫折・喪失を経験している。さらに本作ではそんな前作から4年経っていて、友人たちは大学を卒業している。劇中で入浴するシーンで映る肉体からもはっきりわかる通り、大人そのものです。

つまり、本作は「大人の中二病」を描いているのではないか?

中二病って、もともとは思春期の万能感とコンプレックスがないまぜになった“拗らせ”のことですよね。「自分は特別だ。本気を出せば何でもできる」。「でも、そうじゃないかもしれない」……的な。スーパーヒーロー映画そのものです。

大人になるとさすがにそんな中二病を卒業した気にもなりますが、実際は形を変えて残っているのかもしれない。「大人の中二病」に。

本作を観て、そう思いました。

「仕事に打ち込んでゾーンに入っている自分は特別だ」「仕事で関わる人も増え、あちこちに出張している」と。

社会人なら思い当たる節があるのではないでしょうか? 外でセキュリティ皆無に大声で仕事の電話をする「俺はビッグビジネスしてるぜ」と言わんばかりのビジネスマン。カフェでバチバチバチっ!ッターン!とやかましくタイピングするやつら。僕はどっちもやっていませんが、多分それっぽいことは何かしらしてます。

しかも、やばいことに、AI時代に突入したことで、この万能感/ドーパミン的なる快楽を得ることが簡単になってしまいました。

プログラム未経験の僕でもアプリが作れて、ひとりで作れるものの範囲が毎月広がっていく。万能感が根拠のない妄想じゃなく現実になった分、机に向かう時間はどんどん延びる。「今は音声入力とリモート接続ができるから、部屋にいなくてもバイブコーディングできるよ」? それだって、目の前にいる人に向き合っているのではなく、仕事に向き合っているだけじゃないか。

そして社会はそんな新たな競争が始まっていることに気づいた人たちから、勝ち逃げに向かって、あるいはふるい落とされないように急き立てられていく。

本作で描かれる「ピーター・パーカー批判」とも言える展開は、その戯画なんじゃないか。そう思うのです。

でも、ワーカホリックを「笑う」映画ではない

ピーターはなぜ、そこまで仕事に没頭するのか。

その最大の理由は、元・恋人のMJ、そして親友のネッドに会えない寂しさを埋めるためです。そして、その根底には、メイおばさんを失った悲しみと罪悪感があります。

前作『ノー・ウェイ・ホーム』のピーターは、育ての親を亡くし、その傷を誰にも見せないまま、全世界から自分の記憶を消させました。再会を誓った恋人と親友には、あえて会うことをやめます。それは自分のせいでメイおばさんを失ったと思っているから。彼女のように、恋人や親友を危険に遭わせたくないから。

自己犠牲。

そんな喪失の痛みを、仕事で上書きする。傷を見ないで済むように、目の前の問題への対処へと反射的に体と頭を動かし続ける毎日。

つまりピーターのワーカホリックは、傷の転化なんです。悲しみをそのまま抱えていられないから、別のエネルギーに変換している。本作序盤のヒーロー活動は、それで回っているわけです。

だから、おかしくなる。

そして今作の凄みは、この「傷の転化」を、主人公だけじゃなく主要な登場人物たち全員にやらせているところだとも思います。

キャラクターみんなが「傷の転化」を間違えている

本作のヴィランは、ジーンという女性です。

彼女は他人の意識に入り込み、人から人へ乗り移りながら移動する能力者です。そのジーンには、同じ能力を持つ姉のサラがいました。サラは幼い頃に「ダメージコントロール局」に連れ去られ、能力を機械で複製するための実験の被験者にされて、そのまま帰ってきませんでした。ジーンが劇中でダメージコントロール局を襲い続けるのは、姉を奪われた復讐です。

…『ストレンジャー・シングス』じゃん!

同作に出演しているマックス役の俳優がジーンを演じていることもあって、誰もが突っ込んだはずですが、それはここでは置いておきます。

そのダメージコントロール局。MCUではおなじみの、ヒーローの戦いの「後始末」を担う組織ですが、今作でははっきり悪の側に回っています。姉妹の傷と能力を、管理と利用の対象として扱う組織として。

ここで組織の名前を見てください。ダメージ・コントロール。直訳すれば「損害の管理」です。傷を管理するという発想そのものが、この映画では悪の名前になっている。

ピーターは喪失を没頭に。ジーンは復讐に。ダメージコントロール局は他人の傷を管理と搾取に。そして前作のピーターは、喪失を孤独に変えた。あの美しい自己犠牲のラストも、今作から振り返れば「傷の転化の失敗例」のひとつとなっています。

傷は、管理じゃなくて共有でしか癒えない

じゃあ正しい転化はあるのか。本作はそこに一つの方向性を提示します。

ピーターはジーンを倒しません。制圧もしません。代わりに、自分の記憶をジーンに見せます。

メイおばさんが「大いなる力には大いなる責任を伴う」という例の“呪い”に対して、「でも、あなたは幸せになる権利も持っている」と付け加える。その記憶とメイおばさんを失った事実を、同じ喪失を抱えた相手と共有します。

ピーターとジーンは、その能力ゆえに大切な人を失った者同士の鏡合わせ。むしろジーンは、あのままクモ由来のDNAに侵食されていたピーターのifだとも捉えられるでしょう。

そしてこれは、そのまま大人の中二病=ワーカホリックへの処方箋にも見えます。

仕事への没頭は、痛みを見ないで済む優秀な管理システムであり、資本主義のエンジンでもあります。回っているうちは誰にも迷惑をかけないし、成果まで出る。でも管理は癒しではない。ピーターが装備をいくら強化しても傷が消えなかったように、僕らのタスク管理もセルフケアのアプリも、もしかすると傷を延命させているだけかもしれません。

その果てにいつか動けなくなったとき、誰かがその屍を踏みつけて超えていく。そうしてシステムは回り続ける。

……自分を孤独に追いやり、仕事とだけ向き合っていると。

そして、仕事の過程で出会う人たちを、「人間」扱いしていないと。

結局、人間。

僕はこの映画を六本木の映画館で鑑賞し、帰りは乃木坂駅まで歩きました。

「思った以上におもしろかったな!」と思いながら、六本木ヒルズのエスカレーターを降りている最中、この記事の冒頭で書いたアレが来ました。まるでスパイダーセンスのように。

「……あの映画、実は俺を批判してなかった?」

悪い意味でピーター・パーカー? そんなのあるんだ!

そして多分、これは本作クリエイターたちの自己批判でもあるのではないかと思います。ハリウッドの第一線で活躍している監督や脚本家こそ、仕事に人生を注ぎ込んでいる人たちのはずなので。あるいは、MCUというスタジオあるいはディズニーという会社に蔓延している何かを批判している可能性もあると思います。

きっと僕だけじゃなく、現代を生きる誰もがこの映画と、「大人の中二病」と完全に無縁ではないはず。

じゃあ僕に「分かち合い」は何もないのかというと、思い当たるものがひとつありました。

てけしゅんです。週に2回、しゅん君と一緒に撮影する時間。

これがなかったら、僕はマジでほとんど誰とも話さない生活になっていたはずです。意識して選んだわけでもないけれど、この時間がなかったら、ちょっとヤバかったかもしれません。クモDNAに乗っ取られる的な方向で。

もちろん、これも仕事ではあるけれど、「考えてることを話して、交換する」というプロセスそのものを仕事としているところが大きいので、やっぱり、ちょっと違うと思ってます。

そして、特にライブ配信がそうなのですが、視聴者の方々からいただくコメントとのやり取りも、自分にとって大きな宝物の一つです。

「大人の中二病」は、世界の病かもしれない

とはいえ、大人の中二病は、たぶん治りません。

というか、時代の流れ的に、当面はみんなこれを悪化させていく方向に行くと思います。メルカリ的なるテクノロジーによって、子ども時代の思い出のカードやおもちゃにすら「これ高く売れるのでは?」と考えてしまう世界になってしまったのだから。(それだって利益を生む発想であり行動だと思えば、仕事です)

それでも、あるいは、だからこそ自分の没頭に「これは傷の管理かもしれない」と思うこと、「目の前にいる人を、人間扱いできているか」と考えることは、もっと大切になっていく気がします。

ってか、これは完全に自戒です。思えば『秒速5センチメートル』の松村北斗も完全にそれだったな。

それと「傷の共有」って、別にカウンセリング的に告白合戦をやる必要はなくて。

ありきたりですが「仕事を忘れて、誰かとゆっくり過ごす時間を作ること」をちゃんとやれば、それになると思うんです。

スマホを捨てろ!!!!!

(てけしゅん)



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